我ながら名言録2001年版 三文文士映像日記は2001年の10月に開設し、日記を毎日書き綴ってきました。日記の文面には、我ながら面白いことを言っていると、自己満足できるものもあり、『我ながら名言録』として整理することにしました。 果たして何に分類すべきか分かりませんが随筆の一つに加えました。時代風刺を中心に、多岐にわたって書き綴ってきましたので、ここでは時代を切り裂く名言を集めようと思っています。 2003年5月5日
12月21日(金)の日記より 最近葬儀に参列し、時代の移り変わりに己の見識のなさを痛感した。葬式は故人の冥福を祈り、悲しみにくれてしめやかに行われものと、決まっていると思っていた。しかし、先日参列した告別式では、若い女性のいでたちが、黒っぽい服をまとっていてもしめやかさは全くなく、艶やかさを競い合っている感があった。時代の流行を逸脱しまいとの苦心が感じられ、それが正に現代と受け止めるべきだと、日本人の愚かさをなじりながら、納得していた。
12月14日(金)の日記より 日が沈むのを見ていると、闇の訪れを意識し、せかされてしまう。冬は特に移り変わりが速く、明るいうちの散歩のつもりが、家に戻るころには真っ暗になる。人生の移ろいと同じで、年齢を積み重ねるのにつれ、時間が貴重になり、月日がたつのがいっそう早く感じられてしまう。死と夕闇とをダブらせるわけではないが、老化は夕日と同じで、確実に闇に向かって傾いていく。闇を恐れていたのでは身動きが取れなくなるだけだろうから、人生においては、年とともにさらに高く昇るくらいの気概が必要である。
12月12日(水)の日記より 先日、金持ちの脱税がニュースになっていた。使い切れないほどの富を持ちながら、なおも不正をしてまで金を欲しがり、何とも不思議でならない。金は使うためにあり、金に使われていたのでは意味がない。 戦後の食えない時代から、復興を目指して動き出した日本経済は目覚ましい発展を遂げ、一気に蓄財の時代になりあがった。安定した生活には経済発展が不可欠で、食うために釈迦力になって働いてきて、既に目的を果たすことができた。ところが、いつまでたっても生活の安定は図れていない。経済的な裏づけがあれば精神的にも安定してきて、心豊かな生活が送れるはずである。だが、いまだに目の色を変えて金に執着し、心の充足を得られない者が少なからずいる。むしろ、豊かになればなるほど、心の貧困がひどくなり、幸福に縁がなくなってしまう。 家族を守り、食うための金は限りなく価値があるが、有り余った金で買えるものは高が知れている。「金があれば何でも買える」と幻想を抱き、あってもなくてもどちらでもよいものを一つでも多くそろえようとしており、金がいくらあっても不足を感じてしまうのである。金に振り回されているようだと、本当に満たされることはないのではあるまいか。
12月11日(火)の日記より FM放送を聞いていたら、女性レポーターの報告の中で、新しくできた24時間営業のプレイランドについて、「いつでも時間をつぶせる」と表現していた。昔から「暇つぶし」との言葉が使われてきたが、遊ぶことの少ない時代に、時間があってもやることがなく、一時凌ぎに手を出すことを言った。 現代は遊ぶことが人生の目的となり、いかに遊ばせ、いかに浪費させるかが経済を動かし、遊ぶことには事欠かないはずで、「時間をつぶす」のではなく、遊びに「時間を費やす」と表現するのが本来な気がする。逆な言い方をするなら、誘惑に満ちた時代にありながら、義務的に時間を過ごし、必ずしも時間を楽しんでいはいないと言うことである。 忘年会シーズンになったが、毎年「馬鹿騒ぎ」が模様され、酒の勢いを借り、大声をあげて、しゃべり、笑いあう姿が見られる。それも「時間つぶし」で、楽しむというより、「時間を忘れあっている」と見るほうが妥当である。中には忘年会のみならず、年がら年中馬鹿騒ぎをして、何も考えないようにしていないと居たたまれなくなる者もいる。自由な社会でありながら、「自分を創造する」のではなく、「自分を忘れる」のに躍起になっている。何とも不思議な社会である。
12月6日(木)の日記より 我が家は百円ショップの利用者で、非常に有効に物を取り揃えている。老眼鏡をはじめとして、ポケットファイルなどの事務用品、茶菓子などの小物入れ、携帯品を入れるバック、テーブルタップなどの電気器具、ドライバーなどの工具、などなど、生活に大きな影響を及ぼしている。大いに利用する一方で、これほど安いものが出回って、日本の経済は大丈夫なのだろうかとつい考えてしまう。 仕事柄、ファイル類を多く利用しており、文房具屋で千円はくだらなかったポケットファイルが百円で手に入るので、大いに助かっている。今までが何でも高すぎたと思えるところもあるが、百円ではとても採算が取れない気がする。中国などの海外で生産された物が中心と思われるが、多くの家庭が我が家のように百円ショップばかり利用していたら、日本の経済は完全に沈没してしまう。 衣類なども同じで、大手のスーパーが格安で販売するようになり、貧乏暮らしの我が家にとっては大助かりである。安さに満足する一方で、やはり経済のことを考えてしまい、人件費の削減、失業率の増大の構図が浮かび上がり、日本の先行きにますます陰りを感じてしまう。
12月4日(火)の日記より 何ヶ月ぶりかに散髪にいき、少々寒い天気で、頭から首筋にかけてすうすうし、何とも肌寒い。妻も昨日、美容院にいき、夫婦そろってさっぱりした。だからといって、めかしこんで出かける予定があるわけでなく、単なる、さっぱりしたいと思っただけである。女の人は髪型が変わると気持ちまでが変わるらしく、多少はおべんちゃらを言い、女房殿の気分を盛り上げてやった。 人間、姿かたちが変わると気持ちまで変わると言われる。現代のように化ける技術が練磨され、狸、狐に負けず劣らず七変化できるのだから、人間誰もがさぞ立派になってもおかしくない。ところがどっこい、時代が悪くなっても、明るい兆しは全く無い。見てくれが変わっても心まで変わりようがなく、かっこうばかりにこだわって、肝心の精神がますます置き去りになってしまう。本当は、精神が磨かれれば、自然に形となって表れるものではないのか。
12月1日(土)の日記より 皇室に何のゆかりも無いが、雅子様のご出産を、大変おめでたく思っている。世の中が普通であることを嫌っているなかで、皇太子ご夫妻は、常に普通の夫婦であることを願っておられるのが感じられる。どんなに普通にしていたくとも、周りが必要以上、特別扱いにしようとしており、気の毒なようである。 皇太子ご夫妻の、互いに思いやる姿は正に夫婦のあるべき姿である。互いに心のうちを知り合い、不足するものを補い合うのが、結婚の目的であるべきだが、経済的に豊かになればなるほど夫婦の存立が危ぶまれてきている。人間は弱い動物にもかかわらず、経済力が強さと勘違いして、夫婦が互いに頼り、頼られすることがなくなってきている。物はお金さえあれば手に入るが、愛情はままならぬもので、自分ひとりではどうにもならない。ままならぬ精神的豊かさより、確実な経済的豊かさに価値を見出してしまうのが現代人の典型で、互いに経済力があると、相手の存在価値を見出せなくなってしまう。 皇太子ご夫妻の模範たる姿を見習い、一組でも多くの夫婦が互いに思いやりを培ってもらいたいものである。夫婦が互いに思い合えば、子供を不幸へ陥れずにすむと言うもの。
11月30日(金)の日記より 今日は都合で4時ごろに散策へ出かけた。帰り道にちょうど小学高学年の下校と一緒になり、ジグザグに進みながら、はしゃいで突拍子も無い動きをしている子供を目にした。車が行き交っており、少々危険が伴っていたが、いかにも楽しそうで、これが本来の子供の姿だと感じた。 我輩の子供のときは、宿題、塾とも無縁で、遊ぶことが本業だと思っていた。だから、子供でいられることがどれほど楽しいものか、誰よりも分かっているつもりである。我が子にも遊ぶことを徹底させ、遊びの中から大人になるための知恵を身につけさせてきた。できるだけ長く子供でいられたほうが、本当の大人になれると思っている。 現代の子供たちは、せっかくの子供の権利を忌避するかのように、早くから大人の真似をしている。子供自身が選択して大人の真似などするはずが無いから、当然親たちが仕向けるに違いない。どんなに大人の真似をしても大人になれるわけではない。むしろ、大人の真似が大人になることだと錯覚することが怖い。姿かたちは流行の最先端をいっても、精神的な成長は停止して、いつまでたっても大人になれない、アンバランスな人生になってしまうのではなかろうか。
11月22日(木)の日記より 小泉総理の弁ではないが、世の中、「総論賛成、各論反対」が多すぎるのではないのか。人間の本性と考えるべきなのかもしれないが、理想論に同調しても、自分の利害が絡んでくると、現実論が支配して、いつまでたっても改善がされない。自分さえ良ければ理想など無意味なのである。政治で仕切られるものは、何でも利権が絡んできて、言わば税金を食い物にする、吸血鬼的人間がごっそりと群がっているのである。不況のどん底にあえいでいる今でも、今までどおりに甘い汁を吸おうとしている。時には痛みを知り、痛みを分かち合うことをしなければ、人間らしい、本当に心豊かな時間を見出せない。それは、現代人全てに共通する問題で、痛みを知らない人間だからこそ相手の痛みも分からず、何の抵抗も無くひとを傷つけてしまうのではなかろうか。
11月17日(土)の日記より 久々に寝坊をし、散策に出かけた時には九時になっていた。散策の途中で農業高校にさしかかると、女子学生が畑に出て実習をやっているところだった。六、七人の少数のグループが何ヶ所かに別れ、土いじりをしているのを見て、つい、「うそだろう」と、妻に語りかけていた。我輩は常々若い女性に偏見を持っていて、「生活感のある女子高生など一人もいないのでは」と、日本の将来を憂いてたところである。無論、はかない希望は持ち抱いていたが、現実に、作業服に身を固めて農作業をする少女を目のあたりにし、目の前がぱっと開けた思いで、「まだ日本人も捨てたものではない」と、はかなさから大いなる希望に変わっていった。 一輪車に落ち葉を一杯乗せて運んでいる女子高生とすれ違い、表情に少しもけれんみが無く、けっこう楽しんでやっている風で、ますます嬉しくなっていると、他の高校の女子学生が、最近ではごくごくありふれた、携帯を片手に、指先の世界に没頭しながら歩いているのを見て、夢は一気に霧散し、現実に引き摺り下ろされていた。
11月16日(金)の日記より 人間も大自然の雄大な営みからすれば、ほんの一部に過ぎないのだが、人間が中心に何でも動いていると勘違いしてしまう。空気、水、食物、どれを取っても大自然の恩恵があって享受されるものである。自然の営みは、人間に対して饒舌に語りかけてきており、人間の常軌を逸した横行に対しては警鐘を鳴らしくれる。自然との対話を大切にしていかなければ、自らの命が危険にさらされても分からず、ただ黙って見過ごしていくしかないのである。もっと多くの人間が、自然との対話を呼び起こさなければいけないのではないのか。
11月3日(土)の日記より 桜やツツジは春に限って咲く花と思い込んでいるが、不見識をあざ笑うように、なぜだか十一月になっても咲いていた。花の数は少なく、どう見ても間違えて咲いてしまったのだろと思われるが、今年は季節を間違えるような特殊条件は思い当たらない。他にも、周りはすっかり影をひそめてしまったのに、一人自己主張をする変わり種をいくつか見つけた。季節はずれと誹謗中傷したくとも、「花にも自由がある」と強く出られたら、何も言えなくなってしまう。 人間も同じで、「自由」と言う言葉を掲げると、何をやっても許されるという錯覚に陥る。規則はあってもないようなもので、どんな罪を犯しても摘発されない限りは容認されたと勘違いしてしまう。自由を掲げるからには、他人の自由も認めなければならないはずである。互いの権利を守るためには、おのずからルールが必要となり、ルールが、明文化されているいなかにかかわらず、生活していくための良識として身につけていかなければならない。 現代は、成長する過程で人の心を知る術を学ばず、自己中心的な生活がごくあたりまえになっている。草花が季節はずれに咲いても誰にも迷惑がかからないが、人の心が分からない人間は、他人の自由を平気で侵してしまうのである。
11月1日(木)に日記より 荒川の草原には、野菊がひっそりと咲いている。手植えの色鮮やかな菊たちと比べると、あまりにも地味で、人は見向きもしない。野菊は野菊なりに精一杯自分流の美しさを発揮しようとしており、よくよく見るとなかなか味わい深いものがある。つい人間に置き換えてしまうが、人それぞれの良さがあり、自分流に生きていくのが最も引き立つ気がする。みながみな派手やかになってしまったら、個々の人間が持っている美しさが失われてしまう。無理をして回りに右へならいをする必要は無いのではあるまいか。
10月13日(土)の日記より 昨日の池の平では、草花の滅び行く姿を見た。役割を終え、色気の失せた花々が残骸となって残っており、最盛期にはどんないでたちだったのか想像しながら、『滅相の美学』を楽しんでいた。草花に人生を学ぶといっては大げさかもしれないが、人間が八十年も九十年もかけて果たす役割を、草花は数ヶ月、数週間で成し遂げる。わずかな期間で精一杯花開いて子孫を残し、残骸となって土に返っていく。そこには自然の摂理が凝縮されており、人間がどんな屁理屈を並べようと変えようがない。 人間も同じで、ただ単に自分一人で生きているわけではなく、多くの人間、多くの恵み、森羅万象のかかわりをもって存在している。おのずから役割をもって命を受け継ぎ、役割を終えると、草花と同じように土に返っていく。時代が変わり、人間が変わっても寿命があるかぎり自然の摂理を無視できないはずである。信仰心の薄い日本人にはおごりを戒めるものが何もなく、現代は自然の摂理そのものを翻しかねない、怖いもの知らずの暴走社会である。その日その日、その時々をただ面白可笑しく過ごせれば、後は何も考えない姿が浮き上がってくる。
10月11日(木)の日記より 人間の目は、心と連動しているようで、ゆとりのない目は、あるがままの風景を見出すことが出来なくなってしまうようだ。我輩も今でこそ何でも目に付いて、身近に素晴らしい世界が溢れているのを感じ取れるようになったが、ゆとりのないときには、何もかも見過ごしてしまった。常に特別な世界を求め、日常的な時間をないがしろにしてしまいがちである。だが、生活とは、同じことの繰り返しがベースとなっており、ありふれた時間が人生の大半を占めているのである。ありふれた時間に苦痛を感じるか、楽しく感じるかで、人生の成否がかかってくるのではなかろうか。
10月8日(月)の日記より 身近に見出せる様々な現象を、見逃すか、感じ取れるかで、人生観が根本的に異なってくる。全てが心のもちようで、余計な情報に振り回されずにごくごく自然体で生活をしていけば、何事も素直に感受して、些細なことにも面白みを感じ、極上のひと時が得られる。 現代は、テレビや雑誌の情報に、無抵抗に振り回されてしまい、物事に対する見方が、己の培ってきた感性で見るのではなく、型どおりの情報で見るようになり、本当の良さが分からなくなってしまう。右へ習いの生活から、自分らしさを取り戻すことが、本物の人生を築く上で、必須条件となってくるのではあるまいか。 |