記憶の扉

 日本では高齢化社会を迎え、高齢者の痴呆の問題が深刻になってきている。同時に、何も考えない若者が増えて、脳が萎縮する現象が起きている。脳について考察してみた。

2004年1月30日

 

2003年2月24日(月)の日記より

 高齢化社会となり、痴呆のお年寄りが増えている。自分のことに責任が持てなくなり、痴呆を抱えるご家族は、大変な苦労があると思われる。責任と言う言葉は大変重く、人間の尊厳にかかわってくる。自らに責任を持てなければ人間失格となり、一人前の人間としては扱えなくなる。痴呆の増大を見る時、果たしてどれだけの人が、痴呆になる前に身の振り方を決めているのか、考えてしまう。痴呆は、その時々で人格が変わり、一面しか見ないと痴呆とは分からず、家族が誤解されやすく、扱いに苦慮するところだ。自分が痴呆かどうか理解するのは難しいし、身の振り方を決める時期を判断するのも困難で、出来るだけ早い時季に責任を果たしておくべきである。現実には、先々のことまで考えて、家族に対する礼を尽くす人は少ない気がする。多くが、年寄りなのだからとの甘えで、家族に大きな負担を強いているのではなかろうか。自分自身、これからどんな人生となるか分からないが、責任を自覚して、人間の尊厳を守っていきたいと思っている。

 

2003年2月25日(火)の日記より

痴呆の問題を聞くにつれ、人間の記憶とは何なのか考えざるを得なくなる。色々な角度から推察していくと、記憶には2種類あるように思える。1つは、暗記と言われている記憶で、それは写真と同じで、断片的な形をそのまま取り込んだもので、ストーリーのない記憶である。もう一つは、ビデオのようにストーリーを持った記憶で、行動判断に繋がる知恵である。 写真的な記憶は、受験勉強に代表される丸暗記の世界で、その場凌ぎの記憶に過ぎず、人間に代わって、紙やディスクに残せるデータである。ビデオ的記憶は、ストーリーがあるので、記憶にあるのと同様な事態に直面したとき、先々の状況が予測でき、より良い判断が下される。正に知恵であり、経験によって培われるもので、生活をしていく上で無くてはならない記憶であり、代替が利かないデータである。

 

2003年2月28日(金)の日記より

記憶には扉が付いているのではないかと思っている。せっかく多くの知識を残しても、それが実生活に生かせなければ意味がないのである。知恵のある人間は、記憶の扉をいつも開け放しておいて、直面する出来事に、経験に基づく最良の判断を下している。記憶の扉を閉ざしている人間は、その場その場の情報だけで判断を下すから、どんな結果を招くか分からないのである。「私は算数が苦手」と豪語して憚らない御仁がいるが、関連性を考えない人々である。どんなに経験を積んでも、記憶を封鎖して、その場その場の気分で判断するのである。情報が提示されれば良否を判断できず、雰囲気さえ良ければ、無節操に、情報に飛びつくのである。消費大国の日本では欠かせない人々で、正に時代を支えてきた。現代が世界に誇りえる国であれば拍手を送りたいが、狂った社会と見るならば、現代の病巣そのものである。

 

2003年3月1日(土)の日記より

 記憶に扉があるとしたら、痴呆は、扉を完全に閉ざした状態を言うのかもしれない。痴呆予防には、食事の献立を考えたり、旅行計画を立てたりするのが効果的と言われている。それは、企画力を維持することで、逆に言うと、記憶の扉を開放しておくことである。計画を立てるには知恵が必要で、研鑚を積んできた経験や知識を土台に、先を読むのである。日常的に知恵を生かしている人間は速やかに状況把握ができ、的確な判断を下せる。判断力、企画力、創造力をフルに発揮した生活は、仕事、遊び、家庭、全てが最良となる。人間として生まれてきて、最も得なのは、知恵を存分に楽しめることである。知恵と知恵とを絡ませて、創造的な人生を築けるのである。人生100年、健康に留意して、とことん楽しんでいけばぼける事はないのである。

 

2003年3月2日(日)の日記より

現代の記憶事情を考えるに、時代の価値観の相違なのか、生活観に根付いた勉強がなおざりになって、生活の知恵を知らずに育つ若者が増えているのではなかろうか。記憶の扉を開閉する前に、肝心な知恵が記憶されないのである。写真式の暗記学問が記憶の中枢を成し、ビデオ式の経験が蓄積されていないので、状況判断が出来ないのである。学生同士で何台も自転車を並べて走っているのを見かけるが、対向車が来ても除ける事を知らず、自転車の間隔を詰めるばかりで、危険を回避できない。自転車を縦に並べれば安全と言う事を、誰にも学んでいないのである。学校の成績が優秀、受験能力に優れ、有名大学に入学。万万歳だが、生活をまともに出来ない無知無能となることも少なくなさそうである。