三文文士のひがみ

 日本は自由な国であり、言いたいこと、言うべきことを何でも言えそうであるが、実際は表立って言えないことが数多くある。口をつぐんでいたら世の中良くならないのに、少しも話題とならない重要な問題を、貧乏人のひがみとして書き綴ってみた。

2004年1月30日

 

2004年1月19日から29日の日記より

 テレビでニュース番組を見ていて、言論の自由とはいったい何なのか疑問になってくる。言いたいことを言えるのが民主国家で、日本は自由であると、胸をはって言いたいが、ちょっと違う気がする。我輩はホームページで書きたいことを書いているが、読まれる確立が非常に低いので成り立っているのであり、社会に影響力を持ったなら、言いたいことの半分も言えないかもしれない。社会には様々な圧力があり、我輩のみならず、言うべきことを多く持ちながら、言えずに静観している者が少なからずいると思われる。何日か、言論の自由について、語ってみようと思う。

 日本では言論の自由が保障されているはずだが、周りの顔色を窺いながら話さないと、とんでもないことになる。最も怖いのはメディアで、メディアがへそを曲げたら、言論界から抹殺されてしまう。言論は広く世間に訴えることに意味があるのだが、訴える手段となるメディアにそっぽを向かれてしまったのでは、机上の空論に過ぎなくなってしまう。メディアに乗らなければ収入にならないのだから、食えなくなってしまい、多くの論者がメディアにご機嫌伺いをしながら、タレントとなって演じているに過ぎないのである。メディアに良識があれば問題ないが、公平性、客観性に重きをおくより、話題性、主体性を持って動いている。テレビの社会に与える影響は大きく、NHKのみならず、民放も公共の電波に他ならない。視聴率が全てを律し、社会悪の根源になりかねない映像を公然と流している。テレビが公平性や客観性が失われたら、暴力に他ならなくなってしまう。何年か前にテレビのあり方について論じられたこともあったが、いつしか掻き消えて、少しも是正されていない。メディアは報道の自由を楯に、資本主義経済の申し子となり、資本主義経済が生んだ歪を助長しているのである。

 マスコミのあり方を問題視している論者は、数多くいることは確かであるが、メディアが自分に都合の悪いことを取り上げるはずがなく、表立って少しも議論されていない。メディア自身が問題を意識していても、視聴率絶対主義が、倫理や良識を置き去りにして、目先の時間つぶしに躍起になってしまうのである。特に問題なのは、事件や紛争を、視聴率を意識した判定が下され、偏った報道がなされることである。さらには、メディアの力を鼓舞して、高圧的に取材することである。他人の家を土足で上がるのと同じ姿勢が窺える。やらせや、捏造、不正まで行われ、自浄機能は持ち合わせていない。問題だらけのメディアであっても、視聴者に審査能力が無いから、くそみその垂れ流し状態である。真実より話題性に重きが置かれ、視聴率さえ確保すれば、勝てば官軍で、良否関係なく、何でもまかり通ってしまう。正に情報操作が行われており、マスコミ批判をしても抹消されてしまい、言論の自由などないのである。

 日本では、言いたくて言えないことが多くある。その一つに、青少年を抱える親たちのことがあげられる。学校教育の問題が取りざたされ、いじめや不登校、受験制度、犯罪の低年齢化など、学校の責任を追及する声が高まっているが、親たちが学校にいったい何を求めているのか疑問となる。学校は学業を教授するところであり、カリキュラムに従い、決まったことを伝達するだけで、しつけや家庭の問題を解決する場所ではない。青少年にはびこる病巣は、全て家庭内で解決すべき問題にもかかわらず、責任を放棄した親たちが、責任をなすりつけるために、学校をやり玉にあげている。多くの親たちが親の責任について理解しておらず、自分を少しも悪いと思っていないのである。親の責任を提唱すれば、膨大な数の人間を敵に回すことになり、多くの教育者や識者、論者、政治家、メディアなど、親の責任と分かっていても、立場が悪くなってしまうのを恐れ、口に出しては言えないのである。それとなく、当り障りの無い表現で親の責任も付加するのが精一杯である。

 今日のニュースで、日本の高校生は、理科、数学の学力が低いことを報道していたが、これは正に親たちが子供の可能性をついばんでいることを表している。理数系は、思考力を要する世界で、受験のテクニックに全力を注ぐ、暗記を主体とした勉学では面白みが分からないのである。入試そのものが暗記で賄え、思考力を必要としないので、何も考えずに、無意味に暗記する受験生が有利なのである。多くの親たちは、学問を受験のためにあると考え、子供の長い人生に大きな糧になるなど、少しも理解していない。一流大学、一流企業へと続くレールに、子供を無理やり乗せるのがごく一般的な親なのである。子供の可能性は際限が無いのだが、浅はかな大人たちの知恵では推し量れず、親たちの盲目的な教育方針で、何も考えずに言いなりになる人間を作ろうとしている。最近の傾向として、頭痛もちの若い女性が増えているという。原因は、考えることをしないので脳が萎縮して、空洞が出来ることによって起こるそうだ。今述べた状況を整理すると、愚鈍な人間が急増しているということである。言論の自由はここで、大きく抑制される。ハッキリ言うと、馬鹿が増えているのであり、「お前は馬鹿だ」と暴言を吐くことになる。多くの大人が一人前の優等生と思っているのに、頭ごなしに馬鹿と言ったらとんでもないことになる。教育問題や青少年の非行、犯罪など、社会問題を抜本的に改善するには、「馬鹿」から始めなければならないのだが、それは絶対に言えないことなのである。

 今まで日記に何度も書いてきたことだが、現代は、老若男女問わず、気遣いの出来ない人間が増大している。近所にある手押し信号の交差点で渋滞するのだが、交差点内に入って停車する車が後を絶たない。10台中9台までは交差点や横断歩道を塞いでいる。小学校が近くにあって、通学路になっており、多くの子供が交差点で信号が換わるのを待っている。信号が換わって横断しようとしても、車が邪魔をして、怖々と迂回して渡るのが常である。最初に書いたように、無神経な運転手は老若男女関係無く、ほとんどの人が、他人の立場も考慮して状況判断ができないのである。それは、車の運転のみならず、仕事や生活の姿勢も表しているのではなかろうか。他人への気遣いができない人間が、家族へどれだけ思いやりが持てるのだろうか。思いやりをもって子育てができるのだろうか。本当に愛情があるのだろうか。何も考えずに、情報に順じて、義務的に時間をつぶしているだけなのではないのか。

 コマーシャルを見聞きしていると、商品の紹介よりも雰囲気で売ろうしているのがありありとしている。何も考えずに雰囲気で浪費をする消費者がいかに多いかである。ほとんどが詐欺まがいの商法で、騙される人間が後を絶たない。企業にとって、中味が何であれ、売ってしまえばいいのだから、何も考えずに、提示した情報に順ずる人間が理想なのである。資本主義経済の日本にとって、国民をいかに考えなくさせるかが、最大の目標と言える。必要かどうかなど関係なく、大量消費が望まれるのである。人間らしさが追及されて、多くの人間が自然体で生活したら、経済の発展は考えられないのである。企業が中心となり、政府が全面的に後押しをして、企業が儲かるように社会の仕組みを作り上げてきた。教育システムも企業の都合に合わせて形作られ、受験戦争は正に資本主義経済の産物である。学校自体が就職のためにあるようなもので、自分の人生の糧になるように学問を修得するのではなく、就職が有利になるように勉強するのである。言い換えると子供たちの夢を奪い取っているのである。何の制約も受けずに自由な発想で学問を学べなければ夢を膨らますことができない。決まったレールに乗っかって、何でも言われた通りにしていたのでは、経営者に都合のいい、イエスマンに成る他はないのである。多くの親たちが、何も考えずに情報に順じて子供を受験戦争に追いやっている。

 人生にとって一番価値があるのは何なのだろうか。現代は、有名になって大金をつかむことなのか。それとも、心安らぐ家族や家庭を持つことなのか。若者は、家族の価値を感じているのだろうか。家庭に安らぎを感じているのだろうか。親や兄弟と心開いて語り合っているのだろうか。家庭が生活の礎になっているのだろうか。家族で味わった幸福感が、自らの家族や家庭を持つ欲求に繋がってくるのではなかろうか。多くの若者は、家族の価値、家庭の価値を知らずに育ってきたのではなかろうか。恋愛や結婚も、物真似で成り立っており、本来の目的である、新たな家族や家庭を作り上げるとの意識は低いのではなかろうか。親たちが肝心なことを少しも与えていなかったのではなかろうか。逆に言えば、大人たちも、資本主義経済の虜となって、浪費生活を最良として、家庭、家族の価値を知らないのではなかろうか。今日本で起こっている犯罪の多くが、資本主義経済がもたらした弊害であり、大人たちが正常化されなければ、いつまでも子供たちは不孝を背負って生きていかねばならないのである。大人たちが自らの責任を認識しないかぎり、時代は少しも良くならないのである。

 バブル経済が崩壊したとき、証券会社の損失補てんが大きな問題となった。有力な投資家が、株で損をしても、損分を証券会社が補い、必ず儲かるようにしたのである。バブル経済は、一部の投資家が、あぶくが湧き上がるように、私腹を肥やした、不正経済である。様々な分野の金持ちが多大な恩恵を受けた関係で、バブル経済が汚職で成り立っていたことを承知していても、表立って誰も追及しなかった。バブル経済は、高度成長が成り立たなくなった後に、意図的に作られた、悪徳経済である。自然破壊を初めとして、国民の財産を一部の資本家が私腹を肥やすために切り売りされたのである。ゴルフ場を中心に、リゾート開発や、不動産事業、企業誘致が行われ、道路工事を中心とした、関連公共事業が、借金財政で賄われてきた。所謂、族議員なる者が暗躍して、企業に有利になるように公共事業を発注、多大な見返りを得たのである。銀行も、先の見えない事業にもかかわらず、不正融資を繰り返し、企業が儲からなくとも、経営者や投資家が膨大な利益を得られるようにしたのである。多くのリゾート開発が頓挫し、多くの企業が膨大な赤字を作り、本来の事業で穴埋めできない会社は破綻した。同時に銀行が膨大な不良債権をかかえ、経営が成り立たなくなった銀行には、国が融資して救済している。日本の経済は、相次ぐ国債発行で、完全なる借金財政となって、国民一人当たり、300万円を超える借金を負っている。借金分の資産が投資家の懐にあぶく銭として転がり込んだのである。借金返済の見通しが全く立っていない現状で、年金財政の問題と合わせ、次代を引き継ぐ若者に膨大な借金を負わせてしまったのである。国家の存亡にかかわる重大事項であっても、不正利益について、声高に論ずることはタブーとなっている。それは、あまりにも多くの人間が関与しているからである。

果たして現代の日本は、夢が持てる社会なのだろうか。一流のスポーツ選手か、タレントになって名前を売り、メディアにもてはやされて大金持ちになることが本当の夢と言えるのだろうか。夢とは、人類の進化に、いかに寄与するかが、大前提ではないのか。物真似をするのではなく、全く新たな発想で想像し、創造していくのが本当の夢ではないのか。若者たちは、大人たちにちっぽけな馴れ合い世界に押しやられ、社会に借金と、高負担を強いられ、目前に広がるのは、夢どころか暗黒である。青少年犯罪は夢がもてないから起こるのである。子供たちの夢を奪っているのは、親であり、資本家なのである。社会全体が夢を奪って、日本の将来を踏みにじっているのである。受験用の学習塾は無数にあっても、子供たちの夢をどこまでも広げる夢追い塾は一つも無い。バブル経済で膨れ上がった富が、子供たちの夢に使われたら、どんなにも日本が発展するのに違いない。夢の価値を忘れた国家は滅びるしかなく、あらゆる資産が無に帰してしまうのである。個人のものとしてじっと抱え込まれた資産は、凍りついた資産である。日本経済を再生するには凍結資産がいかに動くかで決まってくる。凍結資産を子供たちの夢へ向けて、将来を切り開いていくのか、どこまでも個人の欲得に使われ、日本が滅びるのを、指をくわえて見ているのか、二者択一である。

親や資本家、メディアを誹謗したら、世の中敵だらけになってしまうので、10日間に渡って述べてきたことは、世間知らずな三文文士のひがみとして、聞き流してもらいたい。