グルメ論

 現代はグルメの時代で、テレビを見ていると美味い物巡りの番組を日きりなしにやっている。我輩も食については少々うるさいのだが、安くて美味いがモットーで価値を決めているので、本来のグルメとは言えない。それでも美味い物には多くありついており、日記などで書き綴っている。今まで語ってきたグルメ論をまとめて見ることにした。

2003年5月5日

 

2003年7月5日(土)の日記より

今日は、会津若松にいる息子のところへ行ったついでに、久々に喜多方ラーメンを賞味してきた。喜多方には既に30回以上ラーメンを食べに行っており、行きつけの見せが2軒ある。ここ3年ほどは一方だけ訪れていたが、今日は縁遠くなった方の店へ行ってみた。予定より10分ほど遅れて11時40分に到着したが、待たずに席につけた。人気のある店で、今までの例だと11時30分までに到着しないと、行列を作るのが通常だったが、今回はまだ席に余裕があった。チャーシューが人気の店で、息子とチャーシュー麺を注文、久々に味わってみると、味が変わったとの評価がされた。少々こってりしたところが売り物だったが、あっさりして、期待はずれだった。女房殿は中華ソバで、やはり評価が下がり、味を維持していくのがいかに難しいか実感した。それでも、帰り際には行列ができていて、人気の程が知れた。お客のほとんどが観光客で、味に関係なく知名度が大きな力になっているのだと改めて認識した。ただ、行列のできる時間が遅くなったことを考えると、リピータが減ったのではないかと想像された。

会津からの帰りが遅くなり、久喜インターチェンジ近くの、ハンバーグが売り物のファミリーレストランで夕食を取った。チェーン店で熊谷にもあり、ハンバーグが無難に食べられると思って選んだ店だった。できて間もないようで、店員は皆不慣れなのが窺え、水やホークなどが中々こないで、結局料理が先に来て、催促する始末だった。隣の家族連れは、とっくにサラダが来ていて、店員に手で食べろと言うのかと、苦情を言っていた。二人の若い女性店員が食器の片付けや注文の伺いで見回っていたが、割り当てられた仕事が違っているようで、肝心な水やホークのことまで気が回らなかったようだ。無難なはずのハンバーグも、火加減の関係で、周りは焼きすぎでぱさぱさし、中は半生のような状態で、美味くなかった。チェーン店だから、同じ素材、同じ手順で作っているのだろうが、火加減は腕に影響し、思惑通りにいかないのが実態である。確実にリピータが減ったのに違いない。チェーン店のすごいところはリサーチが徹底されていて、お客の心理をとことん研究していることである。店内には目障りなぐらいに花があしらわれ、木肌を前面に出して癒しの空間を作り出し、雰囲気作りを重視しているのが分かる。店の名前もハンバーグを前面に出して予算的な安心感を作り出し、思惑通り、予算に限度のある家族連れが多かった。毎日3度3度かかわってくる食文化は大変面白い。

 

2001年12月3日(月)の日記より

 我が家の食事は、基本的には妻の手作りであるが、たまには骨休みと言うことで、しばし外食をする。本当は、我輩が交代して料理に挑戦すればよいのだが、口出しはしても手出しはしないという、いたって横着者なので、その分、美味いもの巡りをして補っている。

 色々な店を物色して、美味いと思うと一定間隔で訪れたりするのだが、なかなか満足させてくれる店が無い。経済的な問題もあって、あくまでも「安くてそこそこの味わい」を求めているのだから無理がある。だが、外食産業は活発で、熊谷にも新しい店がどんどんできており、競争激化に伴い、希望の合致した店が多くなってきている。

 新しい店が美味いと言うのは、残念ながら開店当初だけで、何ヶ月か過ぎると味が落ちてしまうことが多い。我が家は喜多方ラーメンのファンで、二十回以上喜多方を訪れ、行きつけの店もできている。熊谷でも喜多方ラーメンの店ができ、開店当初は喜多方の味わいを楽しめ、大いに喜んでいたのだが、一年もすると味が変わってしまい、がっかりして足が遠のいてしまった。他の店でも同様なことがあり、開店当初はそれなりの料理人が付いているが、時期が来ると交代するのではないかと想像している。

 チェーン店を幾つか食べ比べてみると、明らかに味が違う。どんなに立派なマニュアルがあったとしても、味の世界は正にさじ加減で、持って生まれた微妙な感覚や、心意気までをもマニュアル化するのは不可能である。客入りを見れば一目瞭然で、他がどんなにはやっているチェーン店でも、味が悪ければ自ら客足が遠のいてしまう。一方で、味で食するのではなく、名前や雰囲気で価値が決められている店もあるようだ。偏見かもしれないが、そんな店の客層は大方決まっており、現代がいかに見てくれが重要か痛感する

 

2001年11月12日(月)の日記より

 昨日の夕食に湯豆腐が出た。我が家の湯豆腐は、どちらかと言うとちゃんこと言った方がふさわしく、かつおと昆布でだしを取り、長ネギ、白菜、しいたけ、エノキなどの野菜をはじめ、たらやホタテなどの魚介類、豚バラを加えて、手作りの醤油だれ、味噌だれで食べる。具の数が多く、豪華に見えるが、高級食材を一切使っていないので、高価な料理ではない。我が家では冬場になると誰もが望んで、頻繁に出され、味の一定しない女房殿の料理では、はずれの無い得意料理と言うことになる。手軽に出来ることもメリットで、それでいて、種類豊富な食材の、うまみ成分が余すところ無くにじみ出た、極めつけの一品である。白米の惣菜としては元より、うどんを一緒に煮込んでうどんすき、残っただしに残りご飯を入れたおじやなど、楽しみは二日間にわたって続く。どれもが美味なる味わいで、高級料亭、レストランの存在が失われるひと時である。

 グルメの時代にあって、ごくありふれた家庭料理の価値が、どれだけのものか分からないが、平平凡凡とした生活だからこそ可能な、家族の心がひとつになった愛情料理の旨味は、どんな優れたシェフでも作り出せない気がする。生活のベースは、あくまでも家庭なのである。

 

2001年10月21日(日)の日記より

今日の昼に、昔ながらの即席ラーメンを食べた。野菜をたっぷり入れたせいもあるのだろうが、大変美味く感じられた。先日、やはり昔ながらのふりかけを買ってきて、久々に食べたら、美味く感じた。美味い話しが、みなインスタントで、我が家の食卓がいかに貧相か披露しているようなものであるが、普段が手作りのものばかり食べていればこそ味わえる、ものめずらしさの味わいなのである。

 人間の味覚は非常に複雑なようで、どんなに手の込んだご馳走でも、しょっちゅう食べていれば飽きてしまい、たまに、何の造作もないお茶漬けを食べても非常に美味く感じられる。味覚の基準を上手に維持していかないと、せっかくのご馳走も台無しなのである。去年の秋にできた、近所のスーパーにシュークリーム屋さんがある。大変美味しいシュークリームで、甘いものに目のない我輩にとって最高のご馳走で、妻にせがんで買ってきてもらう。できた当初は評判が評判を呼んで行列を作る店となり、平日でも三十分待ちがあたりまえだった。ところが、一年たった今は、休日でも待たずに買える状況である。我が家では今も頃合を見て買ってくるが、味は少しも変わらず大変美味い。美味いかまずいかで価値が決まるのではなく、しょっちゅう食べていれば飽きてしまうのである。その点、妻はシュークリームをせがんでも期間があかないと買ってきてくれないので、我が家ではいまだに美味しくいただいている。

妻はけっして料理がうまいとは言えない。同じものを作ってもその日によって味が全く違ってくる。甘すぎたり、薄すぎたり、焼きすぎたりで、味が一定しない。下手な鉄砲も何とかで、麺つゆなど、時々、やたらとうまく感じるときがある。同じように作っているつもりのようだが、正にさじ加減で、微妙な分量、火加減、時間、そして作る人食べる人の体調、気分によっても味が大きく異なってしまう。主婦は料理のプロではないのだから、大雑把で味が変わってきても致し方なく、お袋の味はどちらかと言うと、その日その日によって味が異なるのを言うのではないかと思う。妻の変化に富んだ味わいは、味覚を鋭敏にさせて、家族みんなが味にうるさくなった。手料理が中心の食生活がいかに大切かを、食欲の秋になると痛感する。

 

随筆「時の旅人・5、時の旅人」より

(1999年10月、長野県木曽福島の出来事)

 上松宿を経て木曽福島に入り、十二時を回っていたので福島宿で信州蕎麦を賞味することになった。歳を取るに連れて蕎麦に興味を持ち、蕎麦の味を求めて名のあるそば屋を訪れるようになっていた。今回立ち寄ったそば屋は全く情報外で、町に入って最初に目についたそば屋で、たまたま車が出て駐車場が空いたので立ち寄ってみたのである。

 二枚重ねのもりそばと月見そばを注文し、つゆの色合いが少々濃口に見えて、田舎仕立てと幾分侮って蕎麦に箸を付けた。つゆをからめて口に運び、じっくりと味わってみると今まで経験をしたことがない衝撃的な味わいであった。

 蕎麦の味もさることながら、蕎麦本来のうま味を引き出す、田舎仕立てと侮ったつゆの味に、蕎麦に対する考え方を根本的に覆されていた。蕎麦は蕎麦、つゆはつゆで独立したものとして認識していたが、信州の長い歴史が育んだ、特製醤油と特製蕎麦とが一体となって相乗効果を上げ、

「極めつけの味を引き出している」

と知ることとなった。

「最後に最高の御馳走が食えたな」

と妻に同意を求めながら、何もかもが二人を祝福してくれていると思った。「子供たちにも是非味合わせてやりたい」

との思いと、再度訪れることを誓って店を後にする。

 

随筆「時の旅人・4、巣立ち」より

(1990年8月、北海道足寄、羅臼での出来事)

 足寄から阿寒湖方面に車を進めていくと、「産地直売」と書かれた看板が、点在する農家の入口に掲げられ、我が家も試しに野菜を仕入れることになった。スピードが出ているので看板に気が付いたときには通り過ぎて、「あった」と騒ぐばかりで中々家が定まらなかった。道路よりも小高くなった敷地に作られた農家に入っていくと、年寄り夫婦と青年がテーブルの上にトマトとトウモロコシを並べて待ち受けていた。

 車を降りていくと誰もが愛想良く受け入れてくれて、トウモロコシとジャガイモを注文すると、

「朝取ったジャガイモは既に売り切れ」

と言うことであった。青年の、

「どのくらい入り用ですか」

との問いに、

「三キログラム」

と答えると、

「すぐに取ってきますから待っていて下さい」

と言って、三キロのジャガイモのために三トンも積めるかと思われる中型のトラックで畑に出ていった。

 ジャガイモを待つあいだ、先ずはお婆さんが熟れたトマトを、

「おいしいよ」

と言って振る舞ってくれた。

後から青年の母親と思われる小母さんが顔を出し、

「これは生で食べられるトウモロコシ」

と言ってスイートコーンを試食させてくれた。

どれも人情がたっぷりと込められ、甘さが引き立って非常に美味かった。

 それほど待たずに中型トラックがエンジン音を響かせて戻ってきた。青年が籠を下ろしてジャガイモの重さを量ると四キロほどあったが、「おまけ」と言って全部袋に積めてくれた。トウモロコシも余分に入って、トマトとスイートコーンがおまけで、締めて「九百四十円」請求された。袋一杯の値段としてはべらぼうに安く、思わず確認をしていた。

「これが出荷値段ですよ」

と青年が気負わずに答えてきて、我が家をとっておきの満足感に浸らしてくれた。お爺さんは言葉をかけてこなかったが、全く見ず知らずの家族を、笑みを絶やさずに優しく見守っていてくれて、我が家の満足を感じ取って、我が家以上に満足そうな顔をしていた。

 僅かな係わりであったが、お婆さんは別れを惜しむように、

「おきをつけて」

と言い、小母さんは、

「またよってください」

と言って家族のように我が家を送りだしてくれた。

どの顔も日焼けして浅黒く、厳しい大自然との共存に奔走してきた苦労が、深く刻まれた皺となって滲み出ていたが、北海道の雄大さと同様に、桁外れの人情が感じられた。

 子供たちは黙ってやり取りを見ているだけで、車が走り出しても暫く言葉を発しなかった。大地に根づく人々の人情をどれだけ理解できたか分からないが、滅多に触れることのできない打算のない真心を、沈黙のなかに少なからず感じ取っていてくれた気がしたので、特に解説は加えなかった。

妻に、

「好青年だったけど嫁さんは未だいないみたいだな」

と語りかけた。

三代の家族が仲良く暮らしていたが、最後まで三代目の嫁さんの姿は見られなかった。農家の嫁不足は深刻で北海道でも違いはないのだろう。大地が育んだお人好しな青年の行く末が気掛かりになるが、妻の、

「きっといい人が見つかるわよ」

との言葉に幾分気が楽になって、「幸大かれ」と祈りつつ車を走らせた。

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 寄り道せずに海岸から四キロほど山間に入った羅臼温泉のキャンプ場に向かう。

「国設羅臼野営場」は利用料がかからず、資金繰りに苦しいライダーに人気があることで知られていた。我が家が四時前にキャンプ場へ到着したときにも既にバイクが多数停車していて、テントが幾つも花開いていた。幸い車の数は少なくて、好きな場所に駐車が可能だった。

 我が家はキャンピングカー代わりに車を利用する関係で、駐車場所の選定は非常に重要であった。一番隅の駐車場の傍らには、石を立てかけてかまどが造られていた。キャンプをするにはうってつけで、車を寄せて先ずは場所を確保した。

 野営場には管理事務所は設置されていないが、整備されたテントサイトは元より、炊事場、洗面所も完備して、無料だからと言ってけっして粗末なキャンプ場ではなかった。さらには近所に「熊の湯」と名付けられた、やはり無料の立派な温泉があって、世知辛いこの世のものとは思えない至れり尽くせりの桃源郷であった。

 キャンプの準備を一通り終えて我が家も早速入浴に出掛け、管理の行き届いた露天風呂で湯量の豊富な温泉を楽しんだ。桃源郷の宿命で人気が人気を呼んで混雑気味なのが難点であり、気の小さい我が家は幾分遠慮がちになっていた。風呂から戻ると野営場はさらに人が増えて、バイク、車が駐車場をほぼ一杯に埋め尽くしていた。

 今夜の晩餐は、足寄の人々の人情がたっぷりと込められたジャガイモとトウモロコシが主役で、炭火でじっくりと焼き上げた。和商市場の牛肉と羊肉も添えたが、あくまでも脇役だった。ジャガイモを頬張り、トウモロコシを頬張ると、うま味がじわりと浮き出てきて、

「野菜がこんなにも美味いものなのか」

と言って感動しきりであった。

食べても食べてもついつい手が出て、心も腹も満足ではち切れそうに膨れ上がっていた。

 釧路の急激な変貌に気持ちがすさんだのもすっかり忘れて、北海道を思いっきり満喫していた。何もかもがビジネスとなり、打算だらけで他人を信ずることが難しい時代にあって、全てが利用者の良識に委ねられた世界が成り立つとは思えなかった。しかし、然別湖のキャンプ場と同様に、羅臼温泉のキャンプ場も利用者の行儀が非常に良かった。それは北海道の大自然が奏でるハーモニーに、知らぬ間に同調して、無垢で素直な自分らしさ、人間らしさを蘇らせ、かくも素晴らしき桃源郷を成り立たせているのかもしれない。

それは正に夢であった。しかし、けっして空言ではなかった。我が家のささやかな大冒険は人間性を回帰させる非現実的な世界を冒険していたが、人生に輝きを添える本物の大冒険であった。

現実こそまやかしだらけの虚構の世界で、帳尻合わせをしておけばそれで充分である。後は現実から離れて夢を追い求めていればいい。まやかしを信じて現実から逃れられない人生こそ無意味である。我が子に人生の視野を広げさせるには最高の旅行となっていた。

 

随筆「時の旅人・3、ささやかな大冒険」より

(1989年8月、福島喜多方、山形米沢での出来事)

三日目は雨がちとなったので、ラーメンで知られる喜多方を訪れることになった。蔵の町でも知られ、蔵巡りとラーメンを目的に町に繰り出した。駅で観光地図をもらい、地図を頼りに散策を始めたが、ラーメン屋の選択をするのに地元の人の意見を聴取することになった。

 駅の近くの喫茶店に入り、ウエイトレスに、

「どこのラーメンがおいしいですか」

と問うと、

「あべさんかまことさんがおいしいですよ」

と即座に答えてくれた。地図で早速名前をチェックして、喫茶店を出て再び歩きだした。

 蔵巡りは妻に好評で、白壁の蔵造りの建造物をいくつも見て回った。蔵造りは耐火目的で造られたようで、倉庫としての役割だけでなく、生活の基本も成している。維持管理が大変で補修工事に散財しているようで、保存と生活が一体となると想像以上の苦労があることを教えられた。

 昼に合わせウエイトレスお勧めの「まこと食堂」に出向くと、既に行列を作っていて人気のほどを感じた。行列に恐れをなして次に「あべ食堂」を訪れたがやはり行列を作り、我が家の主義に反したが止むなく行列の後にに並ぶことになった。

 「喜多方ラーメン」の事情を全く知らずにやって来て、行列を作るなどとはこれっぽっちも考えなかった。「たかがラーメン」と言う気持ちが抜けないで大いに不満を感じていたが、「待つのも観光」と家族で慰め合って順番を待っていた。結局四十五分ほど待ってやっとラーメンにありつけた。

 四十五分も待ったラーメンに、厳粛な面持ちで箸を運んでゆっくりと味わってみると、近頃滅多に口にすることがなくなった普通のラーメンの味がした。最近はラーメンというとみそラーメンが主流となり、私もみそラーメンばかり食べていた。たまに醤油ラーメンを食べてみても少しも美味く感じられず、普通の美味いラーメンを是非食べたいと思っていたので不満はなかった。

 初めは自分に、

「遥遥とやって来て長時間待たされたのだから美味いのだ」

と言い聞かせ、黙ってラーメンを味わっていたが、食べれば食べるほど麺、つゆ共に唸りを上げたくなるほど美味いと感じられた。そもそも、

「醤油ラーメンがこれほどまでに美味いものだと初めて知った」

と言う思いであった。

「うまいか」

と子供たちに聞くと、

「すごくうまい」

との答えが返ってきた。

 以来、喜多方ラーメンの虜になって、十年に渡り、二十回以上ラーメンを食べに喜多方を訪れている。ウエイトレスお勧めの「まことさん」も後日訪れて「あべさん」に負けないくらい美味いと知り、交互に訪れている。

長男が会津若松に住んでおり、他の店のラーメンも食べ歩くように言ってあるが、今のところ新しいラーメン情報はない。

 四日目は米沢に赴き、米沢牛を賞味することになった。松坂や神戸などの肉牛が有名であるが、経済的な問題があって今までに高級な牛肉は食べたことがなかった。米沢牛や前沢牛も有名で、折角米沢を訪れるのだから、

「是非米沢牛を食べてみよう」

と言うことになった。

 米沢牛専門のレストランに入り、メニューを見ると思ったとおり値段が高く、ステーキは二百グラム八千円であった。家族四人分を注文したのではどうやり繰りしても予算オーバーとなり、仕方がないので一人前だけステーキにして、残りの三人分は三千五百円のすき焼きにしてみた。

 牛肉が運ばれてくるのを待っている間、

「もったいなかったかな」

と言うと、

「宿代が安く済むから、思い切って贅沢してもいいんじゃないの」

との妻の大胆な発言も飛び出した。

 牛肉が運ばれてきて二百グラム八千円のステーキにナイフを入れ、食べやすいようにカットした。皆で一切れずつ賞味してみると肉汁がたっぷりと含まれていてとろけるような味わいであった。思わず「うまい」と言って皆で顔を見合わせていた。

 ステーキは特別に味付けがされているわけではなく、塩、胡椒だけで、肉本来のうま味が出て正に絶品であった。

「今までに美味いと思ってステーキを食べたことがない」

と料理人の友人に話したら、

「本当に美味い牛肉を食べたことがないからだよ」

と、うんちくの無さを指摘されていた。

「どうせ大差はないだろう」

ぐらいに考えていたが、今回味わった米沢牛で、友人の言葉が改めて思い出された。

 極上ステーキの後にそれなりのすき焼きを食べたら少しも美味く感じられなかった。すき焼きは味付けである程度うま味がコントーロールされる。今回食べたすき焼きは醤油の味が強く、肉本来のうま味が掻き消されて美味いとは感じられなかった。

「無理をしても四人分ステーキにすればよかった」

と言って悔やまれた。

 

随筆「時の旅人・3、ささやかな大冒険」より

(1985年7月、青森県下北半島・薬研温泉での出来事)

本州の北の外れにある湯治場に観光客が大挙押し寄せてくるとも思えず、観光客相手の食堂やみやげ物屋があるか疑問であった。念のために奥まった場所まで覗いてみると、ラーメン二百五十円の看板が目に入ってきた。小さなひなびた店で、ラーメンの値段からしても期待せずに、「腹の足しになれば」との軽い気持ちで店に入っていった。

 十人も入れば満員となる手狭な店で、バスの運転手らしき人と湯治客らしき夫婦連れの三人が食事をしていた。一つしかないテーブルは夫婦連れに専有され、我が家は止むなく運転手と隣り合わせのカウンターに並んだ。 六十半ばは過ぎたと思われる、身だしなみにいかにも気を使った老人が、穏やかな口調で「いらっしゃいませ」と言って迎え入れてくれた。食堂のおやじと呼ぶにはあまりにも似つかわしくない老紳士で、三星レストランのシェフといった風格があった。先客とは顔馴染みとみえて親しそう話をしていた。全く見ず知らずの我が家に対しても、親しそうに「何になさいますか」と声を掛けてきてくれた。

「ラーメン三つに、それとピザを二つお願いします」

 場違いとも思われるピザの品書きを目敏く見つけた次男の希望でピザも注文してみた。四百五十円とのピザの値段に、ラーメン同様満腹にするには不足があるだろうと見くびって余分に注文していた。

「お一人でやっているのですか」

と問うと、

「今日は妻が所用でこられないのです」

と品格のある喋り口で答えてきた。

 かつてこれほどまでに紳士的な雰囲気を漂わせる人に出くわしたことがなかった。初めての対面でありながらも、いつしか老紳士の雰囲気に引き込まれ、昔からの知己との面持ちで話をしていた。

「東京でサラリーマンをしておりまして、十年ほど前に会社を退職してからこちらで商売をさせていただいています」

 老人のいかにも几帳面な、紳士として過ごしてきた半生を想像しながら会話を楽しんだ。我が家の冒険話もさも楽しそうに頷きながら聞き入ってくれた。

 ラーメンが出され、あっさりした味わいに舌鼓を打っていると、ピザがカウンターにそっと置かれた。玉子が丸ごと乗ったそのピザは、両手を合わせても覆いきれない大きな楕円形をしていた。二人前をまとめて焼いたのだろうと思い込んでいると、

「もう一つは少々お待ちください」

と言われて一人前だと知らされた。

 妻と思わず顔を見合わせると、「食べきれるかしら」との妻の言葉が返ってきた。

四百五十円のピザの大きさは想像を越えるものであった。二百五十円のラーメンもけっして粗末なものではなく、一人前で充分に満足させてくれた。我が家はどちらかと言えば小食でいつも少なめで間に合っていた。片田舎の小さな食堂を見くびった結果として注文の量を完全に間違えていた。

 驚かされたのはピザの大きさばかりではなく、味にはさらに驚かされていた。今まで食べてきたピザとは一味違ったオリジナル料理で、和風に近い味わいがあって、我が家の嗜好にぴったりの絶品であった。食べきれないはずの料理を何のためらいもなく綺麗に平らげていた。

 ピザの味わいもさることながら、片田舎の小さな食堂のシェフ本人が三星の味わいを出しており、家族全員が極上の満腹感に浸っていた。以来、下北のピザは我が家の伝説となり、ピザの話しが出る毎に「下北のピザ」が思い出された。