もぐら

40字×40字×25枚 2001年6月完成

 静夫は高校の教師になって三年目となり、今年から担任としてクラスを受け持つようになった。文学を専攻してきて道筋は教員以外に見出せず、決まった過程を経て高校の教師になっていた。ただ単に本好きが高じて読書の延長の人生であった。

 静夫は自分が世間知らずということを充分承知していた。変わらなくてはと常に意識していたが、寄り道なしで現在に至り、世間知らずの解消は全くできずにいた。世間を知ろうと思ってもいつも逃げ腰になり、何事も見て見ぬふりをしてきた。

 本の中から世間を知ろうと趣向の違う本も読みあさったが、馬耳東風で少しも現実感が持てず、世間へ一歩も踏み出せなかった。自分の人生は思考が止まり、記憶力だけが頼りだと感じていたが、考えまいとした。それでも、今までのところは教員として無難に過ごしている。

 静夫は人と視線を合わせるのを常に避けるようにしていた。できるだけ関わりを持ちたくないとの意識が働いて、友人を作ることすら煩わしく思っていた。成り行きとして特別に親しい者もなく、一人閉じこもった生活となっていた。

 教壇に立って学生をいつも見ているが、できるだけ視線を合わせまいと意識し、一人一人の顔は薄ぼんやりとした感覚でつかむだけで、否応なしに視線を合わせた者以外はいつまで立っても顔を覚えられなかった。

 授業が終わって職員室に戻ろうとすると、女生徒が急ぎ寄ってきて、

「相談したいことがあります」

 と、小さな声で言ってきた。

 静夫が振り返って、否応なしに彼女を間近に見ることになった。今までの、遠くに見ていた薄ぼんやりとした印象と全く違う、強烈なまでに目鼻立ちがくっきりとした顔があった。

 名前は何とか思い出したが、大人びた雰囲気に視線を合わせていると、気押されるような感じを受け、少々怖い気がしてすぐには言葉が出てこなかった。

 女生徒の視線は真っ直ぐに向けられ、唇を強く結んで只事ではない雰囲気があり、自分が相談に乗れるものなのか推し量ったが、全く答えが出てこなかった。ましてや女子と言うことで余計に不安が募り、逃げだしたい思いだった。

 何とか言葉が出てきて、

「付いてきなさい」

 と言って、職員室に向かった。さして遠くないはずなのに、彼女が何を言ってくるのか想像を巡らしていると、廊下がやけに長く感じられた。

 職員室に着くと学年主任に事情を話し、相談室に女生徒と入っていった。彼女は椅子に座ると俯いて、すぐには言葉を発しようとしなかった。

 静夫は彼女を直視することができず、横向き加減で対座していた。彼女から話してくるだろうと思い、黙って待っていると、

「何も聞いてくれないのですか」

 と言われ、慌てて彼女に身体を向けた。

 否応なしに彼女の視線をまともに受け、全く初々しさのない顔つきに遥か大人を感じ、気持ちが萎縮して視線はすごすごと逃げだしていた。何を言いだすのか想像が付かず、鼓動が高まる一方であった。

 今置かれた状況が、何度か夢のなかに出てきたことがあった。クラスの担任になったからには、生徒の諸々の問題が、自分のこととして突きつけられるのが想像された。相談されても、自分のような世間知らずでは、何もアドバイスができないだろうとの思いが強かった。正に、最も恐れた局面が目前に迫っていたのである。

 彼女に言葉を発しなければと思うが、明らかに焦りと緊張感が走り、思うように言葉が出せなかった。全く異次元の世界の人間を相手にしているようであった。居たたまれない思いで時を虚しく過ごしていると、たまりかねて彼女の方から口火を切った。

「じつは、妊娠してしまったようです」

 と言ってきた。

 静夫は、彼女の言っている意味が少しもピンと来なかった。様々な相談事項を想定し、おぼつかないながら、何とか脳裏に整理ができた状態で待ち受けたつもりだったが、「妊娠」との言葉は全く予定外であった。

 顔を上げて彼女に視線を戻したが、いつまでも意味を解することができず、黙視するだけであった。

「子供ができてしまったみたいです」

 と、彼女が再び口を開いて解説を加えてきたが、いかにも頼り無さそうな顔をして、苛立っているのが分かった。

 静夫は血の気の引くのが感じられ、視線を逸らすのに合わせ、身体も横向きになってうなだれた。

 真っ暗になった気分に光明を見出そうとしたが、全く思考が止まり、暫くは未知の世界を遊泳していた。そのうちに、夜空に瞬く星のように妹の笑顔が浮かんできた。

 妹は既に二十歳を過ぎていたが、少しも大人っぽさがなく、丸顔にあどけなさが残る瞳は、幼児のような可愛らしさがあった。妹は子供っぽかったが、人の心を感じ取るのに優れ、色々と学ぶことがあり、自分より遥かに大人だと感じられた。静夫にとって妹は宝物のような存在だった。

 困ったことが起きるといつも妹を頼り、適格な助言を受けて助けられてきた。妹の優しさに満ちた笑顔を思い浮かべ、自分の語るべき言葉を求めると不思議と緊張感が薄れ、生まれてくる子供のことが何よりも気になってきた。

「貴女は大人かどうか分からないが、もし本当に子供ができたとしたら、大人として話すしかないと思います」

 と、思ったよりも冷静に言葉を発することができた。

 女生徒は、静夫が何を言おうとしているのか解せないようで、怪訝な顔をして見返してきた。幾分心細さがあったが、彼女を直視して、次の言葉も抵抗無く出ていた。

「私には、貴女のことは何もアドバイスできないが、生まれてくる子供のことが大変気になります。子供が生まれてきたとき、貴女をお母さんに持って本当に良かったと思えるか、貴女自身が大人として考えてみる必要があると思います」

 静夫は妹に後押しされているようで、気持ちが強くなり、同時に停止していた思考が勢い良く回転しだしたように感じられた。女生徒の心に突き刺すような視線を浴びせ、今までの舐めきっていた雰囲気を一掃していた。彼女は視線を落とし、予想外の展開に戸惑いを隠さなかった。

「貴女は自分の意思で思いどおりに生きているのかもしれないが、子供は全く自分の意思を持たずに生まれてくるのです。親にすがって生きていくしかなく、小さくてもとても大事な命です。自分のことを考えるのと同じに、子供の命も考えてあげて下さい」

 彼女に追い打ちをかけるように言葉を投げかけると、今までのふてぶてしいまでの老成した顔つきから、恥じらいを感じさせ、本来の少女らしさが滲み出た顔つきに微妙に変わってきたように思われた。

 少女らしさが残っているのが本来の女子高生だと思いたかった。回りを真似て、多くの者が無用に背伸びをしているように思われて仕方がなかった。飾りたてなくとも、本来は最も光輝いている年頃のはずである。はちきれんばかりの若さをそのまま発揮すれば、限りなく魅力的なのに、慌てて大人になって、大人になったら二度と取り戻せない、溢れ出る魅力を覆い隠してしまう愚かな姿が感じられた。

 静夫は背もたれに押しつけるように身体を起こした。視線が女生徒から天井に移るのに合わせ、両手を組んで頭の後ろにあてがっていた。かつて、熟考するときにいつも取っていたポーズで、それは頑に閉ざしてきた殻を打ち砕いた姿だった。

 いつしか女生徒の存在を忘れ、過去の、思考を押し殺してきた日々を思い浮かべ、自分はいったい何をこだわってきたのか考えざるをえなかった。

 考えることを恐れるように読書に夢中になって、殻に閉じこもった生活だった。人付き合いは常に逃げ腰で、異性に対しては尚更避けていた。無味乾燥とも思える日々であったが、家族の優しさをたっぷりと受け、不足を少しも感じなかった。

 静夫の脳裏には、幼なじみの英子の顔が常にそよいでいた。思い浮かぶ英子の顔は、いつも傷ついて悲しそうにしていた。何も考えまいと思うようになったのは、英子の傷ついた顔を見てからだと分かっていたが、振り返るのを恐れ、幻影となっていつも心の底にくすぶらしていた。

 英子は妹と同い年の二才違いで、子供のころから妹と交ざって兄妹のように育ち、非常に身近な存在だった。だが、思春期を迎えると兄妹でいるのが辛くなり、静夫が高校に入学し、受験勉強から解放されると、英子への熱い思いを無視できなくなっていた。英子の少女から大人への移ろいに、薫りたつ女性を意識して、恋心を秘かに宿していった。

「お兄ちゃん、待って」

 と言って、朝の通学時に道端で英子に呼び止められ、振り返ってみると、そこには今までのただ単に可愛らしい妹ではなく、眩しいほどに美しい女性があった。家でも、今までと違った気分を少なからず感じていたが、子供のころからの習慣で、妹と言い聞かせ、何とか誤魔化していた。

 普段と全く違った環境での突然の出会いは心の準備が整わず、一切の建前論が打ち消され、素直な感情で英子を捕らえざるをえなかった。

 いつもは照明器具の明るさで見ており、微妙に変化のある肌の色合いは単一化され、ベールに包まれたような色彩に感じられていたが、惜しみなく輝く春の陽射しが映し出した英子の素肌は、大気が微かに揺らぐのに合わせ、様々な色合いに変化していた。

 潤いのあるきめ細かい肌が活き活きとした光彩を放ち、静夫には堪らなく、生々しく感じられた。英子への思いは関を切ったように流れだし、一気に血が上って顔が火照るのを抑えることができなかった。

「お兄ちゃん」

 と、屈託のない声で話し掛けられたが、胸のときめきを感づかれるのを恐れ、すぐには返事ができなかった。心を見透かされまいとして慌てて視線を逸らし、後ろを向いて歩きだすと、英子が小走りに近寄ってきて横に付いた。並んで歩いていると、気が遠くなるほどに緊張し、英子の語りかけに返事をしたようであったが、何を話したか全く記憶に残らなかった。

 道筋を違えるまでの五分程の僅かな時間であったが、静夫にとっては、青春の全てが凝縮された、忘れることのできない時間となっていた。

 恋を感ずると同時に、もはや兄妹でいられなくなったと強く意識していた。恋心を抱くことが、英子の信頼を裏切っているような後ろめたさがあった。どんなに打ち消そうとしても息苦しいほどに夢中になっていた。恋すれば恋するほど、自分の気持ちを知られてしまえば、英子を傷つけてしまうという恐れを感じていた。

 英子への思いを語らずにはいられず、知らず知らずのうちに声を飲み込んで、文字で綴っていた。

 聞き慣れたはずの呼び声に

 恋の予感を秘めていた

 君の姿にときめいて

 今までと違う素顔を感じ

 今までと違う自分があった

 燃えるような思いに戸惑い

 悟られまいとそっぽを向いた

 気まぐれな時間が何かを変え

 君を恋することに罪を意識し

 君を愛することに怖さを感じた

 何も知らない君の笑顔が

 切なさに拍車をかけ

 届かぬ思いをもてあそび

 空を見ては君を思い浮かべ

 花を見ては君を思い描く

 静夫が詩を思い出しながら英子の姿を追っていると、女生徒が沈黙に耐えらなくなって席を立ち、

「失礼します」

 と言って、部屋を出ていった。

 静夫も我に返って職員室に戻っていくと、回りの教師が興味本位に視線を浴びせてくるのが分かった。静夫は回りのことが全く気にならず、机に向かって規則的な作業に手を付けた。

 静夫の回転を始めた思考はもはや抑制が利かなくなって、仕事をしていても英子のことが浮かんできた。

 英子の泣きじゃくる姿と、妹の傷ついた姿が交錯していた。それは、全くの偶然が起こした事件だった。

 静夫は、いつかは英子に対する思いを告白するときがくると考えていたが、まだまだ遠い先のことと言い聞かせ、暫くは兄妹として誤魔化し通そうと決意していた。

 静夫が高校進学に向けて受験勉強に励むようになってからは、妹も英子も食事の知らせにくるぐらいで、自分の部屋に遊びにくることはなかった。たまたま部屋を空けているときに、受験が明けた気軽さから、二人が久々に部屋を訪れていた。

 静夫が戻っていくと、妹が一枚の紙切れを手にして俯いていた。それは、部屋を出ていくときに、誰も訪れないという安心感から、片付けそびれて床に落ちていた、詩を綴った紙切れだった。

 妹は詩の内容を知って、咄嗟に英子に見せられないものと感じ取っていた。いつもなら英子との間に秘密を持つことはなく、すぐに渡していたものが途方に暮れ、英子との間に壁を作るようにして俯いていたのである。

 静夫はすぐに状況を飲み込み、妹から紙切れを受け取って気まずい空気からそっと逃がしてやった。

 静夫は、英子と二人になるとすぐに覚悟はでき、うやむやにすることが英子を最も傷つけることだと悟っていた。英子のみならず、妹も深く傷つくことは明らかで、紙切れを渡すこと以外に考えられなかった。

 英子が憂えある瞳を詩に傾けて黙って読みはじめると、大粒の涙が溢れ出ていた。

「ごめん」

 と言って、静夫は側にあったハンカチを渡すと、英子はハンカチを顔に押し当てて、いつまでも泣きじゃくっていた。

 英子は滅多に涙を見せたことがなかった。涙の意味がいったい何なのか静夫には少しも分からなかった。英子を傷つけてしまったという事だけが重く伸しかかり、取り返しが付かない罪を犯したと感じていた。泣きじゃくる英子を自分の胸で受け止めたいとの衝動が走ったが、自分から遠のいていく姿が勝って、ただじっと泣き声を聞いていた。

 英子がどれほどの時間泣いていたのか少しも記憶に残らなかった。限りなく長く感じられたが、一瞬の出来事だったようでもあり、時間が一人歩きして二人の人生を大きく揺り動かしているようにも感じられた。何も考えまいとしたのは正にこの時からだった。

 英子が泣き止み、ハンカチと詩を書き綴った紙切れを持って部屋を出ていったが、英子がどんな顔をしていたのか一瞬たりとも見ることはなかった。だが、静夫の記憶には傷ついて悲しみにくれる顔が残っていた。

 妹が後から部屋にやって来て、

「ごめんなさい」

 と言って、泣き崩れた。

「由紀子が悪いわけではないよ」

 と言って、妹の髪をそっと撫でると、涙に濡れた顔を上げてきた。

 妹の傷ついた顔を見るのは初めてで、無性に痛ましくなった。自分の仕出かしたことがいかに罪深いことだったのか、改めて感じていた。英子と妹の傷ついた顔が重なりあって、深く心に刻まれたのはこの時だった。

「英子ちゃんを妹と見るのはもう無理だったのだよ。好きなのだから仕方がない」

 と言って、妹の涙を手で拭いてやった。

「由紀子を悲しませるのが一番辛いから、もう泣くなよ」

 と言って、妹の両頬に手を当てながらしっかりと見据えた。

「いつかは告白したいと思っていた。でもこんなことでもなかったら、いつまでも気持ちがうやむやになっていたかもしれない。本当はこれでよかったのだよ」

「英子ちゃんもお兄ちゃんのこと大好きなの。でもまだ早すぎたわ。とても臆病になっていて、いつか起こることと分かっていても逃げているのよ。待っていてあげてね」

 英子の気持ちを、妹が一番理解していると分かっていても、自分にどれだけの価値があるか考えると、妹の言葉にすぐには頷けなかった。英子の気持ちを想像しがたく、悲しませてしまったとの思いだけが心に残り、考えたくないとの気持ちが支配して、妹の視線から逃げようとしていた。

 だが、妹を傷つけまいとの思いが、

「何度も言うようだけど、由紀子は何も悪くないのだから、英子ちゃんと今までどおりに付き合っていかなければだめだよ」

 と言わせ、再び瞳をしっかりと覗き込み、妹の涙が止まっているのを確認した。

「英子ちゃんのこと、いつまでも好きでいてあげてね」

 と言って、静夫の本心を感じ取るように、優しさに満ちた円らな瞳が心まで入り込んできた。静夫はとても嘘が付けないと感じ、

「約束する」

 と、素直な気持ちで言って、妹を安心させた。

 事件の後も今までどおりの生活が続き、英子と顔を合わせても何もなかったようにお互いに振る舞っていた。英子の本心は、ただ単に妹を傷つけまいとするものなのか、それとも自分の思いを受け入れたものなのか疑問に思ったが、考えまいとした。

 今までと変わったことが一つあった。それは「お兄ちゃん」と呼ばれたのが、道端で声を掛けられたのが最後となり、ハンカチを返しにきたときには、

「静夫さんいますか」

 と、ドアの向こうから呼びかけてきて、兄妹の関係が解消されたのが分かった。

 静夫はいったん我に返って書類に手をつけたが、いつまでも気持ちが散漫で、仕事が進まないのを感じながら、泣きじゃくっていた英子の心に深く入り込もうとしていた。

 静夫には、涙が悲しみの代名詞としか考えられなかったが、妹が言ったとおりだとしたら、戸惑いと喜びが交錯し、大人にはまだ程遠い、いたいけな心では、自らの気持ちを律しきれなくなって、涙したと考えてもおかしくなかった。

 英子が、「静夫さん」と呼んできたのは、男と女の関係で接していくことを容認したとも考えられた。詩を持っていったのは、恋する思いを受け止めてくれたとも考えられた。英子が自分を信頼してくれていることも確かだった。

 考えれば考えるほど、英子は自分を好いていてくれたように思えてくる。一つ一つの状況を考えれば、若かったとは言え、英子が好意を持っていることは分かったはずである。それなのに思考を停止して、英子から逃げだしたのは何故だったのか。

 自らが選択した世界でありながら、原因をすぐには思い出せず、静夫は原因究明に躍起になっていた。

 英子や妹を傷つけまいとの思いがあって臆病になっていたのも確かである。英子が他の男性に心を奪われることを恐れていたのも確かである。次第に思い出され、英子を縛りつけたくないとの思いが強かったことが浮かんできた。

 二人の関係は特殊な環境にあり、余りにも身近過ぎて、他の異性への接近を妨げると感じていた。自分自身、英子以外に女性を意識するのが難しく、英子にとっても、自分より相応しい男性との交流を足踏みさせているように思えた。英子を自由にさせて、最も相応しい相手を選択させたいとの思いがあったのは確かである。

 何よりも英子から逃げだした原因は、自分にどれだけの価値があるのか全く分からなかったのであるまいか。英子に誇れるものが何も無い気がしていた。考えれば考えるほど自分が見すぼらしく思えてきて、考えるのが怖くなっていた。英子から逃げだすというよりも、肉体と精神が分離して心がどっかに行ってしまい、自分ではなくなっているように思えた。

 今、静夫が思考を巡らしているのは、自分を取り戻そうと躍起になって、英子に誇りえるものを捜し求めている姿だった。

 静夫は昨日の晩の出来事を思い浮かべていた。

妹がやって来て、静夫の心を感じ取るように静かに話し掛けてきた。

「英子ちゃんが最も大事にしているもの、何だか分かる」

 静夫に分かるはずもなく、黙ったまま妹の視線を受け止めて、次の言葉を待った。

「無人島の絵を覚えている」

 静夫はすぐに思い出していた。英子と二人で大きなカレンダーの裏に書いた無人島の絵を思い浮かべていた。

 同時に身体が一気に熱くなってくるのを感じ、顔が紅潮しているのは明らかだったが、妹の視線を何とか堪え、逃げずに心をさらけ出していた。

「もう一つは、お兄ちゃんが書いた詩」

 妹は容赦なく静夫の心に言葉を投げつけてきた。とうとう、妹の視線に耐えられなくなって、逃げ場がないのを承知しながら、逃げだそうとして視線が定まらずにいた。

 妹が自分の心を目覚めさせようとしているのが感じられた。思考が停止して十年にも及び、おいそれとは乖離した逃げ腰の心を取り戻すことはできなかった。考えまいと、懸命に脳裏を空白にしていた。

 妹がそっと膝に手を乗せてきて、逃がさないとの気持ちが伝わってくると、観念して妹に視線を定めた。

「いつまでも逃げていてはだめよ」

 妹が投げかけてきたものは限りなく優しい眼差しと声音だったが、限りなく厳しい言葉だった。

「明日の晩、英子ちゃんがこの部屋にやって来るわ」

 静夫は、妹の容赦の無い脅迫に、耐えられなくなって視線を逸らそうとしたが、膝に乗った手が許さなかった。

 妹の幼児のような眼差しにとても抗うことができず、沈黙のなかに様々な言葉が飛び交って、素直な気持ちになっていた。

「由紀子は宝物だ」

 と、見当違いの言葉を発していたが、はにかみながらも、妹は全てを理解したように、満面の笑みを浮かべ、

「お兄ちゃん、大好き」

 と言って、顔を近づけてくると、頬に軽くキスをして、キューピッドが立ち去るように音もなく部屋から消えていた。

 妹に促され、自分を取り戻そうと懸命に足掻いてみたが、濃い霧のなかにもぐり込んだ英子への恋心は、おいそれとは見つけ出すことができなかった。今もまだ自分探しを続け、英子に自信を持って愛を告白できるようになるまでは、家に帰れないと思っていた。

 静夫は仕事に集中できず、普段より早かったが帰宅の準備に取りかかっていた。残された時間を考えると幾分焦りもあったが、思考が勢いよく回転しているのを感じると、何とかなりそうな気がしていた。

 校門を出ると、向かい合いの喫茶店から担任する男子生徒が走り出てきた。

「思ったより早くて助かったよ」

 と言って、並んできた。

 坂本とは一年のときから関わってきて、特に文学に興味を持ち、文学論を戦わしに何かと言って近づいてきた。先生、生徒との関係にありながら、静夫はいつも坂本のほうが大人だと感じ、教えることより考えさせられることが多かった。

「私を待っていたようだね」

 坂本は静夫の問いを無視して、

「いつもだともっと遅いんだろ」

 と、逆に問いかけてきた。

 静夫は答えずに、英子のことを思い出そうとしていた。

「怖かったといっていたぜ」

 坂本が言っていることが理解できず、歩きながら坂本の顔に目をやった。坂本はすましていたが、相談に来た女生徒のことがすぐに思い当たった。

「坊ちゃんだと思っていたけど、けっこう迫力があったみたいだな。見直したよ」

「坂本君が仕向けたのか」

「生理が遅いというから、先生に相談してみたらってことになったのよ」

 静夫は試されたと思ったが、不思議と腹が立たなかった。

静夫が様々な思いを巡らすようになったのは、彼女に刺激されたからであった。むしろ坂本は、自分の眠りに付いた精神を目覚めさせようと、悪戯心に少なからず友情も含まれて仕出かしたことのように思われた。

 坂本の悪戯が、偶然にも英子への恋心を目覚めさせていた。誰よりも英子を愛しているということが蘇り、英子にとって自分が最も相応しいと思えるようになっていた。理屈では既に目覚めつつあったが、感情がどうしても起きだそうとしなかった。

「まさか坊ちゃんが、生まれてくる子供の気持ちで考えろなんていうとは思わなかったよ。どうせ親に相談しろっていうのに決まっていると予想してたんで、調子が狂って逃げだしてきたんだよ」

「坂本君は覚えがあるのかね」

「どうかな」

 暫く沈黙が続いて、

「彼女の両親は家庭内離婚なんだよ。今は慣れて、自分は自分だって、親を無視するふりをして、ふてぶてしい顔をしているけど、本当は傷ついているんだよな。子供のことを考えろと言われたら、冗談ではすまなくなって、つい真剣に考えたみたいだぜ」

 と、しみじみ語った。

「大人びた顔に赤みがさして、ふっと少女に帰ったようだった」

 彼女の顔を思い浮かべ、状況を話すと、

「うまいこというな。今の言い方もらっておこう」

 と言って、手帳を出して書き始めた。

「彼女すっかり変わってしまった感じで、喫茶店で待っているあいだ付き合わせていたんだけど、暗くなったら私帰るっていって、処女みたいな顔をしてさっさとかえっちまったんだ。やけに綺麗になった気がしたよ」

 静夫は、人間が簡単に変わるように言う坂本の話しに疑問を感じ、本来の自分に戻ったと考えたかった。

「今も書いているのかい」

 静夫は、坂本が以前から小説を書いていることを知っていた。

「たまにはね」

 と言ったが、次の言葉をもったいぶって語ろうとしなかった。

「食事でもしていこうか」

「生徒と一緒じゃ、問題にするやつがいるんじゃないの」

「生徒ではないよ、友人だよ。私より坂本君のほうが大人ではないか」

「今日はやたらと気の聞いたこというね。何かあったんだろ」

 静夫は幾分迷ったが、

「いっぱいあったようだ」

 と、つい言ってしまった。

 坂本は顔を覗き込んできて、

「聞かせろよ」

 と、催促してきた。

「自分だけのラブストーリーだから話さない。話すと坂本君に取られてしまうから」

 と応じると、坂本は声を出して笑った。

「恋人でも待っているみたいだな」

 との問いに、

「待っているのだよ」

 と素直に答えていた。

「本気でいっているみたいだな。ちょっと信じられないけど。まあいいか。待たせちゃわるいぜ。食事は今度のときにしようぜ」

 坂本の気遣いを感じながら言葉を発していた。

「帰りたくとも帰れないのだよ」

 坂本は顔を覗き込んできて、

「だって早く帰ろうとしていたんだろ。今日は本当にどうかしているよ」

 と言って、呆れ顔をした。

「気が散って、学校にいても仕事が手に付かないので、取り敢えず抜け出してきたところなのだ。考える時間ができるので、食事でもしていけばちょうどいいのだよ」

 との静夫の話しに、

「わけがわかんないや」

と言って、まだ納得がいかないようだったが、食事の件は了解していた。

 公衆電話の前に来て、

「家に電話をするから」

 と言って、携帯電話を持たぬ静夫はボックスに入った。

 妹が電話に出て、

「早く帰ってきてね」

 と、いきなり言われた。

「夕飯は済ませるから」

 と言うと、

「何を言っているの、英子ちゃんが待っているのを忘れたわけではないでしょ」

 と、妹に似合わない、怖い声がした。

「忘れるはずがないだろ」

 と、静夫も似合わない大きな声で話していた。

「もう少し時間がかかりそうだ。必ず自分を取り戻すから待っていてもらいたい。英子ちゃんに自信を持ってプロポーズしたいのだよ。いつまでも待っているように伝えておいて欲しい」

 静夫は言い終わって妹の返事を待っていたが、すぐには言葉が返らずに泣き声が微かに漏れてきた。

少し間を置いて、

「きっと待たせておくから」

 と、何とか涙声が返ってきた。

「それから、子供のころに書いた物語を机に置いてあるから、時間があったら英子ちゃんに読むように言っておいてよ」

「私も読んでいい」

「読んでもいいけど、由紀子がいつもつまらないといっていた話しだよ。何でもいいから英子ちゃんのこと頼んだよ」

「任せておいて」

 と、妹のいかにも自信を持った返事が返ってきた。

 電話を終え、坂本に近づいて、

「坂本君も家に電話をするのだろ」

 と言って、返事を待った。

「電話なんかいいよ」

 と、歩きだそうとしたので、

「私と食事をするときは電話をしてもらいたいのだ。電話が来なくて悲しんでいる姿を何度も見ているのだよ」

 と、強く言った。

 坂本は、静夫の真剣な眼差しに思いを理解して、

「電話をするか」

 と、素直に言ってボックスに入った。

 静夫は今と全く違って、本を読むことより空想して楽しんでいた子供のころを思い出していた。

 静夫の本好きは母親の影響で、幼いころから本を読んで楽しんでいた。小学校に上がると本以上に空想するのが好きになり、十才には冒険を意識して文字を綴っていた。妹と英子を前にして、自分の冒険小説を語って聞かせたこともあった。

 妹と英子は、同い年ということもあって非常に仲がよかった。妹は英子を連れ、ちょくちょく静夫の部屋にやって来て話をせがんできた。静夫は話をするのが苦にならず、せがまれるままに物語を語って聞かせ、楽しませてやった。

 静夫は英子を妹と同様に扱うように意識していた。母から英子の事情を聞かされ、

「大事にしてあげなければだめよ」

 と言われ、静夫は子供心なりに英子を守る責任があるように思っていた。

 英子は一人っ子で、六才のときに両親が離婚し、母親が会社から帰るまでの時間、静夫の家に預かるようになった。静夫には、英子が置かれている状況がよく理解できなかったが、妹と同じように可愛がらなければいけないと、単純に意識していた。

 英子が静夫の家に初めて顔を出したときは全く笑顔を忘れた少女だった。いつも俯き、今にも泣きだしそうで、静夫にはどうしたらいいのか分からなかった。

 妹は人懐っこい性格で、初めは英子の心を閉ざした頑な姿勢にてこずっていたが、少しも臆せずに話し掛け、いつしか打ち解けて仲良しになっていた。何日もしないで英子が笑顔を見せるようになり、静夫は子供心なりに妹がとても偉い気がした。

 英子が次第に慣れて、父や祖父母にも入り込んで話をするようになり、家族の一員らしくなっていったが、自分には遠慮をしているような気がした。近づいてくるときはいつも妹に引かれてで、英子から進んで話し掛けてくることはなかった。

 母は敏感に感じ取って、

「静夫から話し掛けてあげなさい」

 と言われたことがあった。

 静夫は、妹と一緒にしようと意識すればするほどかえって英子が特別に思え、女の子と意識すると何を話していいのか分からなかった。

 妹は何の理屈もなく可愛いと思ったが、英子は大事に扱わないと壊れてしまいそうな気がして、大事にしなければという義務感ばかりが先に立った。

 英子が、「お兄ちゃん」と言って遠慮をしなくなったのは、静夫が書いた冒険物語を話して聞かせてからだった。英子は女の子らしい話よりも冒険話が好きで、

「お兄ちゃんの冒険物語を聞かせて」

 と言ってきたのがきっかけだった。

 妹は、冒険の話になると「つまんない」と言って部屋を出ていってしまい、二人で話すことが多くなった。

 静夫の冒険物語は無人島の話が多かったが、英子は食い入るように視線を向けてきて飽きることがなかった。英子は静夫の話を聞いて想像を巡らし、分からないことがあると何でも聞いてきて、静夫の思い描いた世界にどこまでも入り込もうとしていた。

「食事はどうするの」

「島には色々な果物がなってるんだ。魚も取れるし、蛙だって食べるんだ」

「蛙も食べるの」

「蛇だって食べるんだよ」

「英子は果物がいいな」

 と言って、どんな果物がなるのか聞いてきた。

「怖いものはいないの」

「翼を広げると十メートルもあるドラゴンが住んでいるんだ。でも、ドラゴンは島の宝物を守っていて、宝物を取ったりしなければ少しも怖くないんだよ。だけど、蛇が棲む森があって、縄張りに入り込むと襲ってくるんだ。蛇の森を通らないと、果物がなる丘には行けないんだよ。道に迷ってしまうと蛇に囲まれて、戦いになるんだ」

「怖くて森には行けないわ。果物が採れないと困ってしまうし」

「道に迷わなければ大丈夫だよ。森には小鳥もたくさん棲んでいて、歌を聞かせてくれるんだ。優しく話し掛けるとお喋りをして、道に迷わないように案内もしてくれる。それでも英子ちゃんが怖いというなら、森を通らないで行ける道を作るしかないよ。海岸を通っても行けるようにしよう」

「小鳥とお話ができるなら森を行くわ」

「海岸も楽しいところが一杯なんだ。イルカや鯨と話ができるし、イルカの背中に乗って海を走るんだ」

「お日様が金色に輝く海岸や、お星様がきらきらと輝く山があるといいな。虹色に輝く小川があって、お花が一杯咲いているの」

英子もいつしか自分の夢を無人島に描いていた。

家の話になると口では描ききれずに絵を書いて説明し、よりリアルに探検物語を作り上げていった。

 互いに夢を出し合って、二人の共通の無人島を作り上げるようになっていた。裏返した大きなカレンダーを前にして腹這いになり、二人で無人島を描き、色々なものを話し合って書き込んでいった。

 怖いものから身を守る小さな砦。色とりどりの果物がなる丘。蛇がとぐろを巻いて待ち受ける昼間も暗い森。ドラゴンが守る宝物が隠されたコウモリの洞窟。真珠が沈む小さな泉。虹色をした魚が泳ぐ小さな川。ボートを置いた白い砂の浜辺。イルカが顔を出す入り江など、大きなカレンダー一杯に書き上げていった。

 英子が、

「一人で無人島に行く」

 と言ったので、静夫はすぐに、

「女の子一人ではだめだよ。僕も一緒に行って守っていてあげるから」

 と言った。

 英子は無表情に視線を向けてきて、

「一緒に行ってくれるの」

 と、聞いてきた。

「一緒だよ」

 と静夫が応えると、英子は真剣な眼差しとなり、

「いつも一緒ね」

 と言って、「一緒」を繰り返した。

 無人島を書き上げたカレンダーを静夫の部屋に飾って、何度も二人で冒険話をして楽しんだ。

そのうちに英子が、

「絵をちょうだい」

と言ったので、静夫の部屋から外され、無人島の話はしなくなった。それでも今までよりずっと打ち解けて話ができるようになり、英子から「お兄ちゃん」と言って話し掛けてくるようになっていた。

 静夫は、自分の話で英子が楽しそうにしているのを見ると、母に言われたことを果たした気がして嬉しかった。本当の妹のような気がしてきて、何でも気軽に話ができるようになっていた。

 静夫は、英子が家族の一員になっていると思っていたが、本当は独りぼっちだと感じたことが何度かあった。

 英子の母親は帰りが遅くなることが多く、夕食まで済ませてくることが多かった。事前に遅くなることが分かっていれば、予定の時間に食事を始めて、英子は特別に意識する様子はなかったが、連絡もなしに母親が遅くなると、落ち着きがなくなっていた。

 母も食事をさせるべきか迷い、英子を差し置いて食事をするわけにもいかず、見切りを付けて、食事を始めるときには時間が大分過ぎていた。

 英子は自分のために食事が遅れる状況を飲み込んでいて、連絡が遅いと時間を気にしだし、電話に神経を尖らせ、待っている時間が居たたまれないというのが、静夫にも分かった。

 母が英子を気づかって、そっと胸に引き寄せ、

「お母さんは大事なお仕事ができてしまったのよ」

 と言って、優しく髪を撫でる姿を何度か見たことがあった。

 英子の母親から遅くなって電話が入り、母が受け答えをするのを聞いたことがあった。 「帰りが遅くなってもいいから、電話だけは早めにしてあげてね」

 と、言っていた。

 英子が傍にいると、「分かりました」と一言だけだったが、その時は英子の姿が見えず、母は静かに語りかけていたが、怖い顔をしているのが分かった。

 母親が迎えにきて声を聞いても、英子はそわそわする様子を一度も見せたことがなく、全く無表情で、身の回りのものを淡々と片付け、帰り支度をした。

「ありがとうございました」

 と言ってお辞儀をし、赤いランドセルを背負って、黙って母親の後に従うのが日課だった。

 父親が、英子を二度訪ねてきたことがあった。

 英子は、母の言うことにいつも素直に従っていたが、父親が訪ねてきたときだけは首を振り、

「会いたくないの」

と言って、俯いてしまった。

 母がそっと抱き寄せて、

「優しいお父さんでしょ。会ってあげなさい」

 と言い聞かせたが、黙って首を振るだけだった。

 父親を家に上げ、英子と無理に対面させたようだったが、静夫は、妹と二階の自分の部屋に上がってしまったので、下がどんな様子だったのか分からなかった。だが、何分もしないうちに、英子が走るようにして二階に上がってきてしまい、父親を最後まで避けているのが、何となく分かった。

 英子は普段通りの顔を装うとしていたが、色白の顔が一層白くなり、いつもと様子の違うのが、静夫にもよく分かった。

「あそびましょうよ」

と言って、すまして妹の手を握っている英子の姿が、とてもかわいそうに思えた。

 父親が人形を持って来たが、英子は見向きもせずにいつまでも客間に置いてあった。母が妹の部屋に持ってきて何日か置いてあったが、英子がいつまでも人形を無視しているのが分かり、母は諦めて押し入れにしまい込み、以来、人形を目にすることはなくなった。

 父親が二度目にやってきたときにも、やはり英子は会うのを嫌がった。母が気の毒そうに状況を話しているのが玄関から聞こえてきて、会わずに帰っていった。そのときも何かを持ってきたようだったが、一度も出されずに、押し入れにしまわれた。

 その後は家にやって来なかったが、近所まで父親が訪ねてきているのを何度か見たことがあった。遠くから気付かれないように見ていたが、英子が気付いてすぐに家に引き込んでしまったこともあった。

 静夫には英子の気持ちがよく分からなかった。静夫にとって、両親、妹、祖父母、誰もが優しく、大好きな存在で、一緒に居るのが当然であった。英子の置かれた状況は自分と余りにもかけ離れており、両親にどんな思いを描いているのか想像ができなかった。

 妹は英子の気持ちが分かるようで、寂しそうにしていると手を握って優しく話し掛け、英子の笑顔をいつしか取り戻していた。自分より二才年下なのに、妹が大人のような気がしてならなかった。

 英子は時々寂しそうな顔をしたが、泣いたことはなかった。転んだりして痛んでも、歯を食いしばり、涙を見せなかった。とても強い子に見えることもあったが、誰かが付いていてあげないと、煙のように消えてしまいそうに感じられ、静夫は英子のことがいつも気になって仕方がなかった。

 英子が泣きだして、いつまでも泣き止まないことがあった。

母親が泊まり掛けで出張しているときに、出張期間が伸びて予定の日に帰れなかったが、いつまでも連絡がこなかった。母の申し入れが利いて、母親からの連絡がきちんとされるようになって久しかった。英子は余計な気遣いをしないですむようになり、明るさが増して毎日楽しそうにしていた。

 出張からの帰宅は早めの予定であったが、夕食時になっても何の連絡も入らなかった。英子は時間を気にしだして、神経が過敏となっているのが分かり、母が気遣って、

「お母さんはお仕事が終わらなかったみたいだから、食事を始めましょう」

 とさりげなく言った。

 英子は俯いたまま、

「ごめんなさい」

 と言って、いつものように食事の手伝いに立たなかった。

 母は、英子が責任を感じ、深く傷ついているのを感じ取り、涙を流しながら体を引き寄せ、

「私は英子ちゃんのことを自分の本当の子供だと思っているの。いつも一緒に居たいのよ」

 と言って、強く抱きしめた。

「でも、お母さんはとても寂しい人なの。英子ちゃんが付いていてあげないと、ひとりではやっていけないのよ」

 と、優しく語り掛けた。

英子は、今まで堪えていた全ての悲しみを洗い流すように、母の胸に顔を埋め、大きな声を出して泣きだしていた。

 妹も顔に手を当てて泣きだし、静夫も膝を抱えた状態で涙を拭かずに俯いて、英子の泣き声をいつまでも聞いていた。

「英子ちゃんもじきに中学生になるから、そろそろお料理の勉強を始めましょう。食事を作れるようになって、今度は英子ちゃんが夕食の支度をしてあげなさい」

 と、母は英子の涙を拭きながら、優しく語り掛けた。

 それ以来、英子は料理を妹と一緒になって手伝うようになり、料理を少しずつ覚えていった。

 中学生になると、母親の帰宅が早いと分かっているときは早めに料理を作り、英子の住む近くのマンションまで、静夫も手伝って運ぶようになった。

 料理の腕が上がると、母は材料を用意して下ごしらえをするだけで、後はマンションに持ち帰って、英子が夕食を作るのが日課となった。英子は、母親からの電話を気にしないですむようになり、憂いが減って一層明るくなっていた。

 静夫は、英子と夕飯を一緒にすることが少なくなると、英子が次第に遠のいていくように思え、気が気ではなかった。英子の声が響いてくると無性に顔が見たくなり、落ち着きを失った。

 母に言われ、英子に伴って荷物を運ぶときなど、嬉しくてならなかった。荷物の受け渡しのときに、英子の手が触れようものなら電流が走るような心地で、英子を見ていたいとの思いと裏腹で、逃げださずにはいられなかった。英子が妹と思えなくなり、ほのかな思いが募るばかりだった。

 静夫は坂本と並んで歩いているときも、英子のことを回想して言葉を発しなかったが、坂本も静夫の状況を察するように、黙って付き添うだけであった。

 駅から少し離れた食堂に入ると、まだ六時を回ったばかりで空いていた。

 注文を済ませると、静夫は俯いて物思いに耽る格好となった。坂本は、静夫が無口になっても気にする様子はなく、静夫が特別な状況にあることを既に飲み込んでいて、考え事の邪魔はすまいとの姿勢を取っていた。むしろ、今までと違う静夫に興味を持って観察しているようでもあった。

 静夫が高校卒業間近に、英子との思い出として心に残るささいな事件があった。

 静夫は人付き合いを避けていて、友と呼べる者はいなかった。高校三年のときに、唯一友達らしい付き合いがあった。静夫はそれほど好感を持っていたわけではなかったが、相手はいつもなれなれしく寄ってきて、何かといっては付き合わされていた。

 卒業を間近に控え、友人はおもむろに英子を紹介して欲しいと言ってきた。静夫には答えようがなかったが、「親友だろ」との押しつけに、やむなく承諾していた。

 英子は近くの女子校に入学していたが、男子校の常で、女子校の様々な情報が飛び交って、いつしか英子も美人との評判が立ち、回りで囁かれているのを静夫も知っていた。友人が、自分と英子との関わりをいかに仕入れたのか分からなかったが、取り次ぎ可能な立場と見込んで言ってきたようだった。

 友人は成績優秀で、スポーツでも名を上げて非常に目立った存在だった。英子が好きになるとは思えなかったが、全ての面で自分より遥かに勝った人間に思え、新たな出会いも無視できない気がしていた。

 英子と接する機会が少なくなり、話す機会が中々訪れなかったが、母と妹が買い物に出掛けているときに顔を出したことがあった。成り行きとして二人で居間に対座し、言葉を交わすことになった。久々の二人きりで、静夫は意識し過ぎて、どうしてもぎこちなくなってしまうのを感じていた。

「希望の大学が決まって良かったわね」

 と、英子は大人っぽい口調で何のためらいもなく話してきた。

 静夫が視線を向けると、英子は当然のように笑みを浮かべて見つめてきており、そっぽを向くわけにもいかず、評判の美女をじっくりと拝顔することになった。

 英子の素顔は、静夫が胸をときめかせた十五の春と少しも変わっていない気がした。未だに少女の輝きを湛え、惜しみなく優しさが滲み出た瞳は、色白の素肌と相まって痺れさすような光彩を放っていた。

 思わず、ため息まじりに「美しい」と言ってしまいそうになり、慌てて目を逸らし、俯いていた。

 友人の依頼が頭をもたげ、少々不愉快だったが、俯いたついでに懸案を持ち出すことになった。

「友人に、英子ちゃんを紹介して欲しいと言われているんだ」

 静夫は沈みがちに話してしまうと、すぐに言ってはいけないことを言ってしまった気がして、後悔せずにはいられなかった。気まずい気分となって、とても英子の顔を見ることができなかった。沈黙が訪れると急激に英子を誰にも渡したくないとの思いに駆られ、懸命に顔を上げていた。

「嫌いです」

 と言って、英子は席を立ち、後ろ姿となっていた。

 静夫は嫌われて去っていってしまうように思え、思わず、

「英子ちゃん」

 と、大きな声を出してしまった。

 英子は振り返り、すまして、

「お茶を入れるだけです」

 と言って、台所に姿を消していた。

 お茶が出され、幾分怖い顔をしてじっと見られ、

「静夫さんもお人好しね」

 と、呆れたように言われた。

静夫は堪らなく気恥ずかしくなって、俯くしかなかった。

「二度としないでくださいね」

 と、諭され、顔を上げて頷くと、英子の顔は笑顔に変わり、成り行きとして黙って見つめ合っていた。

英子の笑顔は気持ちをゆったりさせて、何だか夫婦のような気分になり、既に二人は結ばれているような錯覚に陥っていた。手を握ることすらできなかったが、二人の語らいは時間がゆったりと流れ、家族と言う実感が湧き出てきて、どこまでも安らいでいた。

 静夫は友人に会うと、すぐに、

「断られた」

と話した。

「本当に話してくれたんだろうな」

 と疑られ、

「頼り甲斐がない」

と言われて、付き合いがなくなった。

 静夫はささいな事件の後、何日かうきうきしていた。英子が友人を全く相手にしなかったことが堪らなく嬉しかった。英子に相応しい人を見つけ、めあわせるのも義務と感じていたが、釘を刺されて義務感が消滅し、喜びが増幅していた。だが、暫くすると英子が再び遠い存在に思えてきて、英子のことは考えまいとしていた。

 静夫が成人すると、母は、英子の置かれた状況を詳しく話してきた。

静夫は、むしろ英子の複雑な家庭環境を知りたいとは思わなかった。特に、両親は英子を悲しませるだけの存在で、意識すること自体不愉快であり、聞きたくなかった。

母は、静夫の気持ちを知りながら、

「聞きなさい」

と、いつになく厳しく言い、英子が置かれた状況を詳しく話してきた。

 離婚の原因が父親の浮気で、それが英子に対する裏切りとなり、英子の心を深く傷つけていたことを前々から知っていた。だが、父親がどんな人なのか全く知らなかった。

 父親は非常に優しい人で、英子をとても可愛がる子煩悩な人だったと聞かされ、静夫が描いてきたイメージと大きく違っていることが分かった。英子は、仕事を優先する母親よりも父親を遥かに慕っていたことを知り、父親の浮気によるショックが余計に大きく、英子の悲しみは計り知れないものだと想像された。

 浮気が発覚する前に離婚は決定的な状況であった。父親は英子を引き取って別居を画策しているうちに、魔が差したのか、新しい母親と考えていた女性へ暴走していた。それは妻との抗争に疲れ切って、優しさに一息入れた哀れな姿だと、母は同情的に語り、父親は英子を置き去りにしようなどと、少しも考えていなかったことを強調していた。

 だが、不倫という現実が前面に出て、離婚交渉は母親が有利に進め、英子を失いたくないがために、父親の裏切り行為を散々吹聴して、幼心に敵意を植えつけていた。英子は父親への思いが強かっただけに、自分を置き去りにして行ってしまったと心に深く刻まれ、酷く傷ついていた。

 母は、英子の母親とは中学生からの付き合いで、互いに文学に傾倒し、女子高生のときに同人雑誌を作った仲で、特別な付き合いだった。母親は初志を貫徹し、文筆活動を続け、出版社に入って活躍していた。母は羨望すると共に、活躍を期待していつも応援していた。

 母親は、結婚して英子が生まれても仕事に力を注ぎ、母親としても、妻としても理想的とは言いがたかった。それでも父親は最大限理解を示していたが、英子のことを思い、母親らしさを求めて言い争うことが多くなり、いつしか破局を迎えていた。

 母は離婚話の相談を持ち掛けられ、母親の側から問題に関わってきた。

母は、浮気のことを承知していても、英子のためには、父親に任せるのが一番だと強く忠告したが、母親は、寂しさを穴埋めする存在として、英子を失いたくないとの身勝手な思いが讒言となり、英子を深く傷つけ、父親から切り離していた。

「これからは英子を大事にする」

 と、母親との約束を取り付け、母は協力を惜しまない姿勢を示し、離婚の成り行きを見守るしかなかった。

「私が英子ちゃんを可愛がりすぎたので、安心して放っておけたのかもしれない」

 と言って、母は涙を流し、

「英子ちゃんがお父さんと生活をしていたら、今と全く違った人生を歩んでいたことでしょうね」

 と、しみじみ語った。

「お父さんに対するわだかまりを吹き払ってあげたいと、いつも思っていたけど、それにはお母さんのしてきたことを話さなければならないし、結局は話しそびれてきてしまったの。何とか英子ちゃんの心の傷を癒してあげて、お父さんと会わせてあげたいの」

 母は、憂いのある顔で静夫に視線をじっと傾け、話を閉じた。

 母の話で、今までの先入観は払拭され、英子の置かれた状況を正確に理解できたと思ったが、母が最後に発した言葉をいかに受け止めたものか分からなかった。ただ、脳裏に重く伸しかかってきたことは確かで、いつか、自分が英子のわだかまりを取り払ってやらねばならないという、義務感が生じていた。

 英子が父親に引き取られたことを想像すると、英子との出会いはなかっただろうし、自分の人生も全く違っていたように思えた。果たしてどちらがよかったのか考えてみたが、すぐには答えが出なかった。

 英子が特別な女性に思え、自分には荷が重すぎて苦しみばかりのような気がしていた。平凡な人生が自分には相応しく、もっと陽気で、毎日を楽しみたかったとつい考えてしまった。だが、英子の顔を思い浮かべると、どんな苦しみも惜しくない気がしていた。英子のいない人生を考えると生きている意味が薄れ、「愛さずにはいられない」と、心のどこかで叫んでいた。

 今にして思うと、母は結婚を前提にして、英子のことは全て任せたと言っているように思える。だが、当時の心境からするなら、自分の恋が英子を傷つけてしまったとの後悔の念が消えず、成長に伴って、英子の気持ちがどのように変化しているのか想像できなかった。愛する思いとは裏腹で、英子が遠く離れていってしまうことばかり考えていた。

 静夫にとって、英子はあまりにも美しすぎた。英子に対する思いは誰にも負けないと言い聞かせても、自分にどれだけの魅力があるのか考えると、恋する思いは萎んでしまい、何も考えたくないとの思いになって、読書に夢中になっていた。

 改めて母や妹の言動を思い起こすと、自分の切ない思いは置き去りになり、英子、母、妹と、三人でとうに結婚までのシナリオを書き上げ、自分は、知らず知らずに筋書通りに生きてきたように思えてきた。

  料理が運ばれてきて、静夫は我に返り、

「話し相手にならなくてすまないね」

 と、詫びると、

「ずいぶん楽しそうだぜ」

 と言ってきて、坂本が自分を観察しているのが分かった。

「今までの坊ちゃんと全然違ってきているのは確かだな。こんなこともあるだろうと予想していたから、驚かないけどね」

 坂本の意味深長な話しが気になって、

「どんなことを予想していたのだね」

 と、聞いてみた。

 だが坂本は、静夫の質問を全く無視するように話してきた。

「今書いている小説はもぐらみたいな人間の話なんだ。いつもは真っ暗な土のなかでの生活で、間違えて外に出てきて太陽の明るさに驚き、慌てふためいているんだ。誰もが当たり前として、欲望に任せて少々狂ったことをしているのに、好きな人を、心のなかの宝物としていつまでも大事にしまい込み、時代後れの優しさで懸命に守っているんだな。宝物が現実のものとなって目の前に出てきたら、いったいどうしたらいいのか分からずに慌てているんだよ」

 と、すっかり心を見透かすように言ってきた。

 静夫は坂本の話しに思わず姿勢を正し、質問の答えだと納得していた。

 坂本は箸を取って料理に手を付け、

「坊ちゃんの人生はただの世間知らずで単純明快だと思っていたけど、物思いに耽る様子を見ていると、いろんなドラマがあったというのが分かってきたよ」

 と言ってきた。

「自分でも知らないうちに、我が家のヒーローになっていたのだよ」

 と、静夫は自然に答えていたが、今まで考えたこともない答えだった。

「今日の坊ちゃんは面白いな。文学青年だけあって、言うことが一々文学的だね。メモを取っていてもおっつかないから、坊ちゃんも小説を書いてみたら」

 静夫は、書くことを楽しんでいた子供のころがふと蘇ったが、坂本の提案にすぐには頷けなかった。

 英子がいつまでも泣いている姿が再び浮かんできた。英子の涙が、子供から大人へ脱皮するための試練だったと今でこそ考えられるが、十五才ではとても思いつかなかった。大事な妹と、恋する英子を傷つけたことだけが重く伸しかかり、英子の思いを詩で綴ったのが創作の最後となった。書くことが怖さとなって、二度と創作に耽ることがなかった。

 創作を忘れた日々は、十五の春に自分を置き去りにした生活となり、英子への思いをくすぶるせながら、何も考えまいと逃げ腰の人生となっていた。十年ものながきに渡って殻に閉じこもり、全くの世間知らずに小説など書けるはずがない気がした。

「自分には書けないよ」

 と、幾分寂しい思いで答えた。

 坂本は食べるのに夢中で、聞いていないように思えたので、再び考えを巡らせようとすると、

「小説は優しさがなければ価値がないと思っているんだ。どんなにきれいごとが書いてあっても、人に対する思いやりが伝わってこなければ、文字だけが一人歩きしてしまう。時間潰しになるもしれないが、俺には少しも楽しめないんだよな」

 と言ってきた。

 坂本は再び頬張って口を塞ぎ、沈黙が訪れた。静夫は教え子の食べる様子を、頼もしく感じながら見つめ、次の教えを待つことにした。

「坊ちゃんは優しいじゃないか。恋人への優しい気持ちをそのまま書けば、素晴らしい小説が書けると思うな」

 坂本の限りない友情を感じ、封印された心を開くには最も適したアドバイスだと納得していた。同時に、封印されていた思いが弾けるように一気に流れだし、英子のことを無性に書きたくなっていた。

 坂本の生き生きとした視線を受け、言葉の代わりに目で自分の気持ちを精一杯語っていた。

「坂本君には学ぶことばかりで、教師失格だな」

 坂本は静夫の言葉を全く無視するように、再びがつがつと食べはじめた。

「私の分も食べてくれないか」

 と言って、静夫が料理を坂本の前に押し出すと、

「腹が空かないの」

 と言って、坂本は気遣いを見せたが、答えを聞かないうちに差し出された料理を引き寄せ、旺盛な食欲を見せつけた。

「いまは食べる気がしないのだ。家に帰ったら恋人に作ってもらうよ」

 静夫は抵抗無く出てきた言葉に一瞬戸惑いを感じたが、英子と一緒になるのは当然の成り行きに思えていた。

「今の話はお安くないな」

 坂本は、まだ口に食べ物を一杯含んで口ごもりながら、一時も待てない様子で言ってきた。

 さすがに次の言葉をためらって、口のものがなくなってから追求してきた。

「事によると、夜も共に過ごすの」

 と、興味津々という顔をした。

「ばかなことを言うなよ。結婚はまだ先だよ」

 と、静夫は顔が赤くなるのを感じながら、当然の事として打ち消した。

「坊ちゃんらしいや」

 と言って、坂本は声を出して笑った。

 静夫は笑いを受けながら、坂本が言った、「心のなかの宝物」と連動し、「英子に対する誠実が何よりも重要だった」と、言葉が鮮明に浮かび上がってくるのを感じていた。

 父親の浮気が英子の心を深く傷つけ、男性不信に陥っていることは明らかで、家に来るようになって、初めは父や自分に近づくのを避けているように感じられた。次第に慣れ、我が家にあっては誰彼なしに懐いて、いつも明るく振る舞うようになっていたが、静夫は英子が時折見せる寂しそうな顔に気付いていた。

 英子の悲しみを一時的に紛らすことはできても、傷ついた心を完全に癒すのは、けっしてたやすいことではないと感じていた。静夫は、英子の閉ざされた心を開くのは、男である自分の役割だと、いつしか考えるようになっていた。

 英子は裏切りを恐れ、誠実が何よりも大事なことだと想像された。誠実を尽くすことが英子の閉ざされた心を開く唯一の手立てだと考え、英子を恋すれば恋するほど誠実であろうと意識し、いつまでも純潔を守り、傷ついた心が癒えるまで待ちつづけたいと思っていた。

 英子を恋したときに、思わぬ形で恋心を告白し、英子の気持ちがつかめぬままに、静夫の恋は頓挫したようだったが、それ以上に暴走を恐れ、意識的に心を閉ざそうとしたことも確かだった。

 恋する思いの高まりに連れて、律することのできない欲望が頭をもたげはじめ、妄想に取りつかれようになっていた。ややもすると英子の心よりも肉体への欲求が先行したことがあり、自分が堪らなく汚らわしく思え、罪の意識に苛まれていた。

 恋の進展が暴走を誘発する恐れを感じ、心を閉ざすことが純潔を守る最良の方法だと考えるようになっていた。それは、英子に限りなく優しくありたいとの思いが成せる業で、英子の心の傷が癒され、自分を欲するようになるまでは、英子への思いを一時的に心の片隅に追いやることにしたのである。

 母が、父親の暴走を、「優しさに一息いれた哀れな姿」と、評しているのを思い出していた。不倫がどんな結果をもたらすか、通常であれば分かっているはずで、父親が、英子のことを一時も忘れずに優しさを持ちつづけていたならば、欲望の赴くままに暴走できなかったはずである。

 だが人間は、どこまでも強くいられるはずがなく、母親との抗争に疲れ切って、自分のことしか考えられなくなったとしても、けっして責められない気がした。

母の言う、「優しさに一息いれた」との言葉が頷けてきて、父親が哀れに思えてならなかった。

 静夫は、何も考えまい、回りを見まいとして、現実から逃避し、読書に夢中になっていたが、それでも様々な誘惑に苛まれ、時として英子のことが意識から薄れ、欲望に駆り立てられたことが何度もあった。

様々な妄想に苦しめられたが、暴走する前に英子の顔が浮かんできて、すぐに優しさを取り戻していた。それは、無意識のうちに英子はいつか自分を求めてくるとの必然性を感じ、閉じこもった生活でありながら、常に英子が居ることの満足感があったからに違いなかった。

 優しさを置き去りにし、欲望に支配されて肉体を求めるのは、絶対に避けなければならないと言い聞かせ、英子を愛すれば愛するほど、プラトニックな関係に徹してきた。静夫は、愛する思いと欲望が合致するときを夢見て、お互いに蕾のままで大事に大事に愛を育ててきたのだと確信していた。

 今正に花開かんとしていた。この日のために、もぐらのように閉じこもった生活をしてきたのをすっかり忘れていたが、これこそ英子に最も誇りえるものだった。

 英子に自信を持ってプロポーズできると思った。自分探しの時空の旅は終着していた。後は感情だけが問題だと思ったが、英子を目の前にすれば、暴発して、愛さずにはいられなくなると想像していた。

 坂本は食事を済ませ、楊枝をくわえて静夫の瞑想が終わるのを待っていた。

「待たせてすまない」

 と言って、静夫は時計を見た。

「すっきりしたみたいだね」

 坂本は相変わらず鋭い洞察力を示し、

「恋人の手ぐらい握ってやれよな」

 と、すまして言った。

 食堂で坂本と別れ、駅に向かうと急に腹が空いてくるのが感じられた。駅前に来て、家に電話をしようか幾分迷ったが、英子の声を無性に聞きたくなって、電話ボックスに入っていた。

 電話をすると妹が出て、

「いつごろ戻るの」

 と、いきなり聞いてきて、待ちきれないとの気持ちが伝わってきた。

 英子に替わってもらおうと思ったが、照れくさくて、

「けっきょく食事をしていないのだ。作ってくれないかな」

 と、妹に頼んでいた。

「私はいや。英子ちゃんに替わるから」

 と、静夫の意思を確認せずに電話口から離れていった。

「静夫さん」

 と、聞き慣れたはずの英子の声が響いてきたが、何故か静夫には、全くの別人の女性から、愛しさを込めて囁かれているようにうに感じられ、心臓が一気に高鳴って、すぐには言葉が出せなかった。

 英子に分かるはずがないのに、胸の高鳴りを察して沈黙を容認してくれているように思えた。同時に、英子も固く閉じられていた蕾が花開いたように感じられ、嬉しさがこみ上げてきた。

「英子さん」

 と、無意識のうちに、初めて英子をさん付けで呼んでいた。

 英子の返事がすぐに返らず、さん付けで呼んでいたことに気付き、英子が不快に思ったのではないかと気になって、

「英子ちゃん」

 と、再び呼んでいた。

「静夫さんって、とても可愛いわね。さん付けでも心配いらないのに。それより、私にお話があるのでしょ」

 静夫は用件を待っていたのだと気付き、

「ごめん」

と謝ってから、

「食事をしていないのだ」

 と、すまなそうに言った。

「食事はご用意しますから、安心して帰ってきてください」

 いつもの英子らしい話し方になった気がして、気軽に次の言葉が出ていた。

「急いで帰るから」

 と言うと、

「慌てなくてもいいの。いつまでも待っています」

 との返事が返り、二人は既に結ばれているように感じられ、嬉しくてならなかった。

 静夫は列車を待ちながら、英子の心を再び追っていた。

 自らが陥れた、現実と隔絶された生活から何とか足を洗い、自分を取り戻すことに成功したが、英子の閉ざされた心は本当に開かれているのか気になっていた。

 恋心を知られ、英子に泣かれて悲しませたと思い込んでいたが、その後の英子の接する態度は、必ずしも自分を嫌っているようには見えなかった。むしろ、先々まで約束された関係との雰囲気すら感じられた。

 静夫は、英子と結ばれると信じて懸命に誠実を尽くしてきたが、それはあくまでも独りよがりで、英子を縛ることはできないと常に意識していた。英子を幸せにできる相手が他に出てくれば、いつでも身を引く覚悟をしていた。

 だが英子が他の男性と交際している様子は全く無かった。英子は時間があると家にやって来て、母や妹と一緒になって、家事やお喋りをして時間を過ごしていた。団欒に静夫も加わることがあり、英子との接点は途絶えることがなく、顔を合わせると必ず英子から話し掛けてきて、近況を聞かれた。報告を義務づけられているようで、英子に管理されていると思うと一体感があって嬉しかった。

 静夫にとって英子はあくまでも憧れの女性で、手を握ることすらできず、結婚したいと思っていても、本当に結婚できるかのか確信が持てなかった。だが、英子のほうはとうに自分を婚約者と決めて、全く迷いがなかったように思われてきた。

 昨日の晩に妹にプロポーズを促され、初めて英子の心を自分がつかんでいると確信が持てたが、英子はいつから自分を婚約者と決めていたのか疑問であった。英子が自分を結婚相手と決めたときに、閉ざされていた心が開かれたはずであり、きっかけが何だったのか見当が付かなかった。

 英子の心を追っていくと、恋の事件は単なる大人へ脱皮するための通過点に過ぎず、どうしても子供のころへと逆上っていってしまう。

 子供のころを思い出すと、二人の心が通ったと思えるのは、冒険物語を語り合って楽しんだときぐらいだった。無人島の絵を書いて、お互いに様々な空想を巡らし、唯一妹を抜かして、二人きりでいつまでも遊んだことが蘇ってくる。

 静夫は、手を打ちたいほどに全てが理解できてきた。それは、二人で交わした「一緒」と言う言葉に、二人の運命は秘められていたと感じたのである。

 英子の、「無人島に一人で行く」との言葉に、すぐに「一緒に行く」と応えたことがあった。静夫は、母に言われるままに、英子をいつも守っていくとの義務感を持っていて、「一緒」はごく当たり前のことで、将来のことなど考えられるはずもなく、軽い気持ちで出た言葉だった。

 しかし、英子の置かれた状況を考えると、限りなく大きな意味を持ったとしても不思議ではない気がしてくる。

 英子にとって親は大きな足かせでしかなかった。英子の現実は、父親の幻影と母親の薄情であり、冷たくて殺伐としていたに違いなかった。我が家にあっては、楽しくて夢のようであったはずである。いつも一緒に居たいと願っても、我が家はあくまでも仮の姿で、夢が覚めて必ず現実に引き戻され、親と完全に隔絶されることはなかった。

 無人島に向けられた思いは、親とのしがらみを断ち切った世界へ逃げだすことに違いなかった。だが、無人島をどんなに憧れても、一人では空想の世界に過ぎず、一時的な逃避はできても、やはり時間がたてば覚めてしまう夢である。

 無人島は、一緒の存在があって初めて現実味を帯びてきたのではないのか。父親に置き去りにされたとの思いに苛まれる英子にとって、自分の差し向けた「一緒」は、非常に意味があったに違いない。

自分の存在そのものが無人島となって、いつでも一緒に居るのを感じられることで、精神的に現実を全て断ち切ることが叶ったのではなかろうか。我が家での生活も仮ではなくなり、現実の生活と逆転し、完全に我が家の一員になっていた。

 英子にとって、「一緒」は永久の言葉で、結婚と意識しなくとも、いつでも一緒に居てくれると信ずることが、生きる喜びになっていたのではないか。そして、恋心を打ち明けて、「一緒」が結婚の意味を持ったと言っていいのかもしれない。

 自分自身、「一緒」の意味は必ずしも結婚と結びつかなくとも、英子を守るとの気持ちは子供のころと少しも変わっておらず、互いに少年少女の純真な気持ちでそのまま大人になってしまった気がする。

 二人のことは母も妹もすっかり承知していて、花を育てるように大事に大事に育て上げてくれたように思えてならなかった。妹がいなければ、蕾は花開かずに終わってしまったように思われた。

 列車に乗り込んで、吊り革につかまって揺られていると、網棚に置かれたバックから、小さな人形が吊るされているのが目に入ってきた。列車の揺れに合わせて糸で揺れが伝わり、操り人形のように手足が命を持って動いていた。

 静夫は人形に自分の姿を見出し、操り人形のような人生を感じていた。英子と絶対に切れることのない糸で結ばれていて、手も足も心も全てが英子に呼応し、一緒になって動いていたように思えてきた。

 静夫は、もぐらのような閉じこもった生活をしていても、英子のことを片時も忘れることはなかった。常に英子の願いを叶えることを意識し、英子以外の女性に目を向けないことが、静夫に可能な一番の愛情表現に他ならなかった。

 静夫の心には、両親、妹、そして祖父母の愛情がなみなみと注がれており、人に優しくあることが自然な姿で、英子の境遇を知れば知るほど、守ってやらねばとの感情を抑えることができなくなっていた。自分のことよりも、英子を優先することが、知らず知らずのうちに身に着いて、英子の笑顔に喜びを見出していた。

 恋人同士との感覚にならなくとも、英子は完全に家族の一員になり、常に目の届くところに存在していた。英子の気持ちを常に知ろうと意識し、虜になって心身ともに英子の心に繋がれていた。

全てが英子のためにあり、今日の日のためにあったのだと感じていた。英子への思いは激流となって、愛さずにはいられなかった。何もかもが自分に戻ったと確信していた。

 静夫は気の遠くなるような人生であったと回想しながら、プロポーズの言葉は、合い言葉の「一緒」と言えばいいと思った。