一輪の花 40字×40字×18枚 2001年11月完成 ☆
☆ 博司が会社に着いたのは、始業時間ぎりぎりとなり、何とか間に合って気持ちが緩むのが感じられた。同時にあくびが出てきて、慌てて口を押さえた。 事務所の入り口に差しかかった所で、誰かに見られたのではと、気になって回りを見回したが、見られずに済んだと安心し、 「おはようございます」 と言って、素知らぬ顔で事務所に入っていった。 「朝っぱらからあくびか」 と後ろから声を掛けられ、どきっとして振り向くと、木下が笑顔を向けてきた。 「見られましたね」 「優等生を維持していくのも大変だな」 「厭味を言わないでくださいよ」 博司は、すぐ後ろに木下がいるのを気付かずにいた。 「一人前に考え事でもしていたのか」 と、いつもの調子で鋭く追求されると、返す言葉がなかった。 木下は博司にとって頼れる大先輩で、仕事の面で学ぶところが多かった。同時に、常に心を見透かされているようで、どきっとさせられる言葉を何気なく浴びせてくることがあり、人生観でも無視できないことが少なからずあった。 博司は二年前に入社し、支店の営業に配属となった。本社を希望していたので幾分不満があったが、二年間を通して勉強になることが多くあり、今は不満を感じなかった。むしろ、支店で実績を上げ、スキルをより高めておくほうがプラスになると思うようになっていた。それに、木下を知ったことだけでも大きな収穫があったと思っていた。 木下は既に五十才を過ぎ、 「コンピュータの時代だからとても付いていけない」 と言いながら、 「どうしてそこまで知っているのだろう」 と、博司が感心するほどに、コンピュータのことは元より、多岐にわたって何でも知っているのに驚かされていた。 机に付いてパソコンを起動させ、いつものようにメールを確認すると由紀の名前があった。自宅でもインターネットをやっており、プライベートでもメールのやり取りをしていたが、この頃は会社にも送られてくるようになった。回りが憚られたが、楽しみにもなっていた。 いつもなら喜んでメールを見にいったが、今日はどうしてもその気になれなかった。昨夜のデートで、由紀と語り合ったことが鮮明に蘇り、不快になっていた。 由紀との付き合いは学生時代からで、選んだ仕事は違って離れ離れになったが、未だに良い関係を保っていた。それぞれの仕事で、確実に進展していくのを感じながらの付き合いは非常に楽しかった。容姿、才能、両面とも、由紀を申し分無い相手だと考え、結婚も意識していた。 お互いにエリート意識を持っており、由紀がキャリアウーマンとして活躍するのを大いに期待していた。結婚後も仕事を続け、新しい時代の理想的な夫婦像を作り上げたいとも考えていた。博司自身、企業においてどこまで登り詰められるか夢想することもあり、学歴、能力とも、それなりの可能性があると信じていた。 由紀が発した言葉が再び蘇ってきた。 「ぜひ手掛けたいと思っていたプロジェクトを、高卒の女子社員に回されてしまって悔しくてならないの。係長の気が知れない」 普段なら何気なく聞き流して、いつものお喋りとして先へ進みそうになったが、昨日だけは次の言葉が出せなくなっていた。 前の週に、木下と同行したときのお客とのやり取りが思い出されていた。木下から可能性があるユーザとして、引き継いで担当しているお客を訪問したときであった。 引き継いでから何度か単独で訪問し、既に提案書提出しており、お客と一定の係わりができていたが、お客が電話をしてくるときには木下の名前が出ていた。いくぶん腹立たしくもあったが、今までの取り組みの経過もあり、やむをえないと思っていた。しかし、木下と同行して、それだけではないと嫌というほど思い知らされていた。 博司が作成した提案書を携え、お客に自信を持って提案したが、お客の視線は木下に向けられていた。木下はあくまでも博司に任せる姿勢を保っていたが、お客の求めに応じ、やむなく言葉を発していた。 木下は細かいことは一切話さなかったが、提案の趣旨や、社会状況をゆったりと話しだすと、お客は木下にぐいぐいと引き込まれていくのが分かった。博司自身も木下の言葉にいつしか飲み込まれていて、この人なら任せておけるという気分になっていた。 お客は木下の話が終わると、一つ返事で、 「お任せします」 と言って、安心した表情を見せていた。 博司も一緒になって頷いているのに気付き、 「今のはいったい何だったのだろう」 と、狐につままれた思いであった。 帰りの車のなかで、 「お客さんが木下さんに向いてしまうのが悔しくて仕方がありません」 と言って、訴えると、 「年の功だよ」 と、さしたる問題ではないように、さりげなく言っただけであったが、博司には納得がいかなかった。 博司は意識的に木下と接点を持つようにして、木下のことを知ろうとしてきた。 「我々の世代は、会社にとってお荷物でしかないのだよ。早く辞めなくては若手に申し訳ない」 と言って、無用の存在だと吹聴し、 「うだつの上がらぬ落ちこぼれで、足手まといだから」 と言って、常に 「時代に適合できない」 との姿勢示していた。 木下と同年代の先輩を見て、一理あるとも感じていたが、木下は全く逆で、時代を的確に捕らえ、少しも苦にしないで適応しているのが分かった。むしろ、自分より先見の明があり、あらゆる点で先を行っていた。 博司は木下を追い越すことを目標に、人一倍勉強してきたつもりであったが、未だに先を行かれている気がしてならなかった。新しい知識や技術では木下に負けないとの自信があったが、神通力でもあるのか、知識だけではおっつかないものを持っていた。 博司が問題にぶつかるとつい木下を頼ってしまい、いとも簡単に解決されてしまうと、悔しくてならなかった。 「暗記力だけで大学を出てきたって、何の役にも立たないぞ」 と言われ、反発を感じながらも頷くしかなかった。 木下は全く出世に縁のない人間で、学歴も人脈も全く関係無く、正に実力だけで職場に隠然たる地位を保っていた。いかなる上司よりも睨みが聞いた存在で、博司が思い描いてきた職場の上下関係とは全く違っていた。 木下から、 「博司はエリートなのだから、もっとしっかりしろよ」 と言われ、エリートと意識すればするほど返す言葉がなかった。 エリートという言葉が全く無意味に感じられるようになり、今までの、教科書通りに生きてきた自分が何だったのか分からなくなっていた。 営業が、学歴を引っ提げれば成り立つなどという甘い考えはとっくに捨て去り、あくまでも実力が物を言うことを、身にしみて感じていた。知識や話術もさることながら、それ以上に人間性が重要で、お客にいかに信頼されるかが、営業の極意だと、薄々感づいていた。 かつて、由紀との会話のなかで、学歴に裏打ちされたエリート意識をさらけ出し、平然と言葉を交わしていたが、今はそんな自分が気恥ずかしくなっていた。 昨夜の由紀とのデートで、高卒を蔑視する言葉が出てきたときに、つい頷いてしまうところだったが、すぐに気が付いて、沈黙を守った。由紀が不満をぶつけた係長が、木下の顔とダブって浮かんできて、うつむかずにはいられなかったのである。 「今日は疲れ気味だから」 と言って、急ぎ由紀と別れると、由紀が不満をぶつけてきたときの醜い顔が浮かんできた。同時に、自分も醜い顔で、いつもエリートずらして喋っていたのかと思うと苦痛になった。 家に帰ってからも、今まで自分がやってきたことに疑問を感じないわけにはいかなかった。由紀の存在も、今までの憧れが急速に薄れ、潮が引くように興味が持てなくなり、虚しさがとどめもなく押し寄せて、中々眠れなかった。 博司が由紀のメールを読まずに消去しようとしていると、同期入社の良子が、 「石田さん、二番にお電話が入っていますけど、出られますか」 と言ってきた。 「ありがとう」 と言って、良子の笑顔を確認し、電話を取った。 良子は短大卒で、博司よりも二才若く、同期と言っても年上として敬ってくれて、他の同期と違い、いつも「さん」付けで博司を呼んだ。同期と言うことで、すぐに気心が知れた関係となり、良子は何かと博司を頼ってきて、特に親しかった。 博司も良子には遠慮がなく、指示するような口調で仕事を依頼することもあり、何気なく頼り頼りつの関係にあった。普段は当たり前として受け止めていた良子の笑顔が、今日はやけに美しく感じられた。 お客と話をしながらも、視線は良子を追っていた。小柄でおっとりした動きは、営業には場違いに感じられ、面倒を見てやらなければ、まともにやっていけない気がした。今までは、むしろ足手まといになることを恐れ、頼られると邪険にすることもあり、自分の将来を考えると、頼られるよりも利用することを意識していた。 良子はアシスタントのように博司の依頼を快く応諾していた。限りなく素直で、博司はむしろ、主体性の乏しい愚者として疎んずるところがあった。 良子も、 「家政科出身ですから、営業のことは何も分からないのです」 と言って、能力の無さを吹聴し、博司は正にそのとおりだと思うことがあった。 博司から少し離れた席に良子が戻ると、席に着く暇もなく電話か鳴って、急ぎ電話を取っていた。 「大変お待たせいたしました」 と、いかにも丁重に受け応えする声が、博司の耳元まで響いてきた。 続いて電話が鳴りだし、今度は木下が電話を取って、明快な語り口で応答するのが聞こえてきた。 博司は自分の電話に散漫になっているのに気付き、慌てて気持ちを入れ換えて応対を始めた。 博司が入社して一年間は、新人の勤めとして電話受付を率先してきたが、後輩が入ってくると、電話を一切取らないようにしていた。電話応対が仕事を大きく滞らせてきたことは明らかで、自分の仕事を優先するのが当然だと思った。 入社して半年もすると、ベテラン顔をした先輩に負けないとの自信が出てきて、先輩が暇そうに大きな声でお喋りをしているのが聞こえてくると、電話に出るのがたまらなく苦痛となった。ただ、優等生としての評判を維持していかねばとの思いが、一年間だけは何とか堪えさせた。 後輩は半年もすると電話応対に消極的になり、電話が鳴りっぱなしの状態が多く見受けられるようになった。良子だけがいつまでも新人のままに積極的に電話に出て、応対に振り回されがちだった。 良子の電話応対に対する積極姿勢や、ひとの仕事を肩代わりする姿を見るにつけ、要領の悪さが腹立たしくなった。 「もっと自分の仕事を大事にしなければだめだ」 と、言葉が何度も出かかったが、木下が、良子と同様に電話に積極的に出て、犠牲になっているのを思うと言葉を飲み込むしかなかった。 木下に電話応対についてさり気なく話を向けると、 「良子ちゃん一人に負担を掛けさせるわけにはいかない」 と話してきた。 「後輩にもっと電話に出るように話しますよ」 と言うと、 「みんな忙しそうだから、無理強いしてはだめだよ」 と言い、 「自分のことで精一杯なのだ」 と付け足してきた。 木下が会社に何度となく職場改善について申し入れをしているのを知っていた。機会ある毎に考えを聞き出したが、木下が若手のことを常に意識して、改善を図ろうとしているのが分かった。 会社が旧態依然とした体質であることは博司も充分に分かっていた。木下がどんなに頑張っても、事なかれ主義の管理者を動かしようがないのは明らかだった。木下も動かしようがないことを承知で取り組んでおり、むしろ、職場の仲間に問題を投げかけているようでもあった。 木下の日常の行動は、職場の問題点を一人で懸命に穴埋めしているように感じられた。自分の実績を省みず、他人のことでしゃかりきになっているのが伝わってきた。何でもっと自分のことを考えないのか、どうしても理解ができなかった。 博司は常に競争を意識しており、自分の実績を上げるのが最も重要であった。営業であるからには売り上げが何よりも大事で、会社の評価も数字が全てであった。受け持ったユーザの規模で売り上げが大きく左右され、現状では公正な競争条件になっておらず、正当な評価が下せるはずがなかった。様々な矛盾を感じながらも、とにかく売り上げを上げることに躍起になってきて、それなりに実績も上がっているとの自負があった。 博司が自分の成績に躍起になっていることを、木下は一度として非難してきたことがなかった。むしろ成績が上がるように配意してくれて、木下が受け持つ優良ユーザを引き継いでくることもあり、ハッパをかけられている状況でもあった。 博司は、木下の理に適わぬ言動が不満であったが、少なからず影響を受けていた。自分の思い描いてきた確固たる生き方に、鑿を打ち込まれるような思いだった。ただ単に仕事だけではなく、人間の価値についても根底から覆されている気がした。 良子は相変わらず電話応対に追われ、ひとに取り次いだり、不在のひとの仕事を肩代わりしたりで、少しもじっとしていなかった。木下が良子を気遣って、電話に出ているのも目についた。 二人の忙しそうな姿を目にして誰もが同情するが、ひとごとのようにそっぽを向いて、電話に出る者は少なかった。中には大きな声でお喋りをしている者もいて、怒りがこみ上げてきた。しかし、博司自身、電話に出れば身動きが取れなくなると思うと、どうしても電話を取ることができなかった。 夕方、博司が会社に戻ると、係長が良子の帰りが遅いと心配していた。回りの者も良子の名前を出してささやいていた。 他にも遅くなっている者もいたが、誰も気に止めている様子はなく、博司は、 「良子が若い女性だから興味本位で騒いでいるのだ」 と、蔑んでみたが、雰囲気からそれだけではないと認めないわけにはいかなかった。 良子はいつも電話応対に追われ、自分のことは中々手が付かなかった。営業に出るのが遅くなり、どうしても帰りも遅くなった。終業時間ぎりぎりになることが多く、そのたびに回りの者が心配していた。出発も遅めであったが、お客とのやり取りにも時間が掛かっていた。 木下の説では、 「お客の話を引き出すのが上手いから」 と言うことであった。 電話応対を聞いていると、確かに安心して何でも話ができる雰囲気があった。お客が饒舌になっても不思議ではない気がしたが、博司は、そんな良子を営業として要領が悪すぎると侮っていた。 自分はビジネスに徹し、余計な話を極力省くことが能力の高さを象徴するとの考えで、意識的に時間を取らないようにしていた。 お客の気持ちを引き出すことより、提案の骨子を論理的かつ明快に訴えることに神経を使った。契約も多く取れ、自分のやり方は間違っていないとの自信があった。 暫く前に木下と同行して、自信が揺るぎかけたことがあった。 木下のお客とのやり取りを聞いていると、とてもビジネスとは思えなかった。お客の欲求を徹底的に引き出し、最良の方法を一緒になって見いだそうとしているのが分かった。 木下をセールスマンと見るより、相談相手として受け止めて、契約をするに当たっても、お客のほうから頭を下げ、 「よろしくお願いします」 と言ってきた。 それは、一時的な関係ではなく、一社員となって、相談役との位置づけで、先々まで託された特別な関係が成り立っていた。これが本当の営業だと突きつけられた思いであったが、懸命にそっぽを向こうとしていた。 博司にとって先はなかった。支店にいるのは仮の姿で、数字を上げることだけが義務づけられていた。一軒に多くの時間を掛ける余裕はなかった。より多くのセールスチャンスを作って、売り上げが上がればそれでよかった。信頼を得て、お客との将来まで考慮する必要は感じなかった。自分のやり方で間違いないと言い聞かせてきた。 木下は、良子もお客本意の営業をしていると言おうとしているようであった。長い目で見れば、お得意様が増えて安定した売り上げが維持されることは確かだが、良子も何年かすれば転勤になることは間違いなく、今どれだけ成績を上げるかが重要なはずだった。良子のやっていること全てが、ビジネスと言うより、道楽と変わらない気がした。自らの目的を逸した愚行と思われ、同期と意識すると腹立たしくもあった。 良子が、 「遅くなって申し訳ございませんでした」 と言って、申し訳無さそうに事務所に入ってくると、回りの者がみんな視線を向けているようだった。 「良子ちゃんが遅いと、みんなで心配していたのよ」 と言って、女子社員が近づくと、 「ご心配をおかけしまして、すいませんでした」 と、恐縮し、良子は何度も頭を下げていた。良子が帰ってくると、落ち着きを失っていた職場の空気が和んでいくのが分かった。 自宅のパソコンで資料を作成していると、十時を回って由紀から電話が入った。博司は母の取り次ぎに出るのを躊躇ったが、 「逃げることは許されない」 と言い聞かせ、受話器を取り上げた。 「疲れは抜けた」 と、由紀には似合わない優しい口調で語りかけてきた。 「仕事が忙しいんだ」 と、素っ気無く答えると、 「昨日話した仕事の担当のことだけど、高卒と言うことで侮っていたけど、彼女は私より実力が上だと分かったわ」 と言ってきた。 博司は、由紀が自分の気持ちを全て察しているのだと分かった。 由紀の能力の高さは充分承知しており、恐らくは、競争相手に負けないという自負があるはずだと思った。繊細で頭脳明晰な由紀なら、奢りが沈黙の原因だとすぐに気付いて、関係の修復に躍起になっているだと感じた。 由紀は今まで弱みを一切見せたことがなかった。博司は由紀の強さに引かれていた。由紀の能力の高さを知れば知るほど魅力を感じていた。能力の高さを競い合って満足していた。素晴らしいライバルであり、最高のパートナーでもあった。 由紀は自分が良き理解者だと充分に承知しており、失いたくないとの思いが、今までに見せたことがない言動になったのだと想像された。由紀が哀れにもなって、自分が側についていてやらねば、脆く砕け散ってしまうようにも思えた。 博司は言葉をすぐに発せられなかったが、 「土曜日に会おう」 と、何とか言って、由紀を安心させてやった。 翌朝、職場でのミーティングが終わると、 「たまには昼飯を一緒に食おう」 と木下が言ってきた。 「今日は私に奢らせてください」 と博司が応えると、 「良子ちゃんも誘うから俺がご馳走する」 と言って離れていった。 消去せずに置いてあった由紀のメールを開いてみると、 「電話をください」 と書いてあった。昨夜の由紀の電話は、待ちきれずに掛けてきたものだと分かると、益々由紀が哀れに思えてきた。 由紀はエリートとして常に背伸びをし、ぎりぎりの人生を歩んでいた。常にトップを目指し、トップに近づきつづけないと自分の置き所を失ってしまう、狭隘な人生に感じられた。それは自分にも言えることで、エリートという規格品に、自らを仕立て上げようと躍起になっていた。 全てが思いどおりに進んできた。憂いは一切ないはずであった。感傷など自分には無縁だと思っていた。人間らしさ自体、無用の長物だった。由紀に求めていたのは、心の交わりよりも、自分に相応しい、よりすぐられた姿であった。 より高い成績を残すことが能力の全てだと信じて止まなかった。自らの力を過信し、誰もが注目していると信じていたが、全くの幻想だと感じられるようになっていた。 幻想の価値は、同じ幻想を抱く由紀と二人の関係にのみ成り立っていた。二人はお互いに限りない理解者で、プライドを舐め合って満足をしていた。自分も由紀を失ったら何も残らない気がした。由紀も哀れであったが、自分も惨めに感じられた。 会食の席に付くと、 「課長が、前年度の売り上げは博司が一番になりそうだと言っていた。おめでとう」 と、木下がおもむろに言ってきた。 博司も課長から耳打ちされて知っていたが、売り上げのことを話す気分ではなかった。 「石田さんすごい、同期の人が一番になるなんて、とっても嬉しいですね」 と言って、良子はいかにも嬉しそうな顔をした。 「お水で乾杯はあわないですけど、乾杯しましょうよ」 と、良子がコップを持ち上げると、 「博司、コップを持てよ」 と木下に促され、仕方なしにコップを持ち上げた。 回りを憚って、小さな声で、 「乾杯」 と言って、三人のコップを合わせた。 「本当は飲みに連れていけばよかったのだが、時間調整ができないので、昼食で勘弁してくれ」 と、断りを言ってから、 「博司もよく頑張ったな」 と、しみじみと語り、心より労ってくれているのが分かった。 博司は、木下が特別に目を掛けていてくれていると承知していた。有り難みは充分に分かっているつもりだが、自分のことが精一杯で、いつも木下に先回りされ、厚情を受けるばかりだった。 「木下さんのお蔭ですよ」 と、博司が素直な気持ちで言うと、 「バカを言え。博司の能力が高いからに決まっているではないか」 と言って、木下は博司の感傷を全く相手にしないで、良子に同意を求めた。 「石田さんは優秀ですから、尊敬してしまいます」 と言って、良子も讃えてくれた。 博司には、二人の気持ちがどうしても理解できなかった。自分が逆な立場で、ひとの好成績を素直な気持ちで讃えられるはずがなかった。ましてや、自分のような身勝手な人間を不快に思っても不思議ではなく、絶対に本心から祝えるはずがないと思った。 しかし、二人の眼差しからは妬みのかけらもなかった。好意を抱いてくれているのが痛いほど感じられ、心の底から湧き出てくる感情を律することができなくなっていた。 「元気がないな。一番を鼻にかけるぐらいでなけりゃ、エリートは勤まらんぞ」 との、木下の言葉に辛くなって、 「木下さんは、私みたいな自分勝手な人間は嫌いじゃないのですか」 と言って、博司は顔を上げた。 「木下さんのように、いつも周りを気遣って仕事をしている人から見れば、私なんかの生き方は嫌われても当然だと思います」 「みんな一緒というわけにはいかないよ。それぞれが持って生まれた役割があるのだから、自分の領分で一生懸命やっていくしかないよ。むしろ、博司のように一番を常に意識して生きていくのは気の毒になってくる。でも、誰かが損な役割を担わなきゃ会社は維持できないのだから、大いに頑張ってもらわなければ」 「木下さんのように職場で重要な役割を果たしていても、会社は少しも評価していないではないですか」 「バカを言うんじゃないよ。初めから会社なんか相手にしてないよ。仲間やお客を相手にし、職場を大事にしたいと思うだけで、会社のためだなんて、これっぽちも思っていないよ。会社に評価されなくたって仕事を大いに楽しみ、仲間との交流に満足しているもの」 料理が運ばれてくると、 「どうも有り難うございます」 と、良子がウエイトレスに頭を下げ、礼を言った。全く自然に出ている言葉だった。 木下が良子を満足そうに見ているのに気付いた。博司は素直すぎる良子が不満であったが、今日は木下に釣られ、良子らしさにたまらなく魅力を感じていた。 木下がいきなり、 「良子ちゃんはどうやって育ったんだか、ぜひ知りたいな」 と言いだすと、 「うちは野放しですよ」 と、良子は簡単に言い、 「私なんかどこもいいとこないですから」 と、手を振って謙遜した。 「自分が三十才若ければ、良子ちゃんに絶対に言い寄っちゃうな」 「冗談は止めてくださいよ。木下さんの奥様はとても素敵だって、もっぱらの評判ですよ」 と言って、良子は木下の言葉を取り合わなかった。 「うちの職場は、良子ちゃんの笑顔でやる気になっている者が沢山いると思うな」 博司は、木下の次の言葉が気になった。 「会社に長年勤めていると、かえって先が見えなくなってきて、会社の姿勢や自分の先行きに限界を感じてしまうのだ。だから、本気で仕事をするのがバカらしくなってくるんだよ。毎日を無難に過ごし、給料だけもらえれば後は関係ない。とにかく、適当でいいやってことになる。でも、良子ちゃんのように一生懸命で、優しい笑顔を見せてくれると、やらなければって、言う気になってくる」 「そんな、止めてくださいよ」 「良子ちゃんのお蔭で、みんが少しはやる気になって、一人一人の売り上げが伸びていると考えると、職場全体ではかなりの売り上げになってくる。博司が頑張っても、とてもおっつかないかもしれないな」 「本当にそうかもしれませんね」 と博司が応えると、 「やけに素直だね」 「二人ともつまらないこと言わないでくださいよ」 良子は本当に困った顔をした。 「売り上げのことはともかく、良子ちゃんが電話に積極的に出て、お客との繋ぎ役をちゃんとしてくれるから、他の人が安心して自分勝手になれるのだよ。みんながみんな自分勝手だと、いつも電話の出が悪くなって、お客が逃げてしまうかもしれないからな。良子ちゃんの役割は間違いなく大きいよ」 と、木下が追い打ちを掛けると、 「私は能力がないから、自分のできる範囲で精一杯やっているだけです。石田さんみたいに能力のある人と比べられては困ります」 と言って、良子は下を向いてしまった。 「良子ちゃんをいじめるつもりはなかったのだが、ごめんよ」 木下が良子をいかに大事に思っているか、博司には痛いほど分かった。 「木下さんだって、電話に出たり、若手の指導をしたり、自分の成績に結びつかないのに懸命にやっていますね」 博司がどうしても理解できないところだった。 「俺がやっているのは償いからだよ。若手が能力をフルに発揮できる職場環境を作ってやらなければいけないのに、旧態依然の体質を少しも変えられなかった。会社の体質もだめだけど、社員も問題点を解決する姿勢がない。ベテラン社員の怠慢も大きな罪だと考えている」 「木下さんは、会社に何度も職場改善を働きかけているではないですか」 「ふりをしているだけだよ。初めから改善できないと分かってやっているのだから意味がない。若手に対するスタンドプレーでしかないのだよ」 「そんなことはありませんよ。木下さんのやっていることは誰もが認めています」 「みんなが好意を持ってくれているのは分かっているよ。個人的に付き合えばいい奴ばかりで、仲間としての交流は大いに楽しんでいる」 木下は次を言うべきか迷っているようであったが、口を開いた。 「でも、組織として仲間を意識すると、自分勝手な部分が先に立ち、嫌になってくる。会社は常に人減らしの姿勢を示して、暗に早期退職を促している。辞めろと言われて一生懸命になれるはずがない。それでも、相変わらず尻を叩いて事業を運営していこうとする、会社のバカさかげんはもっと嫌になってくるんだよ」 「確かに会社の姿勢は、問題が分かっていながら少しも変えようとしませんよね」 「高度成長時代なら下手な鉄砲も数うてば当たるで通るのかもしれないが、今は質を求められる時代だから、営業もより上質なものにしていかなければ通用しない。不況のどん底にあるのだから、社員の能力を最大限発揮しなければ、厳しい戦いに生き残れるはずがない。一個の知恵よりも文殊の知恵が必要になってきている。チームワークを求められており、それぞれの個性や特性をフルに発揮して、チームの総力を結集させることが重要だと思うのだ」 「今のままだと効率が悪すぎますよ」 「博司や良子ちゃんのように、個性は全く違っても素晴らしい能力を持っているのだから、その力をフルに発揮させてやりたいのだよ。課長を怒鳴りつけても、どうにもならないのが現実だけどね」 「うちの会社は特に遅れているのかもしれませんね。私の友人が勤めている会社では、チームワークを特に大事にしているみたいです。わが社も、本社はグループ販売に切り替わってきているようですけど」 「支店はなくす考えなのかもしれんな。なくさなくとも大幅に人員削減をして、よりすぐられた体制に変わっていくのだろう。お前は用がないって言われれば、気軽に会社を辞められるかもしれない」 「私なんかいくとこないですよね」 良子が会話に加わってきた。 「良子ちゃんならどこでも欲しがるよ」 「そんなことないですよ。どこでもいいから、電話番でもさせてくれるとありがたいのですけど」 「うちの子供の嫁さんにでもなってくれればありがたいのだが。出来が悪いから是非にとも言えないし」 「お嫁にもらってくれるならどんな人でもいいですよ」 「良子ちゃんを本当に幸せにできる人間でなければだめだよ」 木下が本気で良子の将来を心配しているのが感じられた。 博司は木下の人生観を聞きたいと願った。 「良子ちゃんの個性を本当に理解してくれる人でなければ。良子ちゃんは素晴らしいメロディーだよ。そのメロディーに合わせて人生をアレンジしてくれる人間が必要だね。メロディーに合わせ、リズムやハーモニーを加えてシンフォニーが出来上がっていく。創造力溢れたコンダクターが付けば、珠玉の名曲ができる」 「そんな大げさなこと言われると困ってしまいます。私は平凡な生活ができればそれでいいと思っていますから」 「今の時代は自分のメロディーを持たない人間が多いのだよ。出来合いのメロディーが自分のものと錯覚している。十人いて十人とも同じメロディーを口ずさんでいたのではちっとも面白くない。人の真似をしないで、自分らしさをストレートに出したほうが美しいのに、流行のメロディーにあわせることしか知らないのだよ。良子ちゃんの奏でるメロディーは最高傑作だ。俺なんか大ファンだよ」 「止めてくださいよ。今日の木下さんはどうかしているのですよ。私も前から木下さんのファンですよ」 「良子ちゃんにファンだなんて言われては嬉しくなってくるな。帰ったら女房に報告しなければ」 博司は自分が完全に置いてきぼりを食っていると感じたが、腹が立つより不思議と安心していた。 「誰にも話したことがないのだが、調子づいて言ってしまうけど、曲作りをしている。大仰な言い方になってしまうが、女房のイメージで作詩作曲を手掛けている。旅行のときなどに、女房のことを詩に書いて曲を作っているのだよ。詩がメインで曲としては大したことはないのだが、もう五十曲以上も作曲している」 「そうだったのですか」 と、博司は余りにも意外な話に驚かずにはいられなかった。 「とても素敵ですね。今度ぜひ聞かせてください」 良子は手をたたくようにして言った。 「うちの女房は平凡が第一で、常に平凡な生活を求めている。でもそれが魅力で、さっきの話ではないが、女房の奏でるメロディーはシンプルそのものだが、心根が優しく、アレンジがし易くて、シンフォニーを思うように作れる。コンダクター次第で、何の変哲もない石ころが、蝶や花になって変幻自在なのだ。女房の様々な魅力を感じながらの毎日は、ロマンスがあって最高だよ」 博司は言葉がなかった。全く別世界の話を聞かされているようで、想像しがたく、今までの人生観が根底から覆されていた。 「仕事がちっぽけに感じられてきますね」 と、何とか言って、木下の答えを待った。 「人生からすれば仕事なんかこれっぽちのものだよ。仕事は幾らでも替えられるだろうが、家族や人生は自分のものだから絶対に代えられない。人生を大事にしなければ意味がないではないか」 「仕事のことで精一杯の人生なんて、バカらしくなってきますね」 「仕事を蔑ろにするということではないのだよ。同じ時間を過ごすなら仕事も楽しんだほうが得だろ。何でも一生懸命やらなければ面白くない。仕事を趣味と実益を兼ねた道楽みたいに考えれば、けっこう楽しめる。ましてや二人のような魅力的な若者と、こうして付き合っていられるのだから、公私共に充実した人生だよ」 博司は気分が重くなるくらいに圧倒されていた。自分が歩んできた人生が余りにもちっぽけだと突きつけられているようだった。何でも分かっているつもりで、最高の人生を歩んできたはずだったが、自分が一体何を求めていたのか分からなくなっていた。 一時を大分回って会食はお開きとなった。 博司は一人になると、異質な世界の二人のことが気になった。 二人は職場の欠陥点を穴埋めし、苦労を背負っていたが、常に明るかった。誰かに強制されたわけではなく、自らの意思で行動しており、お客や仲間を思いやる気持ちがなせる業で、限りなく優しかった。博司の損得勘定では利益が生じるはずがなかったが、二人の間には、慌ただしさのなかにもささやかな心の触れ合いがあり、ロマンスを感じ取っているようでもあった。それは現実の世界ではなく、多くの者が失ってしまった、メルヘンの世界ではないかと思った。 自分勝手が、最も得をしているつもりで突っ走ってきたが、自分に残ったものは何だったのか少しも浮かんでこなかった。唯一、良子や木下との交流で得た、温もりのある会話が心地よく残っていた。だがそれは、自分が求めていたものと全く違っていた。 博司は、二人が別れ際に自分に向けてきた言葉を思い浮かべていた。 「博司はロボットに成りきれない。人間らしさがあって優しさが捨てきれないのだよ。だから博司のことが好きなのだ」 良子も付け足すように、 「石田さんは優しいですから」 と言ってきた。 博司は、二人の屈託のない眼差しを思い浮かべると、胸にこみ上げてくるものがあり、涙をこらえることができなかった。 土曜日の昼に由紀と待ち合わせ、行きつけのレストランに入った。 博司は、由紀と視線を合わすのに躊躇いがあったが、成り行きとして瞳を覗き込むと、全く別人の由紀が感じられた。由紀も自分を見て怪訝な顔をし、自分が感じているのと同様、今までと別人を感じているように思えた。 言葉を交わすことが中々できなかったが、不思議と沈黙に安心感が漂っていた。由紀と離れていた四日間に、自分が多くを学んだのと同様、由紀も自分以上に心を揺り動かす出来事があったと予感できた。由紀の話を無性に聞きたくなり、沈黙を通すことができなくなっていた。 博司が言葉を発しようとすると、由紀も言葉が出かかって、思わず顔を見合わせ、お互いに笑みが零れた。 「由紀の話から聞かせて欲しいな」 と、博司が制して言葉を発すると、 「博司も四日間で大分変わったようね」 と、楽しそうに応えてきた。 由紀の表情が変わり、話を続けた。 「こないだの晩、高卒だからと言って蔑視したことが、博司の気に障ったのはすぐに分かったわ。いつもだったら頷いてくれると思って、つい調子づいて言ってしまったの。博司と別れると、何だか遠く離れていってしまいそうで、とっても辛かった」 由紀の瞳から涙が零れ落ち、涙を拭きながら、 「私らしくないわね」 と言って笑った。 「本当だったら由紀の言葉に頷いていたのだよ。責めるようにした自分が悪かった」 「いいえ、私にとっては責められてよかったのだと思う。離れていってしまうと思ったら、貴方のことが無性に恋しくなったの。正直言って、今まではそんな気持ちになったことがなかったわ。自分にも女らしさがあるのかと思うと、泣きながらホットしていた」 由紀は再びハンカチを目頭に当てていた。 「電話が欲しくて、待っているのがとても辛かったわ。嫌われてしまったと思うと居たたまれなかった」 由紀の涙は止まって、真剣な眼差しで博司を見据えた。 「自分にも由紀しかいないと思っている」 由紀の手を握りながら応えると、 「でも今までと違うみたい」 と言って、手を強く握り返してきた。 「俺も人間らしくなったのだよ。詳しいことは後で話すから、由紀の話を先に聞かせてほしいな」 由紀は視線を手元に落とし、静かに語りだした。 「あの日は、博司の電話を待っている余裕がなくなってしまたの。係長から、高卒と侮った彼女、篠田さんと言うのだけど、プロジェクトにオブザーバーとして参加するように言われたの。競争心が湧いてきて、自分の能力を見せつけてやろうと思ったわ。でも篠田さんに接したら、すぐに彼女の魅力に引き込まれ、虜になっていた」 由紀は両手を頬に運び、物思いに耽る表情となった。 「プロジェクトは四人で構成されていて、他の三人の女性はみんな一癖あると、不評の面々だったの。でも、会議室に入って行くと和気あいあいで、一人一人が活発に自分の考えを出していたわ。篠田さんの作り上げたチームは、完璧なまでに機能しているのが分かった」 頬から手を外し、手をさすりながらうつむいて、弱々しい表情となった。 「篠田さんに完全に負けたと分かったの。彼女は、メンバー一人一人の能力を見事なまでに引き出していた。企画書を見せてもらったけど、自分が考えていたアイデアは、全く子供だましのように感じられた。自分がチーフだったら、きっと自分の考えで押し進めてしまい、他のスタッフを、単なるアシスタントとしか考えなかったと思うの。一人の発想なんて本当にちっぽけね。文殊の知恵がどんなにも大きいか痛感していたわ」 由紀は視線を上げて博司に向けた。 「篠田さんの雰囲気は不思議なくらいに安心させられ、何でも気軽に話してしまうの。見た目には特別なものは何もない気がするのだけれど、一度言葉を交わすと、昔からの友達って気がしてくるの。敵対心を燃やしていた自分が愚かだと思った。係長が意図していたことがよく分かり、今回は本当に勉強になったわ」 博司は由紀から視線を逸らして言った。 「係長は本当に素晴らしい人みたいだね」 「とっても素敵よ。妬ける」 と言って、由紀は悪戯っぽい目をした。 「妬ける」 と、博司は素直に答えるしかなかった。 「定年間近なのよ、その係長。今のポジションに付いて十年にもなり、うだつの上がらない万年係長みたいだけど、全然違うわ。女ばかりの係で、男は係長一人。まとめていくのがとても難しいの。でも、素晴らしい職場だわ。係長がいなければとてもまとまらなかったと思う。その分、とても苦労していると思うの。初めのころは試験的に発足された職場だったようだけど、充分機能して実績が上がり、会社としても常に注目しているの。会社は係長の役割を充分承知していて、動かしたくても動かせないの。本当だったらもっと出世していてもおかしくないのよ。時々社長まできて係長を労っているわ」 由紀は楽しそうに話し、表情が変わってさらに続けた。 「今、係長の後任問題が出ているの。みんな心配していたけど、今は篠田さんしかいないって雰囲気なのよ。悔しいけれど、篠田さんなら今まで通り、素晴らしい職場を維持していける気がしてしまうの。係長がこの頃嬉しそうにしているのは、篠田さんの成長を感じ取って、後任の憂いが無くなったという安心感からきているのよ」 博司は由紀の成長を心行くまで感じ取っていた。負けず嫌いの由紀が、素晴らしい人、素晴らしい出会いを満喫し、知らず知らずに素直な気持ちになっているのが分かった。顔つきも優しさが加わり、自分の見る目も優しさを素直に感じ取れるようになって、お互いの変化が嬉しくてならなかった。 「今度は博司の番よ」 と、由紀が催促してきた。 「俺は恋をしたのかもしれない」 と、博司が澄まして言うと、 「博司が同期と言っていた、良子さん」 と、由紀は真剣な眼差しになった。 博司は由紀の鋭い感に驚かずにいられなかった。何度か良子のことを話したことがあったが、恋愛の対象になるようなことを話したつもりはなかった。 「何で分かったの」 「博司は良子さんのことをいつもバカにした言い方をしていたけど、気になって仕方がないって感じだったわ。それに、博司の話の節々から、良子さんがとても素敵な女性と感じ取れたもの。自分と全く違うって感じね。時々良子さんみたいな女性に憧れることがあるの。篠田さんとは少々タイプは違うけど、人間的な魅力が一杯。自分にはどんな魅力があるのか考えると、全然分からなくなってくるの。博司が良子さんを好きになっても当然って気がしてくることがあったわ」 「由紀もけっこうやきもち焼きだったのだね。残念ながら、自分の目を通して恋をしたわけではないのだな。自分には良子ちゃんの素晴らしさは見抜けなかった。先輩の目を通して初めて魅力が分かったのだよ。恋をしたと言うより勉強をしたと言ったほうが正しいかもしれない。だから、心配しなくて大丈夫だよ」 由紀は納得するように頷き、 「エリート意識を持って、人より高い次元で生きてきたつもりでいても、本当はがんじがらめの人生なのね。私も色々な素晴らしい人と出会い、恋するのと同じ気分で、今までの自分を変えようと思うけど、エリート意識をなくしたら何も残らない気がしてくるの。そんな自分を理解してくれるのは、博司しかいない気がする」 と言って、硝子越しに、ビルの合間を縫って空を捜し求め、寂しそうな視線を向けていた。 「同感だよ。先輩に、人には持って生まれた役割があるって言われた。気の毒とも言われたよ。良子ちゃんも先輩も、本当に自由に生きているって感じなのだ。自分のようなちっぽけな人間にはとても付いていけない。俺を理解してくれるのは由紀しかいないと思っている」 博司の言葉に由紀は視線を戻し、次の言葉を待つ姿勢となった。 「良子ちゃんと話しをしていると自然に優しい気持ちになってくる。良子ちゃんと話をする誰もが和んで、笑顔を見せている。俺には物足らないくらいに平凡に見えるし、本人も平凡を望んでいるようだけど、今の職場にあっては特別な存在になっている。良子ちゃんの帰りが遅いと、みんなが心配して、落ちつかなくなるのだよ。顔を現すと途端に職場の空気がホッとするのが分かる」 博司の話しに、由紀がコメントしてきた。 「まるで天使みたいだわ」 「良子ちゃんは嫌がるかもしれないが、本当に天使じゃないかって、気になってくる。良子ちゃんと接しているとみんないい人になってしまう。良子ちゃんを傷つけたら罰が当たるって感じかな」 「私にも分かる気がする。多くの人が飾りたてることに躍起になって、自分のことばかり考えているけれど、それは自分らしさとは違う気がする。本当は、素直でひとに思いやりがある人の方が、自分らしさを持っていて、輝くのよ。篠田さんも本当に自然体なの。こんな時代でも自然体で生きていけるなんて、奇跡よ。私でも良子さんのこと好きになってしまいそう。博司が恋心を動かされても仕方がないわね」 博司は由紀の剃刀のように切れる思考力に恐れ入ると共に、由紀らしさが戻った気がした。 「残念だけど、自分には人を見る目を持ち合わせていなかった。良子ちゃんの素晴らしさは全て先輩に言われて分かったのだよ。人を見下すようなところがあって、相手をよく知りもしないのに価値を決めていた。でも、今回学んだことで、ひとを素直な気持ちで見られるようになった気がする。由紀のガラスのような不変な強さに魅力を感じていたけど、今は弱さにも魅力を感じられるようになったもの。お互いにタイミング良くいい勉強をしたものだね」 「生き方は変えられないでしょうけど、固定観念を捨てられるだけでも大きな成長ね。仕事だけに捕らわれずに、人生を心豊かなものにできるかもしれない。でもそれは博司がいて初めて成り立つのよ。私のことを理解してくれる人は博司しかいないもの」 由紀の瞳から又涙が零れそうになり、博司は再び由紀の手を握った。 「一昨日の昼に、先輩と良子ちゃんにお祝いをしてもらった。前年度の売り上げが一番になったのだよ」 由紀は涙を拭いて、いかにも嬉しそうに、 「素晴らしいわ」 と言ってきた。 「由紀も素直に喜んでくれたな」 博司は手を強く握り、 「以前だったら、きっと競争心の方が先に立っていたかもしれないな」 と言って、由紀の答えを待った。 「そうかもしれない。ひとの栄達を素直に喜ぶのは難しいわ」 「お祝いをしてもらったけど本当は嫌だったのだよ。先輩や良子ちゃんを踏み台にして自分は成り立っているのだと、よく分かっていた。恩返しをするどころか、いつも厚情を受けるばかりだ。踏み台にしているひとからお祝いされるのは、嬉しさよりも心苦しさが先に立って、たまらなく辛かった。でも二人は心から祝ってくれた。売り上げのことなどどうでもよくなっていた。自分のことをいつも見守っていてくれる人がいると思うと、涙が出るほど嬉しかったよ。自分がそんな気持ちになるとは夢にも思っていなかった。二人の優しさに酔っていたみたいだ」 博司の話しに由紀は目を輝かせ、 「素晴らしいわね。とっても素敵。二人の優しさはメルヘンね」 と言ってきた。 「由紀の考えることは俺と全く同じだ。現実ではないのだよ。現代は、誰もが自分のことばかりで、ひとのことを思いやるゆとりが無くなっている。そんな時代に、誰に対しても優しさを失わないなんて、絶対に不可能だよ。おとぎの国の作り話としか言いようがない」 と言って、博司は満足そうな顔をした。 「メルヘンに感じられるのは、少しは優しさを取り戻せたと言うことなのよ。二人に、博司も優しいって言われて仲間入りさせてもらったのではないの。飴玉をもらって喜んでいる子供みたいだわ」 「何でも分かるのだな」 由紀の、心を見透かしてくる鋭敏な感性に驚かされると共に、それが、必ずしも由紀にとっていいとは言えない気がした。 「何でも分かってしまうの。でもそれは相手を理解するのと全く違うわ」 由紀は寂しそうな顔となって続けた。 「何でも分かっているつもりでいると、分からないことが見えないのよ。余計な先入観でついひとを見てしまう。相手を理解しようとするより、勝手に相手の存在を規定してしまうの。ひとと接していても、仕事のことしか話せないの。人間的な交わりが乏しくて、友達もできない。素直な気持ちでひとを見られれば、相手をもっと理解できると思うし、優しい気持ちになれる気がするの。良子さんのような女性にとても憧れてしまう」 博司は、自分と由紀が非常に似た者同士だと改めて感じていた。だからこそ、唯一理解し合える相手だと思えた。 外に出て、春の日差しを感じながら、いつもと違ったルートをそぞろ歩きしていると、小さな空き地が目に入ってきた。都会の喧騒が一時も止まぬ道路脇に、道の歪みで出来た陽だまりの小さな空き地だった。 空き地には例のごとく沢山の空きカンが放置され、現代人の良識をたっぷりと表していた。そんな空き地に、どうやって迷い込んだのか、一輪のタンポポの花がけなげに咲いていた。 野原に咲いていれば気にも止めない、ごくありふれた花なのに、春の日差しが、黄色をやけに神々しく映し出し、全く初めて見るような美しさを感じさせた。通る人々が皆タンポポに目をやって、目元をほころばせ、通り過ぎていった。 二人は同時にタンポポに気付いて立ち止まった。博司が由紀に視線を向けると、 「とても綺麗」 と、ため息を付くように言って、思考を巡らしていた。 色とりどりの空きカンが空き地を埋めていたが、タンポポにかしずくようで、見すぼらしく感じられた。博司はタンポポの美しさに感銘すると同時に、自分が空きカンだったと感じていた。 どんなに精巧に作られ、凝った彩色を施されたカンであっても、自然がかもしだす美しさにはとても及ばなかった。人工美の追求が時代を動かしていることは確かだったが、本当は、人間が求めているのは天然自然な美しさのような気がしてならなかった。 博司は一輪の花に良子を重ね合わせ、由紀の視線を求めると、由紀の瞳も、 「同感」 と語っていた。 |