9、決戦のとき

時間の部屋から抜け出すと、どこまでも広がる海原があった。

 今までの閉鎖的な世界から解放され、窮屈な汽車ごっこを終わりにして、縄飛びをしまった。良介と詩織は、遠慮をしないで触れ合っていられる、今までの態勢が良かったが、口に出して、継続を主張できなかった。

「次はどんな関門が待っているのだろう。本当の戦いはこれからのような気がする」

「私もそう思います。悪魔たちがこのまま引き下がるとは思えません」

 良介の疑問に詩織が応えた。

「魔界は、人間の心が作り出したもので、本当は悪魔などいないのかもしれません。人間の悪意が、私たちの存在を亡き者にしようとしている気がします」

 恵は悲しい顔をして言った。

「恵は人間にとって無くてはならない存在ではないか。人間自らが恵を亡き者にするなんて、考えられない。誰もが恵の出現を待ち望んでいるはずだ」

「お兄ちゃんは、いつも私のことを一番と思ってくれるのね」

「良介さんだけではありません。私も恵さんが、地球を救うと信じています」

 金剛は急ぎ恵の前に跪き、恭しく礼をした。

「恵さんはお疲れになっているのですよ。恵さんは、私たちの命です。弱気なことはもう言わないで下さい。あともう一歩のところまでやってきたではないですか」

 詩織も急ぎ恵の前に跪き、恵を思う気持ちが涙となって、深々と頭を下げた。

 良介も無意識のうちの跪き、恵の両手を取って、思いやりを精一杯込めて話しかけた。

「お兄ちゃんは、恵を背負っていつまでも走っていたのだよ。恵が可愛くて仕方がない。でも、時間が許してくれないのだよ。この戦いに何としても勝ち抜いて、恵を、両親や真二の所に連れ帰らなければならない。命をすり減らして戦うのは辛いだろうけど、あともう少しがんばろうよ」

 恵は屈み、手で顔を覆って泣き出していた。恵の涙には辛さもあったが、自分を心より慕ってくれる戦士を思い、嬉しさが涙となって、こんこんと溢れていた。

 詩織は恵が痛ましくなって、たまらずに抱きしめていた。母の心がどこまでも優しく包み込んだ。

 恵は良介に背おられて、本来の戦闘態勢を作り、大海原を見晴らした。すると、海水と思っていたのが、粘り気の強い、重油のような海だった。

「これはいったいどういうことなのだ」

 金剛が海辺で状態を確認して、異常な世界であることを告げてきた。

「ここでは空を飛ぶしかないようです。大空に舞い上がりましょう」

 恵は、詩織の胸に包まれて、すっかり元気を取り戻し、力強い声を上げた。

「しっかりつかまっているのだよ」

 良介は幸福の原点を思い浮かべ、全身に力をみなぎらせて走り出した。

 詩織、金剛が続き、風神雷神も離れずに飛び立った。四人と二羽が一つになって疾走すると、一気に大空に舞い上がり、風神雷神が両翼を成して、思いやりのマシンに変身した。

 大空に上がって見渡すと、遥か彼方に五人のガリバーを確認した。

「あれは何だ。とてつもなくでかいやつが五人もいるぞ」

 良介が叫ぶように言うと、金剛がすぐに状況を語りだした。

「五人のガリバーが戦争をしているようです」

「こんなところはすぐに行ってしまおう」

 良介の提案に、恵は厳しい声で言ってきた。

「どこへ行くと言うのですか。見過ごせない状況を見て、逃げ出すなど許されるはずがありません。今こそ、本当の戦いではないですか。さあ、行きましょう」

 恵の号令に、戦士たちは自然と返事が出て、一気に戦場へ飛び出していった。

 遥か上空から戦況を確認すると、五人のガリバーがそれぞれの陣地を持ち、互いに攻撃し合って、陣地を広げようとしているのが分かった。

ガリバーは大きな格納庫を持っていて、各種兵器を数多く保有していた。戦況に応じて兵器を持ち出し、思い通りに動かしていた。しかし、相手の軍事力の状況が分からず、四方からの攻撃に備える必要もあり、一方だけに大掛かりな攻撃を仕掛けるわけにもいかなかった。自分には直接害の及ばない、もっぱら局地戦で様子を窺いながら、領地を広げようとしていた。陸では戦車同士、海では軍艦同士、空では戦闘機同士で牽制し合い、小競り合いを繰り返していた。

ミサイルも持っていて、直接相手に攻撃を仕掛けるのも可能で、どのガリバーも何度となくミサイル攻撃の誘惑に駆られていたが、相手の反撃や、他のガリバーの出方を考えると、互いに疑心暗鬼に陥って、海を基点に緊張と均衡が保たれていた。

 戦士たちが上空で停止して、次の取るべき行動を思案していると、最も近くにいるガリバーが、思いやりのマシンを領空侵犯と判断し、戦闘機を緊急発進してきた。金剛が気付くのが早く、戦闘機から銃弾が打ち出されたときには、既に飛び出していた。

 戦闘機は精巧なミニチュアで、本物の武器を携え、ガリバーの意思に従って動いていた。戦闘機の追撃が続いたが、光速を誇るマシンは子供扱いをしてやりこめた。

作戦を練っていると、戦闘機からミサイルが打ち出され、勢いよく迫ってきた。

「あれを利用しましょう」

と、恵が指令を出し、ミサイルが近づくのを待って、すぐ側を追尾させる形となった。

思いやりのマシンはミサイルを引き付けながら折り返し、戦闘機の銃弾をかいくぐりながら近づいていった。最接近したときに時空を越えて彼方に移動し、ミサイルが戦闘機を打ち落とす光景を見ていた。

戦闘機の残骸が重油の海に落ちると、小さな波紋を残して沈んでいった。

戦闘機を発したガリバーは怒りをあらわにし、五機の戦闘機を格納庫から取り出して、新たな攻撃を仕掛けてきた。

思いやりのマシン出現で、保たれていた均衡が崩れはじめた。

「私たちは一切の攻撃ができないのですから、相手の武器を利用するしかありません。できるだけ戦争の渦中に入って、相手の攻撃を受ける必要があります。覚悟を決めて、思い存分戦ってください」

恵の号令で、戦士たちは勇んでマシンを飛ばした。

戦闘機五機の緊急発進を察知した他のガリバーが、非常事態と受け止め、それぞれが格納庫から戦闘機を出して、緊急発進させた。軍艦や戦車も、均衡を破った一人目のガリバーへと向けられ、二人目のガリバーがいち早く集中攻撃を仕掛けた。

一人目のガリバーは、思いやりのマシンに気を取られ、他の戦況が見えないで、持ち出した兵器全てを、思いやりのマシンに差し向けてきた。そして、今までほとんど使ったことがなかった、中型ミサイルをも発射していた。

思いやりのマシンは銃弾をかいくぐりながら、戦闘機から発射されたミサイルを利用して、一人目のガリバーの軍艦や戦車を破壊させた。基地から発射された中型ミサイルは、二人目のガリバー基地に誘導し、近郊で爆破させた。

二人目のガリバーはミサイル攻撃に対抗して中型ミサイルを持ち出し、一人目のガリバーに報復した。すると、隣接する三人目のガリバーが、二人目のガリバーが手薄となった戦線に一斉攻撃を開始した。それを察知した隣接の四人目のガリバーが三人目を攻撃し、さらには五人目が四人目を攻撃しはじめた。

思いやりのマシンは、戦争を煽り、できるだけ多くの兵器を持ち出させるように誘導した。地上戦、空中戦、海戦と、戦闘の激しさを増し、一台、又一台と戦車が破壊され、一隻、又一隻と軍艦が沈没し、一機、又一機と戦闘機が墜落していった。

「ここまでくれば、互いに破壊しあうでしょう。兵器が減るのを待つ間、次にやるべきことを決めておきましょう。この海の果てがどうなっているのか確認し、汚染された海の浄化策を考えましょう。それでは出発してください」

恵の号令で思いやりのマシンは一気に海の果てまで飛んでいき、北の果てに、底なしの地溝帯を確認した。重油がゆっくりと流れ落ちていったが、ブラックホールのように奥深く流れ落ちていき、湛えられることはなかった。

続いて、南の果てへ飛んでいき、海を生き返らせる水を捜しはじめた。すると、大海原を仕切る氷の壁にぶつかった。氷の壁はどこまでも広がり、重油の海の果てだった。

「海を蘇らせることが可能かもしれません。ガリバーたちに、手酌で、少しでも早く重油を取り除かせましょう。そして、氷の壁を溶かすのです。果たして本当に海が蘇るか分かりませんが、奇跡を願って、できるだけのことをしましょう」

恵は一利の希望を抱いて、力強く言った。

再び元の戦場に折り返すと、多くの兵器が重油の海に沈み、どのガリバーも軍備の不足に不安を抱いていた。特に、一人目のガリバーの打撃が大きく、他のガリバーたちの矛先は、自然と一人目のガリバーへ向けられて、危機的状況に陥っていた。残す兵器はわずかとなり、一人目のガリバーは切り札となる、大型ミサイルの持ち出しをも考えはじめていた。しかし、大型ミサイルの威力がどれほどなのか想像できなかった。重油の海を全て破壊するだけの力を持っているとも考えられ、勝利をもたらすものか、全く不明だった。今まで使ってきた兵器は、玩具代わりに使ってきたが、さすがに、大型ミサイルだけは、安易に発射できなかった。

戦況は、互いに相手の出方を待って、小康状態が続いていたが、二人目のガリバーは、一人目のガリバーを追い落とすチャンスと見て、一斉攻撃を始めた。一人目のガリバーは、降伏か大型ミサイルで抗戦するかの判断が迫られ、ぎりぎりの状況に、既に冷静さは失われていた。いつしか狂気が支配して、話し合うことも負けることも知らないガリバーが選んだ道は、二人目のガリバーに向けて、大型ミサイルを発射することだった。

一人目のガリバーが大型ミサイルを持ち出したのを察知した、他のガリバーたちは、本気ではないと考えたが、対抗せざるを得なくなり、それはごくごく事務的な感覚で、それぞれが、大型ミサイルを準備しはじめた。ところが、何の前触れも無く、かつて聞いたことがない轟音が、重油の海を揺るがした。他のガリバーたちは絶対にあり得ないことが起こって、大慌てとなり、大型ミサイルの及ぼす影響を考える間もなく、準備が整い次第、発射しようとしていた。

「私達の出番です。打ち出された大型ミサイルを奪うのです。ミサイルが爆発する前に金剛さんが空中で受け止めてください。おそらくは、他のガリバーも大型ミサイルに手を付けるでしょうから、全てを奪うつもりでいてください。忙しくなりますよ」

恵の命令に従って、戦闘態勢を整えた。

一人目のガリバーが発射した大型ミサイルを確認すると、即座に飛んでいった。ミサイルと並んで飛行し、金剛が捕獲して動きを緩め、ミサイルを上空で停止させると、次の態勢に入った。

案の定、大型ミサイルが次から次へと打ち上げられ、破滅の道が選ばれた。光速の思いやりのマシンは、全てのミサイルを捕獲するのに成功し、捕獲したミサイルは、発射したガリバーへ向けて上空に停止させておいた。

ガリバーたちはミサイルを発射するまでは狂気を帯びて見境無く行動したが、いったん発射してしまうと、後の結果が怖くなり、頭を抱えて震えていた。しかし、何も起こらないので、不思議に思ったガリバーたちは、恐る恐る立ち上がった。

ガリバーたちは上空を見て、大型ミサイルが自分に向けられて待機しているのを知り、再び頭を抱えて蹲ってしまった。

「貴方方の犯した罪は絶対に許されないことです。自身が打ち上げたミサイルを向けてあります。早く逃げないと、いつ発射するか分かりません。生き延びるチャンスがあるとしたら、重油が流れ落ちる北の果てに身を隠すのです。ただし、五人が協力して重油を汲み出し、海を浄化が義務付けられています。五人とも仲良しになり、協力して早く浄化をしないと、いつまでも重油汲みをしているようですよ。さあ、行きなさい」

恵の声は重油の海の隅々まで轟いた。五人のガリバーは、慌てて海を走り出し、北の果てへ果てへと逃げていった。

「ガリバーたちが海の果てに着く前に、ミサイルを地溝帯に廃棄してしまいましょう」

恵の指令に従い、海を大慌てで走るガリバーの上空を、目にも止まらぬ速さで飛行し、全ての大型ミサイルを、北の果ての大地溝帯に廃棄した。

「五人のガリバーは、真面目に重油汲みをするかな」

「愚痴を言いながら喜んでやりますとも。いつも相手の攻撃を心配して安らげない生活から、海の浄化と言う大きな目標ができたのですから、五人が協力して、一生懸命やるでしょう」

良介の疑問に、恵が自信を持って答えた。

ガリバーたちが支配していた大地に平和が訪れると、地中で隠れ潜んでいた人々が続々と姿を現してきた。状況を監視していたとみえ、思いやりを守る戦士が平和の使者であることを既に人々は知っていた。戦士に向かって歓声を上げ、平和の喜びがいつまでも轟いていた。

「たった五人のガリバーに、これほどの多くの人々が苦しめられていたのか。平和を取り戻せて本当に良かった」

良介が感激をしながら語っていると、恵の魂のメッセージが、どこまでも澄んで、どこまでも優しく、重油の海の隅々まで奏でられていた。

「平和が訪れて、本当に良かったですね。これからはこの平和を大切にして、みな幸福になってください。それから、二つのお願いがあります。人間の世界ですから、争いはけっして無くならないでしょう。でも、争いは、命を守るためにしてください。家族や仲間の命を守るために、命がけで戦ってください。くれぐれも命を奪う争いはしないで下さい。もう一つのお願いは、ノーを忘れないでもらいたいのです。イエスと言っているのが一番無難で楽でしょう。でも、ノーと言わなければ、大切なものを守れないときが必ずあるはずです。くれぐれもノーを忘れないでください。いつまでも、皆様が幸福でいられることをお祈り申し上げます」

人々は、心に響き渡る恵のメッセージを、厳粛に受け止め、跪いて頭をたれていた。

人々が見送る中、思いやりのマシンは、氷の壁のある海の果てまで一気に飛んでいった。

「又風神さんと雷神さんにお願いしなければなりません。熱風を作り出して氷を溶かしてみてください。みんなで協力して、できるだけのことをしてみましょう」

恵の指示に、戦士たちは何の迷いも無く準備に取り掛かっていた。

風神雷神、良介、金剛が一つになって、大気を操り、恵と詩織が海に祈り、再び奇跡を起こしていた。

氷は勢いよく溶けはじめ、溶けた氷が新たな氷を溶かした。大量の水が作られて、重油が南から北へゆっくりと動き出した。

重油の海の出口は氷の壁に姿を現し、戦士たちはずぶ濡れになって入っていった。

氷のトンネルを抜けると、そこには眩いばかりの艶やかな世界が待っていた。

「ここはエロスの世界です。どこまでも愛欲を追い求める人々が作り上げた世界です。魔界を脱するには、どうしても避けて通れない関門なのです」

詩織は俯き加減で、重苦しそうに語った。

良介には詩織の気持ちがすぐに理解できて、手を優しく握った。

「私はエロスを作り上げた張本人なのです。心の伴わない愛欲をそそって、多くの人々の魂を奪い、エロスの世界に引き込んできたのです。私は罪深き悪魔なのです」

「詩織さんは悪魔などではない。私が愛する女神であり、思いやりを守る戦士だ」

詩織は良介の胸に顔を埋めて泣き出していた。

「私の大切なお姉さん。何を悩んでいるのですか。悪魔など初めからいなかったのですよ。人間自らが作り上げたものです。もう泣かないで」

恵が優しく呼びかけると、詩織は落ち着きを取り戻し、恵の手を取っていた。

「扉の向こうに、恵さんを連れていくのはとても耐えられません。何とか良い方法で、切り抜けることを考えなければと思います」

「詩織さんのお気持ちはとてもありがたいです。でも避けて通れないのは、私にも分かっています。目をつぶることは許されないと思っています。ただ、真実の愛を見たいのです。お兄ちゃんと詩織さんの、真の愛を見せて欲しいのです」

恵の言葉の意味を、良介には理解できなかったが、詩織は頷いて、頭を深く下げた。

「私が本当の人間になるための、最後の儀式だと受け止めています」

詩織は、恵に向かって粛然と答え、続いて良介の前に出た。

「貴方の真の愛を、私の肉体に注いで欲しいのです」

良介は、詩織の言葉にも、まだ意味が分からずにいた。

詩織は良介の心を察し、良介の手を取って胸に運んだ。良介は電撃を受けるようにすぐに胸から手を放したが、詩織の求めが薄っすらと分かりはじめ、詩織のされるままに、胸の膨らみを感じていた。

「私にはできないです。結婚するまでは詩織さんの肉体に触れないつもりです。詩織さんの体を守る気持ちが先にたっています。私にはまだ早すぎます」

「私は今すぐに結婚したいのです。私の悪魔が作り上げたエロスの世界を消し去りたいのです。それには貴方の真の愛が必要です。お願いですから抱いてください」

良介は、詩織の切々とした囁きに、抑えがたい思いが溢れ出てきて、詩織を思わず抱きしめていた。

「ここにいる二人と二羽が、結婚の立会人となります。私は途中で目を塞ぐかもしれませんが、二人の真の愛を見届けさせていただきます」

良介は恵の宣誓に照れを隠せなかったが、結婚する喜びを表情に見せていた。

エロスの扉を開き、良介、詩織が先頭に並び、恵、金剛が、風神雷神を肩に乗せ、付き添い人を装って、入っていった。

エロスの館には、薄い白衣を一枚だけまとった老若男女が溢れるようにうごめいていた。性欲をそそる媚薬の香りが漂い、きらびやかな明かりが姿を照らし、どこまでも欲情を駆り立てていた。誰もが恥ずかしげもなく卑猥な言葉を発し、みだらな姿となって官能的な振る舞いをしていた。そして、触れ合った男女が引き連れ合って愛欲の部屋に姿を消していった。中には少年少女も含まれ、老人が少年少女を愛欲の部屋に連れ込む姿もあった。男と女のみならず、男と男、女と女、様々なカップルが次から次へでき上がり、心の伴わない性欲を追い求めていた。

恵にはどうしてもエロスの部屋で展開される光景を直視できず、震えすら出ていた。金剛が優しく手を握って、先導した。

良介と詩織は、既に心は結ばれていて、周りの光景が少しも気にならなかった。

エロスの人々は、場違いな侵入者に、卑猥な言葉や誘いの言葉を投げかけ、卑しい笑い声を上げていた。

二人は一際明るい場所に進み出ると、向き合って、ゆっくりと視線を合わせた。しばらく見つめ合って、詩織が頷くと、身に着けたものを互いに一枚一枚外していった。

詩織は、母からプレゼントされた真珠の首飾りに手を当て、静かに話し出した。

「これはお母様から頂いたものです。首飾りに込められたお母様の気持ちは、女の性から貴方を取り外し、貴方を私にくださったものだと思っています。女の性は、息子の幸福をどんなに願っても、息子を取られるのが一番耐えられないようです。理屈では分かっても、感情が許さないのです。嫁姑の争いが営々と続けられてきており、人類にとって、どうしても乗り越えられないハードルなのかもしれません。お母様の心である首飾りは、このまま着けさせておいてください」

エロスの部屋の中央にベッドが置いてあった。それは、エロスの人々が、究極のエロスを求めて交わるベッドだった。

良介と詩織がエロスのベッドに座り、手を取って囁き合うと、エロスの人々のやじやひやかしが飛び交ったが、二人の心には何も聞こえてこなかった。

二人は見つめ合うと、自然に唇を求め、離れては求めした。やがて、詩織が誘うようにしてベッドに横たわり、良介を待った。

良介は、初めて目にする女体に鼓動が高まり、意思が置き去りになって欲情が高まっていった。詩織の肉体が眩しいほどに美しく感じられ、思わず抱きしめていた。

肌が触れると、体中が痺れるような快感が走り、詩織の温もりをいとおしく味わっていた。こわごわと乳房に触れ、宝ものように感触を残した。詩織は目を閉じて、良介に全てを託し、どこまでも高まってくる幸福を味わっていた。

良介は再び詩織の乳房に触れようとしたが、心がどうしても許さなかった。気持ちを肉体から切り離し、詩織に対する思いの丈を語らずにはいられなかった。

「私は、貴女にどうしても思いを語っておかなければ、これ以上進められません。私の目は、貴女が見えないのです。貴女を見ているのは心の目です。私には、貴女が何よりも美しく見えます。宝物と思っています。触れるのも許されないと、心で叫んでいます。夢なのです。心がどこまでも貴女を特別なものにしています。貴女に、結婚の誓いを語らずに、夫婦として交わるのは、心の目が許してくれません」

良介は、詩織がいとおしく、頬を触れずにいられなかった。詩織も良介の頬に触れて、心の叫びを聞き取っていた。

「私には、貴女に与えられる物が何もありません。何も買って上げられません。私にできるのは、時間を作ることだけです。貴女と時間を共有し、時間に流されるのではなく、時間をどこまでも作っていきます。人生は心のドラマだと思っています。私の心の中で、貴女は最愛の人を演じています。夫婦になっても、誰よりも美しい永遠の恋人です。たとえ五十歳になり、百歳になっても同じです。もし貴女が醜く感じられたとしたら、それは、私の心が作り上げた醜さなのです。貴女は私の心の中で永遠にヒロインとして生きていきます」

詩織は良介の心の叫びを涙無くして聞いていられなかった。喜びが体を燃えあがらせ、良介が欲しくてたまらなかった。

「私は、貴方の心の鏡になります。永遠に貴方の心を映し出していきます」

詩織は泣きながら答え、良介を引き入れていた。

二人は唇を合わせ、心がどこまでも燃え上がり、どこまでも深く結ばれ、体が無意識のうちに交わっていた。

二人の究極のエロスに、エロスの部屋の存在が薄れてきて、部屋と人々の姿が歪みはじめた。二人の交わりが激しさを増すにつれ、煙のように実体が無くなり、最後には、二人の交わるベッドを残し、エロスの部屋は消滅していた。

恵は、目を閉じようと思いながらも、二人の姿から幸福感が伝わってきて、つぶさに見ていた。少女と女が体の中で揺れ動き、女の喜びを、体が垣間見ていた。

二人は心と体が一つになって絶頂を感じていた。それは、何一つ醜さを感じさせない、どこまでも荘厳な愛の儀式だった。

二人が抱き合ったまま、いつまでも動かずにいたが、詩織が急に手を下腹部に当てた。同時に、魔界の遥か彼方から、音とも付かぬ轟きがこだましてきた。

恵はすぐに、それが杉の大木の、歓喜の叫びと感じ取った。

詩織は下腹部に手を当てたまま、どこまでも満ちた思いを良介に囁いた。

「貴方の魂が、お腹で産声を上げました。杉の大木も、貴方の魂を持つ、新しい命が誕生しました。今聞こえる轟きは、歓喜の叫びです」

二人が、汚れてぼろぼろになったトレーニングウエアの戦闘服をまとい、出発の準備を整えた。エロスの館があった、すぐ後に出口が見えていた。

四人と二羽は、新たな関門に向かいながら、幸福感に包まれていたが、倦怠感が拭えなかった。肉体的な疲労ではなく、経験の乏しい激情が成せる業で、あくまでも、精神の疲れであった。特に恵は、少女から女へと体が移り変わっていくのが分かり、良介の背中で、息苦しさをも感じていた。

「これが最後の戦いになります」

新たな関門に出ると、詩織は魔界門を指差して、緊張気味に言ってきた。

「ここにはいったい何が待っているというのだ」

良介には、ただ単に、魔界門まで続く長い荒地にしか見えなかった。

「悪魔たちは高慢で、負けることを知りませんが、さすがに今回は、魔界がことごとく浄化されてきましたから、総力を上げて向かってくると思います。そして、魔界門に立ち塞がるのは魔王です。どれだけの力を持っているのか見当が付きません」

「マシンになって、一気に魔界門まで飛んでいってしまうわけにはいかないのかな」

「どんなに早く飛んでも、魔界門が開かないことには、魔界から出られません。悪魔たちを倒すしかないと思います」

良介の質問に詩織が答えると、恵が本来の指揮官に戻り、厳しい口調で言ってきた。

「ここに来て逃げるなど考えられません。どんな相手でも、望んで戦いましょう」

良介は姿勢を正し、急いで返事をした。

思案するもなく、一陣の風が吹き抜けると、入道雲のような魔王を中心に、五十にも及ぶ大小の悪魔が腕を組んで姿を現し、総力戦の様相を見せていた。

「これは手強そうですね。どんな戦いになるのか見当が付かない」

良介の疑問に、恵は明確な指示を出してきた。

「私たちは攻撃をしてはいけません。防戦しかできないのです。私たちが憎しみを持って攻撃すれば相手の思う壺です。憎しみは悪魔の力を大きくするだけです」

「でも、これだけの相手の攻撃に耐えられるのかな」

「私にも分かりません。ただ、魔王を私とお兄ちゃんで引き付けなければならないでしょう。詩織さんと金剛さん、風神さんと雷神さんは、できるだけ一つになって、相手の攻撃を跳ね返してください。後は、状況を見て考えるしかありません」

恵の指示に従って、態勢を整え、前に進み出た。悪魔たちは腕組みを外し、薄ら笑いをしながら攻撃の準備を始めた。

「お兄ちゃん。魔王の前まで飛んでいってください」

恵が良介の背中から指示を出した。

恵は魔王の前に出ると、

「もう悪あがきをやめて、姿を消しなさい。貴方方は人間の尊厳をわきまえない愚か者です。人間の思いやりを見くびっているのです。貴方方がどんな攻撃をしようとも、私たちの思いやりが全てを吹き飛ばしてしまうでしょう。さあ、姿を消しなさい」

と、魔界じゅうにこだます、澄んだ声を張り上げていた。

悪魔たちは、恵が何を言い出すか、最初は見守っていたが、そのうちに、恵の豪語に腹を抱えて笑い出した。そして、魔王が睨みを聞かした顔で、口を開いた。

「そこの生意気な小娘よ。よくもでかい口が利けるものだ。あきれてものが言えん。ちっぽけな人間に何ができると言うのだ。人間社会は我々が支配している。悪の行いが絶えたことがあるか。とんでもない。全て我々の思い通りだ。貴様らに思い知らせてやる」

魔王は言い終わると、口を大きく開けて、人魂ならぬ、紫に輝くでっかい悪魂を吐き出し、二人目掛けて勢いよく投げ付けてきた。

良介が一瞬大きく移動すると、悪魂は二人をかすめて遥か後ろの山にぶつかり、轟音を響かせて爆発した。威力を、大きな穴として残し、悪魂は消えていた。

魔王の悪魂が合図となって、他の悪魔たちも口から悪魂を吐き出し、思いやりを守る戦士たちに向けて投げ付けてきた。

「お兄ちゃん。今度は魔王の投げる人魂みたいなものを、身体で受けてみてください。人魂の正体を確認しておきましょう」

「でも、あの威力をまともに受けたら、木っ端微塵になってしまうよ」

「もしそうだとしたら、とても勝ち目がありません。私たちの思いやりパワーで、どれだけ耐えられるものか、試してみるしかないのです。勇気を出してぶつかっていきましょう」

良介は、恵の計り知れない勇気に敬服し、人々の思いやりを心に精一杯溜め込んで、魔王を挑発するように、目の前に踊り出た。

魔王は怒りをあらわにし、前よりもさらにでっかい悪魂を吐き出して、投げ付けてきた。

二人は悪魂の勢いに押されて後ずさりしたが、二人の持つ思いやりパワーを全開にして受け止めた。悪魂は恵の天使の心に効力がなく、二人の身体を避けるように形を崩し、勢いをそのまま維持して、再び山にぶつかった。

魔王と二人の対戦を、他の誰もが固唾を飲んで見守っていた。周りで見ていると、二人が悪魂に飲み込まれたように見え、勝負があったかのように思われた。しかし、悪魂が通り過ぎた余韻が薄れていくと、二人の疲れ切った姿が現れた。二人は疲れきっていたが、闘志は少しも萎えず、魔王の鼻先まで飛んでいって引き返した。

「ものすごいパワーだった。よく持ちこたえたものだよ」

「人魂の正体が分かりました。あれは悪魔の魂そのものです。私たちの心に悪魔を植え込もうとしているのです。思いやりが失われると取り付かれ、悪魔にされてしまうでしょう。何度も身体で受け止めているわけにはいかないですね。対策を考えましょう」

わずかな静寂が起こっていたが、再び悪魔たちの攻撃が始まり、魔王を除いた悪魔は、詩織たちへ向けて攻撃してきた。

詩織が風神を、金剛が雷神を肩に乗せ、二組はすぐ隣り合って防戦していた。風神雷神のパワーは悪魂を四方に跳ね返し、時には悪魔へ向かって飛んでいって、自らの悪魂に跳ね飛ばされる悪魔もいた。

風神がやり損ねた悪魂が、詩織へ襲い掛かると、詩織は恵の衣類と思いやりで辛うじてやり過ごしていた。しかし、悪魔の攻撃も巧妙となり、詩織を標的に、四方から同時に悪魂を投じてきて、打撃が大きくなっていった。金剛も同様だったが、背中の、小悪魔を入れた恵のリュックの力と、強靭な肉体が、思いやりにプラスされて、詩織に比べると打撃は少なかった。

恵は、魔王の悪魂が、詩織たちへ向けられるのを恐れた。良介に指示して、常に魔王と接近し、自分たちへ気を向けさせるようにした。魔王はそれを見透かすように、姿勢を変えて攻撃目標を詩織たちへ向けていた。

魔王が悪魂を吐き出すと、二人を全く無視して投げ付けた。二人は悪魂の前に出て、再び身体で受け止めたが、悪魂はすり抜けて、詩織たちへ向かって飛んでいった。

魔王の放った悪魂の勢いで、二人と二羽は四方に吹き飛ばされ、バラバラになってしまった。すると、他の悪魔たちは、詩織に集中攻撃を仕掛けてきた。

詩織は何度ももんどりをうって、大地に打ち付けられていた。恵のトレーニングウエアが悪魔の心を跳ね除けていたが、詩織の肉体は深く傷ついていった。

金剛や風神雷神が、恵をかばいながら態勢を整えようしたが、悪魔の巧妙な攻撃で、取り戻せなかった。金剛の気転で、リュックを詩織にかぶせ、打撃をいくらか和らげるのがやっとだった。

それを見た良介は、悪魔たちへの憎しみが湧いてきて、恵の制止を振り切り、悪魔たちに拳を向けて突進していった。

「お兄ちゃん、やめて」

恵は叫ぶように言って、良介の拳に手を触れていた。

良介は寸前のところで、我に返り、悪魔から離れていた。

「憎しみは悪魔を打ち付けるどころか、力を与えてしまうだけです。もう絶対に、憎しみを持って立ち向かってはいけません。分かりましたか」

「すまなかった。でも、このままだと、詩織さんは死んでしまう」

「私も迂闊でした。縄飛びと手鏡を利用すればよかったのです」

恵の指示で、詩織たちへ飛んでいき、態勢を立て直しながら、縄飛びと手鏡を金剛に渡した。金剛はすぐにやることを理解して、二人と二羽の究極の防御態勢をこしらえた。

金剛が詩織の頭に手鏡を乗せると、悪魔から投じられた悪魂は、恵の魂が込められた手鏡にぶつかった瞬間、虹色の輝きを発し、ことごとく跳ね返され、悪魔たちに襲い掛かっていった。跳ね返された虹色の悪魂が悪魔にぶつかると、顔がしまりなく歪み、へなへなと崩れ落ちた。鏡を逸れた悪魂が、すぐ側で勢いよく破裂したが、縄飛びが勢いを消し、究極の防御態勢には、打撃が少しも無かった。

魔王は状況を見て怒りをあらわにし、魔力を過信して、再びでかい悪魂を吐き出し、詩織たちへ向けて投げ付けた。

悪魂は鏡で虹色の飛沫となって、立ち並ぶ悪魔たちに襲い掛かり、いくつもの姿がへなへなと崩れ落ちていた。

悪魔たちは、手鏡の威力に恐れを成し、攻撃の矛先を恵と良介へ向けてきた。

「悪魔たちに割って入り、同士討ちにさせましょう」

恵の発案に従って、良介は得意な戦い方に転じ、うきうきしながら走り出した。

「さあ、思い存分走りましょう」

恵の声は、戦いに挑むと言うよりも、昔に戻って野原を走る気分を表していた。

二人の身体が宙に舞うと、悪魔たちの間に飛んでいき、攻撃を誘って悪魂を投げさせた。悪魂は二人にかすりもせず飛んでいき、中には他の悪魔にぶつかるのもあった。ぶつけられた悪魔は、怒ってぶつけ返し、さながら雪合戦の様相を呈してきた。

二人はすっかり昔に戻り、野原で風を感じて走っていた。

「走ってお兄ちゃん、もっともっと速く走って」

「しっかりつかまっているのだよ。思いっきりとばすからね」

「でもお花は踏んではだめよ。虫さんにぶつからないでね」

「今度は森へ走っていくからね」

「あ、メジロさんが一緒に飛んでくる。あっちにはモズさんがいる」

「今度は川へ行くぞ。大きな魚が泳いでいるかな」

「私は小さいお魚がいいな。カニさんとも会えるかな」

「今度は空を飛ぶからね。しっかりつかまって」

「お星様を見にいくの。うれしいな。走ってお兄ちゃん、もっともっと速く走って」

二人は子供に帰り、楽しくて、嬉しくて、幸福な語らいを奏でていた。

魔界には不釣合いな、思いやりが醸し出すはしゃぎ声は、憎しみを糧に存在する悪魔たちを震撼させ、大きかった身体がしぼみはじめた。魔王は周りに起こる異変に慌てだし、腹の憎しみをどこまでも膨らませ、とてつもなくでかい悪魂を吐き出そうとしていた。

「今がチャンスかもしれないわ。魔王が悪魂を吐き出したら、口が閉じる前に、お腹に飛び込んでしまいましょう。お腹の中を思いやりで一杯にしてあげましょうよ」

良介は、相変わらずの恵の奇想天外な発想に、慣れたつもりでも、さすがに戸惑ったが、今までのように頷くしかなった。

魔王は紫に輝く悪魂を口から何とか取り外したが、張り裂けそうになった大きな口は、容易には閉じなかった。瞬間、二人は腹に飛び込み、

「走ってお兄ちゃん、もっともっと速く走って」

と、恵の楽しそうな声を響かせていた。

吐き出されたとてつもなくでかい悪魂は、魔王の手から落ちて、赤茶けた大地にサファイアとなって砕け散った。

二人の思いやり溢れた、楽しそうな語らいに、魔王の姿が揺らぎはじめ、やがて、白い煙となって消えていた。

二人のいかにも楽しそうに走る姿が浮き出てきて、彼方の魔界門が開いた。

みなぼろぼろになった姿で魔界門を潜ると、安堵感から疲れが滲み出た。腰を降ろすと、ただじっとしているだけだった。

しばらくして、恵はおもむろに立ち上がると、魔界門に佇み、魔界を展望していた。他も、思うところは同じで、恵に並んで、体験してきた出来事を回想していた。

「これで、人間の悪行は、悪魔の所為にできなくなりましたね」

恵の言葉に、みな深い感慨を持ったが、悪行が絶えないと考え、辛さもあった。

「私を助けだすために、皆さんには大変な思いをさせてしまいました。ごめんなさい。とても良くしていただき、本当にありがとうございました」

恵はみんなに向かって、深々と頭を下げていた。

恵の言動に、みんな思わず走りよって跪いていた。天使とも女神とも取れる、いたいけな少女の心を思うと、涙を流すだけで何も語れなかった。恵みも屈んで泣いていた。

「さあ、お兄ちゃん。そろそろお別れですね。私と詩織さん、金剛さんは、ここで自分の体に戻りますから、お兄ちゃんは、風神さんと雷神さんで、いつもの生活に戻ってください。詩織さんと離れるのは辛いでしょうけど、少しの辛抱ですから」

恵は元気が戻って、いつものように、軽快に指示をした。

「そうだ、小悪魔さんを忘れていた」

恵の発声に、みんな顔を見合わせ、笑い出した。

恵のリュックから小悪魔を取り出すと、悪魔から幼い男の子にすっかり戻っていて、詩織がいかにも大切そうに抱き上げた。

「あ、それから、人間社会に戻って、知らん振りはなしにしましょう。では」

恵は、良介に暗示めいた言葉を残し、三人を連れて消えていた。