8、戦いの火蓋

閉ざされた世界から抜け出すと、緑豊かな森が待っていた。

それはあたかも楽園の道しるべの様な風景だったが、二本の大木が作る、大きく口を開けた門の先に見えるのは、入り組んだ迷路を思わせた。

「いよいよこれからが戦いの本番です」

詩織が緊張した顔で告げてきた。

「急いで走り抜けると言う分けには、いきそうもないな」

良介が応えると、みな頷いた。

緑の門に入ると、緑のトンネルが続き、山間の道路を思わせた。冷たい風が絶えず吹き抜け、山深く入り込んでいく気分にさせた。

初めはまっすぐなトンネルだったが、左へと大きく曲がり、目に入ってきたのは、柳のようにしなやかな枝が長く伸び、風に吹かれてゆっくりとたなびく光景だった。通り抜ける高さは確保されていて、ごくありふれた通過点にしか見えなかったが、誰にでも感じられる殺気が漂っていた。

良介が所定の隊列を組んで進もうとすると、金剛が先導を強く申し出た。

雷神とリュックを良介が預かり、金剛が間隔を取って、ゆっくりと先導を始めた。何歩か進むと風が強まり、枝が鞭のようにしなって、金剛目掛けて打ち付けてきた。瞬間、金剛は前に転がり、身をかわしたが、次から次へと枝が襲ってきた。

金剛は魔界最速を誇っていただけあって、目にも止まらぬ速さで、四方に身体を回転させて巧みにかわしていたが、幾本かの枝先が金剛の頬をかすった。

攻撃は一段と強まり、金剛の身体のあちこちから血が滲み出て、窮地に陥っていた。良介が救援に走り込もうとすると、風神が、首に着けている恵の鈴を鳴らして前に飛び出し、羽を大きく羽ばたかせた。風神が作り出した風は、枝を吹き散らして自由を奪った。さらに風が強まると、枝は上へ上へと吹き上げられ、安全な空間を作り上げた。

最初の関門は、風神の気転で何とかすり抜けられた。

金剛の傷は十数か所にも及び、心配されたが、鋼のような肉体に深く食い込むことはなかった。良介は、恵の机にしまってあった小さな救急箱を思い出し、金剛の傷に軟膏を塗ると、見る間に癒えていた。

次に姿を現した緑の関門は、方向の定まらない樹海だった。微かな風が奏でる葉音が絶えず囁いて、暗示をかけてくるようだった。

樹海に踏み込むと、すぐに出口を示す空間が見えてきた。何が起こるか分からない不気味さがあったが、殺気は感じられず、単なる通過点と考え、出口へ向かって歩きはじめた。

確実に出口の方へ進んでいるはずだったが、一向に近づいてこなかった。むしろ、出口が遠のくように感じられた。それでも、出口へ向かってひたすら歩き続けたが、結局出口に辿り着けなかった。

「このまま進んだら、永遠に出られなくなってしまいます。何かトリックが隠されているような気がします」

詩織の考えにみな同調し、立ち止まって思案を始めた。

「恵さんの縄飛びを持ってきましたよね。縄飛びを使って直線を作ってみませんか。まっすぐ歩いているつもりでも、目安にしているのは出口と樹木です。樹木が移動すれば方向が違ってしまいます」

詩織の提案に、みな頷いて、早速実験をしてみた。

縄飛びを出口へ向けてまっすぐに伸ばし、金剛が出口の方向へ動き出すと、不思議なことに樹木も移動して、まっすぐ歩いているつもりでも、金剛は大きく左へ逸れていた。同時に縄飛びからは出口が見えなくなっていた。

「私たちは今まで、出口が見える方へと歩いていました。先ほどまで出口が見えていましたが、今は見えていません。右へ動いても見えませんが、このように左へ動くと見えてきます。金剛さんが左へ移動した分、出口の見通せる位置が左へずれているのです。私たちは出口へ向かっているつもりが、左へと動かされていたのです」

詩織の推理にみな頷いて、感心するばかりだった。

「もう一つの疑問は、進めば進むほど出口が遠くなることです。もし鏡に向かって歩いているとすれば、出口と反対の方向へ歩いていることになります。私たちは本物の出口と反対方向へ、誘導されていたのではないでしょうか」

詩織の新たな推理に、みな唖然として聞いていた。

「詩織さんはすごく頭がいいのですね。私には全然考え付かなかったです」

良介が感激して話すと、詩織は手を振り、もう片方の手で胸のブローチに触れた。

「私の推理ではないのです。実は、真二さんに頂いたブローチに触れていると、思案が浮かんでくるのです。全て真二さんの知恵なのです。それに、私たちは樹木の囁きに暗示をかけられているのではないでしょうか」

「私は、雷神に頼んで森を破壊してしまおうかと考えていました」

「お兄ちゃん。私たちは、破壊はできないのですよ。憎しみを持って攻撃をすれば、それこそ悪魔の思う壺です。私たちの戦いは防戦だけです」

恵の厳しい顔に、良介は深々と頭を下げた。

「もし推理が当たっているとすれば、本物の出口を見つけることが可能です。出口が常に鏡に映っているわけですから、本物の出口と鏡の出口はまっすぐに道が開けているはずです。出口へ向かわずに、右に移動していけば、鏡と出口の直線上に出るはずです。」

詩織の推理に従って移動を始めた。移動は、三点を維持しながら行った。初めに鏡の出口と縄飛びを直角に置いて方向を定め、二点を決めてから、直線方向へもう一人が移動して三点目に位置した。続いて、一点目が移動して二点目と三点目の直線上に四点目を位置した。みんなが動き出すと樹木も動いたが、常に三点を維持して、方向を違わないように進んでいった。

やがて、鏡と出口の直線点に出て、本物の出口を見つけられた。しかし、鏡が移動するのに合わせて樹木が動くので、出口まで続いていた道が塞がり、鏡の出口へ向かって歩いているのと同じ状況になっていた。

「恵さんの手鏡を使ってみたらどうでしょうか」

詩織が、おもむろに、真二の知恵を伝えてきた。

手鏡で出口を映し出すと、出口までの道が維持され、まっすぐに進んでいけた。

「今味わった世界は、人間社会そのものではないかと思う。鏡に映った幸福が本物と信じて、みなその方向を向いて歩いている。実在しない鏡の幸福を追い求めても、常に道が逸れていって、幸福と縁の無い世界へと誘導されてしまう。反対にある本物の幸福は遠のく一方で、見ることもできないし、つかむのは無論できない。たとえ本物の幸福を見つけたとしても、道が逸れてしまって、思うようにならないのが現実だ」

良介は感情を一切移入しないで語った。

樹海の関門を抜けると、樹木の墓場を思わせる、荒涼とした世界が広がった。それは、人間が破壊し尽くした、森の姿だった。悶え苦しむ唸り声が重苦しく迫ってきた

「何とかわいそうな樹木たちでしょう。人間の都合で大地が荒らされ、息絶えたのでしょう。人間は空気も水も土壌もみな汚染して、生きる源を自らが絶とうしているのです」

恵は、目をつぶって通りたいとの思いをこらえ、樹木の墓場を直視した。

立ち枯れした樹木が並び、今にも折れて落ちてきそうな枝が、縦横に張り巡らされていた。迂回路を探したが、見当たらなかった。むしろ迂回は許されなかった。

金剛が散乱していた枯れ木を見つけ、怨念のこもった立ち枯れの森に投じてみた。森は邪気を宿した狩人となり、枯れ木目掛けて刃物のような鋭い木片を投じた。木片は獲物に深々と刺さり、殺傷力を示した。

木片から身体を防ぐ大きな枯れ木を見つけ、良介と金剛で担った。恵と詩織、風神雷神を中に入れて、立ち枯れの森へ入っていった。

刃物となった木片がぶつかり合って金属音を鳴らし、殺到してきた。多くは傘にした枯れ木に刺さっていたが、ぶつかりあって角度を変えた木片が、火の粉のように身体まで降り注いできた。

恵と、恵の服を着た詩織を襲った木片は、寸前のところで、線香花火のような星を作って砕け散った。良介と金剛を襲った木片は服に突き刺さったが、鋼のような肉体に食い込むことはなかった。

立ち枯れの森を切り抜け、ハリネズミのようになった枯れ木を降ろして無事を確認した。

恵は振り返って、じっと森を見つめ、しばらく佇んでいた。恵は何を思ったか、おもむろに森へ引き返していった。詩織が気付いて走りより、降り注がれるであろう、木片の傘になった。

良介が気付いたときにはもう遅く、木片が驟雨のように二人を襲っていた。

しかし、木片は二人に触れる寸前に、全てが星の輝きとなり、二人を神々しく映し出していた。

恵は、自分をかばう詩織に、ゆっくりと首を振って礼を言い、手を大きく広げて立ち枯れの森を見上げた。

恵はあらん限りの慈愛を降り注ぎ、

「とても苦しいのでしょうね。ごめんなさい。謝っても、私たちが犯してきた罪は、けっして逃れられないのは分かっています。でも、一人でも多くの人間が、森を愛し、自然を愛する心を持つのが、私たちにできる、唯一の償いです。許してください」

と、語りかけた。

立ち枯れの森から邪気が消え去り、木片もやんでいた。

恵は憔悴しきっていたが、瞳はどこまでも澄んでいた。

次に行く手を塞いだのは、どれほどの歴史を刻んでいるのか推し量れない、杉の大木だった。立っていたときの形をそのまま残して凍りつき、根元がえぐられて倒れていた。大木は出口を塞ぎ、先へ一歩として進めなくなっていた。

恵は、大木の根元まで行き、背丈の何倍もある大きな幹に頬を寄せた。凍りついていた樹皮が、頬を当てると溶けはじめ、恵は優しく囁いた。

「深い眠りに付いているのに、起こしてごめんなさい」

恵の囁きに反応するように、大木が微かに動いたように感じられた。

「私たちはこの森から抜け出さなければいけないの。出口を開けてください」

恵は幹に耳を付けて、大木の心を聞き取ろうとしているようだった。

「とても疲れているのはよく分かります。でも、もう一度立ち上がってください」

恵は、話しかけが終わると再び幹に耳を傾けた。

「貴方の力で立ち上がれないのは承知しています。私たちの力を使ってください」

恵は再び大木の意思を確認した。

「お兄ちゃん。この杉の大木を立ち上がらせてください」

恵は良介にいきなり言ってきた。

「いくら何でもそれは無理だよ。二百メートルを超える大木だよ」

「何を言っているのですか。やりもしないうちに、初めからあきらめるなんて、お兄ちゃんらしくありませんよ。何でも思いやりを持って、精一杯やるのが本当でしょ」

「それはそうだけれど、想像すらできないことだよ」

「それでは段取りを決めたいと思います」

恵は良介を相手にしないで、立ち上げ方法について話し出した。

「お兄ちゃんと、金剛さんで、大木の中間ほどで起こしてください。風神さんは全ての風を呼び寄せて、大木の起きる方向に強風を吹き付けてください。雷神さんは、稲妻を呼び込んで、お兄ちゃんと、金剛さんに雷の力を貸してやってください」

良介は、恵の、余りにも奇想天外な話に釘をさした。

「本気で話しているのかい」

「こんな時に冗談など、言っていられません。お兄ちゃんが中心にやらなければできないのです。もっとしっかりしてください。お兄ちゃんには、多くの人の思いやりが向けられています。思いやりの力を全力で出し切ればいいのです。金剛さんはお兄ちゃんの永遠のライバルです。お兄ちゃんの力が増せば、金剛さんも同じように巨大な力を発揮するはずです。今できることは、与えられた力を全て集めてやってみるしかないのです」

良介は恵の迫力に圧倒され、姿勢を正して返事をしていた。

「詩織さんには大変なお願いをしなければなりません。この杉の大木に命の子を与えて欲しいのです。大木を立ち上げるときに、根元の窪んだところに入って、一心に命の子を吹き込んでやって欲しいのです」

「私に大変な名誉を与えてくださり、ありがとうございます」

詩織は全てを承知して、儀式でも行うように、粛然と動き出した。

良介には、詩織がやろうとしているのがどう言うことなのかさっぱり分からず、ただじっと様子を見ていると、詩織が身に着けているものを一枚一枚取り外していった。良介は慌てて後を向き、既に後ろ向きの金剛の後に着いた。

詩織は、最後には全裸となり、根元に近い幹の窪みに小さく丸まって潜んだ。

「さあ、貴方方の出番です。初めはびくともしないかもしれませんが、全ての力が結集されれば、絶対に立ち上げられます。それでは準備を始めてください」

良介と金剛は大木の中間付近で抱える態勢を取った。風神雷神は首に着けた恵の鈴を鳴らして舞い上がり、風神は離れて、雷神はすぐ側で、空中に静止した。

恵の合図に従い、良介、金剛が持ち上げはじめたが、どんなに力を入れても、びくともしなかった。しかし、風神が風を呼び寄せ、雷神が稲妻を呼び寄せると、良介の心に、多くの人々の思いやりが蘇り、底知れぬ力が溢れ出てきた。同時に、金剛も良介に連動して絶大な力がみなぎってきた。

雷神が体に稲妻を呼び込み、足に着けた恵のリングからすさまじい閃光を発して、良介、金剛に巨大な力を吹き込んだ。風神が風を呼び込み、首に着けた恵の鈴を鳴らしながら羽をばたつかせ、巨大な竜巻を起こした。そして、二百メートルを超える大木が、地響きを上げて少しずつ動きはじめた。

大木の隅々まで振動が伝わると、大木にこびりついていた大量の氷が払われ、重さが軽くなるとさらに動きが早まった。

恵は大木に触れて、

「がんばって、お願いだからがんばって」

と、何度も語りかけ、大木に、立ち上がる意欲を持たせていた。

音ともつかぬ唸り声がこだまして、大木は意思を持ったように確実に立ち上がり、不可能が可能となっていた。

強風と雷光の音、大木のきしむ音、大地を揺るがす音、命が蘇る音が一つになって轟音となり、魔界を震撼させた。

杉の大木が立ち上がると、根がしっかりと大地を捉え、大木自らが懸命に踏ん張っているのが分かった。そして、何も無かったように静寂が訪れた。

「どうもありがとう。後千年は生き続けてください。そして、人間の畏れを知らない暴走を見たときには、どうか戒めてください」

恵は、大木に深く礼をすると、すぐに詩織が潜む幹の窪みを覗いた。

詩織は深い眠りから覚めるように、空ろな眼差しをしていたが、恵がそっと触れると、意識がはっきりと戻った。そして、杉の大木に命の子を宿したことを、頷いて伝えた。

良介、金剛、風神雷神が遥か上空から舞い降りてきて、大事業を成し遂げた満足感を見せ、恵の前に跪いた。それは、恵に次の指示を待つ姿勢だったが、明らかに疲労困憊した姿だった。

恵は涙を浮かべ、戦士たちに触れて、無言でねぎらった。

杉の大木によって隠されていた出口が顔を出し、大木に別れを告げて、先へと進んだ。

「本当は雨を降らせたいのですが、風神雷神さんは力を使い切ってしまったので、疲れを癒すまでは無理でしょう。まだ先に多くの難関が待ち受けているでしょうから、ここで少し疲れを癒しましょう」

新たな難関に出る前に、みな腰を降ろして休息の時を持った。

恵が誰よりも憔悴し、気を張って輝いていた瞳が、空ろになっていた。詩織は、穢れを知らない少女の痛々しい姿を見ると、母の心が溢れ出て、恵を自然と胸に受け止めていた。赤子を寝かし付けるように、背中をゆっくりとさすってやると、恵は深い眠りに付いていた。戦士たちの目から涙が零れ、まんじりともしないで、恵を見守っていた。

疲れが癒えて、新たな関門に出ると、そこは、悪臭が漂う毒牙の森だった。

良介は、人間が作り出した汚染の世界を見て、思わず叫んでいた。

「何と汚れた森なのだ。空も、水も、大地も毒されているではないか」

灰色の空気が重く漂い、土壌は褐色に染まり、沼は黒く濁っていた。樹木は、木肌にただれた跡が残り、猛火のように悶え揺らいで、毒を持った空気、水、土を巻き上げ、辺りに撒き散らしていた。

金剛が枯れ木を投ずると、樹木は意思をもって汚染物質を巻き上げ、毒牙のように降り注いできた。枯れ木は赤茶色の煙を上げて溶けていた。

「ここを抜けるには、樹木の動きを止めるしかないですね」

金剛が厳しい状況を顔に滲ませて言ってきた。

「どうすれば止められるのだろうか」

良介は、方策が全く浮かばずに応えた。

「このまま汚染を見過ごすわけにはいきません。再び、不可能を可能にするしかないでしょう。樹木の墓場を全て洗い清めてみましょう」

戦士たちは恵の意思に頷いて、指示を待つ姿勢となった。

「風神さんも雷神さんも、まだ充分に疲れは癒えてないでしょうが、力を借りるしかありません。雨を呼び寄せてください。全ての雨雲を呼び寄せて、あらん限りの雨を降らせてください。雨で全ての汚染を洗い流してもらうのです」

戦士たちは、もはや、恵の奇想天外な発想に少しも驚かなかった。

「お兄ちゃんと金剛さんは、風神さん、雷神さんと一体になって、力を吹き込んでください。詩織さんの母なる力を私に貸してください。私は命をかけて大地にお願いしようと思っています。汚染を大地の奥深くに吸収してもらわなければなりません。そして、汚染を全て浄化して、命を育む森を作ってもらおうと思っています」

恵の命がけに、戦士たちは憂慮を持ったが、頷くしかなく、指示に従って、急ぎ行動に移った。

風神雷神を、良介、金剛が肩に乗せ、足にはめられた恵のリングに触れて、濁った上空を仰いだ。そして、風神雷神が大きく羽ばたき、首に着けた恵の鈴を軽やかに鳴らしだした。それぞれの気が一つになって、エネルギーを大空に発すると、淀んでいた空気を、強風によってゆさぶり、稲妻によって切り裂いた。上空が見渡せるようになると、両者の力を空中で融合させ、雨雲を呼び寄せた。

雲が雲を呼び、風が風を呼び、稲妻が稲妻を呼んで、雷雲がどこまでも大きく伸びていった。なおも雨雲は発達し、エネルギーが頂点に達したとき、大音響と共に、堰を切ったように雨が降り出した。

雨粒が大地をたたきつけ、稲妻が大地を轟かせ、暴風が大地を揺るがした。それは、ありとあらゆるものを消し去る勢いを持っていた。

恵と詩織も風雨の中にあったが、二人の姿にはオーラが発し、たたきつける雨風をはじき返していた。

恵は跪き、大地に手を当てて、祈りかけていた。詩織も恵に従い、大地に当てられた恵の手の上に、そっと手を重ねた。

「大地の魂よ。全ての汚れを清めたまえ。全ての汚れを包みたまえ。死した森を生き返らせたまえ。大地の恵を与えたまえ」

恵が呪文のように何度も繰り返し、詩織も従った。

二人の微かな音量が、魂の叫びとなって共鳴し、嵐をも包み込む、神々しい音響となって鳴り響いた。

大地を揺るがした嵐は、全ての汚れを洗い流してやんでいた。

見渡すかぎり透明感溢れる景色となって、全ての汚れと怨念が消え去っていた。しかし、生命感が一切感じられず、白黒フィルムの世界だった。

恵は元より、戦士たちは疲れきって、立っているのもおぼつかない状態だった。それでも、無事を祈る思いが、互いに呼び寄せ合って、足を動かしていた。

恵の周りに戦士が揃って、全員の無事が確認されると、安心感から、全ての気力が失われ、その場に横たわってしまった。

どれほどの時間が立ったのか、良介が初めに目覚め、すぐに周りの状況を確認した。他の誰もが、精気を蘇らせた寝息を発し、安心させた。

みな目覚めて、状況を確認すべく、見晴らしの良い場所に移動した。

高台に登って、広がってきたのは、色づきはじめた山河と草原だった。その中で、一際高くそびえ立つ杉の大木が目に入ってきた。みな、思わず手を取り合って、大木の無事を祝った。

大木の遥か彼方に目をやると、噴煙を上げる山が見え、大地を轟かす唸りを上げていた。やがて、噴煙が炎に変わると、大地によって清められた、空気、水、土壌が新たな恵となって、勢いよく噴き出した。噴き出された恵は、星となり、月となり、太陽となって、昼夜と季節を作り上げ、大地に恵を降り注いだ。

恵の祈りが通じ、樹木の墓場が、豊穣の森に変わっていた。

「やがて、花が咲き、虫がうごめき、鳥や魚、動物が森を賑わすのに違いありません」

恵の言葉に命の輝きを聞き、心残りを振り切って、豊穣の森を後にした。

出口となった、長い洞窟を抜けると、再び悪魔の関門が待っていた。それは、いくつもの部屋が続く、幻の館だった。

初めに出てきた部屋は、全て鏡で作られ、壁が八面あるだけで、出口は無かった。恵を取り囲むようにして入り込むと、入り口が塞がれて壁が回りだした。

金剛が壁に近づいて手で触れると、壁はゆっくりと止まった。すると、それぞれの鏡の面にみんなの姿が写り、様々な角度で反射して万華鏡をこしらえ、直径十メートルに満たない部屋なのに、無限に広がる部屋となった。わずかでも動くと景観が一変し、互いにどれが本当の姿なのか分からなくなった。

みな離れまいとして進むが、進めば進むほど本物の姿が遠のき、鏡の面に向かっていた。金剛が鏡と気付かずにぶつかると、停止せずにそのまま身体が吸い込まれそうになった。肩に止まっていた雷神が、危険を察知して羽をばたつかせ、金剛に知らせると、身体が消える寸前で立ち止まった。背負っている、小悪魔を入れたリュックと雷神が鏡の手前に残っていた。

金剛の様子を見ていた恵が、危険を感じて大きな声を上げた。

「みんな動かないで。このままだとそれぞれが別の世界へ行ってしまうわ」

恵の指示に、戦士は動くのをやめ、次の指示を待った。

「お兄ちゃん。縄飛びを出して下さい。そして、目を閉じて、詩織さんのことを心で見つけ出してください。詩織さんを捕まえたら、キスをして縄飛びで二人を結んでください」

「分かったけど、キスって、どう言う意味なのかな」

「今まで大変だったのですから、少しは男と女の関係になったらいかがですか」

恵は危機的状況にあっても、余裕を示した。

良介は、思いやりを守る戦士として、詩織と二人でランニングをしているときに、

「少しは男と女の関係を残しておいてください」

と、詩織が訴えてきたのを思い出した。良介も、詩織への思いに切なさを感じているときで、詩織の願いに、喜びが溢れていた。

良介は、恵がその時のことを知っているように思え、顔が赤くなっていた。

良介は、目を閉じて、忘れかけていた詩織への思いを浮き上がらせ、恋する人を追い求めた。やがて、詩織の姿をはっきりとつかむことができ、思いが激情となって強く抱きしめていた。詩織の心も燃え上がり、恵の指示を受けなくとも、自然に唇を合わせていた。

「とても素敵なラブシーンを見せていただいてありがたいのですが、私にはちょっと早すぎるので、そろそろ次に移っていただけないですか」

恵が遠慮がちに言うと、二人は我に返り、慌てて離れていた。

身体が半分消えかかっていた金剛が、元に戻って、二人の様子を見ていて、それを見つけた恵が、面白そうに話しかけた。

「よく戻ってこられましたね」

「二人のラブシーンが見たくて、いてもたってもいられなくなり、命がけで戻ってきました。おかげで、かくも素晴らしいラブシーンを見られ、感動しています」

冷やかしに、恋人たちは下を向いて赤くなるばかりだった。

みんなが、恵の縄飛びで一つになり、はぐれる危険を回避して、次の行動を思案した。

「思い切って、鏡の向こうの世界を覗いて観ましょうよ」

恵が相変わらず、余裕たっぷりの言い方をし、みな返答に窮して、頷くしかなかった。

良介を先頭に、汽車ごっこをするように一列に並び、面を決めて進んでいった。一人、又一人と鏡に吸い込まれ、新しく出た世界は、やはり鏡の世界だった。今までと違うのは、映し出された姿が戦士たちではなく、見るものの深層の心理だった。

良介と詩織が観たものは、二人で走りながら語らう姿だった。風を感じ、星を感じ、月明かりを感じ、互いの息遣いを感じて走っていた。

恵が観たものは、良介に負ぶさって野原を走る姿だった。

「走ってお兄ちゃん、もっともっと速く走って」

と言って、髪をなびかせ、風を感じて走っていた。

金剛の観たものは、容赦無く格闘する姿だった。相手を打ちのめすごとに、心が悲鳴に打たれていた。相手の家族の悲鳴がいつまでも響き、後悔の念で逃げ出そうとしていた。

やがて、それぞれが観ている鏡が歪みはじめ、深層の心理をも塗り替えようとしていた。

良介と詩織の観ている鏡では、詩織が着崩した姿へと替わり、良介がこぶしを上げる姿へと替わっていた。

観ている二人もいつしか酔わされて、身体が鏡の命ずるままに動こうとしていた。しかし、二人の、どこまでも純真な思いが酔いをすぐに覚まし、幻想を打ち砕いていた。二人の見ていた鏡は、何も映し出せなくなるまでひび割れていた。

恵の観ていた鏡は、深層の心理を歪めようとした途端に、木っ端微塵に砕け散っていた。

金剛の鏡では、傷ついた相手にとどめを刺そうとこぶしを上げ、泣き叫ぶ家族に邪気を帯びた視線を向けて、高笑いする姿が映っていた。

金剛の体は麻痺し、殺人鬼に生まれ変わろうとしていたが、金剛の上げたこぶしに恵の魂が乗り移り、体中に衝撃が走って、我に返っていた。同時に鏡が二つに割れて、幻想が消えていた。

「ここはお酒に溺れた人たちの世界のようです。自らが選んで作り上げた現実に満たされなくなり、現実から逃げようとして、お酒に依存しているのでしょう。しかし、お酒が起こす悪行を、悪魔の仕業と言い逃れするのは許せません。この部屋の鏡を全て打ち砕いてしまいましょう」

恵が目を閉じて、どこまでも穢れのない、深層の心理を鏡に映し出すと、鏡は跡形もなく打ち砕かれていた。七つの鏡は暗黒となり、一つだけが、縄飛びに囲まれているみんなの姿が写り、出口を示していた。

汽車ごっこの態勢を維持して出口に入ると、そこは幻覚の世界だった。

一つの鏡に映し出されていたのは、初めに入った万華鏡の世界だった。わずかな動きで世界が一変し、姿が遠くなったり、近くなったり、明るくなったり、暗くなったり、速くなったり、遅くなったりし、同じ姿になることはけっしてなかった。

それは現実では感じられない刺戟的な世界で、見る者の心を限りなく興奮させた。

二つの鏡には色彩の世界が映し出されていた。黄、赤、青が鮮やかに映し出され、それらの色が混ざりだして、違った色が現れ、色は何色にもなって、さらに混ざり合い、どこまでも濁って迫ってきた。

三つの鏡にはスピードの世界が映し出されていた。白黒の景色が猛スピードで後ろに走っていった。スピードが増していくと、鋭く尖った氷が矢のように向かってきて、寸前をすり抜けていった。スピードは増すばかりで、もはや視覚では確認できない世界に陥り、存在が失われようとしていた。

四つの鏡には音響の世界が映し出されていた。音が形となり、初めは小さな音から始まって、澄んだ滴が現れた。音量が高まるに連れて、花や蝶、魚や小鳥が溢れ出てきた。音は止むことなく、一定のリズムでどこまでも高まり、大音響を発すると、鏡を全て埋め尽くす白鯨が、大きく口を開けて迫ってきた。

五つの鏡には歪の世界が映し出されていた。時計が時間を正確に刻む音がしてきた。音に合わせて前に進むと、時間が勝手に動き出し、身体の一部が離れ出した。どこまでも規則的な音だったが、前、横、後、停止、何をしても勝手に時間が動いて、身体がいくつもに分離していった。そして、最後には鏡一杯に身体が切り刻まれていた。

六つの鏡には死線の世界が映し出されていた。死に神が現れて剣を振り回し、寸前の所まで刃先が届いた。剣の空気を切る音が唸り、生き物のように縦横から振り下ろされてきた。周りにある物が刃先に触れると、鮮やかに両断される光景が映し出された。剣は大きく、早くなって、どこまでも迫ってきた。

七つの鏡には物の怪の世界が映し出されていた。物の怪が現れると、手や足、背中、首に取り付こうと、蛇にように手が伸びてきた。懸命に逃れようとするが、手がつかまり、足が絡まれ、首に巻き付いてきて、身動きが取れなくなっていた。大きく伸び上がった物の怪が、背中にまつわり付こうとしていた。

それぞれの鏡は時々刻々変化して、新たな幻覚が現れていた。

そして、八つの鏡には、現実が映し出されていた。

「幻覚の世界に身を投じた人々は、本当の自分を写す鏡があっても、自らの意思で見ようとしないのです。甘えがあるうちは、いつまでも出口が見つからないでしょう。ここの鏡もみな打ち砕きましょう。幻覚は夢を見られなくなった人々の世界です。直径十メートル足らずのほんのちっぽけな世界では、大きな夢を見せれば、みな砕け散ってしまうでしょう。お兄ちゃんの大きな夢を見せ付けてやってください」

良介は、恵を妹と思うより、今は奇跡の人として見ていた。奇跡の人の僕となって、命じられるままに、命をかけて闘う戦士に他ならなかった。恵の命に従って、精神を統一していた。

汽車ごっこの形は、夢を乗せた汽車となって動き出し、

「きしゃ、きしゃ、しゅっぽ、しゅっぽ、しゅっぽ、しゅっぽ、しゅっぽぽ。ぼくらをのせて、しゅっぽ、しゅっぽ、しゅっぽぽ」

恵が澄んだ声で、いかにも楽しそうに歌いだした。

良介は、真二の語った、夢追い塾のことを思い浮かべていた。

子供たちが好奇心をみなぎらせ、不思議をコンピュータで解き明かそうとしていた。不思議が分かると、新たな不思議を見つけ、空想していた。合点がいかないと再びコンピュータを紐解き、またまた不思議を見つけた。空想がさらに膨らんで、新たな不思議に遭遇し、コンピュータでも分からないと、夢で解明しようとしていた。

多くの若者が集まって、子供たちが見た夢を形にしようとしていた。子供たちに負けまいと夢を見て、形のないものを、知恵を出し合って形にしていた。夢作り大学となって、若者たちが想像し、創造して、今までにないものを作り出していた。

老人と若者たちが集まっていた。若者は老人のすることを真剣な眼差しで読み取っていた。読み取ったことをコンピュータに作り変え、老人から意見を聞いていた。伝統文化の素晴らしさを知って、若者たちが懸命に引き継ごうとしていた。子供たちの見た夢と、伝統とを融合した、夢作りの工場ができ上がった。

汽車が止まると、良介の思い描いた夢が既に幻覚を押しつぶしていた。七つの鏡は砕け散り、恵の歌に乗って、現実を映し出す鏡に入っていった。

次に入り込んだのは幻影の世界だった。心が置き去りになった、欲求をそそるきらびやかな世界が映し出されていた。

派手やかな衣装の人が現れて、愛欲をそそり、彩り豊かな装飾品が現れて、物欲をそそっていた。豪華な料理が現れて、食欲をそそり、儲けのテクニックが披露されて、財欲をそそっていた。顕示欲を煽り、名誉欲煽っていた。不安を煽り、競争を煽っていた。虚飾を煽り、気位を煽っていた。それは、何の保障もない、幻影だった。

四人は幻影を見ても、何一つ欲求に駆られるものは無かった。

「ここの鏡も全て破壊していきますか」

良介が恵に問うと、

「それは間違っているかもしれません。ここに映し出されたものは、確かに人の心を惑わす幻影です。今の私たちに空虚なものに見えても、幻影を求めていかねば、生きていけない人が数限りなくいます。立ち止まって考えたり、自分を振り返ったりできなくなった人々にとっては、幻影が生きる目的なのです。生きる術を奪ったら、子孫を残すこともできなくなってしまいます。むしろ、人間自体がガラスの心となって、幻影が本物になってしまうかもしれません。人間の大きな流れは、どんなに思いやりを訴えても、もはや、止められない気がします。既に新しい人類ができているのかもしれません。」

「もしそうだとしたら、自分たちがやっていることは、何なのだろう」

良介は居たたまれなくなって声を上げていた。

「旧人類の守り神です。時代が移り変わろうとも、ごくありふれた、自然体の生き方を捨てきれない人もいます。一人減り、二人減りしても、人間らしい生き方を守っていかねばなりません。時代の要求と大きく異なる世界は、様々な攻撃を受けるでしょう。その攻撃をかわしていくのが、私たちの務めだと思います」

良介は、重苦しい気分を拭えなかったが、恵の答えに頷いていた。

「ここには振り向いても見えない、八つ目の鏡があるようです。それが、本当に求めているものが映し出されているのだと思います。先ほど抜けてきた樹海と同じで、人間社会そのものです。本物の幸福は見せまいとしているのです。おそらく、八つ目の鏡は出口になっており、鏡にでも映さなければ見られないのでしょう」

恵の推察どおり、手鏡で後ろを見ると、ごくありふれた人々の姿が鏡に映っていた。縄飛びで囲まれた汽車は後ずさりして、幻影の世界から抜け出した。

振り返って見ると、そこにはどこまでも透明なガラスの世界が待っていた。二十四の部屋が縦一列続いて、出口も表示されていた。

「ここにはどんな仕掛けがあるのだろうか。見た目には何の問題もなさそうだが」

良介は、何の殺気も感じられないクリアな世界に、かえって不審を抱いていた。

「何でもやって見なければ分からないのですから、進んでみてください」

恵は少しも不安な顔を見せずに、淡々と言ってきた。

良介を先頭に、汽車ごっこの態勢を崩さず、次の部屋へ続くガラスの壁に身体をぶつけていくと、何の抵抗もなく吸い込まれた。

全員が隣の部屋に移っていた。しかし、回りを確認してみると、隣のつもりが五個目の部屋に出ていた。

「ちょっとおかしいぞ。通り抜ける壁は必ずしも隣の部屋に繋がっていないようだ」

「もう一度試してください。どんなトリックが隠されているのか見てみましょう」

良介の不審に、恵は何の躊躇いも無く応えた。

同じように、六個目の部屋ガラスの壁に吸い込まれると、今度は十六個目の部屋に出ていた。出口が近づいたのでそのまま十七個目の壁に吸い込まれると、今度は三個目の部屋に戻っていた。四個目の壁は十二個目へ出て、全く規則性のない部屋の並びだった。

「この調子だといつまでたっても抜け出せないよ」

今度発した良介の不安に、恵もさすがに余裕の言葉は出せなかった。

「試しに、部屋に続いていない面に入ってみたらどうでしょうか」

詩織の提案で、何も無いはずの壁に吸い込まれると、十八個目の部屋に出て、結局四つの壁全てが、部屋に繋がっていることが分かった。

「ここは時間の部屋ではないでしょうか。一つ一つの部屋が時間を持っていて、二十四時間を表しているのではないでしょうか」

詩織が真二にもらったブローチに触れながら言ってきた。

「確かにそうかもしれない。でも、何で時間の部屋が出てくるのだろう」

「私たちが魔界でやってきたことは、魔界の時間を狂わせてしまったのではないでしょうか。恵さんの起こした奇跡は、時間を超越したものです。おそらくは、新たな関門に出るには、時間の歪を修正しなければならないのでしょう」

「詩織さんはすごいことを考えるのだね。言っていることが想像できないや」

良介の感心に、詩織は首を振って、ブローチをなでるようにたたいた。

「でも、何の目安もありませんから、このままだと、いつまでたっても出られません」

恵が初めて不安な顔をして言ってきた。

「私は、お父様から頂いた時計を持っています。この時計は魔界の影響を受けずに、本当の時間を表示してくれるのではないでしょうか。壁に向ければ、壁の先が前の時間か、後の時間か分かるのではないでしょうか。後の時間を選んで進んでいけば、必ず出口に出られると思うのですが」

「詩織さんは本当に頼れる人ですね。こんなお姉さんが持てるなんて、とても幸せ」

恵はいかにも幸せそうな顔をして、詩織の背中から抱きついた。

良介と詩織は、恵のお姉さん発言に顔を赤らめながら、前後を入れ替わり、詩織を先頭に、時間の部屋を進んでいった。

詩織が言ったとおり、時計を壁に当てると時間が変わり、その壁が後か前か分かった。後の時間を示す壁を進んでいくと、簡単に出口へ辿り着いた。すると、今まで二十四に分割されていた部屋が一つになり、時間の歪が修正された。