7、魔宮の部屋

魔宮までの道程には時間が無く、良介が気付いた時には扉の前に佇んでいた。

魔宮は、邪悪な魂を引き付ける、どこまでもきらびやかな佇まいだった。良介たちの目の前を、悪魔に売られたたくさんの魂が、何の抵抗もなく、出口の無い扉に吸い寄せられていた。

良介たちも魂の群れに混ざって扉に吸い寄せられ、宮内に入っていった。

中に入ると、外観と一転して、どこまでも整然とした世界が広がっていた。それは人間の欲望が描く幻想と、現実との違いだった。人情が一切排除された空虚な世界で、全てが事務的に動いていた。

売られた魂の中には、魔界の現実に抵抗を示し、あきらめ悪く出口の無い扉へ引き返えそうとしたが、いかに逃げ回っても、契約時に貼られた、レッテル通りの部屋に辿り着いていた。

良介は、まっすぐにどこまでも伸びる灰色の廊下を、じっと見ていた。廊下の両壁には数限りなく扉があり、部屋の数がいくつあるか知れなかった。人間の飽く事の無い欲望が、かくも多くの部屋を作り出したかと思うと、居たたまれない思いとなった。どれだけの魂が収容されているのか想像しがたく、人間の愚かさを再認識するだけだった。

レッテルの無い良介には行き先が見えてこなかったが、じっと目を閉じると、恵の囁きが伝わってきた。詩織の案内をこうこともなく、死を望む部屋の前に立っていた。

詩織から得た情報を頭に整理し、再び恵と交信して、扉の位置を誘導した。

詩織に決行の合図をし、良介は片足を扉に踏み入れた。扉が開きはじめ、やがて恵の姿が現れた。

良介は恵を見ると、今までの冷静さが失われ、嬉しさを抑えられず、感極まって涙が零れ落ちていた。

恵みも同様、我を忘れ、扉を支える良介に擦り寄って、身体を預けていた。

「急いでください」

詩織の声に感激の対面は中断され、

「金剛さんは」

と言って、良介は恵に所在を確認した。

恵は後ろを振り返り、金剛の方向に手を差し出した。

良介は金剛と視線を合わせると、嬉しさが溢れて、思わず手を上げていた。

金剛は躊躇いを見せ、すぐには扉を潜ろうとしなかった。

「何を躊躇っているのですか。約束通り、貴方も救い出そうとやってきたのです」

「金剛さん。私たちは貴方の力を必要としています。一緒に行きましょう」

恵の語りかけに金剛は強い決意を忍ばせ、扉を抜けてきた。

良介は金剛が通過するのを確認し、扉から足を外そうとすると、

「お兄ちゃん、もう少しそのままにしておいて」

と言って、恵は扉すれすれまで戻ってきた。

恵の向けられた視線には、幾重にも連なって、魂が佇んでいた。良介は扉が閉まりはじめたのを感じ、全身の力で阻止しながら、恵と魂のやり取りを見ていた。恵と対面する魂はどこまでも安らいでいて、悪魔に売られた魂とは思えなかった。

魂たちは脱出する姿勢を全く見せず、恵に別れを惜しんでいた。恵みも名残惜しそうに手を振って、別れを告げ、涙を流していた。

良介が死を望む部屋を見渡すと、遥か彼方まで広がり、おびただしい数の魂がさ迷っていた。天空に一ヶ所だけ窓が開かれ、魂がゆっくりと吸い込まれていた。一つ、又一つと、輝きを持った魂が、礼儀正しく窓辺へと進んでいた。

「お兄ちゃん、どうもありがとう。扉を閉めていいわ」

恵に促され、良介は全身の力を抜いて、足を扉から離した。

扉が完全に閉まってしまうと、四人と二羽の感激の対面をやり直した。

恵は良介の胸に顔を埋め、悲喜こもごもの思いを涙に変えて泣きじゃくっていた。

良介は恵の髪を優しくなぜながら、涙が語る様々な思いを感じ取り、涙を零さずにはいられなかった。同時に恵を胸に受け止めた満足感が湧き出ていた。

恵は泣きやむと、今度は詩織に近づき、

「どうもありがとう」

と言って、詩織の胸に顔を埋め、再び涙を流していた。

詩織は恵を受け止めた瞬間、恵から発する豊満な慈愛に苦痛が走ったが、すぐに全身が洗礼されて、どこまでも心地良い温もりが沸きあがってきた。

「詩織さんには、兄が大変お世話になっております」

恵が大人びた口調で話した。

「私は良介さんに助けていただくばかりで、何もお世話はしていません」

「お兄ちゃんに不足しているものを全部与えていただいたではありませんか。お兄ちゃんが一回りも二回り大きくなれたのは、詩織さんのおかげです。とても感謝しています」

恵は二人のことを全て知っている口ぶりだった。

良介は、詩織との口付けを思い出し、顔が赤くなるのを感じた。

「詩織さんのような素敵な方をぜひお姉さんに欲しかったの」

詩織は、恵の屈託のないおしゃべりに同調して、素直に喜んでいた。

「詩織さんにはまだ話していなかったかもしれませんが、こちらは金剛さんで、私のライバルです。こちらが詩織さんで、思いやりを守る戦士に仲間入りしてもらいました」

良介が二人を紹介すると、互いに頭を下げたが、既に存在は承知していた。

オオタカの風神雷神も金剛に紹介され、感動の対面はお開きとし、次の行動に移った。

良介は動き出す前に、気になっていたことを恵に聞いてみた。

「さっきの部屋で、多くの魂が、扉から出ようとしないで、恵を見送っていたけど、どういうことなのだろう。それに、部屋の天空に窓があって、魂が一人一人吸い込まれていたけど、どういうことなのだろう」

良介の問いに恵は瞳を曇らせ、俯いてすぐには答えてこなかった。

「私がお話しします」

金剛が前に出て、恵に代わって事情を説明した。

「恵さんは、死を望む部屋で、たくさんの魂とお話しをしていました。恵さんと接した魂はみな清められ、抱えていた苦しみを和らげていました。しかし、犯してきた罪を軽くできるものではありません。多くの魂が罪を背負って悶え苦しんでおり、成仏できずに、魔界で永遠にさ迷っているのです。恵さんの施しは、魂が一番望んでいる、成仏の道を開くことでした。天空に成仏の窓を開き、多くの魂が喜んで吸い寄せられているのです」

良介は金剛の話で、事情を全て飲み込み、重苦しい気分で頷いた。

「本来なら私も同じ立場なのです。私は自分の犯した多くの罪を償いたく、死を望んだのです。このように魂を救出してもらうのは許されないはずです。他の魂と同様、成仏の道を選ぶべきだったのかもしれません。しかし、生き長らえて罪を償うのも、思いやりを取り戻した魂の道と、恵さんに教えられました」

「死んで罪を逃れるより、生きて罪を償うほうが遥かに難しい選択です。よく決断をしてくれました。これからは、お互いに力強く生きていこうではありませんか」

良介は金剛と強く握手をした。

「魔宮を出る前に、ぜひとも覗いてみたい部屋があります」

恵は沈痛な表情で語り出した。

「一つは母性を捨てた部屋です。二つは笑いを失った部屋です。三つはいじめに駆られる部屋です。四つは夢を忘れた部屋です。もっと多くの部屋を訪ねたいのですが、私の力では四つが限度です」

良介はすぐにでも魔宮を抜け出したいと願っていたので、すぐには返事ができなかったが、詩織や金剛の意思を確認すると、了解のシグナルがあり、恵の意思に従った。

どこまでも続く廊下を、恵が先頭で歩き出すと、一歩も出ないうちに母性を捨てた部屋の前に佇んでいた。

良介は金剛と二人で、母性を捨てた部屋の扉に片足を踏み出し、開放された扉に二人の身体を押し付けた。両手の平を合わせ、閉じる圧力に耐えられ形を取った。

恵は何の躊躇いも無く部屋へ入っていくと、詩織も、目で良介の了解を得て一緒に入っていった。

母性を失った部屋には、初潮を迎えたばかりの少女から、幼児を苛む母親までの魂が、数限りなくさ迷っていた。魂の多くが、飽くなき欲求に従い、部屋に唯一存在する空虚を、どこまでも追って歩き続けていた。

恵はさ迷える魂に向かって話しかけた。

「母性は女だけに与えられた権利なのですよ。貴女方が今追い求めているものが、本当に満足を与えてくれますか。よく考えてください。何も考えずに空虚を追い求めても時間を失うだけです。母性は時間を作り上げるものです。新しい命に時間を作り出してやることができます。幼子の笑顔を作れます。温もりと安心を作れます。信頼と希望を作れます。思いやりと優しさが作れます。母性は子と共に、人間の生きる力を全て共有できるのです。立ち止まって考えてください」

恵は、思いやりを込めて訴えたが、立ち止まる魂は見当たらなかった。

恵は打ちひしがれ、詩織に抱きかかえられるようにして、扉を抜けてきた。

「考えるのを忘れてしまった人には、時間をかけて訴えていかなければだめなのだよ。恵の慈愛も母性に注がれるもので、母性を失った人には、感じ取れないのかもしれない」

良介には、現実を告げるだけで、恵を慰める言葉が見つからなかった。

二つ目の、笑いを失った部屋の前に佇んでいた。

恵の意思を確認すると、悲壮感は抜けなかったが、強い意志を示した。

部屋の中には、まだ一歳に満たない幼児から、思春期を迎えた子供たちまでの魂が、誰一人として向き合うことがなく、空ろな目をして蹲っていた。恵は言葉を発さずに、人間の作り出した現実を噛み締め、罪を一人背負う思いで動き出した。幼児に近づいて、優しく頬に触れながら、精一杯の慈愛を降り注ぐと、どこまでも静寂が支配していた部屋に、赤子らしい笑い声がこだました。

笑い声が多くの魂に響き渡り、俯いていた子供たちが顔を上げ、笑い声の方向に視線を向けていた。笑いを失った魂は、笑い声に敏感に反応し、空ろな目に精気が蘇りはじめた。向き合うことの無かった子供たちが立ち上がり、好奇心を持って互いに目を向け合うようになっていた。

「何も怖がらずにお話をしてみましょう。心に閉まってある楽しいお話を聞かせてあげましょう。この部屋にはおもちゃは無いけれど、楽しいお話で一杯にできるのよ」

恵の呼びかけに、一人、又一人と、おしゃべりを始める子供が出てきた。語る相手が無くて、封印されていたわずかな楽しい思い出を語りはじめた。女の子は、赤ん坊とままごとを始め、お母さんになって、一生懸命あやしていた。手を繋ぐもの、肩を組むもの、競争を始めるもの。子供たちはわずかなきっかけで、堰を切ったように笑顔を取り戻し、あちこちで笑い声が湧き上がっていた。

「笑いを失った子供たちに、誰かが思いやりを向けて上げれば、笑いが蘇るのね」

恵は希望の輝きを取り戻して部屋を後にした。

三つ目のいじめに駆られる部屋では、老若男女問わず、おびただしい数の魂が、相手かまわずいがみ合っていた。強い者が弱そうな相手を見つけてはいじめ、いじめられた者が、さらに弱そうな相手を見つけてはいじめていた。いじめは大人から子供へと向けられ、子供たちも、より弱そうな相手を見つけては、いじめを繰り返していた。

いじめがいじめを呼び、憎しみが憎しみを呼び、相手を苛む心はどこまでいっても止まることを知らず、一時として安らげなかった。いじめで心の空白を満たそうとするが、不満が不満を呼び、絶対に満たされることがなかった。

恵は、いじめの末端にいる子供たちに近づき、弱いもの同士ののしりあっているのを見つけ、二人の前でしゃがんで語りかけた。

「君たち。喧嘩をしても楽しくないでしょ。試しにお友達になってお話しをしてごらん。とても楽しいよ。いじめをする子は弱いから、自分より弱そうな子をいじめて強いと思っているの。でも、弱い子でも二人になれば強くなるでしょ。友達がたくさんいる子は、弱い子をいじめなくても強いのよ。君たちがお友達になって、いじめられた子とお話しをしてごらん。きっとお友達になりたがるから。お友達の輪を作っていけば、誰も君たちをいじめられないのよ」

二人の子供は、恵の優しい眼差しに頷いて友達になり、いじめられた子に向かっていった。いじめっ子も友達になり、次のいじめっ子に向かっていき、楽しいおしゃべりがこだました。友達の輪がどんどんと大きくなっていくのを見て、恵は部屋を出てきた。

「みんなお友達が欲しいのよ。お友達になってお話がしたいの」

四つ目の夢を忘れた部屋には、思春期を迎えた子供から、成人前の若者まで、全ての青少年ではないかと思われるほどの魂が、集まっていた。

一つのグループでは、一人一人が別々の、ダンスのワンシーンを、限りなく繰り返していた。それは、機械仕掛けの人形のように動き、古い鳩時計の一歯車を思わせた。もう一つのグループでは、一人一人が別々の、歌のワンフレーズだけを、限りなく繰り返していた。それは、池の鯉が無数に集まって、不揃いに口をパクパクさせているようだった。

恵は、初めにダンスの魂に近寄っていき、二人の子供に声をかけた。

「君たち。互いに自分のダンスを教えっこしてみない。二つのダンスを合わせると面白いよ」

恵の優しい話しかけに、そっぽを向いていた二人が顔を見合わせ、互いに踊りを真似し合うようになっていた。初めはうまく真似できないで、間違って、笑い合っているうちに、互いに手を取ってダンスを教え合い、やがて、二つのシーンが組み合わせたダンスができ上がった。笑い声に、他のダンサーたちが振り向くようになり、二人が踊るダンスに興味を持ちはじめた。もう一人が加わって、三つのシーンが組み合わさったダンスが披露された。次から次へと教え合うようになり、何十ものシーンが組み合わさった、ダンスが踊られるようになった。いくつもの気の合った仲間が集まり、あちこちで、想像力溢れるダンスが作られて、義務的な動きから、心から楽しんでダンスを踊っていた。

歌の魂も同様に、恵の掛け声に従って、互いにフレーズを教え合い、あちこちで、全く新しい歌を歌っていた。やがて、ダンスの仲間と歌の仲間が交わって、夢を忘れた部屋は、どこまでも夢に満ちた、大ホールとなっていた。

「みんなロボットのようにされてしまって、夢が見られなかったのね」

恵は夢を忘れた部屋から出てきて、静かに語った。

恵は希望を強く持っていたが、体力がすっかり弱っているが見て取れた。詩織が付き添い、手を支えながら魔宮の出口へ向かった。

出口のある部屋に入ると、詩織が話していた、小悪魔が待ち受けていた。

小悪魔は、無邪気で愛らしい幼児にしか見えなかった。人懐こい笑顔ではしゃぎ声を上げ、どこまでも本能をくすぐってきた。

恵が近づいていくと、豊満な慈愛に、小悪魔の持つ邪悪が叫びを上げ、逃げ惑った。詩織が近づいても、身を固めた恵のウエアが慈愛を発し、逃げていた。

金剛が状況を察し

「私が捕まえます」

と言って近づくと、小悪魔は無邪気な幼児に戻り、手を出して抱っこをねだっていた。

良介は恵のリュックを用意して待ち構え、金剛が小悪魔を抱きかかえるとすぐにリュックに押し込んだ。

小悪魔は慈愛に満ちたリュックの中で泣き叫んでいたが、そのうちに泣き疲れするように、声が弱くなっていった。

良介は、魔宮を出る前に、持参した恵の持ち物の中から、鉢巻きを取り出して金剛に着けさせた。小悪魔を入れたリュックも金剛に預け、良介は恵みを背負う形を取った。

恵は負ぶさる前に詩織に近づき、

「今日が最後ですから、お兄ちゃんの背中を貸してくださいね」

と、思いやりを込めて囁いた。

詩織は顔を赤らめてすぐに応えていた。

「良介さんは、恵さんを最も大切にしています。私などは、足元にも及びません」

「私にはもう、お兄ちゃんと一緒の夢を見られなくなってしまったの。これからは、詩織さんが、お兄ちゃんと一緒に夢を見てあげてください」

詩織は、兄を思う妹の高貴な愛情を、しみじみと感じ取った。

魔宮を出ると、どこまでも広がり続ける闇が待っていた。それは閉ざされた心の世界で、凍りついた空気が所々で漂っていた。襲ってくるものは何も無かったが、出口を見つけるのが難しかった。

「走りましょう。どこまでも速く走り続けましょう」

恵の掛け声にみな頷き、良介を先頭に、少し下がって、左に詩織と風神、右に金剛と雷神が従い、一斉に走り出して、闇に虹色の航跡を残した。

恵は、良介に背おられているとすぐに幼い頃を思い出し、先の見えない疾走にもかかわらず、子供に戻ってはしゃぎ声を上げていた。

「走ってお兄ちゃん、もっともっと速く走って」

闇の世界だったが、二人の心は野原で風を感じて走っていた。

詩織と金剛にも、二人の心が伝わってきて、どこまでも満たされていた。

どんなに走れども明かりは一切見えず、出口を求めて当ての無い追跡が続いた。

恵はしばらくすると打開策を思い付き、新たな展開を求めて動いた。

恵は手を差し出し、詩織と金剛に触れて四者と二羽が一体となり、風神雷神が両翼を成して、光速のマシンに変身した。そして、広がり続ける闇の外を目指して一気に飛び出した。

閉ざされた心には、わずかながら思い出が隠れ潜んでいた。

闇の外へ出ると、先ず目に入ってきたのは、カラスノエンドウでうごめく天道虫を、一心に目で追っている子供の姿だった。小さな生き物の動く様子に、不思議を感じていつまでも見つめていた。

ギシギシの葉に、羽化したばかりのアゲハチョウが三羽、羽が乾くのをじっと待っている、新しい命の儀式を目撃していた。やがて、羽が乾いて、一羽、又一羽と飛び出し、故郷から少しずつ離れていく様子を見守っていた。

野原に一人屈んでいると、スズメが六羽、草をつつきながら近づいてきた。手を出せば届きそうなところまでやってきてチュンチュンと鳴き、最後には肩に止まられ、どうしていいのか分からずに、固まっていた。

公園で子犬と出くわし、じゃれ付かれて慌てて逃げ出していた。好奇心はいつしか後ろを振り向かせ、子犬の動く姿にいつまでも見入っていた。

回転木馬に乗って動きはじめると、揺れが怖くてしがみついていた。助けが欲しくて泣き出したが、いつまでも手を貸してくれるものはなく、木馬が嫌いになっていた。

三輪車に乗るのが嬉しくて、一生懸命走っていると、見慣れない場所にやってきてしまった。心細くて泣いていても、知っている顔はいつまでも現れなかった。

目を覚まして周りを見ても誰もいなかった。いくら泣いても何も起こらないので、泣くのをやめていた。いつしか、泣いても何も起こらないと思うようになっていた。

「とても寂しい思いをしていたのね。思い出を塗り替えてあげましょう」

恵は良介の背中から降りると、思い出に入り込み、ベッドでじっとしている子供に手を差し出した。

恵は子供と手を繋いで、野原へと連れていき、色とりどりの花を見て回った。

「お花の数を数えてみましょう。白い花がいくつ咲いている。一つかな。二つかな。黄色い花はいくつでしょう。三つかな。四つかな。あ、間違えちゃった。もう一度」

恵は子供の手を取って、花を指差させて数え歌を歌ってやった。子供は数を間違えるたびに笑い声を上げ、自分から、一つ、二つと数えるようになっていた。

恵は子供を背負い、

「これから風さんとかけっこしましょう。とても早く走るからね」

と言って、野原を走り出した。

「お花を踏まないように走りましょう。小鳥と一緒に走りましょう。今度はどっちへ行こうかな。小川かな。お山かな。どっちがいいの。お空かな」

恵が右へ左へと向きを変えるたびに、子供の笑い声がこだました。

今度は森へ連れていき、小鳥を見つけ、名前を当てて遊んだ。

「あの小鳥はなんでしょう。スズメかな。カラスかな。ちがうよね。そうだモズさんだ。あっちの小鳥はなんでしょう。ツグミかな。ヒバリかな。ちがうよね。メジロさんだ」

子供は小鳥の名前を覚え、自分で指差して名前を当てていた。

「お星様はいくつある。とってもたくさんあって分からないよね。でも、流れ星は数えられるでしょ。あの流れ星はどこへ行くのかな。あっちの流れ星はどこへ行くのかな。きっとプレゼントを運んでいるのよ。プレゼントが届くといいね」

子供は流れ星を、一つ、二つと、一生懸命数えていた。

子供の楽しそうな話し声が閉ざされた世界に響き、闇の一部に大きな窓が開きはじめた。明るい思い出が、閉ざされた世界を照らし出し、出口を映し出していた。

恵は子供を抱きかかえ、頬擦りをして、元のベッドに降ろした。そして、子供の背中を鼓動に合わせて優しくたたき、願いを込めて詩を口ずさんでいた。

「春に生まれた霧の子たちよ。野原のベッドを見つけてみましょう。花の香りでお休みなさい。花と踊る夢が待っています。夏に生まれた雨の子たちよ。川のベッドを見つけてみましょう。川のせせらぎでお休みなさい。魚と遊ぶ夢が待っています。秋に生まれた風の子たちよ。森のベッドを見つけてみましょう。鳥の子守歌でお休みなさい。鳥と歌う夢が待っています。冬に生まれた雪の子たちよ。山のベッドを見つけてみましょう。星を数えてお休みなさい。星と話す夢が待っています。小さな星の宝物。夢をたくさんたくさん見てください」

恵は子供を寝かし付けると、いとおしそうにいつまでも子供を見ていたが、最後に、

「楽しい夢をたくさん見るのですよ」

と言って、ベッドを後にした。

恵が良介の背中に乗って元の態勢に戻ると、

「子供たちには、いつも温もりが必要なのですね」

と言ってから、一気に飛び出していった。

閉ざされた門の前に立ち、恵は、子供にしたように数え歌を歌った。

「お花の数を数えてみましょう。白い花がいくつ咲いている。一つかな。二つかな。黄色い花はいくつでしょう。三つかな。四つかな。あ、間違えちゃった。もう一度」

恵の慈愛に満ちた歌声に呼応して門は静かに動き出し、閉ざされた世界が開門された。闇は薄れ、どこまでは澄んだ世界が広がりはじめた。