6、旅立ち

詩織を連れて家に戻ると、真二が気の利いた作り話をして、突然の来客を、人の良い両親に紹介した。

良介、詩織の服がぼろぼろになった原因を暴漢の所為にした。良介をヒーローに仕立て上げ、ヒロインの受け入れ理由を明らかにして、両親の深い同情を誘った。

母は甲斐甲斐しく詩織の面倒を見て、最大限のもてなしをした。詩織の汚れた姿に涙まで見せて対処を考えていた。有り合わせに恵の衣類を見にいくと、予期していたかのように、詩織に合った衣類が一塊になって用意されていた。

「恵は何を考えていたのだろうね。詩織さんが来るのが分かっていたのだろうか。洗面具や衣類がきちんと整理されて置いてあったのだよ」

 良介は、母親の不思議に首を縦に振って応えながら、恵の心を思い浮かべた。

 詩織は母の強い勧めで早めの入浴をすることになり、恵のタオルや着替えを渡された。詩織は、受け取った瞬間、崩れ落ちるように屈み込んでしまった。

 母が心配して、

「どこか具合が悪いようだね。念のために医者へ行って診てもらったほうがいいのではないのかね」

 と、良介の返事を促してきた。

 良介は、詩織の容態が恵の持ち物に起因していると察し、持ち物を受け取ろうとした。

 詩織は良介に視線を向けて首を横に振り、苦痛の顔を笑顔に作り変えて、

「私は大丈夫ですので、お言葉に甘えて先に入浴させていただきます」

と言って、母に頭を下げた。

良介は詩織を浴室に案内し、離れ際に頬に触れて、

「愛しています」

と言って、試練の最も力になる言葉を送った。

 詩織が恵のパジャマを着て現れると、やつれきった顔だったが、瞳には希望が満ちていた。良介は詩織を見つめ、隠れ潜むであろう魔性が絞り出されていく様子を想像した。

 夜具も恵の部屋に用意され、良介は酷に思えて、詩織に確認すると、

「恵さんの慈愛を体の隅々まで感じたいと願っています。良介さんを思えば、どんな苦痛にも耐えられます。できるだけ恵さんが身に着けていたものに触れさせてください」

 と、哀願するように訴えてきた。

 良介は客布団を隅に寄せ、今にも崩れ落ちそうな詩織の身体を抱きかかえて、恵のベッドに横たえた。詩織の身体は苦痛に歪んでいたが、瞳だけはどこまでも澄んでいた。

 詩織の身体を毛布で覆うと、苦痛がさらに増していくのが目に見えて分かった。良介は手を強く握り、詩織の苦痛を我が手に吸い寄せる思いで付き添った。詩織は、良介の思いを感じて安らいだ顔となり、やがて眠りに付いた。

良介は一睡もせずに詩織の手を握っていた。自分を必要とする人を見守る満足感が湧き出てきて、疲れきっているはずの肉体も精気がみなぎっていた。

 詩織は目覚めると、魔性を全て洗い流したことを告げる、精気に満ちた素顔を見せた。

 身体を横たえたまま、良介の視線から逃げるようにして涙を流し、

「私は良介さんにどこまでも守られ、甘えている悪い女なのですね。貴方の支えになりたいと言っておきながら、重荷をかけるばかりで、自分が嫌になってきます」

良介は詩織の手を放し、両手で顔を包み込んで視線を合わせた。

「私にとって夢ではない詩織さんが存在することが生きる支えなのです。重荷とか、嫌になるとか、言われるのが一番辛いのです。もう二度とに言わないでください。これからの私は、詩織さんの前では、何の変哲もない男です。詩織さんに甘えたいのです。詩織さんの全てが欲しいのです」

良介の切ない思いに詩織は唇で応えた。

恵のトレーニングウエアをまとった詩織が朝食の席にやってくると、

「あらまあ、恵と見間違いてしまいそうね。元気になったみたいで本当に良かった」

喜びが素直に伝わってくる、母の笑顔で迎えられた。

「大変お世話になって、申し訳ございません」

「こんな可愛らしいお嬢さんなら大歓迎だよ。うちの融通の利かない、良介のガールフレンドにでもなってくれれば、万歳をしたいくらいだ」

父の歓迎振りにも、詩織は深く頭を下げて感謝の意を表した。

「二人とも、そんなにはしゃぐなよ。詩織さんはお腹が空いているだろうから、さっさと食事にしてくれよ」

真二が呆れ顔でクレームを付けた。

良介はみんなのやり取りを見て、詩織が既に家族の一員になっているように感じられ、嬉しくてならなかった。

詩織は食事の準備に加わり、母とおしゃべりをしながら手際よく動いていた。

詩織を恵の席に着かせて食事が始まると、

「恵さんの一刻も早い快復を祈らせて下さい」

と言って、詩織は目を閉じて祈りを捧げた。

共働きの両親が出かけ、真二も素敵な人だねと言って、出かけ、二人きりになった。

二人になると、話し合っておかなければならないことを、詩織が順に話し出した。

初めに、最も辛い話しから始まった。

「私は魔界で愛憎を司る悪魔でした。人間の愛欲に付け入って、魂を奪うのが仕事でした。私は相手の欲する人間に生まれ変われるのです。相手の愛欲をそそり、翻弄して、人間の持つ魔性を呼び覚ますのが目的でした。どんなに口先で奇麗事を言っても、多くの人間が醜い本性を現し、悪魔に魂を売り渡してきました」

良介は目を閉じて聞いていた。

「良介さんに対しても、同じ手口で魂を奪おうとしました。悪魔たちは、貴方の力が、もはや力ずくでは倒せないと悟り、私に委ねてきたのです。しかし、貴方の思いやりはどこまでも深く、貴方の欲する女になろうとすればするほど、魔性が薄らいでいくばかりでした。貴方の醜い本性を引き出そうと、心の奥深く入っても、思いやりが溢れ、私は悪魔として骨抜きとなり、ただの恋する女になっていたのです。貴方に会って人間の尊厳を初めて知りました。人間になりたいと強く願っています。魔性は全て清められましたが、まだ、全てが人間へ生まれ変わったわけではありません。悪魔の影響を完全に断ち切ることができないのです。後は恵さんの力にすがるしかありません」

詩織は今話したことを、良介が何と受け止めているのか、切ない思いで言葉を待った。

「詩織さんは、私の求める理想の女性に間違いありません。たとえ貴女が悪魔でも、私は愛し続けます」

 良介は、俯き加減で聞いている詩織の頬に触れ、視線を求めて、心までさらけ出していた。詩織は一つのハードルを越えた喜びを感じながら、次の話に移った。

「恵さんは、悪魔にとっては強敵です。恵さんの発する慈愛は悪魔の力ではどうにもなりません。恵さん自らが命を絶つことを画策しています。恵さんの病も悪魔の仕業です。良介さんの重荷になっているよう思わせたのも、悪魔の仕業です。貴方を亡きものにしようとするのも、恵さんの支えを奪おうとするものです。今悪魔が暗躍しているのは、全て恵さんが標的なのです。でも、恵さんは悪魔に魂を奪われても、魔界そのものに慈愛を振りまいて、悪魔の奪った魂が蘇ろうとしているのです。神々の意思を宿す天使ではないかと思っています」

 良介は、詩織の天使との評価に頷いたが、あくまでも、愛する妹に過ぎないと考えたかった。

目を閉じると、恵と詩織の顔が交互に浮かび、心の比重を推し量っていた。二人を比較することなどできないと言い聞かせても、愛する思いが揺れ動き、選択を迫られる辛さがあった。今自分にとって、最も重要なのは恵を助け出すことだと、改めて強く心に決めていた。詩織に誓った愛は、どこまでが真実なのか自問自答した。

 詩織は良介の苦しみを察するように、言葉を発していた。

「人間になりきれないためか、人間らしさなのか分かりませんが、私の心の底で、貴方を魔界へ行かせたくないと言っています。貴方を私一人で独占したいと言っています。恵さんに嫉妬しています。女の性に焦がれています。でも、私の愛する人は、何よりも思いやりを大切にする人です。恵さんを助け出そうとする良介さんです。恵さんを助け出すまでは、私も思いやりを守る戦士として、悪魔と戦わせてください」

 良介は、生きていく難しさをひしひしと感じていた。詩織を危険な目に会わせたくないと、恵の救出より重きを置いてしまい、愛の行方が分からなくなっていた。どんなに強い愛を育んでも、入り組んだ人間関係があるからには、葛藤が起こるのはやむを得ないと理解した。

「詩織さんを危険な目に会わせたくないと言うのが本音です。でも、貴方を犠牲にしてでも恵を救い出します。私は薄情かもしれません。貴方の申し出を受け、戦士として厳しく見守っていくつもりです」

 互いに厳しい視線を向け合い、決意をみなぎらせた。

「恵さんの救出については、大きな問題がいくつもあります。良介さんの力は人間界では悪魔を遥かに超えています。しかし、魔界では悪魔の力が格段に強くなり、強敵と戦わなければなりません。恵さんの魂は魔宮の死を望む部屋に囚われています。どの部屋も出口の無い扉があり、いったん入ると出られなくなります。しかし、扉の途中で止まってしまえば、扉が開け放され、救い出せるはずです。扉が開放される時間がどれだけなのか分かりません。手際よく救出しなければならないでしょう」

 詩織の語る的確な情報を聞き、良介はどこまでも頼れる戦士を感じ取った。

「恵さんを、死を望む部屋から連れ出したら、次に魔宮を脱出しなければなりません。魔宮には出口が一つしかありません。出口のある部屋には、いたいけな幼児がいます。魂を救い出しにきた戦士が必ず通らなければならない試練のときなのです。幼児の正体は小悪魔と呼ばれ、人間を惑わして力を弱めてしまう魔物なのです。魂を救い出そうとする、優しい人間であればあるほど、子供の泣き声に手を差し伸べずにはいられなくなります。小悪魔を一緒に連れ帰ると、戦士の力は半減して、帰りに待ち受ける厳しい関門を突破するのが難しくなってきます。多くの戦士が小悪魔によって、逆に魂が奪われてしまいました」

良介は詩織の情報を聞き、小悪魔を無視することを頭に刻み込んだ。

「私が悪魔として帯びた使命は、小悪魔を奪われた王子と言って、貴方に救出の依頼をすることでした。救出の代償が私の肉体だったのです」

 良介は、詩織の語った筋書に、自らの欲望を問うてみた。恵への思いが変節して、欲望に走るのを想定してみたが、別人の詩織しか浮かばなかった。

「もし、筋書通り進んだとしても、私は惨めな思いをしていたのでしょうね」

 詩織は良介の心を見透かすように、皮肉の混ざった口調で付け加えた。

「小悪魔は、本当は平和な王国の王子だったのです」

 詩織の口調に深刻さが加わっていた。

「紛争やテロが頻発する世界にあって、争いの無い小さな王国があります。王様を中心に、国民が思いやりのある国造りがされ、地球唯一の楽園です。悪魔にとって見過ごしできない国家でした。そこで、平和の象徴として生まれた王子をさらってしまったのです。王様は嘆き、国全体が沈んで、今まで無かったいがみ合いが、各地で起こるようになりました。王国の平和を取り戻すには、小悪魔を元の姿にして返すことです。危険を冒さなければなりませんが、筋書通り小悪魔を連れ帰りたいのです」

 詩織が意思を目で確認してくると、良介は躊躇い無く頷いた。

「小悪魔を連れ帰るには、恵さんが使っていた袋に包んでしまうのがいいと思うのです。恵さんの持つ力で、小悪魔の力を押さえ込んで長い時間閉じ込めておけば、元の子供に戻っていくと想像しているのです」

「恵が幼い頃、リュックに入れて背負い、連れ歩いていました。その時のリュックを恵みは宝物として、大切に保管しています。恵の思いが凝縮されていると思います」

「恵さんの大切な宝物を持ち出していいのでしょうか」

「恵は持ち帰ったリュックを、益々思い出が膨らんだ宝物にするでしょう」

 詩織は、良介の言葉に包含される意味合いを考えながら頷いた。

「小悪魔の影響を受けなければ、良介さんの力はフルに発揮されるでしょう。どんなに強い相手でも負けないはずです。悪魔は人間を見くびっています。人間に欲望があるかぎり、悪魔は思い通りに暗躍できると思っています。私が貴方の思いやりで、人間に生まれ変わろうとしているのを、悪魔の高慢さが理解させないのです。筋書通り事が運ぶと思い込んでいます。貴方が魔界にくれば、簡単に魂が奪えると思っているのです。人間の尊厳を理解できない悪魔に、付け入る余地はいくらでもあります」

 詩織は悪魔との戦いに多くの懸念を抱いていたが、今は確信を持って語っていた。

「魔界の門は、人間の売られた魂が運ばれるときに乗ずれば、潜ることができます。魔宮までは関門もありませんから、簡単に到達できます。行きは良いが帰りが怖いのです。悪魔に売られた魂を取り返すのは、本人の力では絶対にできないのです。誰かが深い思いやりを注いでやらねばなりません。貴方の思いやりが絶対の力です」

 良介は魔宮までの行程を記憶し、その後の戦いがどんなものになるのか想像すると、わくわくしてきて、悪魔との戦いに少しも恐れを感じなかった。

「恵さんを連れ帰るとき、いくつもの関門を通らねばなりません。しかし、どんな関門が待ち受けているのか、それは私にも分かりません」

「帰りの話は必要ありません。詳しく予告されてしまったら面白くなくなってしまいます。どんな関門があろうとも、楽しみに待っています」

 良介は自信をみなぎらせて言った。

詩織には、どこまでが冗談で、どこまでが本気なのか分からなかった。

「良介さんは絶対に負けないと信じています。でも心配でなりません。今でも、貴方と二人でどこかへ逃げ出したいと思ってしまいます」

「どこへ逃げても心は逃げ出せません。精一杯やるのが生きることです。結果は二の次です。何もしないで逃げているより、全力でぶつかって打ち果てたほうが遥かに楽しいと思います。毎日を一生懸命過ごすのが楽しいのです」

 詩織は頷くしかなかった。

「いつ魔界へいけばいいのですか。私はできるだけ早く恵みを助け出したいのです」

「明日の二十二時にしましょう」

 良介が目覚めると昼を大分過ぎていた。いつ眠りに付いたのか全く記憶が無かった。詩織の、明日の二十二時との言葉だけが鮮明に残り、昨日の出来事は夢ではなかったのかと疑念が走った。すぐに詩織を見つけてみたが、家には詩織の痕跡が残っていなかった。

 恵の洋服ダンスの前に立ち、詩織が着ているはずの、恵のトレーニングウエアがあるか確認しようと思ったが、どちらの結果も知りたくないと、心が騒いでいた。

 食堂に母の伝言が置いてあり、

「疲れているようだから、アルバイトをしばらく休ませてもらうように言っておきました。あまり無理をしないで下さい」

と、書かれていた。

 良介は母の思いやりを感じ、ありがたく思いながら、詩織の痕跡を追っていた。

 詩織が姿を消すと、詩織との繋がりは絶たれ、連絡の手段は一切なかった。愛を誓った仲でありながら、夢の存在に過ぎなくなり、肉感も温もりもないスクリーンの姿だった。

 良介は恵を訪ねる前に、昨日着ていた、ぼろぼろになっているはずのトレーニングウエアを見つけてみた。新しいウエアが目に付いたが、昨日着ていたものは処分されていた。昨日の出来事を立証するものは一つも見つからなかった。

 新しいトレーニングウエアに手を通し、恵を訪ねると、優しさ溢れる寝顔が迎えてくれた。揺り動かせば目覚めるように感じられたが、安らぎを妨げる暴挙に思えた。

「明日迎えに行くから、楽しみに待っているのだよ」

 良介は優しく語りかけたつもりでいたが、深い眠りに付いている恵だけは、間違いなく現実だと、皮肉な気分を拭えなかった。

 恵を助け出そうとする意気込みは、何故だか少しも高まらず、トレーニングの延長線上に魔界が存在する感覚だった。最大の目的が揺らぎはじめた原因は、詩織から抜け切らない悪魔が暗躍しているのではとの疑念を抱いて、慌てて打ち消した。

 良介は恵の手を握り、一心に心を感じ取ろうとすると、恵が握り返してきたように感じられた。同時に恵が呼びかけてくる、微かな波動が伝わってきた。

「明日をとても楽しみにしているわ。お兄ちゃんにおんぶして魔界を走りましょう」

 恵から感じられるのは、悪魔との戦いというより、魔界を花園代わりに見学して回る雰囲気だった。恵の澄んだ心が伝わると、良介の心でうごめく雑念が消し去られた。

「走ってお兄ちゃん、もっともっと速く走って」

 恵の軽やかなはしゃぎ声が耳にこだまし、生きる原点を取り戻していた。

 いつもの時間になると、詩織は今まで着ていた白いウエアに替えて、薄いピンクのトレーニングウエア姿で現れた。

良介が、詩織が存在したこと自体、疑問に思いはじめていたところだったので、姿を見たときには、安堵感が笑顔になって、挨拶をかわしていた。

「今日もがんばりますので、よろしくお願いします」

 いつもの詩織が声をかけてきて、良介は、ウエアが恵のものなか判別しようとしたが、意味がないと打ち消し、どこまでも魅力的な女を感じていた。

「今日は厳しくしますから、覚悟をしておいてください」

「怖いことを言わないでください。私はか弱い女なのですから」

 良介は、詩織の冗談交じりの言葉を無視するように走り出した。

初めはゆっくりと走り、四キロのコースを一周するごとにペースを上げていった。良介は、ペースを上げるときに指示するだけで、言葉を発しなかった。詩織を見ることもなく、ただ息遣いを感じながら、黙々と走った。昨日の出来事がどこまでが夢で、どこまでが現実だったのか分からなくなり、詩織との関係がどこまでなのか、知るのが怖かった。

四周目に入ってスピードが格段に上がり、既に詩織の限界を超えているはずだったが、呼吸を少しも乱さなかった。良介は、詩織も自分と同じように、夢と現実との境がないと確信し、話しかけていた。

「思いやりを守る女戦士になっていただけるのですね」

「今日はその覚悟で走っています。良介さんの指示に何でも従います。でも、少しは男と女の関係を残しておいてください。私にはロボットになり切れないのです」

「私もロボットではありません。夢と現実の区別が付かなくなって、女としての詩織さんに翻弄されています。貴女が側にいないと空しくなってきます」

「とても嬉しいです。これで思い残すことなく、女の魔性を消し去れます」

 良介は詩織と手を繋ぎ、現実の速度から離脱して、精神が作り出す速度へと切り替えていった。二人の身体は距離と時間が存在しない空間に飛び出し、精神と実体とが一つになって、思い通りに走り回った。

 良介は、怖がる詩織をなだめ、ゆっくりと手を放してみた。一瞬、詩織の姿が消えかかったが、良介の送り出した思いやりが、詩織の精神を誘導して元に戻した。二人の心は一つになって、宇宙空間へ飛び出していった。

 良介が気付くと、いつものランニングコースを走っているところだった。

詩織の息遣いが間近に聞こえたが、夢の存在との疑念が再び頭をもたげてきた。このまま離れてしまうと、手の届かない世界へ姿を消し去ってしまうように思えた。現実に留めておくべく、手を握って放さなかった。

良介には詩織を家に連れ帰ることしか考えられず、もし拒まれれば現実を捨て去ろうとも考えていた。詩織は何も言わなかったが、身体をもたれかけてきて、意思を表した。

 良介は家に帰ると、詩織を交え、真二に恵の救出について詳しく話した。

「俺たちにできることはないの」

「今回は魔界での戦いだから、真二たちの力は借りられないと思う。詩織さんも思いやりを守る女戦士として一緒に戦ってくれる。風神雷神も連れていく。だから恵は絶対に取り返せる」

「何も力になれないのは寂しいけど仕方がない。兄貴のことを思い続けているよ」

「真二を一番頼りにしている。真二がいるから思いっきり戦える」

良介は、真二の思いやりを心行くまで感受していた。

良介と詩織は、恵の部屋で、魔界に持っていくものを用意した。恵が身に着けていたものが力を貸してくれると確信し、小悪魔を抱えるリュックを初め、バック、鉢巻き、タオル、縄飛び、風神雷神の首にかける鈴と足に着けるリングなど、思い付いたものは何でも取り揃えた。そして、詩織は恵が長く身に着けていた衣類を戦闘服に選んだ。

翌朝、前日と同じ朝食風景ができ上がり、詩織を巻き込んで、家族的な雰囲気が頂点に達していた。詩織はすっかり家族の一員となり、両親も認める、揺るぎない許嫁に仕立て上げられていた。詩織は家族愛を全く知らずにきて、その温もりを肌で感じ、しばし涙を見せて、礼を尽くした。

良介の提案で、土曜休日の一日、詩織が主婦となって、賄いをすることになった。

良介は、魔界へ旅立つ前に、詩織に人間らしい生活を少しでも多く味わってもらいたいと願った。洗濯、掃除、買い物、料理と、良介も一緒になって家事をこなしていった。やること一つ一つが、大切な家族の生きる源になることを伝え、噛み締めていた。

真二は詩織を姉さんと呼び、母はお嫁さんと呼び、父は娘と呼んだ。十時に団欒を味わい、昼に食卓で賑わい、三時に語らいを楽しんだ。ごくごくありふれた家族でいるのが、どこまでも幸福だと実感させた。

夕食は、真二の気の利いた計らいで、詩織の送別会が兼ねられた。詩織の仕事の関係で、良介が付き添って旅行に出るとの筋立てだった。プレゼントまで用意され、真二はブローチを、母は真珠の首飾りを、父は時計を、思いやりを込めて手渡した。

詩織は受け取ると、涙をいつまでも流し、感謝の思いを伝えていた。

詩織は良介と二人になると、堪えきれないように語り出した。

「これが本当の夢なのですね。家族が揃って互いに思いやるのが、これほど素晴らしいとは思いませんでした。夢の源になる、家族が崩壊してしまうのは、とても理解できません。思いやりが失われるのが、とても理解できません」

良介は詩織の問いに、首を横に振って答えるしかなかった。

二人とも体を清め、トレーニングウエアの戦闘服に身を固めた。詩織は家族からの贈り物を身に着け、旅立ちの準備を整えた。二人の姿を見て、両親は怪訝な顔をしたが、何も言わずに、無事を祈って見送ってくれた。

真二が見送りに中々姿を見せなかったが、慌てて飛んできて、一緒に歩き出し、

「恵からメールが届き、お兄ちゃんにもらった手鏡を持参してくださいと、言ってきたよ。これがそうだと思うのだけど」

と言って、鏡を差し出した。

良介は鏡を確認し、

「手鏡までは気が付かなかったな。真二、ありがとうよ。確かに、恵の魂が込められているかもしれない。恵は鏡を見るのを嫌っていた。病弱な自分を卑下する恵が痛ましくて、何とか鏡を嫌がらないようにしたかった。お兄ちゃんの一番好きな女の子が、この鏡に入っているよ、と言って、手鏡を一緒に見るようにした。それから宝物として大切に使ってくれた」

手鏡に込められた、魂の逸話が語られ、良介が腰に着けた恵のバックに、大事そうにしまわれた。

「兄貴、あんまり泣かせるような話をするなよ。涙が出て止まらないじゃないか」

真二は涙を隠さずに、良介と並んで付き従った。

詩織は一日中感涙に暮れ、涙が枯れてしまいそうだった。兄弟の後ろ姿を見て、人間であることの喜びを噛み締めていた。恵を天使に仕立て上げたのは、良介の思いやりであり、真二や両親の思いやりだと分かった。

河川敷のグランドへ行くと、真二の計らいで、鳥仙人と五人の仲間が見送りに駆けつけていた。オオタカの風神雷神も、既に鳥仙人の肩に止まって待っていた。

良介は雷神、詩織は風神を肩に乗せて旅立ちの準備が整った。良介は仲間一人一人と手を強く握って、言葉の代わりに視線で様々な思いを伝え、詩織も従った。

仲間は手を繋いで思いやりを守る戦士を囲んだ。そして、目を閉じると一心に無事を祈り、旅立ちの儀式が厳かに行われた。

仲間の思いやりが、戦士たちに注ぎ込まれると、戦士の体から希望の輝きを発し、一瞬にして大空に舞い上がった。

詩織が指定した二十二時になると、青白いサーチライトが魔界門を映し出し、魔界門が輝きを強めると、大きな口を開けた。

良介は詩織の手を取り、互いに頷きあって、魔界門へ駆け込んでいた。

魔界の大地に佇むと、茫漠とした世界が広がっていた。魔宮だけが鮮やかに浮き上がり、帰路のない片道が続いていた。他は、片面しか持たない不条理の世界で、果てのない空間が広がっていたが、行きがけには見渡せなかった。

良介は詩織を引き寄せ、口づけをした。

「少しは男と女の関係を残しておかなければ、怒られてしまうからね」

良介が余裕の笑顔を見せると、恐怖の色を隠せなかった詩織の頬に、艶を蘇らせた。

「良介さんはどこまでが冗談で、どこまでが本気なのか分からない人ですね」

「どこまでが間抜けで、どこまでが愚かと言いたいのでしょ」

「こんな時に冗談はやめてください。私は怖くて、今すぐにでも戦士の名を返上して、貴方にしがみつきたいと思っています。負けないと信じていても、怖いのです」

良介はもう一度唇を合わせ、愛する思いを見つめて伝え、片道切符と承知のうえで、魔宮への道を歩き出した。