5、星空を走る 日が暮れるのが早くなり、夕方のトレーニングのときは、星が鮮やかに輝くようになっていた。 良介は、魔界の入り口がどこかの星だと予感し、オリオン座の方向が前々から気になっていていた。街のサーチライトが空高く伸びて、オリオンの星星を照らすと、一段と輝きを増す星があった。その星に向かって疾走すると、身体が浮き上がり、時には吸い寄せられるよな感覚があった。良介はその星を魔界門と呼び、走りながら監視をしてみた。 魔界門を監視するようになって、いつでも見えている星ではないと分かった。そのうちに、街の空を駆け巡る数あるサーチライトの中で、魔界門一点に向けて発せられる、青白い光の帯を突き止めていた。それがどこから発せられているのか、つかみどころがなく、光の中に何も見出せなかったが、照射されると魔界門が姿を現し、あたかも交信でもしているように、時として異様な輝きを発するのだった。 良介は、悪魔に売られた魂が、魔界に吸い寄せられる光景を想像した。魔界門目掛けて飛び出せば、魔界へ入り込めると確信するようになっていた。しかし、いつ、どうやって魔界の門を潜るのか、何の目安もなかった。恵の合図があると考え、気持ちはすぐにでも飛び出したかったが、魔界門の監視を怠らずに待ち受けた。 良介の走力は既に必要以上の力を得て、後は、走力を超えた精神力を身に着ける段階に入っていた。今までは恵の力を借りて超能力発揮してきたが、自らの力で制御しなければならなかった。 走りながら、今までに出会った人々を思い浮かべると、徐々に相手のパワーが体にしみこんでくるのが感じられた。真二からは、卓越した知恵を感じ取り、金剛からは時代見識が育まれ、鳥仙人からは経営哲学を受け継ぎ、風神雷神からは自然現象を操る術を学んだ。そして、恵からは限りない慈愛を注ぎ込まれ、思いやりを守る戦士として確実に完成していった。 良介が走っていると、橋の水銀灯に照らされた、一人佇む女の姿が目に入ってきた。女は夜目にもハッキリと映し出される、白いトレーニングウエアを着ていた。すっかり暗くなった状況で、女一人では物騒に感じられたが、声をかけるのも憚れ、頭を下げるだけで通り過ぎようとした。 女は良介の素っ気無い態度をとがめるように、 「すいません」 と言って、呼び止めてきた。 良介は、女の発する声音に、当然声をかけるべきだとの意思を感じ取り、幾分申し訳ないとの思いが湧いた。しかし、良介の経験からすれば、見ず知らずの女性に声をかける方が失礼だと判断された。戸惑いを感じ、立ち止まって女に対面するだけで、言葉は発しなかった。 「大変ご無理なお願いをするようなのですが、ランニングのお供をさせて頂けないでしょうか。事情があって、こんな時間でなければ、トレーニングができないのです。暗くても問題はないのでしょうが、心細くて、一緒に走って頂けると大変ありがたいのですが」 良介は対面して、初めて女の顔をハッキリと確認し、一瞬、初恋の人、知江ではないかと思われた。胸が高まり、顔が赤らむのが感じられたが、よく見るとどことなく違っており、別人と分かって、平常心を取り戻した。 「トレーニング内容がご一緒できるなら、私のほうは一向にかまいませんが」 良介は、異性に対するときめきは少しも感じないで、事務的に応えた。 「どうもありがとうございます。私は詩織です。少しでも早く走りたいと思っています。できるだけ貴方に付いていけるようにがんばりますので、よろしくお願いします」 詩織は屈託のない笑顔を見せて頭を下げた。 良介は男女交際の経験が乏しく、詩織が見せた笑顔に、女性を強く意識しないわけにはいかなかった。今までは子供心で恵を見ており、異性に思いを寄せても、平面的な姿に想像を織り交ぜた恋心で、女性の持つ魅力を間近に感じるのは、これが初めてだった。心が引き付けられる反面、未知の魅力に怖さも感じ、中途半端な思いで接するしかなかった。 「私は良介と言います。お役に立てるのなら、協力をさせていただきます」 詩織は頭を軽く下げて、走り出しの合図をした。 良介も暗がりで見えるように、白いトレーニングウエアを着ており、あたかも、恋人同士が、お揃いのユニホームで走っているようだった。 良介は詩織のペースを意識しながら走っていると、 「スピードを上げても大丈夫ですよ」 と言って、詩織はペースアップを要求してきた。 良介は、話をしたいとの思いとは裏腹に、ただ頷いて応えるだけだった。徐々にスピードを上げていったが、詩織は呼吸の乱れを少しも見せなかった。 「前に何度か走っているのを見ていたのです。毎日トレーニングなさっているのですね。とても早いので驚いています。私などが一緒だとお邪魔になると思ったのですが、どうしてもこの時間にならないと走れないものですから、ご無理を言いました」 「秋になると日が短くなって、六時を過ぎると真っ暗になってしまいます。暗いと走りづらいですが、星空を見上げて走っていると、空に駆け上がっていく気分になります」 「ロマンチックですね。私もそんな気分になってみたいです」 「全て夢です。でもいつまでも夢を見ていられればいいと思っています」 「私には夢がありません。走るのは、あくまでも健康のためです。ごく平凡な生き方を望んでいます。ありふれた生活の中に、何よりも素晴らしい幸福があると思っています。でも、平凡でいるのは大変難しいと思っています。だから、平凡こそ夢なのです」 「私にはよく分かりません。でも、ごくありふれた時間が夢に感じられることがあります。夢と現実の違いがなくなり、自分の気持ち次第で、現実を夢として見られるのかもしれません」 「私の考えている夢と同じですか」 「よく分かりません」 良介は、ランニングだけの事務的な会話を意識していたので、詩織との語らいにいくらか戸惑ったが、詩織の声がどこまでも心地良く聞こえた。 「私は世間知らずで、融通が利かないものですから、女性の心が分からないのです」 「良介さんの口調は事務的に聞こえますが、気遣いが感じられます」 「気が利かないので、色々と考えるのですが、ありきたりの応えしか出せないのです」 良介は、走るペースを意識していたが、今は走るより、会話が目的となっていた。 ペースは一定に保たれ、それは、二人にとっては、ベンチに座っているのとなんら代わらない感覚で、男女の艶のあるおしゃべりをするのにはもってこいだった。 詩織は身体を寄せて、 「私のような厚かましい女は嫌いですか」 と、いくらか悪戯っぽい口調で語りかけてきた。 良介にとって全く未知なる問いかけに、すぐには答えが出せなかった。詩織がどんな答えを望んでいるのか想像しても皆目分からず、結局は事務的な答えを見つけていた。 「私には、自分から気を利かして女性のお役には立てません。言ってもらったほうがいいのです。私の目から見ると、多くの女性が強く振る舞っているように見えます。独立心があるのは良いことだと思いますが、本当は弱い面も持っている気がします」 良介は辛うじてその場を繕う言葉を見つけて話していたが、途中で何を言おうとしているのか分からなくなり、言葉を詰まらせていた。 「きっと、控えめで、淑やかな女性がお好きなのですね」 詩織の言葉は良介を悩ませるばかりだった。女性を好き嫌いで判定する経験も度胸もなかった。むしろ、女性を意識しないのを常としてきて、全く別世界の生き物との感覚があった。 恵だけが特別で、女性の本来あるべき姿と考えるが、現実にはどうしても結び付かなかった。思いやりを守ることを使命としながら、女性蔑視の意識は、完全には抜けておらず、女性に対しては、至って消極的な姿勢となっていた。 良介がいつまでも言葉を発しないでいると、詩織は走るのをやめて謝ってきた。 「失礼なことを言ってしまったようで、ごめんなさい。軽い気持ちで聞いただけで、ご気分を悪くさせようと思ったのではないのです。本当にごめんなさい」 良介も立ち止まり、詩織に近づいて対面した。月明かりに映し出された詩織の表情は、悔恨と憂慮に満ち、女性の弱さから発するいたいけな美しさを感じた。気さくな男女の語らいに、水をさした自分が呪わしかった。 「私が沈黙したのは、自分自身に不快感を持ったためで、詩織さんに気分を悪くしたからではありません。こちらこそ、融通が利かなくて申し訳ありません。端的な話しかたをする人は嫌いではありません。詩織さんと話していると勉強になります」 良介は嫌いではないと語り、勉強と付け加えたが、本当は好きと言い、楽しいと話したかった。だが、どうしてもできなかった。ほんの二十分に満たないわずかな時間に、二十年近い人生で、一度も経験していない出来事が矢継ぎ早に起こり、詩織への思いをこれ以上高めるのが怖かった。 「私がお嫌いではないのですね」 詩織の問いに、良介は首を縦に振って笑顔で答え、再び走り出す姿勢を取った。 互いに口数が少なくなったが、良介は詩織を側に感じて走るのが楽しくなっていた。 今までは恵に思いを馳せ、走っているときも一体感が感じられたが、互いの自立を意識するようになると、走るのが当てのない孤独な闘いとなっていた。詩織の存在が大きく心を揺り動かすのは、心に不足があったからだと、何となく分かった。 「明日もトレーニングに参加させて頂いても宜しいですか」 詩織の屈託のない問いかけに良介は一瞬ときめいて、喜びが満ちてくるのが分かった。 「私は毎日この時間に走っていますので、お望みならいつでもいらしてください」 良介は最後の一周を心行くまで楽しみながら走り、切りを付けた。 詩織の住まいを聞くこともなく、人通りのある街角まで先導し、軽く頭を下げて別れた。 良介は、家に向かってゆっくりと走りながら、今起きた出会いを思い浮かべると、脳裏に暗い影が差すのを感じた。一瞬、悪魔の名が浮き上がってきて、詩織を同列に置いていた。懸命に打ち消したが、完全には拭えなかった。 良介が家にも戻ると、真二が恵の部屋に呼び寄せてきた。 「恵からメールが届いたよ。恵は魔界でパソコンでも始めたみたいだよ」 真二の楽しそうな口調に同調しようとしたが、良介は平静を装うのがやっとだった。詩織への微かな疑念は、最も望んでいた情報をも、心を浮かせてくれなかった。 恵からのメールが意味するのは、今は恵の心が良介に直接伝わってこない証だった。パソコンに恵の意思が伝わるだけでも喜ばしいと思った。だが、記されている内容が、詩織の存在を明らかにする可能性も考えられ、メールを見るのが怖かった。 「親愛なる兄上様。悪魔の誘いに応じて、魔界の門を潜ってください。恵」 真二の読み上げた文面は、詩織が限りなく悪魔の可能性を示していると思った。体の力が失われそうになったが、辛うじて堪え、椅子に腰を降ろした。 「兄貴、何かあったのかい」 真二がすぐに気付いて、心配そうに問いかけてきた。 良介は首を横に振って否定するだけで、真二に全てを話す気にはなれなかった。詩織が悪魔の使いと決まったわけではないと、心に言い聞かせ、言い訳を考えていた。 「恵の心は、もう兄ちゃんには伝わってこないみたいだ」 真二は良介の気持ちをすぐに察したように頷き、パソコンへ向き直った。 真二の後ろ姿から、鋭敏な感性が納得していないのが分かった。真二に隠し事をするのはどうしても耐えられず、言葉を付け足した。 「まだハッキリしないが、悪魔が動き出しているのかもしれない。実際に誘いがあったわけではないから、勘違いかもしれないので、明らかになったら詳しく話すよ」 「兄貴のことだから、間違いは起こらないと、信じているから大丈夫だよ」 真二の思いやり溢れる言葉に、良介は泣きたいくらいにありがたかった。 部屋に戻ると、詩織の姿と、悪魔の文字が交互に浮かび上がった。詩織の現れかた自体が余りにも不自然で、悪魔が仕掛けた罠だと考えずにはいられなかった。 良介は、恵に頼ることもできず、自分を冷静に考えてみた。 今までの人生は恵を中心に築き、恋愛に縁が無かったと納得してきたが、百パーセント望んだものではなかった。恵も、自分の新たな旅立ちを願っていたのではなかろうか。恵一筋の自分の姿が、重荷になっていたのに違いない。恵は、自分を縛りつけることに呵責の念を抱き、死をも望んだのではないのか。 己の臆病が、多くの災いを招いたと、悔やまずにはいられなかった。 良介の心には、コンプレックスと、女性に対する不信があった。時代が作り上げたヒーローヒロインは、規格違いの大きな人間ばかりだった。実生活との違いが認識されているとの期待を持っていたが、良介は小さいがために、蔑視の視線を何度も浴びてきた。 見てくれで判断する人間は相手にしないと振り分けていくと、異性が交友の中に一人も残らなかった。本当は、相手の問題よりも、自らの気持ちが逃げ腰だったと、今は考えるようになり、コンプレックスや、異性に対する不信はないと言い聞かせていた。むしろ、考えないと言った方が正しかった。 思いやりを守る戦士として完成するには、恋愛を知るのも重要な課題だと、薄々気付いていた。女性の心理を知るのも必要不可欠だった。詩織は両者を学びえる、最大のチャンスだった。行き着く先が破局との筋書が見えていても、どこまでも騙され続けてみようと決心した。 翌日、ランニングを始めてすっかり暗くなった頃に、詩織が姿を現した。昨日の約束が履行されるか疑問を抱いているときだった。 「今日もお仲間に入れてください」 詩織の、けれんみのない話しかけに、良介がどうしても吹っ切れなかったもやもやが、一瞬に霧散し、神々が気まぐれに与えてくれた一時のロマンスと、割り切ることができた。 二人並んで走り出すと、良介は昨日の堅苦しさがすっかり抜けて、自分から言葉をかけていた。 「詩織さんは、本当はどんな目的で走っているのですか」 「空を駆け巡りたいからです」 「私と同じですね」 良介がもっともらしく応じると、 「今日はすっかり打ち解けてくださったのですね」 と言って、詩織はくすくすと笑った。 「昨日の私には、余計な先入観が取り付いていました。今はどこまでも自然体でいこうと思っています」 「良介さんを変える、何か特別なことでもあったのですか」 「詩織さんに会えたからだと思います」 良介の、愛の告白とも取れる言葉に、詩織はすぐには応えてこなかった。 「誤解をしないでくださいね。詩織さんを我がものにしようと考えているわけではありませんから。詩織さんとこうして走っていられるだけで、楽しいのです」 「私も良介さんと走っているのが楽しいです」 良介は頷くと、ペースを上げ、詩織も遅れを取るまいと肩を並べてきた。 二人は白い弾丸となり、夜陰に二本の白い弾道を残して走り続けた。 「私は人間でも本当に空を走れるのではないかと思っています。星空に向かって全力で走ると、身体が宙に浮いて感じられることがありました」 「私にもできますか」 「きっとできると思います。そのうちに試してみようではありませんか」 「どうすればできるようになるのですか」 「気持ちだと思います。人を思いやる強い気持ちが、不可能を可能にするのです」 「私にはどう言うことか分かりません。健康とかスタイルとか、気まぐれな思い付きで走るようになり、今は走るのが面白くなって、楽しんで走っているだけなのです」 「私はいつでも最大の力を発揮できるように走っているのです。私を必要としている人を守るためです。どんな危難が降りかかってくるか分からないですから」 詩織からの言葉は途絶え、わずかな沈黙が訪れた。 「良介さんはいつも弱い人を守っていこうと考えているのですね」 詩織はさらに言葉を続けようとしたが、言葉は先細りに消えて、聞き取れなかった。 「先日、中学生がホームレスの人を襲おうとしていました。気が付いたので、大事にいたりませんでしたが、平和と言っても、本当は、いつも危険が隣り合わせだと思います。女性が夜道で走るのは大変危険なことです。それなのに詩織さんと初めて出会ったとき、素知らぬ顔で通り過ぎようとした自分が恥ずかしくなります」 「仕方がないですよ。私は事前に良介さんを見ていて、この方なら安心してお願いできると分かっていたから、図々しく伴走をお願いしたのです。全く知らない男性に声をかけられたら、かえって警戒して、逃げ出していたかもしれません」 「そう言っていただくと気が休まります。しかし、私の課せられた任務を考えると、怠慢に他なりません。異性との交流は大変難しいと感じています。見ず知らずの男性に声をかけられるのを待ち受ける女性も少なくないようです。女性の無警戒によって起こる事件が後を絶ちません。自分からどこまで積極的に女性に近づいたものか、私には分からないのです。詩織さんが申し出てくださったのは、本当にありがたいと思っています」 「本当に思いやりがあるのですね。良介さんは思いやりを守る戦士のようです」 詩織は真剣な口調で、思いやりを守る戦士を口にした。 良介は、詩織の言葉に悪魔の影は脳裏から完全に消え、詩織をいつまでも守っていたいとの思いが懇々と湧いてきた。 満天の星空のもと、詩織の息遣いを感じながら走った。言葉の必要を感じないで、星空を走っている夢をいつまでも見ていた。詩織と一緒にいる夢を見られたが、恋愛は空想できなった。男女の仲で女性を愛するのが怖かった。詩織を傷つけるのが怖かった。詩織がどこまでも生きる灯火に近づいても、一緒に走る姿しか浮かび上がらなかった。 良介は時間の過ぎるのを忘れていたが、星空を見上げたとき、ちょうどオリオンの星星に視線が向いて、一際輝いている魔界門が目に入り、我に返った。 気が付くと、トレーニング時間がとっくにオーバーしているのが分かり、 「うっかりして時間が大分過ぎてしまいました。申し訳ありません」 と言って、スピードを徐々に緩めていった。 詩織もすっかり口数が少なくなって、良介の掛け声で本来の自分に戻ったようだった。 「どうもありがとうございました。星空を走るのがこんなに楽しいとは知りませんでした。夢を見ているようで、時間が過ぎるのを忘れていました」 「全てが夢なのかもしれませんね。私は夢と現実の境が無くなって、何が本当なのか分からなくなってきます。夢も素晴らしいけど、現実も素晴らしいことがたくさんあると思います。でも、詩織さんも夢で、もう二度と現れないかもしれませんね」 良介が笑顔で話すと、詩織は立ち止まり、 「私は夢ではありません」 と言って、握手を求める形で手を出してきた。 良介は詩織の手に触れるのに躊躇いがあったが、ゆっくりと手を差し出した。 詩織は良介の躊躇いを察するように、自分から手を合わせ、温もりと共に現実を伝えてきた。 「それから、昨日の話の続きですが、詩織さんの夢と私の夢は限りなく近いと思いました。平凡でいるのがどんなに大変か、私にも何となく分かりました。詩織さんのような方には、ぜひ幸せになってもらいたいと思います。私にお役に立つことがあれば、何でも言ってください」 時間をかけて考えた結果を報告すると、良介は何となくほっとした気分だった。 しかし、詩織は顔を曇らせ、俯き加減となった。月光に映し出された詩織の表情から憂いが感じられ、良介は、悪いことを言ってしまったと、後悔していた。同時に、詩織からどこまでも繊細な心の機微が伝わり、たまらなく美しいと思った。胸がときめいて、何をしたらいいのか分からなくなって、ただ、謝ることしか頭に浮かばなかった。 「余計なことを言ってすいませんでした。悪気があって話したつもりはないのですが、無神経で、本当に申し訳ありません」 良介は深々と頭を下げた。 「謝るのはやめてください。私は、良介さんのお話に感動しています。ただ、思いやりのこもった言葉に、現実が分からなくなってしまったのです」 詩織は、続きを言おうとしているようだったが、言葉は出てこなかった。 良介には詩織の言おうとしていることが分からず、傷つけてしまったと、後悔だけが残った。気まずい思いで、街角まで送った。 詩織は別れ際にもう一度手を握って、じっと見つめてきた。良介には責められているとしか考えられなかったが、街灯に照らし出された詩織の素顔に、心がどこまでも惹かれていた。顔が熱くなるのを感じ、どうしていいのか分からず、ただ横を向くだけだった。 良介が家に戻ると、真二が、夢会社の構想を話してきた。 「現代は受験のテクニックを教える学習塾はあっても、夢を追う塾は一つもないみたいだ。子供たちが夢を見たくても、夢の元になる知識や経験が得られないと思う」 真二の力の入った語り口に、良介も身を乗り出して聞いた。 「先ず作らなければならないのは、夢追い塾だと思う。夢を見られるように、できるだけ色々な世界を見せるようにしたい。今子供たちが見せられているのはテレビに映る、わずかな、浮ついた世界だけで、ちっぽけな夢しか見られないようになっている。大自然や農業、伝統工芸、科学技術、芸術など、ありとあらゆるものを実体験できる施設を作り、コンピュータと映像を融合して、できるだけリアルな世界を作りたいと思っている。子供たちの視野を広げてやれれば、ほっといても大きな夢を見られのではないのかな」 「素晴らしい考えだよ。技術的に難しさはあるだろうけど実現不可能ではないと思う」 「次に夢作り大学を考えている。子供たちの見た夢を実現するための大学にしたい。障害者の人がハンディを感じないで済む装置の開発にも力を入れる。最新技術と、昔からの技術、技巧を融合して、先進的な世界を目指し、同時に伝統文化を継承していきたい。新しいものばかりが人間にとって善いとは限らない。伝統というのは、人々の暮らしに適合しているから成り立っていると思う。古いものは何でもノーと言う傾向は絶対に間違っているよ。既存のものの良さを充分に知ってから、新しいものに目を向けるべきだ」 「伝統文化の後継者が減っているのは、若者が目を背けさせられているからだと思う」 「そして、夢工場を作りたい。夢作り大学で開発したものを実用化していく会社で、儲からないからと言って目を背けられているものを生産する。失われようとしている伝統技術を集めて、多くの若者が実体験できる場所にもしたい」 「もし実現すれば、本当に素晴らしいよ」 「この計画は全て子供の夢から出発する。テーマは、夢をいかに実現していくかだ。子供の個性を引き出し、夢をたくさん持たせなければ意味がない。一番問題になるのは大人たちで、夢追い塾が成り立つかどうかは、親が夢の価値を分かるかどうかだ」 「確かに難しいところだな。でも、誰かがやってみないことには始まらない」 「兄貴は賛成してくれるのだね」 「大賛成だ。早速鳥仙人と話し合ってみよう」 鳥仙人は、少年らの非行を招きかねない姿を変えて、今はホテルで、良介の連絡を待っていた。良介が電話をすると待っていたとばかり、翌日に会合の約束をした。 真二は最後に、 「恵からまたメールが届いたよ。お兄ちゃんがんばって」 と言って、恵の思いをそのまま表情に表して優しい視線を向けてきた。 翌日の、真二と鳥仙人との話し合いは、真二の五人仲間、敦志、純一、寛明、秀敏、俊輔も加わり、長時間に渡って行われた。真二の構想はすぐに受け入れられ、もっぱら、みんなが持っている夢を語るのに時間が費やされた。鳥仙人はみんなの夢を聞くのが楽しくて仕方がないという表情をしていた。 良介は途中で抜けて、いつものようにトレーニングに出た。 昨日の、詩織の別れ際の顔が思い浮かび、握手には別れの意味が含まれていると考えていた。もう二度と現れないような気がした。むしろ、夢だったようにも思え、女性恋しさから出た、厭らしさを意識しないわけにはいかなかった。詩織の素顔が、生々しく心に迫ってくるのも確かだった。 詩織が出現してから疎かになりがちな、魔界門の監視を意識して走った。まだ明るさが残っているうちは姿を見せず、星が見えるようになって、不規則な間隔で見え隠れしていた。そして、魔界門が一段と輝いた後に、詩織が姿を見せたのだった。 良介は、詩織の正体が魔界に連なることを悟ったが、少しも気にならなかった。詩織が現れてくれただけで、心は満たされていた。詩織との時間を、男として精一杯演じられればいいと思った。 「今日も星空が素敵ですね」 詩織は、どこまでも魅力的な女となって、笑顔で挨拶し、走り出した。 「今日は空を飛べるか試してみましょう」 「本当ですか。もし飛んでしまったらどうしましょう」 「星空を駆け巡りましょう」 「大空に舞い上がったら、怖くて失速してしまうかもしれない」 「私が背負ってあげますよ」 「約束ですよ。知らん振りしてさっさと行ってしまうのは嫌ですよ」 良介は笑い声を上げるだけで、黙っていると、詩織は良介の袖を引いて、 「ちゃんと約束してください。私は高いところが苦手なのですから」 と、言って、約束を促してきた。 良介は笑顔で頷いて、走るペースをいつもより上げていった。 詩織の息遣いが荒くなると、良介は手を差し出して、詩織の手をしっかりと握った。二人の身体が一つになると、オリオン座を目指して一気にスパートした。 それはほんの数秒の出来事だったが、ジャンプをしたとの感覚ではなく、宙に浮いている感触が残った。 良介は地上に降りるとスピードを緩め、詩織の激しい呼吸を気遣って走るのを停止した。詩織は身体をやや折り曲げて呼吸を整え、落ち着くと笑顔を見せて話してきた。 「本当に、宙に浮いたみたいですね。信じられないです」 「夢に過ぎないかもしれませんが、宙に浮いたと感じられれば良かったです」 「夢ではありません。今の私は本当に、良介さんの目の前に実在する女です」 良介は頷き、再び走り始めた。 「今度は空を駆け巡りましょう」 「私には無理です。今でも息が上がって、どうにかなってしまいそうでした」 「私が背負ってあげますよ。二人でもう一度夢を見ようではないですか」 詩織は沈黙して立ち止まり、良介が近づくと、真剣な眼差しで訴えてきた。 「良介さんにとって私は、結局は夢の存在に過ぎないのですね。私は夢はいりません。たとえ今だけの存在だったとしても、ごくありきたりの、男と女でいたいのです」 良介の心は、詩織の言葉を痛いほどに認めていた。 恵と二人で最後の夢を見たとき、時間を駆け巡って辿り着いたのは、恵がまだ幼い頃に、背負って野原を疾走したときだった。 「走ってお兄ちゃん、もっともっと速く走って」 と、二人で風を感じて走っているのが、何よりも幸福だった。 良介にとっても、現実のごくありふれた兄妹の交わりが、どんな夢よりも大切だった。 詩織に対する思いは、恵に入れ替わって、幸福の原点になろうとしていた。ごくありふれた生活の中に、常に存在して欲しいと、願わずにいられなかった。一切の臆病が消え去って、無意識のうちに心が叫んでいた。 「詩織さんが好きです。大好きです。いつでも一緒にいたいのです。でも、先のことは何も見えません。何も約束できないのが、辛くてなりません」 良介の真剣で、精一杯な思いは激流となって轟いていた。 詩織は良介の言葉に何の迷いを見せず、良介の胸に身体を預けてきた。 良介は未知なる体験を、目を閉じて受け止め、詩織を強く抱きしめた。詩織の温もりを感じると、喜びが溢れ出て、人間であるがための、喜びと悲しみが全て凝縮され、生きる素晴らしさを噛み締めていた。 「貴方は悲しいくらいに誠実な人ですね。まだ会って時間はそれほど立っていませんが、すぐに思いやり溢れる人だと分かりました。長い時間一緒に過ごしたように感じられ、全てを委ねられる人だと思いました。こんな人がいるとは思っても見ませんでした。でも、背負っているものが大きすぎて、素直に自分をさらけ出せないのだと思います。叶わぬことと分かっていますが、私は貴方の支えになりたいと願っています」 良介は詩織の言葉で全てが満たされていた。二人の背負った宿命を、一時でも忘れられれば、それで充分だった。 「私は詩織さんを宝物のように思っています。いつでも守っていたいとの思いを、抑えることができません」 良介のどこまでも思いやりのある言葉に、詩織は堪えきれずに泣き出していた。良介の肩に顔を埋めていつまでもいつまでも泣いていた。 そのうちに空が異様な光を発し、良介が確認すると、魔界門からだと分かった。魔界門は大きな口を開けると暗雲を噴出し、大空を覆っていった。風が強くなり、不吉な閃光が走っていた。 良介は詩織の顔を起こし、涙に濡れた頬に触れてから、魔界門を指差した。詩織は状況を察知すると顔色が変わり、恐れおののいていた。良介にも状況が想像でき、悪魔の掟を破った、詩織に対する制裁が下されようとしているのだと思った。 「詩織さんは私が絶対に守ります。私の背中に乗ってください」 「貴方まで災いをこうむってしまいます。そんなことはできません」 良介は詩織の言葉を無視して背中に乗せると、オオタカの風神雷神を呼び寄せた。 地上の害を恐れ、風神雷神を両脇にはべらすと、一気に空高く舞い上がり、魔界門目指して飛び出した。 地上の安全を確保できる位置まで移動すると、防戦する態勢を取った。 魔界門を取り巻く暗雲は力を一気に爆発させ、詩織目掛けて強風と稲妻が襲ってきた。風神雷神は前に出ると、風神が風を、雷神が稲妻を、大きく羽ばいて跳ね返した。そして、良介は両手を広げて魔界門から発する魔力を跳ね返し、詩織を懸命に守った。 暗雲から発するエネルギーは強大で、息の抜けない防戦となり、風神雷神が、少しずつ傷つき、疲れを見せていた。良介は、悪魔との初めての戦いであったが、戦いの全てを呑み込んでいるかのように、無意識のうちに身体が対抗し、どんな攻撃にも耐えられた。しかし、いつまで持ちこたえられるのか想像が付かず、早い決着を意識して、さらなるパワーを搾り出そうとした。 すると、鳥仙人や真二、五人の仲間たちのパワーが地上から送られてくるのが感じられて勇気が溢れてきた。良介は勝利を確信して、体に蓄えられた全エネルギーを、魔界門へ向けて一気に噴出させた。 良介のパワーは相手を上回り、荒れ狂っていた暗雲は魔界門に吸い込まれ、何事もなかったかのように、後に残ったのは、満天の星空だった。 良介が気付いたときは、飛び出したはずの河原で、気を失った詩織を背負い、傷ついた風神雷神を肩に乗せて佇んでいた。全ての力が失われ、立っているのも辛かった。 肩で詩織の頬を刺激して目覚めを促すと、すぐに意識を取り戻した。良介の背中から降りると、最初は事の成り行きが理解できず、恐怖の色を見せていたが、良介の存在を確認すると顔に精気が戻り、身体を投げ出すようにして胸にしがみついた。 良介は優しく抱きしめると、詩織を守り通した満足感が溢れ出て、体中にしみこんでいった。同時に失われていた力が急速に蘇るのが感じられた。 詩織は身体を起こすと、憂いある眼差しで語り出した。 「私はどんなことが起こっていたのか何も覚えていないのです。良介さんの背中に乗って空高く舞い上がったように感じられたのですが、後は夢の中をさ迷っていました。悪魔の強大な力を、良介さんの力が押しのける夢でした。私を守るために命がけで戦ってくれました。私のために災いを招いた良介さんを見ているのが辛くて、目を硬く閉じて無事を祈るしかできませんでした」 「全てが夢だったのですよ。夢は夢、詩織さんが今こうして存在してくれるのが、私にとって何よりも重要なのです。男と女としていつまでも一緒にいたいのです」 良介の言葉に詩織は涙を浮かばせ、 「今の私は、いかなるものにも縛られないで、良介さんを愛せます」 と言って、唇を求めてきた。 良介には全く経験のない出来事だったが、自然に唇を合わせ、どこまでも荘厳な愛を感じ取っていた。 少し離れたグランドでは、パワーを送ってきた人々が、手を繋いで円陣を組み、目を閉じて一心に祈り続けていた。 良介が近づいて、 「みなさん、本当にありがとうございました」 と言って、声をかけると、一斉に顔を起こし、良介に視線を向けてきた。 良介を確認すると、心配そうに、すぐに駆け寄ってきて、 「大丈夫か、兄貴」 と、真二が声をかけ、ぼろぼろになった服を見て、怪我の確認をしてきた。 「オオタカは、わしが預かろう」 と、鳥仙人が風神雷神を受け取り、労わりを込めて抱きかかえた。 「みんなのパワーが勇気を与えてくれて、悪魔との戦いに負けませんでした。パワーを送ることを、よく気付いてくれました。自分だけの力では、とても防げませんでした。本当にありがとうございました」 良介は深々と頭を下げると、詩織も横に並んで頭を下げていた。 みんなの中で一番身体の大きい純一が、手を上げて言ってきた。 「お礼なんて水臭いことを言わないでくださいよ。俺たちは良介さんの子分ではないですか。いつでも力になりたいのですから」 「鳥仙人さんがパワーを送るのを教えてくれたのだよ。雲行きが怪しくなって、みんなこれは何かあるぞと、すぐに分かった。河原に急いでやってきて、空を見上げていたけど何をしたらいいのか分からずにいると、鳥仙人さんが、兄貴と一緒に戦おうと言って、戦い方を教えてくれたのだよ」 真二が事の成り行きを説明してきた。 「怖かったけど、面白かったですよ。みんなで手を繋いで円陣を組み、良介さんのことを考えていると、自分も一緒になって戦っていたのです」 敦志が満足そうな顔をして言ってきた。 「すごい戦いでしたね。風神雷神の活躍に感激しました。思いやりを守る戦士がどんなにも大変なのか分かりました。自分たちもがんばらなければと思いました」 秀敏が冷静に話してきた。 「僕たちにもできることがあると思うと嬉しくなりました。全て思いやりが力になっているのだと分かり、前に良介さんが、戦士になるには思いやりが大事だと、言っていたのが納得できました」 俊輔が真面目な顔で言ってきた。 「戦いの後も良介さんの無事を祈っていたら、すごく嬉しい気分に」 寛明が嬉しそうに話していると、俊輔が口を塞いでそれ以上話させなかった。 良介は黙って何度も頷いていたが、寛明の話に顔が赤くなっていた。 良介は詩織を紹介していないのを思い出して、紹介する姿勢を取った。 「この方は詩織さんです。私の大切な人です」 良介の大切な人との紹介に、みんなは全てを承知しているように、首を縦に振り、二人に向けて盛大な拍手をした。純一が前に進み出て、 「万歳」 と言って、みんなに万歳を促し、祝福の輪を作った。 万歳の意味が、詩織との関係を先々まで認めていると、良介にも何となく分かったが、良介自身、詩織との関係がどこまで約束されたものなのかよく分からなかった。詩織を守っていたいとの思いは、恵への思いと変わらず、愛情を強く感じていた。しかし、それが男女の仲としてどこまでも深く結び付いていくものなのか、分からなかった。余りにも急な展開に、全てが夢のような気がしてならなかった。 河原での語らいは短時間であったが、みんなも戦いに参加したとの実感を持ち、大いに満足して解散した。 良介は改めて鳥仙人に礼を言い、風神雷神を託し、帰路に着いた。 |