3、黒服のランナー

良介は弟の真二を呼んで、今置かれている状況を話し出した。

「恵は悪魔に魂を奪われてしまった」

 真二は、悪魔との言葉を少しも疑わなかったが、

「恵のような優しい女の子が、何で悪魔に魂を奪われなければならいのだ」

 と言って、悪魔に対する怒りをあらわにし、疑問を投げかけてきた。

「恵は、家族に迷惑をかけたくないと、いつも考えていた。兄ちゃんが受験勉強に気持ちが奪われて、恵の相手をしてやれなかったのもいけなかったのだと思う」

 真二は首を振って、

「兄貴は少しも悪くないよ。恵を思って受験勉強に専念していたのだから、すごく立派だよ。本当は、俺が兄貴に代わって恵を見るべきだった。俺も思いやりを守ろうとその気になっていたけど、大事な妹のことを忘れてしまったのだから、思いやりを守る戦士は失格だ」

 と言って、うなだれた。

「真二、それは違うよ。恵は悪魔にとって邪魔者なのだよ。恵のように優しい女の子を最も恐れている。悪魔は全ての人間から優しさを奪って、思いやりを失わせようとしている。恵がこれ以上輝きだして、多くの人に影響を及ぼしはじめたら、悪魔の出る幕がなくなってしまうもの。悪魔は卑劣な手段を使って、何としても恵の生きる意欲を失わせようとしていた」

「確かにそうかもしれない。多くの人が優しい少女に憧れているくせに、自分自身はちっとも優しくなれない。でも不思議で、優しい人が現れると他の人も何となく優しくなってくる。優しい少女が地球上にもっと一杯いれば戦争のない平和な世界が作れるのに」

 良介は、真二の熱のこもった訴えに驚かずにはいられなかった。自分の知らぬ間にすっかり大人になって、本物の思いやりを守る戦士になっていた。

「真二は兄ちゃんよりずっと大人になっていたのだな。兄ちゃんは思いやりを守ると言っても、恵のことしか考えていなかった。それなのに恵を守れなかったのだから、情けなくなってくる」

「そんなことないよ。家来になった仲間みんなが、兄貴を尊敬している。兄貴はいつも一生懸命で、優しくて、思いやりがあって、強くて、恵と同じ特別な人だよ。恵のことは受験勉強で忙しかったから仕方がないよ」

 真二の優しい話しかけに、良介は涙を滲ませながら、静かに応えた。

「多くの人が受験勉強と言えば、他に何もしなくても許されるみたいに考えているけど、人生にとってそれほど大きな問題とは思えない。勉強も一生懸命するけど、人間として大切なことを守っていかなければ、受験勉強なんて意味がないと思っている」

「そんなに自分を責めるなよ。それより、恵を助け出せないの。俺たちには力になれないの」

 真二の大人びと口調と、大人びた言葉に、良介は嬉しくてならなかった。気持ちを入れ替えて、一番話しておかなければならないことを話し出した。

「恵は絶対に助け出せる。恵は生きる意欲を捨てていなかった。悪魔に連れ去られるとき、助けを求めてきた。兄ちゃんに恵を守る力がなくて魂を奪われてしまったけれど、恵は今まで以上に強い心を持って、兄ちゃんが助けにいくのを待っている」

 真二はホットした顔をして、

「本当に助かるのだね。良かった」

 と確認した。

「兄貴には恵の心が分かるみたいだね。羨ましいな」

 真二は、今まで二人の仲間入りができなかったことに、寂しさを見せた。

「恵を助け出すには、戦士としての力を取り戻さなければならい。受験勉強ですっかり力が衰えてしまって、今は真二たちの方が強いかもしれない。でも、恵は兄ちゃんの力で助け出したい。恵も、兄ちゃんが悪魔に負けない強い力を蓄えるまで待っていてくれる」

 真二は良介の言葉に頷き、

「でも何か俺たちにできることはないの」

 と、じっとしていられない様子で聞いてきた。

「兄ちゃんは悪魔に絶対に負けないと思っているけど、恵と二人に何かあったときのことを考えると、親父とお袋が心配でいられない。何かあったときは、真二に任せるしかない。それに、悪魔の話をしても二人とも理解できないだろうから、兄ちゃんの行動を不信に思うかもしれないので、その時は真二のほうからうまく言っといてもらいたい」

 真二が頷くのを確認してから、良介はさらに言葉を続けた。

「今まで、遊びのような気持ちで思いやりを守る戦士を考えていたけど、悪魔が本当に姿を現し、魂を奪われて助けを求めている人がたくさんいる気がしてきた。真二たちの力が必要になってくるときが、きっとあるはずだ。仲間にそのことを伝えて、戦士として力をさらに養っておいてもらいたい」

「よく分かった。兄貴は絶対に負けないと信じている。親父とお袋のことは心配しないで、思いっきり闘ってきて。俺たちの出番がくるまで今まで以上に力を養っておくから」

真二は応え、言葉を付け加えた。

「兄貴を悪く言うつもりはないけど、恵をもっと一人前に扱ってやったほうがいいと思う。兄貴は優しすぎて、恵のことになると何でも手をかけすぎるよ。これからは、恵自身でやっていくことを考えてやらないと、いつまでたっても、家族に迷惑をかけると、気兼ねをさせなければならない」

良介は、真二の言葉に衝撃を受け、一瞬何も考えられなくなったが、目を閉じると、正にその通りだと、痛いほど実感した。

「真二の言う通りだよ。兄ちゃんが間違っていた。でも、恵に何ができるのか見当も付かない。恵が大事で大事で、それだけなのだよ」

「俺にいい考えがある。俊輔が教えてくれたのだけど、恵にパソコンをやらせればいいと思う。恵は自然のことをたくさん知っている。花や鳥や昆虫のことを語らせたら誰にも負けない。それに、兄貴のことをたくさん書き綴っている。ホームページを作り、インターネットで情報を発信すれば、恵の心を世界中に広められるよ」

 良介にはどんなことを言っているのかよく分からず、視線を凝らすだけだった。真二は身体を乗り出してきて、言葉に力が入り、さらに続けた。

 「以前、兄貴がいないときに恵とよく話をしていた。恵の空想する世界を見せてもらい、夢があって、とても素晴らしいと思った。みんな兄貴と一緒に作り出したみたいで、兄貴は思いやりを守る戦士として、一杯書き綴られていた。少し手伝ってやれば、素晴らしいホームページが作れるはずだ。恵が帰ってくるまでに準備をしておこうと思う。アルバイトをしてパソコンを買っておくよ」

「真二は偉いな。兄ちゃんには思いも付かないよ。全て真二に任せるのが一番みたいだな。パソコンを買うお金は兄ちゃんが何とかする。他にも必要なものがあるなら言ってくれ」

「デジタルカメラがあれば、写真を撮ってホームページに使える。身近にある素晴らしい自然を掲載していけば、恵が最も望んでいる、自然を守ることにも繋がっていく」

 真二が語る構想に、ただ感心するばかりで、何も口出しできなかった。

良介は、真二に後のことは任せ、恵を救い出すことに専念した。

 アルバイトを始め、昼は仕事に追われたが、朝五時には起き出して二時間、仕事を終えて二時間、休日は六時間、走るのを中心に、強靭な肉体作りを目指した。

トレーニングは河川敷のランニングコースが中心だったが、時には遠くまで走っていき、色々な場所を利用した。

妖精の森が荒らされ、野鳥の姿が見られなくなっていたが、トレーニングで訪れたときには多くの野鳥が戻ってきて、森自体も確実に蘇っているのが分かり、安心させられた。

土手の階段や坂道を全速力で登って、スズメやムクドリと競い合い、木や草が生える狭い空間を、全速力ですり抜け、蜂やバッタと競い合った。高い木によじ登り、木から木へ飛び渡って、リスやムササビと競い合い、流れのきつい川を全力で泳ぎ、ウグイや鮎と競い合いあった。人間の肉体が持つ能力を全て発揮できるように取り組んでいた。

 走っているときには、いつも恵を背負っていることを思い描き、恵の重さを感じながら走った。恵への思いは、トレーニング以上の成果を発揮させ、受験勉強で失われていた力は、思った以上に早く回復していった。

 それは、酷暑とは裏腹に、日が落ちるのが一段と早まってきた夕暮れのことだった。

良介が河川敷のランニングコースを走っていると、黒い服をまとった、見上げるほどの大きなランナーが猛スピードで追い越していった。以前、大雨のときに良介が懸命に走っていると、力不足をあざ笑うように、帽子を奪ってあっという間に追い越していった、黒服のランナーと同じだと思った。

 良介は、悪魔の手先がトレーニングの邪魔をしにきたのだと直感し、惑わされまいと気持ちを引き締めていた。ペースを守って走り続けていると、再び黒服のランナーが近寄ってきて、横に並んだ。

「そこの若造。ちっとも早くないのに、何が面白くて走っているのだ」

 良介は視線を向けることもなく、何も応えなかった。

「小僧、何とか言ったらどうだ」

 良介がなおも黙っていると、語気を荒げて

「やい、腰抜け、俺と勝負して勝てるか」

 と言い、走る速度を変えて挑発してきた。

 良介は平静を乱すことはなかったが、ランナーの姿を確認しておこうと、視線を向けていた。

 黒服のランナーは顔も黒いマスクで覆い、実態を確認することができなかった。目だけが露出し、どこまでも黒く、異様な光を発していた。背丈は二メートルを優に超え、黒服に隠された肉体は精悍そのものだった。それは人間と見るより、魔物と考えるのが妥当だった。良介には、とても太刀打ちできる相手ではないと感じたが、少しも怖いと思わなかった。

「俺様が怖くて口も利けないのだな」

 と、挑発を繰り返してきた。

「今の私に恐れるものは何もない」

 良介は相変わらずペースを守って走り続けた。

「生意気な口を利く。それなら貴様の力を見せてみろ」

 黒服のランナーは、身体が触れるまでに近寄ってきて、

「お前さんの唯一の取得、走力で勝負をしてやろう」

 と言って、競争を挑んできた。

「私は競争に勝つことを目的で走っているのではない」

良介は、相手にしないと、自分に言い聞かせていた。

「ばかを言うのではない。競争に勝てなくて何の意味があるのだ。一番になれなくては意味がない。何でも一番になるのが目的なのだ」

 良介はけっして挑発に乗ったわけではないが、耳元で、

「思いやりの心を語ってあげて」

と、恵が囁いているように聞こえ、問答をすることになった。

良介が言葉を思い浮かべると、声を発する前に、相手に言葉が伝わっていた。

「一番にどれだけ価値があるのか。二番では価値がないのか。三番ではだめなのか。順位に関係なく、自分のために精一杯走れば、それでいいではないか」

「一番にならなければ認めてもらえないのだ。脚光を浴びなければ名を売ることができない。一番になって目立てば目立っただけ、儲かる仕組みになっている。この世の中は、金があれば何でも買えるのだ。金が全てであり、金にならなくては、何をやっても意味がないのだ」

 相手から声は聞こえてこなかったが、言葉が重くのしかかってきた。

 良介は、現実の社会が黒服のランナーが言っている通りだと感じていた。

スポーツを夢として、一番になるのを追い求める若者がたくさんいる。スポーツはもはやアマチュアの時代ではなく、楽しむプレーより、選りすぐられたプレーが求められている。そこにはビジネスが大きく絡んできて、儲けの道具に成りうる選手には、惜しみなく金が支払われている。

 スポーツはごまかしが効かず、才能と努力がストレートに結果として表れる。浅はかな演出が一切排除された、実力が演技となって作られるドラマであり、常に新鮮な感動がある。洗練されたスポーツは観衆を飽きさせることがなく、いつまでも多くの人々の憧れである。一攫千金の夢と重なり合って、最も見やすい夢である。

 一方で、一番になるためには英才教育が求められる。何も分からない子供たちに、経済効果に目がくらんだ、大人たちの思惑と価値観が押し付けられている。子供の見る夢は置き去りになり、わき目も振らない、どこまでも視野の狭い生活となってしまう。一番になるためには手段を選ばず、ドーピング問題や不正が後を絶たない。スポーツをするのが目的ではなく、一番がもたらす経済力が目的となっている。

スポーツのみならず、芸術や芸能、学問に至るまで、大人の思惑が絡んで、幼児から英才教育が行われており、ややもすると子供たちの人権が踏みにじられている。スポーツと同様、一番を先取りして名声を得るのが目的となり、結果的に経済力に結び付いている。たとえ一番を意識しなくとも、多くの子供たちが、将来の経済力を目的に早々と人生が既定されている。貴重な時間が縛りつけられて、夢を奪い取られている。

スポーツは成長の証を感じ取るための手段であり、家族も一緒に成長を感じ取ってもらうための披露式である。世界のスーパースターになれなくとも、家族のスーパースターになれればいい。喜びを分かち合える家族がいると言うのが最も大事である。結果より、力を最大限発揮し、結果として選りすぐられたプレーヤーになれればいい。

 人生は長く、子供の頃から他の全てにそっぽを向いて打ち込むのは、余りにも偏った人生である。経済力と結び付かなくとも、人生を謳歌する営みが際限なくあるはずだ。その人その人に相応しい、年齢年齢に相応しい体験を積み重ねていくのが本当の人生である。日々育まれてきた個性に、一番適した仕事を見つけるのが、最も望ましい生き方だ。

 子供の心を最も大切にして、生活を作り上げている人も少なくないはずだ。思いやりが失われない限り子供たちの夢も失われない。

良介は、

「金が全てではない」

と、心で叫んで、問答を再開した。

「私は自分のために走っている。そして、自分にとって大切な人を守るために走っている」

「つまらん答えだ。一人もくもくと走っていても、美味いものが食えるわけではない。女にもてるわけではない。豪邸に住めるわけではない。欲しいものが何も手に入らないではないか。自己満足や、他人へお節介を焼いても、得することは何もないのだ」

「体が走るのを要求している。健康な体が日々の生活を楽しませてくれる。大切な人を全力で守っていくとの気持ちが、限りない喜びとなってくる」

「人間は怠惰を要求している。楽をして欲望を満たそうとしており、健康など気にしていない。決まったこと以外は何もしようとせず、脆弱な肉体を持て余し、具合が悪くなって初めて健康を気にするのだ。それに、お前みたいな腰抜けが、他人のことなど守れるわけがない。そもそも、この平和な時代に、ありもしない危機に備えるなど、愚か者のすることだ」

「少しも平和ではない。悪魔に魂を奪われた人間がいる。いじめが繰り返えされ、他人を傷つけて楽しんでいる。思いを込めて肉体を鍛えておけば、全力で守ることができる。どんな結果になろうと悔いは残らない」

「平和を乱すのは、悪魔の所為ではない。人間の本性が出ているだけだ。弱肉強食が摂理であり、弱者が滅びるのは自然の成り行きである。弱いものを守ること自体が摂理に反しているのだ」

「子孫繁栄が生きる使命であり、弱いものを守るのが生きることである。弱いものに必要とされるから存在感があり、存在感を意識するときに生きがいが感じられる。思いやりが生きる原動力となっているのだ」

「幼児虐待が頻発する時代に思いやりが存在するとでも言うのか。いじめが絶えない子供たちに思いやりが存在するとでも言うのか。弱いものは苦しみ、強いものがあぐらをかいているではないか」

 良介は、黒服のランナーの問いに、すぐに答えられなかった。

 現実に、社会の歯車が狂いだして、誰も望んでいないはずの事件が続発しているのを憂えていた。多くの人間が思いやりを失い、心に不足が生じて、より弱い者へといじめが向けられているのを嘆いていた。一人でも多くの人が思いやりを取り戻せるよう意識し、恵の優しさが時代を揺り動かすと、考えるようになっていた。

 自分の感じているのは、黒服のランナーが言っていることを、限りなく肯定しているのに気付いた。息苦しくなるほどに、現実が目の前に迫ってきた。

「思いやりは失われていない」

 と、言葉と共に声がこだましていた。

 それは祈りを込めた叫びで、一瞬、目を強く閉じずにはいられなかった。

「幻想に過ぎない。人間自らが起こした戦争は、生きるたくましさと、したたかさを育み、次代に引き継いだが、思いやりは引き継がれなかった。生きるためには他人のことなど関係ないのである。誰もが自分のことしか考えず、他人を蹴落としてまで生き抜いてきた。思いやりとは程遠い、自分さえよければとの競争原理が時代を作り上げ、全てが損得勘定で動いている」

「自分だけのためではない。家族を守るために懸命に生きてきたのだ。家族を思う気持ちが人間を強くし、弱いものを守ってきた」

「家族を思う気持ちがあって、何故家庭に憎しみが生まれるのだ。核家族化や家庭内暴力、家庭崩壊、離婚、殺人と、家族が思いやるより、諍いが絶えないではないか」

「悪魔が捏造した情報に惑わされているのだ。情報の氾濫で本来の姿を見失ってしまったのだ。思いやりが失われたわけではない」

良介は、自らの言葉を懸命に信じようとしたが、思い浮かぶ映像は、どんなに優しかった母親でも、子供の成長に連れ、競争に追いやる硬直化した姿だった。

「悪魔が操る情報など存在しない。人間の強欲が作り出した情報であり、人間が欲する情報である。たとえそれが、虚偽であり虚構であっても、幻想を見極める見識がないのは、誰もが強欲に取り付かれているからだ。欲望が全てであり、もはや、思いやりは無用の長物なのだ」

良介は、黒服のランナーと対抗して答えると言うより、悲痛な叫びとなって、心の底から言葉を吐き出していた。

「思いやりを失って何が楽しめると言うのか。人間は、一人では生きていけない。家族の支えがあって一人歩きできるようになる。多くの人の支えがあって、生きていくのに必要な住まいが確保され、衣の調達、食の調達が行える。同時に人を支え、互いに協力し合って社会が成り立っている。互いの思いやりが原点となり、交流そのものに価値があり、喜びがある」

「どんな崇高な理念があっても、現実には成り立っていない。企業はあくまでも営利が目的であり、人の存在は二の次である。効果や利便さよりも、売るための手法に力点が置かれ、不良や不正がはびこっている。人も、全てが金で解決すると考えており、支え合いの気持ちなど少しも持っていない。子供たちは人の役に立つことを学んでおらず、支えられていることも分からずに大人になっている。もはや人間には思いやりなど存在しないのである」

「それはごく一部の姿であり、人間の底流に流れるものは思いやりである。一時的に思いやりを見失ったとしても、誰かが思いやりを差し向ければ、すぐにでも呼び覚ませるはずだ。最初は点でしか過ぎない思いやりでも、波紋がどこまでも広がっていき、地球上を思いやりで埋め尽くすことができる」

「人類の歴史は破壊の歴史であり、常に殺りくを伴って、新たな時代が作られてきた。脅威が人を治め、鞭が人を作り、弱肉強食が勝者の正義である。思いやりが剣に替わって人を治めることはない」

「剣は食文化を制することなどできない。時代が移り変わっても食文化は動じることなく営々と営まれてきた。食文化を支える人々の心には人間の知恵が凝縮し、思いやりと共に受け継がれ、自然との共存、調和を知り、人類の土台を成している。麦一粒のありがたみを噛み締めるとき、どんなに乱れた時代でも、正常化されていく」

「弱肉強食。正に争いの元は食であり、安定した食文化は平和をもたらす。だが、剣に替わった金の力が時代を支配すると、食文化そのものが個人の損得勘定で歪められている。営利目的で大地の恵をも操作され、食文化を受け継ぐ者は不足する一方である。大地と共に育まれた、知恵も思いやりも遠からず枯渇してしまうであろう」

「大きく時代が揺れ動いても、少しも動じない人々がいるはずだ。時代の流れは急速に傾きはじめているが、逆に、一つのきっかけで元に戻るのも早いはずだ。全てが情報にかかってきており、捏造された情報を正常化するだけで、時代を急展開させることも可能なはずだ。人間に残された、ほんの一滴の思いやりが、時代を揺り動かすと信じている」

 良介の、どこまでも儚い願いは、祈りに他ならなかった。情報の正常化が可能であれば既に正常化されていなければならないと思った。既存の情報システムを根底から覆すのは全く不可能との答えが返ってきた。だが、弟の真二が語った、インターネットのことが頭に浮かび、どんなに小さな情報でも、国境を越えてどこまでも広められると考えると、微かながら明るい兆しが感じられた。恵の心を発信すれば、大きく波紋が広がって、世界中に思いやりが伝わっていくように思われた。同時に、悪魔の意を受けた情報が無節操に広がっていく恐れを感じ、希望と失望とが複雑に絡まっていた。

「情報は流す側の責任ではなく、情報を受け入れる側の責任である。人間自身が求めている情報を誇張しているだけで、送受両者の強欲に絡んだ利害は一致しているのだ。たとえまがい物の情報でも、欲する人間がいる限り、正常化などないのである」

 良介は、知ろうとしなかったが、携帯電話一つで、少女の貞節が簡単に失われている現実を知っていた。わずかな小遣い銭欲しさで肉体を売ることに何の躊躇いも無い、あどけない少女の姿を想像していた。ほんの一握りの、特別な出来事と思いたかったが、事件として表れないほうが遥かに多く、少女たちにとっては、ごくありふれた出来事になってしまったと、考えざるをえなかった。歯止めの利かない状況を考えると、情報云々の問題ではない気がしていた。

 良介が、人間はどこまで信じられるものか自問自答するだけで、すぐに言葉を出せずにいると、黒服のランナーは追い討ちをかけるように言葉を投げかけてきた。

「人間には際限のない欲望がある。欲望を満たすことに喜びがあり、生きる原動力となっている。欲望を駆り立てるのが社会であり、経済であり、欲望を満たすものは何でも金で買えるようになっている」

 良介は、全面否定したいと思ったが、声はこだまさなかった。

「欲望に溺れる人間は、どんなに欲望を満たしたつもりでいても、満たされることはない。思いやりのある人間には、生きるための欲望と、幻想に惑わされた欲望とを、見極める知恵がある。悪魔に惑わされた、一部の人間だけが迷走しているのだ」

 と、心細さを感じながら、願いを語るしかなかった。

「奢れる人間は、自分一人の力で生きていると思っている。他人の影響を気付かない人間は、思いやりを必要としない。目の前に欲望を駆り立てる最新情報が常に溢れており、古びた知恵など必要としない。子供のみならず、大人も知恵を封印し、欲望をそそる情報に、何の節操もなく飛び付いている。問題が起きると、他人の所為にするだけで、自らの責任を意識することがない。大人たちが責任を放棄するための、心の通わない、字面だけの学問では、思いやりも、欲望を律する知恵も継承されるはずがない。事の良否を知ることなく、次代が作られるのだ。悪魔が手を下さなくとも、人間自らが進んで悪魔に魂を売る、実に愉快な社会ができ上がった」

 良介の脳裏には、何も考えずに、提示された情報に順ずる人々の姿が映し出された。考えることを忘れ、空想することを知らず、出来合いの夢を夢と錯覚し、どこまでもマニュアル通りに動く、機械仕掛けの人間だった。全てがゲームとなり、欲しいものを手に入れるためなら、何の抵抗もなく罪を犯す姿だった。自由なはずなのに、規格品に過ぎない欲望を追い求める、魂を失った人々だった。

 良介は気持ちを奮い立たせ、ほんの一握りの人々だと、自らに言い聞かせた。しかし、心の底では首を振り、半分、七割と、何の根拠もない数字を上げて、光明を見出そうとしたが、納得できなかった。

「雑草は踏みつけられ、なぎ倒され、焼かれ、根こそぎ抜かれても、翌年には必ず芽吹いてくる。人間の思いやりは雑草と同じで、ほんの一滴の思いやりが人々に降り注がれれば、大きな思いやりとなって必ず芽吹いてくる。思いやりを一人でも失わなければ、望みは断ち切られない。」

「自然界の掟は、生きるための必要最小限の捕食を容認し、戦いが繰り広げられているが、人間は強者の掲げる正義の名のもとに大量殺りくを容認している。殺りくは憎しみを呼び、憎しみは飽くことを知らない強欲となり、強欲によって振り下ろされる刃は、一切の掟のない、殺りくのための殺りくとなる。殺りくが狂気を呼び、悪行の猛火となって、地球を燃やし続ける。最後には、万物が息吹く土台、地球そのものを破壊せずにはいられなくなる」

良介は、核の脅威を意識しないわけにはいかなかった。人類滅亡を、フィクションとして笑い捨てることができなかった。たった一つのボタンを押しただけで、地球をも破壊してしまう、兵器の存在を否定できなかった。

「神々は、人間から全ての制約を外し、何をしでかすか、高みの見物をしている。人間の自由が選択するものが何なのか、人間がどこまで愚かになるのか、思いやりが人間をどれだけ揺り動かすのか、壮大な実験を試みられている」

黒服のランナーが語る、神々の壮大な実験室が、良介の脳裏に、白日夢となって浮かび上がってきた。奢れる人間の恐れを知らない挙動が、次から次へと現れてきた。神々のため息が災害となって人間に警鐘を鳴らすが、懲りることを知らず、神々をどこまでも冒涜している姿に、畏怖せざるを得なかった。

「愚か者は三代続く。愚かな人間が愚か者を生み、生まれ出た愚か者が次ぎの愚か者を育てる。愚か者が三代続けば文明は滅びる。奢れるものは久しからず。神々が手を下さなくとも、人間自らが滅びるであろう」

 良介は、滅亡との言葉を心に深く刻んでいた。滅亡の一途を辿る人々の狂気を心に深く刻んでいた。どんな現実も受け入れる覚悟はできていた。しかし、滅亡を恐れる思いは少しも抱かなかった。時代がどんなに揺れ動いても、希望と思いやりを最後まで失わないことが、最も大切だと、改めて、心に深く刻んだ。

「悪魔は人間の尊厳を見くびっているのだ。人として誇りを持って生き抜いている人々が世界中に数多く根付いている。一人でも尊厳を失わない限り悪魔の思う壺にはならない。私は人間として誇りを持ち、思いやりを守る戦士として、最後まで悪魔と戦い抜く」

 良介は立ち止まって高らかに宣言した。

 黒服のランナーも立ち止まり、言葉を発することなく、大声で笑い出していた。

良介は、笑い声が自分を愚弄するものと受け止めていたが、何故だか、痛快な笑い声に聞こえてきた。真意を確認することなく、黒服のランナーが、どんな出方をするのかじっと待っていた。

「俺様は悪魔の意を受けた、最も強く、最も早い魔物である。俺様の牙から逃げおおせるか、いよいよ勝負のときがきたようだ」

 黒服のランナーの目が、いかにも楽しげに光り、良介も、わくわくしてきて、笑顔を向けていた。

 良介は首を縦に振って、黒服のランナーに走り出しの合図をし、第一歩を踏み出した。

 良介が一気に加速すると、背中から恵の声がして、

「ずるいわ、お兄ちゃん。私を仲間外れにするの」

 と、さも楽しそうに言ってきた。

「ごめんよ。恵のことをすっかり忘れていた。思い切り走るから、しっかりつかまっているのだよ」

「走ってお兄ちゃん。もっともっと速く走って」

 良介は、恵の元気な声を聞くと、黒服のランナーのことはすっかり忘れ、夢心地で野原を疾走した。スピードが増すと身体が浮き上がり、川や森、山へと飛び出していた。

「貴方も早くいらっしゃい」

 恵が後ろへ声をかけているのを聞き、黒服のランナーを思い出して、良介も後ろに目をやった。

 黒服のランナーは全力で走っているのが窺えたが、それでも距離は少しも縮まらなかった。

「ライオンのような重い身体では、お兄ちゃんに勝てないわよ。無駄な身体は脱ぎ捨てなさい」

 恵の声からは、魔物に追われている意識は全く感じられなかった。

黒服のランナーは、恵の呼びかけに応ずるかのように、黒服を脱ぎ捨てて、ライオンのような精悍な肉体を現した。それは、最も強い魔物であるのを感じさせた。黒服のランナーは、盛り上がった筋肉を剥ぎ取りはじめ、肩、腕、胸と削いでいき、豹のように、最も俊敏な魔物に替わっていた。

スピードは格段に上がったが、それでも良介との差は縮まらず、さらに筋肉を剥ぎ取って、チータのような、最も早い魔物へと変身した。そのスピードは、悪魔の力を振り絞ったものだったが、既に良介の走力は、悪魔にはとても及ばない境地に達していた。

「本当の貴方になって競争しましょうよ」

恵は相変わらず、友達に語りかけるように呼びかけた。

黒服のランナーは頷き、魂を売って身に着けていた全ての筋肉を剥ぎ取って、本来の人間の姿に戻っていた。初め、二メートルを超える大男だったのが、小柄な良介よりも、さらに小柄な青年となり、速く走るのに最も適した肉体を現した。

 青年は清清しい顔となって、悪魔の領域を越えた俊足を見せはじめ、良介にピッタリと並んで走り続けた。

 良介がスピードを増すと、青年も負けずに飛ばし、二本の全く乱れのない、虹色の航跡を残しながら、競争は続いた。

「走るのがこんなに楽しく感じたのは初めてです」

と言って、青年はいかにも満足そうに話しかけてきた。

「今までは、勝つことしか考えずに走っていました。自分の力を楽しむ余裕が少しもなかったのです。勝敗を意識しないで、ライバルと存分に競い合うのが、こんなにも楽しいものだと、初めて知りました」

青年の瞳はどこまでも澄み、淡々と過去を語りはじめた。

「私はこの五十年、金剛と呼ばれてきました。時代の風潮に合わせ、浮き沈みする人生でした。時代がすさんで、人々がより強い刺激を求めるようになると姿を現し、金を生む格闘に明け暮れました。どんな相手にも負けることがなく、いつしか、最も強い称号として、金剛と呼ばれるようになったのです。時代が落ち着きを取り戻し、人々が心の豊かさを求めるようになると姿を消しました。そして現代、より強い刺激が求められ、死をも辞さない闘いに人々は狂喜しています。私の存在が最も脚光を浴びる時代となったのです」

金剛と呼ばれた青年は、格闘の日々を簡略に語ったが、それは、時代とともに揺れ動く人々の心模様を鮮明に映し出していた。

「私は多くの人々からチビと言うことで侮られ、見くびられてきました。身体は小さくとも、走るのは誰にも負けまいと、しゃかりきになってきました。しかし、いつも一番にはなれず、二番ばかりでした。どんなに実力があっても、小さいために初めから相手にされませんでした。人々の目は姿かたちで主役を決めて、私のようなチビは引き立て役としてしか存在できず、一番になるのは許されませんでした。さもないと舞台にも上がらせてもらえなかったのです。好きになった女性もいましたが、見向きもされず、好きになること自体、許されませんでした。心がどこまでもすさんで、自分を見くびってきた人間に、復讐を抱くようになり、いつしか悪魔に魂を売っていました。魂の引き換えが、永遠の若さと、最強の肉体だったのです」

金剛の言葉に、良介は自分の姿を置き換えて聞き入っていた。良介自身も小さいがために、多くの侮辱を受け、恋も足踏みをしてきた。しかし、良介には何の隔たりを持たずに見つめてくれる、妹がおり、弟がいた。恵が大きな心の支えとなって、不足を感じないで生きてこられたが、恵がいなければ、自身も気持ちがすさんでいたかもしれなかった。人間の虚飾に満ちた性が、どれだけ無用な不幸を作り上げてきたことか。良介は、見てくれで軽率な判断が下される、いかんともしがたい現実を、苦く噛み締めるしかなかった。

「大きくて強いと、労さずに脚光を浴びました。富が面白いように入ってきて、欲しいものは何でも手に入りました。闘いの明け暮れとなり、邪鬼となって多くの戦士、格闘家を傷つけてきました。中には心身ともに再起不能となった人もおり、家族や恋人の悲嘆に暮れる姿を、あざ笑って見つめてきました。それが最も求めていた姿だったのです」

金剛の悪鬼の形相を想像させた。

「自分を侮ってきた人間への見せしめで、相手を打ちのめして楽しんでいましたが、負けても家族に優しく迎えられている姿を見て、どんな邪悪な心でも、不足を感じるようになりました。金で心の通わぬものは何でも手に入りましたが、心が休まりませんでした。自ら進んで悪魔に魂を売っておきながら、いつしか人間の思いやりに、心がゆさぶられていたのです。永遠の若さゆえ、満たされることのない闘いがこれからも続いていきます」

金剛の発した言葉はわずかであったが、しみじみとした語り口から、闘いに明け暮れる長い歴史を忍ばせていた。

「私には思いやりを語る資格はありませんが、貴方たちと出会って多くを学び、人々の心に思いやりが蘇るのを願わずにはいられなくなりました。活躍を切に祈っています」

良介は、金剛の終焉を思わせる言葉に、打ち消しを込めて言葉を投げかけた。

「私は貴方に多くのことを学びました。辛く、苦しく、悲しい現実を見せ付けられましたが、かえって自分の存在意義を認識できました。貴方の言葉の節々から、私の迷いに釘を刺してくるのが感じられました。今は思いやりを守る戦士として、自信を持って戦えるようになりました。貴方も一緒に戦おうではありませんか」

金剛は首を振って、

「私は悪魔に魂を売った身。貴方たちの敵になることはあっても、一緒には戦えないのです。貴方との競争を終えて魔界に戻れば、罰を受け、さらに邪悪な心を持った魔物になってしまうことでしょう」

と、寂しそうに語った。

「何も心配する必要はありません。悪魔には、思いやりを取り戻した魂を牛耳る力は持っていません。後は魂を奪い返してもらうだけです。お兄ちゃんがきっと、取り返してくれますから、魔界で楽しみに待っていようではありませんか」

恵の至って軽やかな語りかけに、悪魔の脅威は一気に吹き消されていた。

「それよりも、世界の思いやり溢れた人々を訪ねてみようではありませんか。さあ、私の手につかまりなさい」

恵は金剛にそっと手を差し出し、三人の気持ちが一つになって、空高く舞い上がった。

恵が最初に案内したのは、戦火を逃れて集ってきた子供たちが、力を出し合って築いた農場だった。

人種や宗教、思想信条の違いで紛争が絶えなかったが、表面上は沈静化し、親兄弟を失った子供たちが心に深く傷を負い、銃を持ってさ迷っていた。放置しておけば、まだくすぶっている戦火に巻き込まれる恐れがあったが、思いやり溢れる指導者が、子供たちに銃から鍬に持ち替えさせ、大地の恩恵を語り聞かせた。

子供たちに農耕をさせると共に、傷ついた心を癒す、未来に希望を花咲かせる夢教育を施していた。一粒の種から始まった大地の営みは、収穫の時季を迎え、多くの作物がたわわに実っていた。

指導者は、

「自らの飢えを凌いで、さらに飢える人々と、大地の恵を分かち合おうではないか」

と語りかけ、子供たちが、今も戦火にまみれて飢え苦しむ人々に、そっとパンを差し出していた。

大人たちが抱く、凍りついた憎しみに温もりを注ぎ込むと、一人、又一人と、銃から鍬に持ち替えて大地に根付いていった。地獄を味わった子供たちであったが、目は限りなく澄み、希望に満ちた顔をしていた。

続いて訪れたのは、人種を超え、貧富を超えて数多く集まってきた、若いボランティアが活動する、難民キャンプだった。

難民キャンプには、紛争で土地を追われ、国を追われた人々や、異常気象によって飢饉に見舞われ、さ迷う人々など、日きりなしに流浪の民が流れ着いた。その多くが怪我や病気、飢えに苦しみ、救いの手が必要だった。

若者たちは、それぞれが得意とする技術や知識を持ち、積極的に救済活動に参加して、自分の力をフルに発揮していた。難民との触れ合いは、言葉の壁や、生活習慣の違いなどで、けっして安穏としたものではなかったが、思いやりと時間が全てを乗り越え、希望を失っていた人々に、生きる勇気を与えていた。難民は一人、又一人と、ひとり立ちして、大地に根付いていった。

いたいけな子供たちとの交流は、国境の必要性を感じさせない、どこまでも純粋な世界が花開き、若者たち自身が夢を膨らませていた。若者たちは苦労を感じるよりも、やりがいや生きがいを思い存分味わっていた。

 次は、傷ついた動物が保護されている、自然公園を見下ろしていた。

 そこには世界中の学者や研究者が集い、人間にとっても、ごくごく身近な大自然の神秘を、一歩でも深く踏み込んで、解き明かそうと努めていた。同時に、人間の都合や気まぐれで、絶滅に瀕している種の保存に向け、救済の手立てを講じていた。

人間が犯してきた罪を一身に背負い、自然界のあらゆるものに罪滅ぼしをするかのように、どこまでも地道で、どこまでも気長な活動だった。人間のちっぽけな能力では計り知れない、大自然の力を知り、野生の知恵を学ぶ壮大な研究室となっていた。空洞化した机上の学問を補填すると共に、自然との共存を希求する語り部として、世界中に情報を発信していた。

次に、修道院のうら若き女性たちの姿が見えてきた。神の御心を胸に秘め、今正に、思いやりを必要とする人々に向けて旅立とうとしているところだった。

彼女たちの多くは心に傷を負い、神に救いを求めて修道院の門をたたいたのだった。欲望に溢れる社会にどこまでも不信を抱いていたが、人の弱さを知り、自らの愚かさを知り、多くの人々が思いやりを必要としていることも知り、自分の役割を何の迷いもなく受け入れていた。もはや宗教の枠を超え、どこまでも純粋に神々の意思を伝えようとしていた。それは、正に天使の旅立ちで、天使の放つ輝きは、腐りかかった人類の病巣に降り注がれようとしていた。

 最後に訪れたのは、孤児院だった。

 それは、一人の女性が資財を投げ打って作られ、寄付を募って運営される施設だった。彼女自らが肉親に縁のない幼児を引き取り、親代わりになって育てていた。

大人の犠牲になる子供は後を絶たなかったが、彼女の、子は宝との精神に共感し、活動に加わる若者も多く、全員が家族の一員となり、きめ細やかな養育が行われていた。子供たちがどこまでも澄んだ輝きを見せるようになり、希望に満ちた、子供の城ができ上がっていた。

大きくなった子供たちは、不幸を背負う肉親に捨てられたことで、かえって幸福な人生が切り開けたのを理解していた。子を捨てる大人たちの不幸を哀れみ、大人たちの過ちを繰り返さない、思いやり溢れる人間に成長していた。

 三人が元いた河川敷のグランドに戻ると、恵も金剛もすぐに姿が消え、気が付くと、良介一人が走っていた。

 良介は、今起きたことが、夢か幻か、それとも現実なのか分からなくなり、立ち止まっていた。

今まで、様々な疑問や、不安が渦巻いていたのがすっかり消えて、希望に満ちていた。しかし、これから先、どんな展開が待っているのか、想像が付かなかった。恵が何も示唆しなかったのが幾分不満だったが、恵が魔界で楽しんでいるのが分かっただけでも、満足するしかなかった。