2、思いやりを守る戦士 良介は二歳違いの弟、真二と仲が悪く、喧嘩が絶えなかった。恵が生まれる前は、真二をいつも自分の分身のように可愛がって遊んだが、恵が生まれて面倒を見るようになると、真二を相手にしてやれなかった。真二は焼きもちを焼いて、一人だけ離れていき、気持ちがすさんでいつも反発するようになっていた。 良介は真二が気になっていたが、どうしても恵が優先となり、真二の心の不足をいつまでも補ってやれなかった。 真二が中学生になると、いつしか悪い仲間と付き合うようになり、不良となって非行を繰り返していた。真二の意思に反し、仲間は日増しに過激となり、三年生になると、喧嘩ばかりして、学校でも手の付けられない不良グループとなっていった。 良介は、仲間のところへ出かけようとする真二を呼び止め、更生させようと話をした。顔を合わせると、真二は俯くだけで何も話そうとしなかったが、後悔しているのが分かり、グループから抜け出そうと、真剣に考えているのが察せられた。 良介は状況を知ると、弟を非行から救い出そうと心に決め、喧嘩など一度もしたことがなく、震えが止まらないほど怖かったが、不良グループの集まる場所に単身乗り込んでいった。 真二の不良仲間五人がちょうど揃っているときで、みんな大人になりきれない子供心を顔に滲ませ、子供らしさを覆い隠そうと、躍起になった表情をしていた。 良介は、弟を守るという強い意志が働いて、心身ともに力がみなぎってくるのが感じられ、不良を前にしても、少しも恐怖心が起こらなかった。 近所で顔を知っている敦志が前に出てきて、 「なんだ、真二の兄貴じゃないか」 と、小柄な良介を見下すように声をかけてきた。 グループのリーダーと思われる、身体が一番大きい純一が、 「何か言いたいことがあるならさっさと言えよ」 と、高圧的に出てきた。 「君たちとゆっくり話しがしたくてやってきた。その辺に座らないか」 良介は少しもたじろがずに話した。 「こっちには何も話すことはないぜ」 グループの中で一番小柄だが、それでも良介より大きい寛明が、大人ぶった表情で、追い返そうとする意思を窺わせて話してきた。 「君たちと話しをしないわけにはいかないのだ」 「真二がグループから抜けたいとでも言っているのだろ」 いかにも小利口そうな秀敏が、良介の心を見透かすように、鋭い視線を浴びせて言ってきた。 「真二は君たちのことを何も言ってくれなかった。でも、みんなと一緒にやっている行為が、苦痛になっているのが分かった」 敦志が良介の胸をつかんで、 「俺たちに、いちゃもんを付ける気だな」 と、声を荒げて言ってきた。 「真二がグループを抜けたいなら抜けさせてやればいいじゃないか」 後ろで俯くばかりだった俊輔が、悲しそうな顔をして、つぶやくように言った。 「何を言っているのだ。俺たちは仲間じゃないか。真二がグループを抜けたいだなんて、絶対にあるはずがない」 純一の怒りを含んだ言葉に、他の三人も追随し、 「真二がそんなことを言うはずがない」 と、秀敏があざけるように付け加えた。 「真二は何も言わなかったが、グループを抜けようと悩んでいる」 良介が静かに語ると、 「俺たちの友情を壊そうと、嘘を言っているのだ」 寛明が叫ぶように言い、俊輔が止めるのを無視して、四人が一斉に良介へ殴りかかってきた。 なぜか、良介には四人の動きが緩慢に感じられ、こぶしが雨のように降ってきたが、難なくかわし、四人の合間を、蜂が舞うようにすり抜けていった。すり抜ける瞬間に手のひらで背中を軽く突いてみると、相手は強い衝撃を受けたように飛んでいた。 飛ばされた相手は、首をかしげるだけで、何が起きたのか分からないまま立ち上がり、再び立ち向かっていた。背中を突く動作を繰り返し、四人とも何回か弾き飛ばされていたが、あきらめずに殴り合いを挑んできた。 「やめてくれ」 と、大きな声がして、みんなの動きが一瞬止まり、声の方向に真二が立っていた。 「嘘じゃない。今のままじゃ、これ以上みんなと一緒にいるのは嫌なのだ。みんなは好きだけど、やっていることは嫌いだ」 真二は、良介と仲間の間に入ってきて、 「殴るなら俺を殴ってくれ」 と言った。 四人は真二を取り囲み、 「真二は裏切り者だ」 と言って、殴りかかろうとした。 良介はすぐに真二を後ろに引き出し、自分が相手をする姿勢を示した。 「みんな、もうやめたほうがいい。今まで様子を見ていたけど、この人は恐ろしいぐらいに強い。とても敵う相手ではないよ」 と、俊輔が中に入ってきて、みんなを制止した。四人とも薄々気が付いており、良介が怖くなっていたところで、俊輔の制止に黙って従っていた。 良介は強靭な肉体を持っていたが、格闘を意識してきたわけではなかった。しかし、弟を守ろうとする強い意志が強大な戦闘力となって、自分にも信じられないほど強くなっていた。一瞬、自分が特別な人間ではないかと考えたが、恵に、空を駆け巡る夢を見せたくて、懸命にトレーニングを積んできた成果だと言い聞かせていた。 四人とも興奮が冷めると、良介は、小柄だが強靭な肉体を持つ、特別な人間に思えてきて、とても敵わないと観念し、戦いを挑むのはすっかりあきらめていた。 「ゆっくり話し合ってみようよ」 良介が優しく語りかけると、俊輔がすぐに応じる姿勢を示し、仲間に向かって切々と訴えていた。 「自分も今のままではとても一緒にやっていけないと考えていた。喧嘩をしていても少しも楽しくないよ。みんないいやつだからいつまでも仲間でいたいと思うけど、喧嘩ばかりしているなら、自分も抜け出してしまおうと思っていた」 四人は互いに顔を見合わせると、心のどこかに同じ疑問が潜んでいるのを抑えられず、俊輔の言葉に反論できなかった。 良介は、真二にみんなを紹介するように言い、互いに名前を名乗りあって、円形になって腰を降ろした。 良介は一人一人と時間をかけて語り合い、みんなの心の内を引き出してみた。 「家に帰っても話しができない」 と、敦志が考え深そうに言ってきた。 「勉強をしているか、塾にちゃんといっているか、そればかりで、今何をしたいのか、これから何をしたいのか、肝心なことは少しも話しをしようとしてくれない。目的が無いのだから、何をしたらいいのか分かるはずがない。何も考えずに言われた通りにしろと言われても、ロボットではないのだから納得できないよ。親が頼れないから、自分で考えて、好き勝手やっているしかない」 「いじめをしても少しも楽しくないのに、いじめることばかり考えている」 寛明は、本来のお人よしの素顔を覗かせながら話し出した。 「みんなと仲良くして、楽しくやろうと思っても、弱そうなやつを見つけては、理由もないのにいじめようとする。いじめの仲間に入らないと自分がいじめられてしまう。みんな良い子ぶって表向きは何でも言われた通りにしているけど、本当は不満が一杯で、いじめがはけ口になっている。親も先生も成績が良ければ良い子扱いをして、人間としてだめになっても注意しないから、人を傷つけても何とも思わなくなってしまう。そんなやつと喧嘩をすると、喧嘩の理由よりも、成績の良し悪しで悪者が決まってしまう」 「家に帰っても少しも面白くない」 純一が、今までと全く違う、優しそうな目をして、心のうちを語ってきた。 「親父もお袋もそっぽを向き合って、口も聞かない。お袋は、出世のできない親父の悪口を言って、お前はエリートにならなければだめだと、そればかりだ。親父は家に帰るのが嫌みたいで、毎日のように酒を飲んできて帰りが遅くなる。いてもいなくても関係ないって感じだな。家族が揃って会話を楽しむなんて、全くなくなってしまった」 「僕は押し付けられるのが嫌だった」 俊輔が、いかにも繊細なしぐさで、強い意志を表していた。 「両親は僕を医者にしようと決めていた。僕はコンピュータが好きで、将来はソフト開発の仕事をしてみたくて、そのことをいくら話しても聞いてくれなかった。自分の人生なのだから、何でも言われるままに生きていたのでは価値がなくなってしまう。自分の意思で一つ一つを決めていきたかった。この頃は両親も解ってくれて、僕の意思に任せると言ってくれた。両親の気持ちを考えると医者のことが無視できなくなり、医療関係のソフト開発を目指したいと思うようになった」 「大人も子供も、みんな自分のことしか考えていない」 秀敏が大人びた口調で、鋭い社会批判をしてきた。 「親父は競馬に夢中で、休みの日はいつもいない。お袋もこの頃は自分も好きにすると言って、夜はカラオケ通いをし、休みの日はブランド品を買いあさっている。姉貴はまだ高校生なのにおしゃれをすることばかり考えている。世の中には同じような人間が一杯いて、テレビで流行として映し出されると、何も考えないですぐに飛び付いてしまう。俺がもっと家族で話をしようとしても、忙しそうにして相手にされない。俺が金の無心でもしていると考えて、金で解決をしようとしている。最近になって気が付いたのだけれど、世の中には金では買えないものが一杯あって、金を使うのに夢中になっていると、二度と取り戻せない貴重なものが、どんどん失われていくように思えてくる」 「俺は甘ったれていた」 真二も自分を振り返っていた。 「俺にとって兄貴が一番だった。兄貴が妹ばかり一生懸命になって、俺のことは少しも相手にしてくれないので、寂しくて仕方がなかった。妹が兄貴を必要としているのはよく解っていても、気持ちが少しも言うことを聞いてくれない。俺も妹が可愛くて、兄貴がいないときは面倒を見ようと思うけど、無視して家をすぐに飛び出してしまった。この頃は、兄貴の妹を思いやる姿が偉大に思えてきて、自分も見習わなければと考えるようになってきた」 良介は話しを聞き、みんなの悩みは共通しているように思えた。 中学生になると、先のことが何も分かっていないのに、親や先生の唱える道筋に、ただひたすら追いやられている。本来の自分を見出して疑問を感じ、誰かに相談しようと思っても、一番頼りになるはずの両親が、むしろ時代に振り回され、子供の気持ちを考えずに、盲目的に決められた人生へ追い立てようとしている。結局は一人で悩みを解決するしかなく、よりどころを求めて仲間ができていたようだった。 仲間と集っても、悩みをを打ち明け合うわけではなく、寂しさを紛らわすだけでしかなかった。紛らわす方向として、親や学校、社会に対する鬱憤が噴出して、その結果が非行へと結び付いたように考えられた。 良介は、今まで夢中で生きてきて、みんなから聞いた悩みについて一度も考えたことがなかった。 「君たちは僕よりずっと大人だな。僕は何も考えずに、目標を決めるとただひたすら突き進んできたので、悩みを持ったことがないのだよ」 良介は、みんなの悩みは何となく理解できた気がしたが、甘ったれているとも感じていた。説教をする立場にないと思ったが、自分の考えを語りはじめた。 「今の時代は大人も自分のことが精一杯で、他人のことなど考えているゆとりがないのかもしれないよ。経済的に豊かなようだけど、いつも不足を感じていて、欲求を満たそうと躍起になっているのかもしれない。何をしたら欲求を満たせるのか分からずに、お金が解決をすると信じて、何も考えずにお金で買えるものを追い求めている。子供を大切に思っても、子供の本音を知るよりも、お金を出せば何でも解決できると考えている」 良介は語りながら、自分の両親のことを思い浮かべていた。両親は共働きで、二人とも少しでも収入を増やそうと懸命だった。自分や真二の学費、恵の医療費と、子供が家計の心配をしなくても済むように精一杯働いている。家族の団欒が少なく、不満に思ったこともあったが、むしろ、自分ができることがあったら手助けをして、少しでもゆとりを持たせてやりたいと願った。 「君たちはゆとりがあるから悩めるのだよ。ゆとりがなければ余計なことを考えずに、目的に向かって思いっきり生きるしかない。余計な時間があると、思うようにならない原因をあれこれと考えて、誰かの所為にしたくなる。親でも、兄弟でも、先生でも、相手の置かれた状況を考えないで、自分の都合だけで評価しようと思うと、つい多くを求めて不満になってしまう。親や先生を大人と思いたいけど、今の時代は歳をとっても大人になれない人が大勢いるような気がする。中学生になれば自分のことが少しは分かってくるから、大人になれない大人たちと何でも対等に考えられるのではないのかな。君たちは人生を悩んで不良をする余裕があるのだから、余裕のない大人に多くを求めるより、たまには自分のほうから見守ってやり、力になるくらいの思いやりを示すべきだ。大人も子供も自分のことばかり考えて、思いやりがどんどん失われようとしており、誰かが思いやりを示して、少しでも蘇らせていかないと、とんでもない社会になってしまう」 良介の大人に対する考えを聞き、みんな顔を上げ、何と受け止めるべきか分からないようだった。互いに顔を見合わせ、誰かが答えを出してくれるのを待ち受ける様子だった。 良介は、話すべきか悩んだが、妹のことをゆっくりと話し出した。 「妹は病気で、走りたくとも走れない。僕は、妹の足になりたいと思っている。妹を背負って少しでも早く走りたくて、毎日トレーニングを積んでいる。でも、それは妹のためにやっているわけではないのだよ。妹を背負って走っていると、気持ちが一つになってとても楽しい。妹が喜ぶ顔はどんなものより美しく感じられる。自分の力で、妹の宝石のような輝きを作り出していると思うと、自分の存在価値を感じて、とても幸福になれる」 良介は恵を思い出すと、ついうっとりとして、言葉が途切れていた。すぐに我に返り、果たして信じてもらえるか疑問に思ったが、みんなの目を確認すると、乗り出すように自分を見つめており、話す価値が充分あると、確信をもって話し出した。 「妹のことを思って、毎日懸命に走っていると、空を飛ぶ夢が見られる。妹を背負って空高く舞い上がり、世界中に飛んでいける。僕の見る夢は妹も一緒になって見ていて、妹が望むどんなところでも飛んでいき、妹は病気を忘れて大喜びしている。でも僕が付いていてやらないと、妹は病気を苦にして死んでしまうかもしれない。僕は妹を守っていこうと決めている。妹を思って懸命になっていると、自分でも信じられないほどの力がみなぎってくる。真二を守ろうと君たちと立ち向かったときも、身体が勝手に動き出して、気が付くと君たちを押し飛ばしていた。思いやりが、僕に特別な力を与えてくれたとしか思えない」 良介の言葉に、みんな無意識に頷いていた。 「妹は僕を必要としていると思うと、何をやるにしても少しも苦にならなくなる。自分のことを考えているより、妹や弟、両親のことを考えているほうが満たされている。君たちも自分のことばかり考えていないで、時には親の気持ちを理解し、もっと思いやりを持ったらどうなのかな。親に優しい言葉を投げかけて、少しでも安らぎを与えてあげれば、気持ちにゆとりができるようになって、家族の会話も増えていく。家族が互いに思いやるようになれば、何も苦にならなくなるはずだ。友達同士でも同じで、君たちには素晴らしい仲間がいるのだから、互いに思いやりをもって、いつまでも友達でいれば、とても強い力となっていくはずだ」 良介は話し終わって、一人一人、目で意思を確認してみると、新たな生活に向けて並々ならぬ決意が感じられた。 秀敏は手を上げるようにして、自分の考えを語りはじめた。 「親父もお袋も子供みたいなのだ。良介さんが言っていたように、大人の顔をしていても、自分さえよければ、人に迷惑をかけても何とも思わない人間が大勢いる。そんな大人が子供に何が教えられるのか考えると、何もしないほうがいいと思えてくる。それでも親は、俺たちのために仕事でがんばっているのも確かだ。結局は悪い人間ではなくて、何も分かっていないとしか考えられない。俺にも思いやりが何となく分かってきたから、こっちから思いやりを示してみようと思う」 寛明が、嬉しそうに話し出した。 「友達が悩んでいるときに力になってやれると、とても気分がいい。俺にも妹がいて、時々面倒を見るけど、頼りにされると妹が可愛くなって、一緒にいるだけで楽しくなってくる。お袋が具合の悪いときに心配で声をかけたら、顔色がすっかりよくなって、とても嬉しそうにしていた。俺を見てくる眼がすごく綺麗で、本当に自分のお袋なのか疑ってしまった。思いやりの力ってすごいと思うよ」 俊輔が、不良でいたときの、思い悩んだ心の内を明かしていた。 「両親は、いつも僕のことを気にかけていてくれて、二人とも僕が生きがいみたいだ。僕が反発して家にあまり帰らなくなったとき、両親は心配で眠れなくて、どんどんやつれていくのが分かった。押し付けが我慢できなかったけど、両親の心配する顔を見るほうがもっと辛かった。両親は僕のことに夢中で、気持ちにゆとりがなかったみたいだ。僕が不良になったので、今までと全く違う角度で考え、話し合って、お互いに何が大切なのか分かった気がする。両親に心配をかけさせたけど、僕の巣立ちの試みが、家族の絆を深めた。僕が巣立ちをできたのもみんなのおかげだと思っている。嫌なこともあったけど、いい仲間に巡り合えて本当に良かったと思っている」 純一が父親を気遣う心情を窺わせていた。 「親父は家族と一言も口を利かないけれど、家族をいつも気にとめている。本当に家族が嫌なら、とっくに捨てて出ていってしまうと思う。毎晩酒を飲んでくるけど、家族の生活は親父の稼ぎでやっている。出世しなくても家族の生活を守ってくれているのだから、親父はとても偉いと思う。今度親父に感謝して、ゆっくり話しをしようと思っている。お袋にも親父が偉いと、話してみようと思う」 敦志が、ため息混じりに語った。 「親父もお袋も、今まで決まったことを決まった通りにやって生きてきて、何も疑問に思わないみたいだ。俺も同じと考えていて、回りと何でも一緒にしていればいいと思っている。人それぞれのやり方があるのに真似ることしか考えていない。俺がどんな人間なのか考えもしないで、決まった通りに進んでいくと決めている。俺が不良になっても少しも心配しない。二人ともお人好しで、疑ることを知らないみたいなのだ。これからは、俺がいつも付いていて、世の中の悪い面を少しずつ教えてやろうと思う。そうでもしないと、問題が起きたら、自分たちで解決できないと思う」 良介は、みんなの心は既に思いやりに溢れ、全ての問題が解決したと実感し、自分の役割は終わったと思った。真二に素晴らしい仲間がいると思うとありがたくなって、一人一人に握手を求めて、ありがとうと言い、頭を下げて回った。 みんな良介の言葉の意味が分からず、純一が代表して、 「俺たちがお礼を言わなくてはいけないのに、おかしいですよ。こっちこそ、本当にどうもありがとうございました」 と言って頭を下げ、みんなも従っていた。 「真二にこんなにも素晴らしい友達がいると思うと、嬉しくて仕方がないのだよ。君たちに本当に感謝している」 と言って、良介は薄っすらと涙を浮かべ、再び頭を下げていた。 みんな戸惑って、互いに顔を見合わすばかりで、沈黙が続いた。 そのうちに、純一が思い出したように、良介へ話しかけてきた。 「良介さんみたいに強くなるには、どうすればいいのですか」 他も答えが知りたくて、身を乗り出すように視線を向けてきた。 「僕は少しも強くないよ。妹や弟を守ろうと思うと、身体が勝手に動き出すだけだ。強くなろうとして、特別なことは何もしていないよ。妹を背負って、少しでも長く、早く走れるように、トレーニングを積んでいるだけだよ」 「俺たちも早く走れるようになれば、強くなれるかな」 寛明がわくわくしながら言ってきた。 「俺は違うと思うな。良介さんは思いやりを守る戦士に違いない。思いやりを守ろうとしているから、特別な力が備わっているのだよ」 と、純一が真剣な眼差しで言ってきた。 「僕は特別だなんてことはないよ」 良介が手を振って否定すると、 「僕は良介さんが特別な人だと信じる。みんなが争っているときに、僕は最初から最後まで目を凝らして見ていたけど、良介さんの動きは早くて見えなくなるときが何度もあった。人間では絶対に不可能だよ。思いやりを守るための特別な人なのだよ」 俊輔の話しにみんな頷いて、改めて良介に視線を向けてきた。 「僕には分からないけど、でも、思いやりを大事にしたいと思う。思いやりを守るためなら命がけで闘うつもりだ」 良介の決意のこもった返事にみんな納得し、誰ともなく、 「俺たちも戦士になれるかな」 と、口々に言い出した。 「君たちの思いやりも、どんどん膨らんでいるから、きっとなれると思う。思いやりを守る戦士が一人でも多くいないと、心の弱い人はみな悪魔の餌食になってしまう。みんなで力を合わせて思いやりを守っていこう」 良介は、無意識のうちに悪魔の名前を出して、みんなに訴えていた。 「俺は絶対に戦士になる。悪魔と闘って、弱い人を助けるのだ」 と、純一が興奮気味に宣言し、こぶしを前に突き出した。他も純一に従い、こぶしを差し出して決意を示した。 「俺たちは、何をすれば本物の戦士になれるのかな」 敦志が疑問を投げかけると、 「良介さんみたいに、ランニングをすればいいのかな」 と、問うように秀敏が言ってきた。 良介は答えに窮したが、心の底から湧きあがってくるように言葉が出ていた。 「君たちは不良になる前はサッカーをやっていたと思う。サッカーをもう一度始めてみたらどうかな。ランニングよりも、仲間が気持ちを合わせてサッカーに打ち込んでいったほうが、思いやりにも磨きがかかり、力も蓄えていけると思う」 みんなサッカーの話しに納得し、 「俺たちを、良介さんの家来にしてください」 と、純一が代表して言った。 以降、六人のことは、真二から随時報告を聞いていた。 不良からすっかり足を洗い、良介がアドバイスした通り、サッカーを再び始めて活躍するようになっていた。思いやりも育んで、家族に思いやりを示すようになったら、今までほとんどなかった会話が格段に増え、家族みんながお互いに思いやるようになって、家に帰るのが楽しくなったと言う。 家族がサッカーに関心を持つようになり、活躍すると家族も一緒になって夢を見ているのが分かり、もっと大きな夢を見させてあげたいと思いながら、懸命にサッカーをやっているのも知った。友情もいっそう厚くなり、サッカーをしていると互いに気持ちが分かって、チームプレーに大きな効果を及ぼしているようだった。 中学を卒業すると、六人が揃って挨拶にやってきた。思いやりを込めて一心に打ち込んでいると、信じられないようなパワーが身体中にみなぎってくると、戦士になったような、力強い表情をして報告してきた。良介は、たくましくなった六人を見て、思いやりを守る戦士として、本当に闘うときがくるような気がしてならなかった。 良介は、弟を含めた六人と家来にする約束をした、三年前の出来事を思い出し、今のふがいない自分を考えると気恥ずかしくなっていた。恵の沈んだ顔を思い浮かべ、悪魔が忍び寄るのを感じていた。今こそ、思いやりを守る戦士として戦いを挑むときがきたと思った。 今の自分には、恵を守るだけの力がないと分かっていた。恵の繊細でひ弱な心では、家族の優しい気持ちを感じれば感じるほど、負担をかけさせまいとする思いが強まってくるのに違いなかった。たくさんの夢を見て生きる意欲を持たなければ、悪魔の餌食になることは免れず、恵に一刻も早く夢を取り戻してやらねばと、焦りを感じていた。強靭な肉体作りに向け、時間との競争に入っていった。 良介は医者になるのを断念しようと思ったが、家族にはどうしても言い出せず、中途半端な状態で、受験勉強も継続していた。トレーニングに力を注ぎ、恵にも最大限愛情を注ぎ込んで力づけているつもりだった。しかし恵は、良介の息の抜けない過酷な生活を見抜き、何も言わなかったが、心を痛めているのが分かった。 良介は、恵のためなら命も惜しくないと、大声で訴えたいと思ったが、恵の心には重荷になるだけだと悟った。一刻も早く、空を飛ぶ夢が見られるようにしようと言い聞かせ、トレーニングに全力を注いだ。 七月に入って梅雨前線の活動が活発となり、雨の降る毎日だったが、良介は朝夕欠かさずランニングに出かけた。たった四ヶ月のブランクに過ぎなかったが、想像以上に体力が衰えていた。気持ちは全力で走っていても、足が思うように付いていかず、息が上がって、立っているのも辛かった。筋力の衰えもひどく、元の強靭な肉体に戻すのは並大抵ではなかった。 雨が一段と強く降る夕方のこと、良介がずぶ濡れになって懸命に走っていると、追い立てるような足音が、背後に迫ってくるのが感じられた。後ろを振り向く間もなく、気が付くと、黒い服をまとった、見上げるほどの大きなランナーが、帽子を奪ってあっという間に追い越していった。良介の脳裏には、悪魔が自分の力不足を高らかにあざ笑う姿が映し出され、恵に忍び寄ろうとしているように感じられた。一段と強まってきた雨の中で、良介は、恵を守る術がないと、頭を抱え込んでいた。 良介は急に恵が心配となり、慌てて家に戻った。すぐに恵の部屋へ行くと、恵は机に向かって本を読んでいるところだった。良介のずぶ濡れになった姿を見ると、驚愕して、恐怖心をあらわにした。 「大丈夫か、恵」 良介は言葉を何とか発し、恵の姿を確認した。 「お兄ちゃんこそ大丈夫なの。異様な姿に、悪魔がやってきたのだと思ったわ」 「驚かせてごめんよ。ランニングをしていたら、ものすごい速さで追い抜いていった人がいた。自分には悪魔が戦いを仕向けてきたように思えてならなかった。今の自分には恵を守ってやるだけの力が回復していない。恵が気持ちをしっかり持っていてくれないと、悪魔の思う壺になってしまうよ」 恵は良介の言葉を無表情に聞いただけで、何も応えてこなかった。 良介は、恵の心を読み取ろうと見つめたが、心が閉ざされて、全く気持ちが分からなかった。 恵は立ち上がるとタオルを持ち出してきて、良介の身体を拭きはじめた。 「お兄ちゃんは、私のために無理ばかりしている。お兄ちゃんが体を壊してしまったらと、考えると、とても辛くなってくるの。お兄ちゃんまで悪魔の餌食になることはないわ。もう、私のことなど気にしないで、お兄ちゃん自身のことを考えて」 「何を言っているのだ。恵はお兄ちゃんにとって何よりも大切なのだよ」 恵は良介の視線から逃げるようにして背中へ回り、 「本当にありがとう。でも、私には、お兄ちゃんに何もしてあげられないの」 と言い、良介の背中を押して、部屋から出るように促していた。 良介は振り返ることも叶わず、空しく部屋を出ていくしかなかった。 良介は恵のことが気になって、その日はいつまでも寝付けずにいた。恵は明らかに自分の重荷になっていると思い込んで、苦しんでおり、自分が無理をすればするほど傷ついているのだと分かった。今のままだと八方塞となって、悪魔から恵を守る手立てがないのを知り、嘆くしかなかった。重荷であるはずがないと、心の中で何度も叫んでいたが、いつしかうとうとして夢を見ていた。 良介が河原を走っていると、足音がすさまじい勢いで近づいてきて、悪魔が競争を仕掛けてきたのだとすぐに分かった。良介は、絶対に負けるわけにはいかないと言い聞かせ、能力を超えたハイペースで懸命に走った。走っても走っても、どうしても足音を引き離せなかった。むしろ、大きな波が渦巻いて迫ってくるように、高々と響き渡っていた。悪魔に飲み込まれてしまうとの恐怖心が襲ってきて、助かりたい一心で祈りながら、目を強く閉じて走った。身体は実力どおりの力しか発揮できず、ハイペースはいっそう疲れを早めた。体は麻痺するように動かなくなって、後は倒れこむしかなかった。 良介が目を覚ますと、波しぶきでもかかったように、身体中が汗で濡れていた。悪魔が自分の夢の中に入り込んできたと思うと、恵を守るどころか、自分の身を守ることもできない気がした。自分の命を少しも惜しいとは思わなかったが、自分が悪魔の餌食になってしまったら、恵は生きていけないと、そればかり考えていた。 良介は、恵を救う手立ては、自分が速く走れるようになるしかないと思い込み、後は何も考えなかった。今一番重要なのは、トレーニングに専念することだと結論づけ、予備校の退学手続きをしに、列車に乗っていた。 良介が列車に揺られながら、恵の天使のような笑顔を思い浮かべていると、混雑で押されて奥へと移動していった。気が付くと見覚えがある女性の前に立っていて、すぐに、それが初恋の人、知江だと分かった。 良介の初恋はあくまでも片思いで、知江とは一度も話したことがなかった。良介にとって一生忘れられないであろう人であったが、知江が自分を記憶しているかも定かでなく、言葉をかけるのも憚れた。全く無縁の女性と考えるべきだったが、恵が意識から消え、初恋の思い出に心が奪われていた。初恋そのものがいったい何だったのか記憶を辿りはじめ、恋した人がどんな女性なのか、非常に興味を引かれていた。 「知江さんですね」 良介は遠慮がちに言葉をかけてみた。 知江は怪訝な顔をしたが、少し間を置くと頷き、 「良介さんですね」 と応えてきた。 知江の声に言い知れぬ甘美な香りを感じ、恋を呼び覚まされていくのが分かった。 良介の初恋は中学二年生から始まった。同じクラスで仲が良かった昭夫が、女の子の噂話をたびたび持ち出し、そのたびに誰が好きなのか聞かれていた。恵のことが常に頭から離れず、異性に興味を持てなかったが、問題にならないようにと考え、他のクラスの名も知らない、ちょっと可愛いと思って指差したのが知江だった。あくまでも便宜上の相手だったが、昭夫が一年のときに同級で、すぐに名前も知れ、知江の姿を見るたびにつつかれて、意識させられていた。 初めは思春期を演出する恋物語だったのが、強く意識しはじめると、いつしか知江がどんな人なのか空想を巡らすようになり、特別な女性として心の中に描かれていた。恵が意識から薄れ、すぐに気付いて好きになるのを打ち消したが、叶わぬ恋と思うと余計に知江に惹かれていた。 中学三年夏休みの登校日のことだった。昭夫と三年も同じクラスとなり、夏休みの写生を一緒に描きに行こうと誘われ、周りの者も同調して、七人で写生へ行くことになった。その中の一人、紀代美が知江と懇意にしていて、良介への冷やかし半分で、知江を誘ってみると言い出した。 知江への思いは全くの片思いで、進展の見られない恋であったが、良介の心の中では限りなく理想の女性として描かれていた。写生での出会いが、恋の進展を促すとの期待も無視できなかったが、一方で、恵への思いが薄らぐのを危惧していた。 公園に八時集合の写生会は、時間に遅れる者が何人かいて、その中に知江も含まれていた。良介は、知江が初めからくる気がないと考えてがっかりしたが、期待したのが浅はかだったと、自嘲もしていた。 予定通りに写生会を進行させ、各自が思い思いの場所に移って写生を始めた。良介は、知江は来るはずがないと言い聞かせたが、後からくるのではとのほのかな期待が頭をもたげ、周りの様子が気になって、写生に集中できないでいた。知江への思いは膨らむ一方で、恋い焦がれていた。 写生を終了して集合場所に戻ると、後から残りの参加者も加わっていて、知江を含む全員が集まっていた。誰からともなくおしゃべりが始まって、知江と話す機会が訪れた。 中学三年の男女八人のおしゃべりは、夏の開放感に浸ってどこまでも華やいでいた。良介も当然加わるつもりだったが、知江を意識すると緊張して、素直に言葉が出てこなかった。結局は、知江を間近に感じておきながら、顔すら見られないで、良介の純情は、折角のチャンスも棒に振っていた。 初恋は、いつまでも幻想を抱いたまま、心の片隅でくすぶりつづけてきた。そして今、四年ぶりに呼び覚まされ、燃え上がらせていた。 十五の夏の純情は失せて、言葉をかけるだけでなく、知江の顔を躊躇いなく直視し、現実の人間をつぶさに観察していた。知江を間近に目にすると、恋い焦がれた人だと何となく分かるが、心に抱きつづけてきた女性と全く別人に感じられた。それでも、幻想ではけっして味わえない質感が迫ってきて、人それぞれが持つ固有の美しさを、生々しく感じていた。現実の男と女の関係を求めて心が騒ぎ出し、二人で時間を共有してみたいとの衝動に駆られていた。 良介は意に反して、知江との交流を模索する言葉が出ないで、 「紀代美さんと今も交流があるのですか」 と、当たり障りのない話しをしていた。 「年賀状をやり取りするくらいで、顔を合わせなくなりました」 知江も、良介の話しに無難に応えていたが、知江から積極的に話しかけてくることはなく、二人の関係を発展させようとする意思は一切示さなかった。 知江が途中で下車するまでの四十分ほどの時間、言葉は冷静に発していたが、良介の心は燃えるように知江を求めていた。知江に自分を受け入れようとする意思が全く感じられないと分かっていても、支配してみたいとの欲望に駆られていた。それは、かつて感じたことのない感情であり、相手に対する思いやりは一切持てなかった。相手の意思には全く関係ない、自分の都合で存在している人形だった。体の奥底から湧き出てくる欲望が、何の理屈もなく女を求めていた。何をしでかすか分からない自分に気付いたが、それが本性でもあるかのように、優しい気持ちになれなかった。 良介の狂いかけた歯車に、歯止めをかけたのは恵みの眼差しだった。 ぎらぎらとした心に、慈愛に満ちた恵の顔が映し出され、悪魔に惑わされてはだめよと言っているように感じられた。恵を思う気持ちがあって、初めて自分は一人前になれるのだと分かった。恵は常に自分を必要としていると考えていたが、むしろ、自分のほうが恵を必要としており、恵がいなければまともにやっていけないのだと分かった。 良介は、知江が悪魔の手下とは考えなかったが、明らかに惑わされていた。恵のために予備校をやめるつもりで列車に乗ったのを、一時は忘れ、明日も列車で知江を待ち受けようと思ったのも確かだった。 十五歳の夏にチャンスを棒に振ったのと同様に、十九歳の夏も激情とは裏腹で、知江との関係を繋ぎとめる足掛かりを一つも得られないまま、結局は無為に過ぎ去ってしまった。十五と違うのは、自らの意思でチャンスを棒に振ったもので、緊張や、勇気とは一切関係なかった。 良介は、思いやりを失いかけた自分に、人を好きになる資格がないと言い聞かせ、恵を守る力が取り戻せるまでは、余計なことは何も考えないと決意した。 良介が予備校から帰ると、恵が学校を早退して休んでいた。梅雨明けも間近になって、真夏の太陽が時々顔を覗かせる暑い陽気にもかかわらず、恵は寒いと言って、布団にくるまっていた。 良介が恵の額に手を当てると高熱が伝わってきて、ただ事ではないと分かった。 「すぐに医者へ行こう」 と言うと、 「風邪を引いてしまったみたいなの。寝ていればすぐに直るから、お医者さんへ行くことはないわ」 と、応えてきた。 「ただの風邪ではないよ。医者に診てもらったほうがいい」 「お医者さんには行きたくないの。このままそっとしておいて」 恵は弱弱しい声で言ってきたが、強い意志を示していた。 良介はこれ以上何も言えず、恵の頭を氷で冷やしてやるしかなかった。 恵の手を握ってやると、苦しそうな顔に笑顔をこしらえ、 「ありがとう」 と言って、すぐに深い眠りに落ちていった。 寝顔を見つめながら、恵が心を閉ざして自分からどんどん離れていってしまうのを感じ、辛くてならなかった。自分の心自体も迷走して、恵からややもすると離れているようで、何もかもが、悪魔の思う壺になっていくのを感じた。 恵がいったん眠りに付くと、いつまでも目を覚まさなかった。良介は片時も離れず看病していた。このまま目覚めないのではとの不安に駆られていたが、翌日の明け方に目を覚ましてほっとさせられた。 恵の熱は幾分下がったが平熱には程遠く、苦しそうな顔は変わらなかった。食事を勧めたが、飲み物を少し口にするだけで、食べようとはしなかった。 「私はたっぷりと眠ってもう大丈夫だから、お兄ちゃんも休んで」 と、労わるように言い、全ての用件が済んだかのように目を閉じると、再び眠りに付いていた。 良介は、自分の無力さを痛いほど感じていた。恵みも承知していて、労わるような言葉の中には、お節介は不要と言っているようにも思えた。悲しかったが、自分には手の施しようがないのを心が認め、病院へ連れていくしかないと考えていた。 無力さが言い訳となって、いつしか居眠りが始まり、夢を見ていた。 前日の夢と同じように、河原でランニングをしていると、後ろから大きな足音が迫ってきた。良介は、前日と違って走る速度を増さないで、足音の正体を確認すべく、振り返っていた。 入道雲のようにもくもくと膨れ上がった黒煙が、大きな口を開けて波が打ち寄るように迫ってきた。競争を挑むのではなく、自分を飲み込もうと襲ってくる姿に思え、闘おうとする前に、恐ろしくなって逃げ出していた。 良介は懸命に走ったが、足音は近づいてくるばかりで、魔物に飲み込まれるのは時間の問題だと悟り、競争を意識するよりも、逃げ場を求めるのに躍起になっていた。息が切れて絶体絶命になったところで、目前に人一人が入るのがやっとの小さな穴を見出し、それが助かる手立てなのか分からなかったが、必死に飛び込んでいた。 良介は魔物に飲み込まれたかどうか分からないまま、目が覚めていた。周りを見ると、居眠りが始まる前と何も変わった様子はなく、恵もかすかな寝息を立てて眠っていた。 朝になり、両親と相談して恵を病院へ連れていくことになった。恵が目を覚まし、病院の話しをすると行きたくないと何度も拒み、最後は哀願するような目で良介を見ていた。良介は俯いて、恵の心から発する願いに懸命にそっぽを向き、両親に連れられて家を出るのを黙って見送るしかなかった。 良介はひとりになると、自分の無力さに息苦しくなると同時に、医者に恵を救えるのか考えていた。恵の病は、生きる意欲が失ったもので、医療技術で直せないと感じていた。自分が夢を与えてやるしかないと改めて言い聞かせ、肉体の鍛錬だけでなく、思いやりに磨きをかけ、勇気を培わなければならないと思った。 午後になって恵を見舞いにいくと、深い眠りに付いていた。眠りから覚めないのではとの不安に駆られたが、手の施しようがなく、ただじっと寝顔を見ているしかなかった。 医者に病状を聞いたが、体力は弱っているが、どこと言って悪いところを見出せず、安静にしているしかないと言われた。良介には、恵が夢を失って、死を望んでいるとしか考えようがなかった。 恵は薄暗くなって目を覚ました。息苦しそうだったが、細く開いた眼差しで良介を確認すると、無理に笑顔を作り、首を縦にわずかに振って、再び目を閉じてしまった。 良介には恵の心が全く感じられず、手を握ってやるしかなかった。いつまでも付き添ってやりたいと願ったが、看護婦に帰宅を促され、病院を後にした。 良介は、恵のことが一時も頭から離れず、いつまでも寝付かれずにいたが、そのうちに、夢の中から恵が助けを求めているのが分かった。恵の夢の中に入り込むように、眠りに付いた。 「お兄ちゃん助けて」 恵の声が、霧の立ち込める森から聞こえてきて、良介は無我夢中で霧の中に走っていった。恵は霧の中で頭を抱え込み、目をつぶって、叫ぶように助けを求めていた。恵の周りにはいくつもの人型となった、どこまでも黒い闇が輪舞し、生贄を料理するのを待ち受けているようだった。 良介は何も考えずに輪舞の中へ走りこみ、恵を背中に乗せて逃げ出していた。輪舞していた闇が気付いて、すぐに追いかけてきた。初めはいくつもの闇だったのが一つになって大きな黒煙となり、足音を轟かせて迫ってきた。 恵は背中で、 「ごめんなさい」 と、何度も謝っていた。 良介は言葉の意味から、恵が死を望んだことを後悔しているのだと思った。死を望んで、死に神に魂を奪われる段になり、自分を思い出してくれたのだと思った。何としても救い出してやりたいと願ったが、良介の今の体力では、恵を背負って魔物から逃げ出すのは無理だと思った。 良介は逃げ場を求めて懸命に走ったが、空を飛ぶのは無論のこと、背中の重みが負担になって思うように走れないで、ただ救いを求めていた。しかし、周りを見渡しても光明を見出せず、自分の力で恵を守るしかないと分かり、ひたすら走るしかなかった。 魔物が間近に迫ってくるのを感じ、捕らわれるのは時間の問題だと考えていると、前に見た夢と同様、人一人がやっと入れる小さな穴が目に入ってきた。一瞬、穴に飛び込んでも自分しか助からないのではと、考えたが、穴に飛び込むしかなかった。身体が穴に吸い込まれた途端、背中が軽くなっていた。 穴に飛び込んですぐに恵を見つけたが、姿がなく、穴から出て様子を窺うと、魔物が恵を連れ去る姿が目に入ってきた。急ぎ追いかけたが、魔物は良介の体力をあざけるように、すさまじい勢いで遠ざかっていった。 良介は、自分の任務をまっとうできなかった悔しさで、泣き叫びたい思いだった。しかし、自分が助かったことによって、恵みを救い出すチャンスを残したと思った。まだ戦いは終わっていないとの気持ちで、心の底から恵に呼びかけていた。 「絶対に助けに行くから、希望を失ってはだめだぞ」 良介は目覚めると、現実に恵の命が脅かされていると予感した。だが、恵が生きる意欲を取り戻したのも分かり、たとえ恵の身に何かがあったとしても、自分さえ悪魔の餌食にならなければ、救い出す術があると確信していた。 良介が夜明けに目覚めて、何分もしないうちに病院から電話が入った。恵の病状が急変し、鼓動や呼吸が弱り、昏睡状態になっているとの知らせだった。急ぎ病院へ駆けつけると、恵は生命こそ維持していたが、医療装置の補助によるもので、自分の力では生きていけない状態だった。 良介は悪魔との戦いを意識すると、今までにない勇気が溢れていた。自分の命が少しも惜しいとは思わなかった。恵を助け出すためなら、恐れるものは何もないと言い聞かせた。思いやりを守る戦士になると、改めて決意した。 |