1、            花の妖精

 良介は、夢の中に妹の恵が出てきて悲しんでいるのを知り、とても気になって仕方がなかった。大学受験に失敗して浪人となり、予備校に通うようになってからは精神的にゆとりがなくなり、恵のことを気にとめてやれなかった。

恵は幼い頃から病弱で、入退院を繰り返していた。寝込むことが多いので足腰が弱くなり、激しい運動はもとより、長い時間歩くこともできなかった。小学校に上がって、十分ほどの通学は何とか自分ひとりで通えるようになったが、行動範囲は限られてしまい、どうしても閉じこもった生活となって、友達もできなかった。

良介は恵と六歳違いで、病弱な妹がかわいそうになり、いつも一緒にいてあげたいと思った。恵の行動範囲を広げてあげようと、公園や河原に連れ出し、恵が疲れたと言うと背負って、できるだけ遠くまで連れていった。行く場所場所で目にする花や虫、鳥や魚の話しをしてあげて、恵の心の世界も大きく広げてやろうと意識していた。

恵は良介がいるので、体も心もハンディを感じないですむようになり、楽しい毎日を送っていた。兄に対する思いは特別なものだった。

良介は、恵が病弱な代わりに不思議な力が備わっているのではないかと、いつしか考えるようになっていた。幼い頃は、恵の側を一時も離れずに世話を焼いていたので、不思議な現象に気付かなかったが、ほっといても大丈夫になって、離れたところから見守るようになると、不思議な現象が次から次へと起こるようになった。

家の庭には柿と梅の二本の木が植わっており、小鳥がよく飛んできて止まっていた。恵の部屋の窓から様子が間近に見え、恵がおしゃべりでもするように小さな声で話しはじめると、小鳥も応じ、いつまでも木に止まって、鳴き声を上げていた。

シジュウカラは一年を通してちょくちょく顔を出し、話し好きで、すぐ側の枝先まで近づいてきて、ジージーピーとさえずり、いつまでも話しかけてきた。メジロは柿が熟れた頃によくやってきて、はにかみやらしく、葉の陰からそっと顔を出し、白く縁取られた大きな目を向けて、いつまでも話を聞き入っていた。カワラヒワは鮮やかな黄色の羽根を控えめに見せながら、独り言でも言うように、チリリリ、ピーピーピーと小さなさえずりを上げ、一人ぼっちの悩みを打ち明けているようだった。オレンジ色の鮮やかなジョウビタキは人懐こく、おしゃべりをしているのがいかにも嬉しそうで、尾羽を振って親しみを表していた。

少し大きな鳥たちも顔を出し、ヒヨドリは賑やかに、オナガは生意気に、ムクドリはえばって、他の鳥や人間の悪口をまくし立てているようだった。恵みは少しも嫌な顔をしないで最後まで話を聞いてやり、

「喧嘩ばかりしているとみんなに嫌われるよ」

と、最後に優しく諭すと、鳥たちは頷いて機嫌良く飛び去っていった。

外に出ても同様で、恵は花や虫、鳥や魚たちとおしゃべりをしていた。

街は自然破壊が進んで多くの緑が失われてしまったが、それでも、川を中心に自然が残されていた。家から五分も歩くと河原に出て、恵を連れていく場所には事欠かなかった。恵が幼い頃は背負って、小学校に上がるようになると自転車で、河原や森へ連れ出すのが日課となっていた。

家から近い土手や河原にはちょくちょく連れていった。春になると淡いピンクのホトケノザやヒメオドリコソウ、ハルジオン、カラスノエンドウ。黄色が鮮やかなタンポポやジシバリ、ニガナ、ノゲシ、カタバミ、ヘビイチゴ。控えめな薄紫色のムラサキサキゴケやトキワハゼ、カキドオシ、キツネアザミ。咲きはじめの色合いが変化に富んだシロツメクサ、アカツメクサなどが咲いていた。

恵みは春の花が大好きで、花を見つけると側にいつまでも座り込んで、おしゃべりをしていた。すると、いくらかしおれかけた花たちも精気が戻り、恵みの周りが輝いているように感じられた。

蝶や蜂、天道虫などの昆虫がやってきて、恵の肩や手に止まり、春の訪れを称え合っていた。羽化して間もないアゲハチョウが命の輝きを発散させ、舞を懸命に披露した。

ホオジロ、ヒバリ、ハクセキレイ、セグロセキレイ、シメ、モズ、ツグミ、ツバメなどの鳥たちも集まってきた。ホオジロ、ヒバリ、セグロセキレイが競い合うように澄んだ歌声を披露し、一段と雰囲気を盛り上げて、しみじみと春の温もりを味わっていた。

恵は風を感じて走るのが好きだった。恵は自分では走れなかったが、良介が背負って野原を懸命に走り、恵の髪をなびかせてやった。

恵は風を感じると、

「走ってお兄ちゃん、もっともっと速く走って」

と、元気な声を上げた。

恵が小学校に上がり、自転車に乗せて行動するようになると、たまには橋を超えて対岸の河原にも出かけてみた。

対岸はいくつかの支流が流れ込んでいて、水辺に樹木や芦が密生し、見晴らしが悪くて人がほとんど近づかなかった。伏流水が混ざって、清らかで水量豊かな支流があり、ウグイやモロコ、オイカワ、タナゴ、フナ、ヘラブナ、コイ、ウナギ、ナマズなどが多く集まっていた。近隣の養魚場から逃げ出してきた、ニジマスやイワナ、ヤマメなども泳ぎ、天然の水族館となっていた。

何度か訪れると、恵は魚たちとすっかり仲良しになり、覗いていると多くの魚が押し合うように集まってきて、川面に魚体を浮き上がらせていた。

支流の一つは流れ込みがせき止められ、三百メートルほどの細長い沼ができていた。人の目が届かないので、アオサギやダイサギ、コサギ、ゴイサギ、カワウなどの水鳥が集まっていた。コハクチョウやコアホウドリなども時々姿を見せ、冬場はマガモ、コガモ、ホシハジロ、オナガガモ、イソシギなどが飛来してきた。カルガモ、カイツブリ、チドリなどは常駐しているようで一年中見られ、草原からキジやオオヨシキリが顔を覗かせることもあった。

恵は水辺の鳥たちとも仲良しになり、姿を見せると鳥たちが集まってきた。背丈が見上げるほどに高い、年老いたアオサギは池の主で、特に親しくなり、大きな羽根で包み込まれることもあった。

恵が八歳の夏に、家から少し離れた、妖精の森と呼ばれる森を訪れるようになった。

川と平行して、二キロメートルほどに渡って連なる広葉樹の森で、野鳥保護を目的とした自然保護区だった。遊歩道が整備されて公園になっていたが、訪れる人は少なく、野鳥の宝庫だった。

初夏になると葉が生い茂り、昼間でも薄暗く、森に一歩踏み込むと木の香りが深く漂い、温度が一気に下がって山地のようだった。

日の差さないところではシダの仲間が生い茂り、わずかでも日が差すところでは、キツリフネ、ヤブヘビイチゴ、ヤブラン、ジャノヒゲ、ドクダミ、オニユリ、キツネノカミソリ、ミズヒキ、キンミズヒキ、ヤブミョウガなど、山間で多く見られる野草が咲いていた。

森の周りには野原が広がり、野鳥が種子を持ちこんで花園を作り上げていた。ヒメジョオン、コウゾリナ、ニワゼキショウ、ネジバナ、イヌゴマ、カワラサイコ、マツヨイグサ、メマツヨイグサ、オオマツヨイグサ、ヤブカンゾウ、カワラナデシコ、ムシトリナデシコ、クズ、コマツナギ、ワルナスビ、ノアザミ、ヒキヨモギ、ヘクソカズラ、クララ、ビロードモウズイカ、ニラ、キツネノマゴ、コシオガマ、ホタルブクロ、ワレモコウなど、多種多様な野草が季節を追って、次から次へと姿を現した。

初めて妖精の森を訪れたとき、入り口前の湿地にネジバナが多く咲いていた。雑草の陰で控えめに咲いていたので目立たなかったが、恵は、微かに映し出された淡いピンク色を見つけ出し、可憐な姿がすっかり気に入って、とりこになっていた。

一つ一つに挨拶でもするように、ネジバナを見つけるたびに屈んで言葉をかけていた。良介は、恵がネジバナに負けない可憐な花に思え、このまま花になってしまったほうが幸せなのかもしれないと、考えることもあった。

森は枝が重なり合うように樹木が密生し、葉が茂ると日がすっかり遮られていたが、まばらなところもわずかにあって、太陽の傾きによってきらきらと光が差してくることがあった。輝きは様様な色や形に変化し、あたかも森の妖精が踊を踊っているようで、誰ともなく、森を妖精の森と呼ぶようになった。

森を訪れた人が野草を採ったり、木の枝を折ったり、ゴミを捨てたり、大きな音を上げて野鳥を驚かしたりすると、つまずいて膝をすりむいたり、枝で目をつついたり、刺を刺したりした。

「妖精は悪い人間にいたずらをする」

と、噂されるようになり、気味悪がって人はあまり近づかなくなっていた。

良介は森へ一歩踏み込むと、昼間とは思えない暗さと、独特の香りがする冷気が不気味に感じられ、入っていくのを躊躇ったが、恵の強い希望で仕方なく、散策を試みることになった。

恵を自転車の後ろに乗せてぴったりと寄り添い、遊歩道をゆっくりと引いていった。道端にある草花は彩りに乏しく、この森は、恵の好みに合わないだろうと考えたが、瞳は輝いていて、いつになく元気だった。

そのうちに、ひらひらと葉が舞うように、小鳥が木々を縫って縦横に飛び交っているのを、良介も気付いた。小鳥たちは二人の様子を窺っていたようで、恵は既に小鳥たちと対話をしているようだった。

恵は自転車を降りて一人で歩き出し、歌を歌いながら、軽やかに進んでいった。道が二手に分かれる場所にやってくると、不思議なことに、密生した葉を縫って光が差してきた。良介には輝きが妖精に思えてきて、案内する様子が伝わってきた。

森深く入っていくと、流れ込みがないのにいつも水が満々と湛えられた、円形の泉があった。

水辺にはショウブ、キツネノボタン、タガラシ、オランダガラシ、ミクリ、コモチマンネングサなどが生えていた。空が大きく見渡せる森唯一の広場で、取り囲む木々から日差しが漏れてきて、不思議な輝きがいつでも感じられる場所だった。いつしか、妖精の泉と呼ばれるようになっていた。

妖精の泉に導かれると、恵がいつも空想していた、いくつもの妖精が待ち受けていた。初めに、泉まで案内してくれた森の妖精が挨拶をし、続いて泉、霧、雨、雪、風、氷の妖精が、それぞれ独特の輝きを放ちながら挨拶をして、恵を花の妖精として受け入れているように感じられた。

恵は妖精たちと一緒になり、誘いに応じて宙を羽ばたくように踊り出した。恵はすっかり元気になって笑い声を上げ、踊りを心行くまで楽しんでいた。

森には多くの野鳥が棲み着いており、恵みの楽しそうな笑い声を聞きつけて、様子を見に集まってきた。シジュウカラ、ヤマガラ、メジロ、ジョウビタキ、モズ、カシラダカ、マヒワ、キビタキ、アオジ、キセキレイ、コゲラ、アカゲラ、カケス、カッコウ、チョウゲンボウ、オオタカなど、周りの枝に止まり、恵みの踊りに合わせて身体を動かしていた。

他にも、隠れ潜んでいたリスやムササビ、テン、ネズミなどの小動物たちが顔を出してきて、大きな輪に加わった。

鳥たちの哀愁こもったさえずりに合わせ、微風と木々がかもし出すハーモニーが一体となって、森全体が恵を中心に合唱しているようだった。妖精の泉は不思議な不思議な演舞場となっていた。

森の周りには野原が広がり、野草が咲き乱れて花園となっていた。恵は花園もすっかり気に入り、かつてないほど長い時間歩いていたが、少しも疲れを見せず、最後まで自分一人で歩いていた。

恵は家に帰って、森での体験を一言も話さなかったが、目の輝きが喜びに満ちていた。

良介は、妖精の森が病弱な恵を輝かせる、特別な世界だと分かり、森へできるだけ連れていってやろうと思った。

一週間後に再び森を訪れたが、最初に、森の周りにある野原を散策した。

野原を取り囲むように、色づきのない雑草が生い茂っていたが、何歩も行かないうちに、色とりどりの花が目に入ってきた。

野鳥たちが育てた花園で、ホオジロが番をしていた。恵の姿を見るとすぐに近寄ってきて、いかにも嬉しそうにコマツナギの花に止まった。ホオジロが案内を買って出て、初夏の花たちを紹介して回った。そのうちに蝶や蜂、バッタやトンボも集まってきて、恵の周りは大変な賑わいとなった。

ちょうどオオマツヨイグサが盛りで、恵の背丈よりも大きくなって花園一面に広がり、黄色の華麗な花を咲き誇っていた。恵は花に包まれて姿が何度も見えなくなり、良介は気が気でなかったが、笑い声が絶えずこだましてきた。存分に楽しんでいるのが分かり、好きなようにさせておくしかなかった。

花たちは恵を待ち受けていたようで、暑さでしおれかかっていた花も、近づくと生き生きとして、花園全体が輝いていた。良介は、恵を妹と見るより、花の妖精と考えるようになっていた。現実と夢との境界線ぼやけ、自分だけが現実に留まって、絵本でも見ているとしか考えられなかった。

良介は自分も夢の世界に仲間入りしたくなり、恵に近づき、背中に乗るように促した。

恵は勇んで背中に飛び乗り、

「走って、お兄ちゃん」

と言って、今まで耳にしたことがないほど元気な声を上げた。

「しっかりつかまっているのだよ」

良介は、恵と一体となったのを感じ取り、夢へと思い切り飛び出した。

恵の重みを少しも感じないで、どこまでも早く走れた。風が心地良く吹きぬけ、恵の髪をなびかせた。

恵は風を感じると、

「走ってお兄ちゃん、もっともっと速く走ってお兄ちゃん」

と、はしゃぎ声がこだました。

良介は、恵の思うままに右へ左へと蛇行し、花たちの側をすり抜けて走り回った。どんなに走っても疲れを少しも感じなかった。それどころか、スピードがさらに上がって、身体が宙に浮いているように感じられた。良介が意識しなくとも、恵の思いが二人の身体を自由に飛び立たせた。

妖精の森を飛んでいると、一段と高くそびえるトチノキに止まっていた二羽のオオタカが、二人を見てすぐに近寄ってきた。案内を買って出て、わずかに残された自然を、一緒になって見て回った。

オオタカが案内してくれたのは、ホタルの集まる小さな泉や、コブハクチョウが親子で漂う細長い沼、小鳥がたくさん集まるヤマブドウの森、小鳥たちが集めた山野草の丘、タヌキやキツネ、イタチやウサギがまだ息づいている野原など、人が踏み入ることがない、小さな小さな大自然だった。

あっという間に時間が過ぎ、良介が気付いたときには花園に佇んでいた。

恵の姿を求めて辺りを見回すと、恵は屈んでムシトリナデシコを覗き込んでいた。

恵は花園で楽しんだ後も疲れを見せず、続けて森へと入っていった。すると、すぐに木々が囁きかけるように葉音を立て、恵に挨拶をしてきた。

恵はにこやかに木々を見上げ、樹木の発する心地よい風を思いきり吸い込んで、森の妖精と挨拶をしていた。続いてキセキレイが姿を現し、森を案内するように、振り返りながら前を進んでいった。キセキレイが案内してくれたのは妖精の泉で、前回と同様、いくつもの妖精が待ち受けていて、きらきらと輝く踊の輪を作るのだった。

恵は妖精の森を訪れるごとに元気となり、良介はできるだけ多く連れていってあげたいと思ったが、時間が多くかかるので、思うように予定が組めなかった。何度も行かないうちに、恵は幼児から少女へと成長し、恵が十歳になると、背負うのはもとより、自転車に乗せて出かけるのも、回りの目が気になってできなくなっていた。

恵は、学校でいじめられることはなかったが、友達もできなかった。遊びに誘われても、みんなと一緒になって行動できないので、迷惑をかけてしまうと、気兼ねして、いつも恵のほうから断っていた。学校が終わるとまっすぐ家に帰り、一人ぼっちで本を読むのが日課となっていた。

良介は、恵にできるだけ声をかけるようにしていたが、寂しさを完全に解消できなかった。もう恵の役に立てないかと思うと悲しくて仕方がなかった。このまま黙って見守るだけで、恵は本当に幸福になれるのか考えてみたが、とても明るい見通しは立たなかった。

良介が部屋に引きこもって思い悩んでいると、恵がやってきて、

「お兄ちゃん、おんぶしてくれる」

と、寂しそうに言ってきた。

良介は恵の瞳をじっと見つめ、思いやる気持ちは少しも変わっていないのを確認し合い、ゆっくりと背中を向けた。

恵の重みが温もりとなって伝わってくると、大きくなったのが痛いほど感じられ、自分の手の届かない世界に飛び立っていくのだと思った。恵の呼吸と一つになって目を閉じると、妖精の森を訪れたときに、恵を背負って空を駆け巡ったのを、昨日のように思い浮かべていた。

恵は涙を流しながら、幼かった頃と同じように、

「走ってお兄ちゃん、もっともっと速く走ってお兄ちゃん」

と、心で叫んでいた。

「しっかりつかまっているのだよ。思いっきりとばすからね」

「でもお花は踏んではだめよ。虫さんにぶつからないでね」

「今度は森へ走っていくからね」

「あ、メジロさんが一緒に飛んでくる。あっちにはモズさんがいる」

「今度は川へ行くぞ。大きな魚が泳いでいるかな」

「私は小さいお魚がいいな。カニさんとも会えるかな」

「今度は空を飛ぶからね。しっかりつかまって」

「お星様を見にいくの。うれしいな。走ってお兄ちゃん、もっともっと速く走って」

恵を背負っていると全てが一体となり、恵の心が伝わってきた。恵の身体の一部になって疾走していると、幸福感が満ち溢れ、心で会話しながら、いつまでも態勢を崩さずに、至福の時を味わった。

良介は、これで恵を背負うことは二度と無いだろうと考えたが、なぜか、恵の手足となって走るときが、必ずくるような気がしてならなかった。たとえ二度と無くとも、恵の重みに耐えて、より早く走れるようにしておこうと心に決めていた。

良介は、恵の夢は自分の夢と重なり合っていると感じていた。恵がまだ幼かった頃に夢の話しを聞かされ、自分の夢と同じだと知った。楽しい夢を見た朝、恵を見るといかにも楽しそうな顔をし、悲しい夢を見ると、悲しい顔をしていた。恵は、自分の夢の中に自由に行き来できるのではないかと感じていた。

恵は夢の中で話しかけてきて、実際に話しをしなくとも、恵の気持ちが何でも分かる気がして不思議でならなかった。恵みが気付いているのか確認しなかったが、自分が楽しい夢を見れば、恵みも楽しい夢が見られると確信するようになっていた。

良介は、恵と一緒に行動できなくとも、恵の目となり耳となって、河原や森を訪れるようにした。色々とチャレンジして精一杯空想し、楽しい夢を見ようと思った。

恵のように鳥と近づいたり、妖精と踊ったりはできなかったが、花の様子を見たり、鳥たちの鳴き声を聞いたり、魚たちの動きを観察して、恵に報告をする習慣ができていた。

報告を始めると恵の瞳は輝き出し、良介が見聞きしてきたことを全て映しとっていた。報告が終わると、恵は空を見上げて空想に耽り、自由に野原や森を走っているようだった。夢をたくさん見られるようになり、いつも恵を背負って野原を駆け巡っていた。

夢の中で少しでも早く走ろうといつも懸命だったが、現実の重さと同じで、恵が成長するのに連れて重く感じられるようになり、思うように走れなくなった。

良介は小柄で体力がなく、人に侮られることもあって、見返してやりたいとの思いと、何よりも恵を思い、体力作りに励むようになった。恵の目となり耳となって河原や森を訪れるときも、走っていくようにした。

初めは速く走れなかったが、恵を背負って空を駆け巡ったことを思い浮かべると、疲れを感じないでいつまでも早く走れた。より強靭で、より早く走れるように、過酷なトレーニングを欠かさなかった。

トレーニングの成果が出て、良介の体力は格段と高まり、夢の中で、成長した恵を背負って疾走できるようになった。行動範囲も広がって、海や山へと足を伸ばし、湖面を滑って走れるようにもなった。さらに、強さ、速さとも超人的なものとなり、全力で走ると身体が浮き上がって、いつしか、思い通りに空を駆け巡れるようになった。

恵ははしゃいで大きな声を上げ、

「走ってお兄ちゃん、もっともっと速く走ってお兄ちゃん」

と言って、病気を忘れてすっかり元気になっていた。

空を飛べるようになると、良介の思い描いた世界から、恵の思い描いた世界へ飛んでいくようになった。心が一つになって、恵の願い通りに飛んでいくと、美しい花が競いあって咲く、花園へと辿り着いた。

花園には生気を蘇らせる泉があって、色々な動物が心と体の傷を癒しにやってきた。恵は背中から降りると、動物たちに優しく語りかけ、悩みを聞きながら両手で水をすくい上げて、傷口にかけてやった。

尻尾が折れ曲がったリスがやってきた。

「兄弟で、いつものように餌をもらえると思って人間に近づいていったら、網で捕まえようとした。弟は捕まり、僕は尻尾を痛めて命からがら逃げ出してきた。人間は森を破壊しているくせに、森が良くて大勢遊びにやってきて、僕たちが森を必死に守っているのを邪魔ばかりする」

「リスさんをいじめてごめんなさい。きっとリスさんとお話しがしたくて、捕まえて言葉を知りたいと思ったのよ」

胸を大きく切られたキジもやってきた。

「私たちの棲みかがどんどん奪われていってしまったわ。やっと見つけた野原で卵を温めていると、人間が草刈りにやってきて、鎌で切りつけてきたのよ。必死で卵を守っていたので、胸を深く切られて動けなくなってしまったわ。でも卵と一緒に他へ運んでそっとしておいてくれたので、何とか卵を孵せたけど、これから先、どうしたらいいのか分からないわ」

「きっとキジさんを傷つけようとしたのではなかったのよ。雑草は刈らなければいけない決まりになっているの。本当にかわいそうなことをしてしまったわ」

顔に傷を負ったサルがやってきた。

「山では餌が不足して、町に出たら人間が追いかけてきた。俺たちだって自由でいたいのに、人間は勝手に山を削って俺たちの世界を奪っている。今のままでは俺たちは暮らしていけないよ。生きるため、人間に歯向かったら棒で強くたたかれてしまった」

「人間も自分の生活を守るのに必死なの。あなたたちが怖いから、武器を持って争おうとするのよ。かわいそうだけど、山でひっそりと暮らしていくしかないの」

年老いたフクロウは羽を傷つけていた。

「愚かな人間は、森の大切さを知っているはずなのに、儲けることばかり考えて、大きな木をみな伐採してしまう。奥深い森でひっそり暮らしていたのに、とうとうそこまで木を切り出しにやってきたのだ。止めようと必死に抗議したが、羽を傷つけられ、追い払われてしまった」

「人間は、何が大切か忘れてしまうのよ。大人が忘れてしまったから、子供も、その子供もみんな大切なものを失ってしまったの。これからもフクロウさんに森を守っていてもらわなければならないわ」

傷ついた動物たちは、恵に傷を癒してもらうと嫌なことを忘れ、楽しいおしゃべりが始まって、すっかり仲良しになっていた。

恵は、自然破壊が進み、生き物たちの棲みかが奪われていくのをとても悲しんでいた。人間の犯した罪を一人で背負って、花や虫、鳥や獣と接し、傷ついたものに精気を注いでいるようだった。恵が動物たちを癒す夢を見ると、何日かして具合が悪くなることがあり、良介は、恵が命を縮めているのではないかと、気になって仕方がなかった。

恵が臥せっているときに、悲しそうな顔をして、問いかけてきたことがあった。

「人間はどうして自然をもっと大切にしないの」

良介は恵の問いに答えるだけの見識を持っていなかった。良介も花や鳥たちに愛着を持つようになったが、恵のほうが大事だった。恵を思えば思うほど、自然を愛するゆとりがなくなり、

「人間は自分のことで精一杯なのかもしれない。自然どころか、人間同士でも思いやる気持ちが持てなくなっているみたいだ」

と答えるしかなかった。

良介の答えに恵は怪訝な顔をして、

「みんなで仲良くしていたほうが楽しいのに」

と、再び問いかけてきた。

「お兄ちゃんにはよく分からない。学校でいじめが少しも無くならないのだから、人間は子供の頃から傷つけ合うようにできているのかもしれない。優しくすると損をしてしまうと思っているのかもしれない」

「そんなの悲しすぎるわ」

「お兄ちゃんは競争しようと考えていないけど、いつも競争させられている人がたくさんいるようだ。クラブ活動でも、受験勉強でも、将来のためにと言われて、いつも一番になるのを意識しているのかもしれない。友達も結局はライバルになって、そっぽを向いてしまうのだと思う」

「将来も大事かもしれないけど、今でなければできないことがたくさんあると思うの。勉強だけでなく、色々と経験し、学んでいかなければ将来のことも分からないと思うわ」

「お兄ちゃんも恵の言う通りだと思う。みんな分かっていても、みんなが騒いでいると、騒いでいる方を向いているしかないのだよ。みんなと同じにしていないと不安になって、真似ばかりしてしまう」

「真似をするのがそんなにいいの」

「本当は真似なんかしたくないと思うよ。もっと自由にしたくても、どうすればいいのか分からないのかもしれない。素晴らしいことが一杯あっても、どこにあるのか分からないのだと思う」

「恵は自然の素晴らしさを知っただけでも幸福なのかな。それに、恵には優しい家族がいる。お兄ちゃんがいるもの」

恵は納得できないようだったが、後は自分で考えていた。

良介は、高校生のときに大学受験が近づいても、恵を中心とした生活を変えず、トレーニングも欠かさないようにしていた。しかし、以前のように恵の目となり耳となって、花や虫、鳥や魚を見にいけなくなり、次第に夢も見られなくなった。

恵の病気を治してやりたいとの思いで、医者を目指して受験したが、希望の大学に入学できなかった。焦りを感じて、高校を卒業すると予備校に通い、受験勉強に専念するようになった。

トレーニングが疎かになり、体力の衰えは否めなかった。恵を常に意識し、触れ合う時間を持つようにしていたが、夢が見られなくなり、恵を楽しませてやれなかった。

恵の気持ちを確認せずに、自分の置かれた状況を理解してくれるだろうと勝手に決め込んで、受験勉強が中心の生活となっていた。

久々に夢を見て、恵が悲しんでいるのを知り、後悔せずにいられなかった。恵の様子を窺うと、寂しそうにしていて、涙が出るほどかわいそうになり、すぐには言葉をかけられなかった。

恵は中学生になり、背丈は良介とほとんど変わらなくなっていたが、色白で手足はやせ細って、見るからに病弱そうだった。先の見えない闘病生活を考えると、恵ひとりではとても夢を見られないと感じられた。良介は、自分の最も重要な役割を疎かにしてきたと、悔やまれてならなかった。

「今日は、久々に妖精の森へ行ってみようか」

良介が話しかけると、恵は寂しさを押し隠すように笑顔を向けて、

「お兄ちゃんは受験勉強が忙しいでしょうから、私のことは気にしないで」

と、応えてきた。

良介は甘えてきて欲しいと願っていたので、恵の気兼ねがたまらなく辛かった。恵の心のうちで、家族の重荷になるのを嫌悪しているように思われた。

良介は恵の手を握り、

「恵は最も大切な宝物なのだよ。お兄ちゃんにとっては、他のどんなことよりも恵が大事なのだからね。つい受験勉強に夢中になって、恵を疎かにしてしまい、とても後悔している。お兄ちゃんにできることなら、何でも恵みの願いを叶えてやりたいのだよ」

と言って、恵の心に懸命に訴えた。

恵は、むしろ労わるような眼差しとなって、

「どうもありがとう。私はお兄ちゃんがいるので、とっても幸せ」

と、優しく言ってきた。

良介には、今までの妹と全く別人のように感じられ、心が遠く離れていってしまったように思えてならなかった。四ヶ月のブランクがそうさせたのか、それとも、思春期を迎え、子供から大人へと心が揺れ動いて、繊細で傷つきやすい乙女心に、もはや自分には入っていけないのではないか。いずれにしても元に戻るのは手遅れになってしまったようで、息苦しくなるほど辛かった。

恵の気兼ねを何とか退け、妖精の森まで行ってみた。恵はけっして不快な顔をしなかったが、かつて見せていた、輝くような笑顔は感じられず、妖精の森を訪れていた。恵は疲れてしまうからと言って、子供の頃のように、自分から進んで森へ入ろうとはしなかった。

「疲れたらお兄ちゃんが背負ってあげるから、泉まで行ってみようよ」

と言って、恵と一体感を持ちたいと切に願い、優しく手を引いて導いた。

家を出るときには晴れ渡っていたのが、妖精の森に着く頃には、にわかに厚い雲が張り出してきて、日差しが遮られていた。

森の入り口にある小さな湿地は、ちょうどネジバナが咲く頃だったが、車で踏み荒らされた跡が残り、見渡してもネジバナの姿は確認できなかった。

恵みは悲しみながら湿地に足を踏み入れ、ネジバナを探し出した。しかし、ネジバナはどれも踏み潰され、既に花の淡いピンク色は失せて、恵が近づいても精気は戻らなかった。恵は蹲ってネジバナをいつまでも見つめていた。

良介は、恵の悲しそうな姿を見て、妖精の森にやってきたのを後悔していた。湿地だけでなく、森の一部が焼かれているのが目に入り、しばらく来ないうちにすっかり変貌しているのが感じられた。空模様も気になり、早く引き上げようと考えていた。

恵は立ち上がると、良介の言葉を待たずに森へ足を進めていた。その姿には、何かに立ち向かおうとする意思が窺えた。良介は恵のかつて見せたことがない強い闘争心を感じ、不吉な予感を禁じえなかった。

自分が守ってやらねばと思いながらも、戦う相手が何なのか想像しがたく、恵の病弱な体では、どんな相手にも勝てるはずがないと考えた。

森に入ったが、かつてのように、キセキレイが森の案内に現れず、小鳥たちが、葉が舞うように飛び交うこともなかった。鳴き声すら聞こえず、木々が奏でる葉音も途絶えていた。分厚い雲で日差しが遮られ、妖精を感じさせる輝きは一切見られず、どこまでも薄暗い、静寂の森となっていた。

良介は、暗黒の世界へ足を踏み入れているようで怖くなり、恵を制止しようとしたが、どんなに急いでも恵の前へ出られなかった。恵は別世界に入り込んでしまったようで、離れたところから見ているしかなかった。

妖精の泉に着くと、やはり様子がすっかり変わっていた。満々と湛えられていた清水に濁りが出て、水位は大きく後退していた。水面には藻が覆ってガマが生い茂り、清らかな泉とは程遠く、水辺には葦が生えるだけで、色づくものは何もなかった。

「悪魔が人間の夢を奪い取ろうとしているのよ」

泉の様子を見て、恵がおもむろに話し出した。

「人間の心の奥にしまってある夢まで、全部奪い取ってしまおうとしているの」

良介は、恵の言っていることが分からなかったが、振り返って視線を向けられると、恵の心が伝わってきた。

「人間は誰も夢が見られないときがやってくるわ」

「そんなことはないよ」

良介は、恵の叫びに大きく首を振って応えたが、自分自身、夢を失いかけているのではないかと思われた。夢を見る価値すらぼやけてしまっているのが分かった。

良介は再び大きく首を振って、

「お兄ちゃんは夢を絶対に捨てたりしないよ。いつまでも恵と夢を見続けていく。悪魔が夢を奪おうとするなら悪魔と闘ってやる」

と、涙を滲ませながら、恵の心に懸命に訴えた。

恵は近づいてきて、良介の頬に手を当てて涙を拭った。恵の姿が、良介には女神に感じられ、現実と夢との区別が付かなくなっていた。

恵は、妖精の森が大きく変わってしまったのを確認するように、森の中を歩いて回った。多くの木々が傷つけられ、草花が踏みつけられ、大量のゴミが捨てられていた。野鳥の死骸が散乱し、森の所々で焚き火をした跡もあった。森が焼かれ、何本もの木が黒く焼きただれた姿を見ながら、恵は、悪魔の心を宿した人間の痕跡を、悲しく脳裏に刻んでいた。

「夢を失った人が、悪魔の命ずるままに森を傷つけたの」

恵は、もはや人間には夢が見られないと、改めて言っているようだった。

「わずかに残った森を傷つけても、何も得をしないのに、他に楽しいことが見つからないので、弱いものを傷つけたくなるの。悪魔に魂を売ると、弱いものいじめをしないといられなくなってしまうのよ」

恵は、人間の犯した過ちをどんなに悲しんでも、涙を見せなかった。むしろ、あきらめがあるように感じられ、恵の消え入りそうな心に何とか命を吹き込みたいと、良介は躍起になって言葉を思い浮かべた。しかし、恵みの言葉が生々しい現実となって大きく立ちはだかり、子供たちが夢を持てずに、いじめ合っている姿が鮮明に映し出された。

恵は良介の言葉を待たずに歩き出し、森を抜けて隣接する広い野原へと向かった。

野原に出ると、いくらか日が差してきて、力強く生きる雑草が映し出された。

オオマツヨイグサやメマツヨイグサ、コマツナギ、カワラサイコ、ジャノメソウ、ムシトリナデシコ、ワルナスビ、ビロードモウズイカ、テリハノイバラなどが咲き誇る花園へと進んだ。

花たちを傷つけようとする人間の痕跡が各所で見られたが、草花のたくましい生命力には、悪知恵も力及ばなかったと見えて、色とりどりの花が迎えてくれた。

恵は花園を見て安心し、少女らしい輝きを放ったが、一気に疲れが出てきて蹲ってしまった。良介は急ぎ近づき、言葉が出ないまま、恵の手を取っていた。

恵は、前に訪れたときのように、花の妖精として輝こうとしていたが、気力体力共に力を使い果たし、花がしおれるように、顔から精気が失われていくのが分かった。

「お兄ちゃんの背中にお乗り」

恵は幾分躊躇ったが、

「ごめんね」

と、か細いが、限りなく澄んだ声で言い、肩に腕を乗せてきた。

良介は背中に温もりを感じると、恵が幼かった頃に全てが戻って、心が一体化していくのが分かり、嬉しくてならなかった。

恵の重みが伝わってくると、思った以上に軽く感じられ、命の長さと比例しているのではないかと、不安に駆られた。恵が心配をさせまいとする、祈りに似た気遣いを察し、すぐに不安をかき消していた。

恵の望みを感じ取り、手足となって動いて回った。花園の隅々まで見て回り、昆虫もたくさん寄ってきて、恵の欲求をたっぷりと満たしてやった。

すると恵の心が無意識のうちに、

「走ってお兄ちゃん」

と声を上げていた。

「しっかりつかまっているのだよ。思いっきり早く走るからね」

と応えると、

「お兄ちゃん、やめて。私はもうあきらめているから、無理をしないで」

と、現実の恵が、祈るように声をかけてきた。

「何を言っているのだ。お兄ちゃんは、恵を背負って少しでも速く走りたいから、トレーニングをしてきたのだよ」

良介は夢で空を飛んだように、自分の命を全て注ぎ込んで早く走ろうと、前に出た。

良介の気持ちは、恵の夢をどこまでも広げてやりたいと疾走していたが、肉体のほうはトレーニング不足が響いて、悲しいくらいにいに動きが鈍かった。そして、いくらも行かないうちに足が動かなくなった。

「空を飛ぶのだ」

と言って、あきらめずに走ろうとしたが、息が上がって呼吸ができないまでに疲れきっていた。それでもなおも命がけで走りつづけ、意識がもうろうとしてきた。

「お兄ちゃんやめて。もう走らないで」

恵の叫びに呼び覚まされ、体の力が全て失われて、跪いていた。

恵は背中から降りると良介の顔を胸に抱え込み、

「お願いだからもうあきらめて」

と言って、涙を流して囁いていた。

良介は何とか呼吸を整えて我に返り、悔し涙で曇りがちな視線を恵に向けた。

恵の夢を満たしてやれなかった悔しさと、初めから無理だと分かっていながら、疾走しようとした自分の愚かさを、忌まわしく思った。

「これ以上走ったら死んでしまうわ。きっと悪魔がお兄ちゃんの命を奪おうとしているのよ。お兄ちゃんを奪われたら、私は生きていけない」

と、恵は真剣な眼差しで言葉を投げかけてきた。

良介は、恵が何度も発した、悪魔との言葉を、何の疑念もなく聞いていたが、己の肉体の現実を噛み締めると同時に、悪魔の話に現実感が持てなくなっていた。

子供の空想に過ぎないと考えようとしたが、ほんの少し前まで、自分自身も悪魔との言葉をそのまま受け入れ、恵を守ろうとしていたのも確かだった。

良介は悪魔の存在を考えたことがなく、たとえ存在したとしても、思いやりを失った人間の心に宿るもので、自分には一切関係ないと思っていた。恵みは天使であり、悪魔が忍び寄る余地など一切ないと考えていた。

良介は、今まで一度として恵の言葉を疑ったことがなく、確認しようと、恵を凝視した。

「悪魔の話しは本当よ」

と、憂えある眼差しで応えていた。

良介は、今日起きたことを思い返し、悪魔の仕業と考えられる一つ一つを思い浮かべていた。

森が傷つけられ、野鳥が追いやられ、妖精の輝きが失われ、恵の精気を蘇らせる、全てが奪い去られたのは明らかだった。自分の意志を超えた力が加わって、命が尽きるまで疾走しようとしたのも確かだった。自分が死んだら恵がどうなってしまうのか考えると、震えがくるほど怖くなっていた。

良介はさらに、今置かれている状況を整理してみた。

恵は、二人の夢が重なり合っているのを既に承知しており、夢が見られないのは、自分が多忙で、心が離れていると考えたのではあるまいか。自分を責めるよりも、恵自身の宿命を呪い、家族の重荷になるのを嫌って、何もかもあきらめているのではないのか。さらには、悪魔の存在を意識し、悪魔が忍び寄るのを強く感じ取って、恵みなりに懸命に戦っているのではあるまいか。

良介は、三年前に、弟を更生させようと不良仲間と語り合ったとき、グループのリーダーに、

「良介さんは思いやりを守る戦士に違いない」

と、言われたのを思い出していた。

今の自分は思いやりが薄れ、思いやりを守る戦士だなんて、とても言えないと、自らを責めていた。むしろ、妹の心を傷つけただけの、悪魔の手下に成り下がっていたように思えてならなかった。

悪魔を信じるのに抵抗を感じながらも、恵の心から生きる意欲を奪い、命を縮めようとする、何らかの意思が働いているように感じられ、悪魔との言葉を無視できなかった。恵は自分が守ってやらねばならないと、強く意識し、恵に対する思いやりが、悪魔に対する何よりも強力な武器だと思った。

恵に生きる意欲を持たせるには、夢を一杯見させてやることだと言い聞かせ、恵を背負って空に飛び出せるほど、早く走れるようになろうと、強く思った。トレーニングを再開すると決意し、自分は悪魔に立ちはだかる、思いやりを守る戦士だと、心のうちで高らかに宣言していた。