6、花飾り 昭和四十四年九月二十三日。美里の家からの帰り、武司はのんびりと回想に耽るつもりで車を走らせたが、途中で道路の混雑が苦痛となり、気分が重くなるばかりだった。アパートに十時前に何とか着いたが、疲れきって倒れ込むように横になった。 今日一日で人生の半分も使ってしまったようで、限りなく長く感じられた。何も残せなかったが、自分に相応しい青春を、精一杯演じてきたとの満足感が、そこはかとなく湧いてきた。 うとうとしていると電話が鳴りだし、びくっとさせられる。煩わしかったが、電話を取ると大久保からだった。 「どこに行ってたんだよ。何度も電話をしても出ないので、事故でもあったのではと、皆で心配してたんだぞ」 いきなり怒られて、訳が分からず、 「ごめん」 と、何となく謝った。 「まさか森田さんのところで遊んでいたのではないだろうな」 武司は大久保の問いに事の重大さを知り、一気に血の気が引くのを感じた。帰宅時間のことは全く気にしなかったが、美里との関係を取り沙汰されるのが怖くてならなかった。何とか誤魔化そうと考えたが奇策は少しも浮かんでこなかった。 ドライブを解散すると、二人を除いて他の仲間は夕飯まで一緒だったと聞かされた。沢田が武司の車にカメラを忘れ、アパートに何度も電話をしたが連絡が取れず、八時が回ってお開きとして、女性を帰した後も男だけ大久保の家に集まって心配していたとのこと。ドライブで武司が奇策を講じて誤魔化せたと思っていた二人の関係は、夕食で話題の中心となり、四時に別れて十時までの空白の六時間は、憂慮と共に押さえ様のない浮名となって花を咲かせていたようだった。 武司は状況を全て呑み込むと愕然となった。全て事実であったが、真実ではなかった。恋人同士に思われても当然だった。真実はあまりにも現実離れして語る術がなかった。真実を伝えたかった。真実が伝われば二人の事を語る者はいないと思った。だが、真実を伝えることは出来なかった。嘘で塗り固める必要があった。嘘を付きたいと願ったが、 「すまなかった」 と、ただ謝るしかなかった。 口を封じる手立てを失うと、美里の耳に届くのは時間の問題だろうと思った。それは、美里との付き合いに終止符をうつことになるだろうと予感していた。 武司は次号の作品を、「真実の小箱」と題して書いていた。 男は限りなく朴訥な人間だった。男は木彫り職人で、親の姿を真似て子供のころから木を彫るのが好きだった。他のことには目もくれず、ただひたする木を彫りつづけてきた。若くして一人前になり、腕が立って早々に父親から店を引き継ぎ、男の作った民芸品は高く売れ、生活に困ることはなかった。 男は店の手伝いに近所の女を雇うことになった。日がたつに連れ、女の正直さが好きになって、いつしか心を寄せるようになり、女も男の木彫りに打ち込むひたむきな姿に引かれ、互いに不器用な交流であったが見初め合うようになった。 男には過去がなく、全く初めての恋愛で、女に対する思いは純情そのものだった。女にも疚しいことはなかったが、少女のころに恋をしたことがあった。話すまでもないと思ったが、小さな村ではどんな些細なことでも噂話にならないともかぎらず、男の純情を傷つけまいとの思いもあり、話しておくのが一番だと考えた。 女は、祖母から将来を誓う男にお守りとして勾玉を贈るとの言い伝えを聞き、自分も是非そうしたいと夢見ていた。子供のころからメノウをこつこつと磨き、時間と真心を込めて勾玉をこしらえてきた。 二才年上の幼なじみに恋をして、幼なじみがガラス職人の修行のため、村を出るのを知ると、将来は迎えにきてくれると信じて勾玉を贈った。だが、幼なじみは何年立っても姿を現さず、隣の町で働くようになっても結局は迎えにくることはなかった。町の女にうつつを抜かしていると聞き、相手にされていないと悟った。恋が冷めると勾玉を贈ったことが悔やまれ、取り返したいと願ったが、顔を合わすのすら嫌で諦めるしかなかった。女は自分の愚かさを語ることで少女のころの幼稚な恋心を全て消し去れると思った。 男は、女も恋愛も知らず、無知への羞恥と恋への嫉妬を持っていた。過去のことは一切知りたいとは思わず、愛し合うという事実だけが問題だった。むしろ過去のことは誤魔化してくれればいいと思ったが、女は真実を伝えてきたのである。男は女の過去を知って嫉妬にさいなまれたが、女の正直さに一層引かれて、思いが薄らぐことはなかった。 男は自分で作った小箱と、長年愛用してきたナイフを女に贈った。それは、一緒に仕事を守っていって欲しいとの思いを打ち明けたもので、男の命が刻まれた小箱とナイフだった。女にも気持ちが伝わり、贈りものを頷いて受け取った。だが、女には命を込めて贈り返すものを持ち合わせておらず、少女のころの純情が作り上げた勾玉で、返事をしようと決意していた。女の気持ちとしては、男に過去を打ち明けたが、幼なじみのことがわだかまりになっているのが分かり、勾玉を取り返して過去にこだわりがない証としたかった。 女は必ず良い返事をするから信じて待っていて欲しいと言って、すぐには契りを交わさなかった。男の心は女に聞かされた勾玉のことがしこりとなり、すぐに返事がないのも、幼なじみへの思いが吹っ切れず、自分の醜い容貌と凡庸さが、女の心を迷わせているとの猜疑心にさいなまれ、女を信じきれずにいた。 翌日、女は休みが欲しいと言ってきた。手伝いにくるようになってから一度も休んだことがなく、男は常に目の届くところに女がいることで、心の平穏を保ってきた。女が幼なじみに会いにいくのではとの疑いを抱きながら、頭を縦に振った。 男は何も手が付かずに女の帰りを待っていると、顔見知りの行商がやって来て、女が幼なじみに会っているのを見たと聞かされた。人のよい行商は全く事情を知らず、ありふれた男女の出来事を見て、世間一般で囁かれる、単なる興味本位の噂話として話したに過ぎなかった。男は行商の話しに激昂し、怒りがこみ上げてきて女が全く信じられなくなっていた。 行商の話を聞かなければもっと冷静に待ち受けることが出来ただろうが、嫉妬に狂った男は、女が幼なじみに会ったかどうかの事実を知ることしか頭になかった。会うことすら許せず、何をしたかという真実を知ろうとは思わなかった。 空白の六時間が過ぎ、女が帰ると幼なじみに会ったことをすぐに問いただした。女は異常な雰囲気を感じ、男に訳を聞こうとしたが、会ったということだけを答えさせられ、頷くしかなかった。男はそれ以上話しを聞こうとせず、二度と会うまいと、女を追い返していた。 女は勾玉を見せれば真実を悟ってくれると思い、何とか手渡したいと思ったが、男の剣幕に渡すことが叶わず、真実を伝えることが出来なかった。正直を唯一誇りにしていただけに、信じてもらえないのが無性に悲しく、生きていく気力さえ失せていた。 翌日、女は店の入口に男から贈られた小箱を置いて村を出ていった。小箱には命懸けで取り返してきた勾玉と、貞節を守るために携えていた、男から贈られたナイフも収めてあった。小箱には手紙が添えられ、真実を知りたければ小箱を開いてくださいと書いてあった。 男は、女が幼なじみに会ったという事実がどうしても許せず、手紙を見ても小箱を片隅に押しやって、けっして開けようとはしなかった。
十月に入ると大学紛争は収束の方向に向かったが、巻き返しを図ろうとする一部の過激な学生が、警察の実力行使に対抗すべく一層過激になり、火炎瓶を使った放火や、凶器による傷害事件など、ゲリラ化の傾向が強まっている。過激に成ればなるほど一般学生は離れ、少数の闘争集団が孤立していき、内ゲバ事件なども多発していく。京大紛争では関大生が火炎瓶によって火達磨になり、死亡するという事件が起きた。相模女子大では女子学生八百人が、学長の事務取扱の問題や、講師六人の解雇処分に抗議して二十三時間に及んで団交を行い、理事長がダウンしたと話題になる。東京女子大はゲバルト、女の園と囁かれている。大学教授が紛争を苦にして何人も自殺している。 ソ連では有人宇宙船ソユーズ六号、七号、八号が打ち上げられ、三宇宙船の編隊飛行を行った。十五日のアメリカの反戦デーは、全土で空前規模の穏健な抗議行動が行われた。日本でも二十一日の反戦デーで、八十六万人が参加して抗議行動が行われたが、一部の活動家による過激なゲリラ活動があり、千四百人を越す逮捕者が出た。 幼児誘拐事件が横浜、世田谷、川越で相次ぎ、横浜の二歳の女の子が誘拐された事件では、一週間後に無事保護されたが、犯人は体の不自由な十一ヶ月の子供を殺して床下に埋め、偽装工作のために誘拐したことが分かった。大手物産会社の次長が、小学六年の女の子を旅館に連れこんで逮捕されるという事件も起きた。子供の通園を断られ、狂った母親が保育園のヤカンに農薬を混入しようとして見つかり、逮捕された。 広島大学助教授が、人体実験でガン免疫抗体を作ろうとして、日本ガン学会内部から批判が出ている。昭和三十三年八月八日に日本で初めて心臓移植手術が行われ、八十三日で死亡したが、手術をした札幌医大教授に対し、心臓提供者の死の判定や、手術の良否について捜査が行われた。人口甘味料チクロに、発癌物質が含まれていることが問題となり、アメリカでは使用禁止、回収の処置がされた。日本ではメーカによるチクロ使用自粛の方向が出された。 プロ野球は、セリーグでは川上巨人が五連覇、パリーグでは西本阪急が三連覇を果たした。セリーグの順位は二位阪神、以下大洋、中日、アトムズ、広島。パリーグは二位近鉄、以下ロッテ、東映、西鉄、南海。セリーグ各部門の成績は、首位打者、本塁打が王、打点長島、盗塁柴田、沢村賞、最優秀勝率高橋一三と、防御率阪神江夏を除いて巨人選手がとっている。パリーグ各部門の成績は、本塁打、打点が阪急長池、首位打者近鉄永淵、東映張本が同率首位、最優秀投手ロッテ木樽、最多勝利近鉄鈴木。巨人の金田正一投手が、十一日、対中日戦で通算四百勝となる。西鉄の投手が野球賭博に関係して退団処分を受ける。
十月二十三日木曜日。久々に晴れ渡り、武司はすがすがしい空気を感じながら美里の家に向かった。二人の関係が取り沙汰せれているのを知れば、美里はきっとコンサートへ行くのを取り止めにするだろうと想像し、今のところ何の連絡もないので知られずにすんだと思い、予定通りコンサートに行くことになった。 門を潜っても時間の亀裂は感じられず、いたって現代的な感覚で美里を母屋まで迎えにいった。笑顔が待ち受けると思っていると、光の差さぬ玄関で待ち受けていたのは、美里の暗く沈んだ顔で、噂が原因だとすぐに悟った。 母親の姿に軽く頭を下げて挨拶をし、コンサートの取り止めも覚悟して美里の出方を待つと、身支度をして出掛ける態勢になっていた。沈黙のまま車は走りだし、確認の必要はないと思ったが、美里の憂鬱に話しかけた。 「噂が耳に入ったんだね」 美里はすぐに応えなかったが、そのうちに美里らしからぬため息が出て、 「同人の女性三人で久々に会う機会がありました。そこで、二人に恋人同士みたいと言われました」 と言って、真相を明らかにした。 武司は、何の悪気もない、ごくありふれた冗談まじりの冷やかしを思い描いていた。通常であれば、照れて浮名に彩りを添えるだけだと思った。気のいい仲間を恨む筋合いではないと承知しながら、憤りを押さえ様がなく、二人をそっとしておいて、誰も損をしないだろうと訴えたかった。 何もかも諦めていたはずなのに、美里の心を思えば思うほど、二人に時間を与えてほしいと祈っていた。子供騙しのままごとを続けていければ、きっと大人のままごとに塗り替えられると思った。二人の融通の聞かない純情に、どんなに考えても誤魔化しの言葉は浮かんでこなかった。 「僕が悪いんだよ。何と言って謝ったらいいのか分からない。悪気がなかったことだけは信じてほしい」 嫌いと言われることを予想して謝った。 美里はいつまでたっても言葉を発しようとせず、沈黙にどんな意味があるのか想像したが、答えは出てこなかった。武司にも次に語るべき言葉は浮かばず、まな板の鯉の気分で決別の言葉をじっと待っていた。 六時開演のコンサート前に、食事をしにレストランに入った。まだ早いために空いており、二人の語らいを邪魔するものはなかった。 武司にとって、恭子以外の女性とデートするのは初めてであった。美里も同じだろうと想像しながら、青春の記念すべき出来事が、余りにも重苦しいのが切なかった。だが、美里を見ていると次第に幸せな気分になっていた。観察するつもりはなかったがつい視線がいって、テーブルの先に見出した女性は、清楚で可憐であった。素敵だと言うのが一番相応しい気がした。 美里は俯き加減で、時々気持ちを確認するように視線を上げ、わだかまりを残しているが、二人の関係を真っ向から否定する素振りは見せなかった。むしろ、恋人同士と呼ぶに相応しい雰囲気すら感じられ、ちょっとした喧嘩に、素直でいられない姿と取れなくもなかった。けっして大きなわだかまりではないと分かったが、その小さな心の不快感をぬぐい去ることが、桁外れに難しかった。 美里の表情には何故との、謂われなき因縁への憤りと、不快感を吹き払って欲しいとの願いが感じられた。だからと言って何が出来るか分からず、解決策を委ねてきているようだった。武司は美里の甘えを感じて嬉しかった。恋人らしく抱き寄せて唇を合わせるのが最も現代的な解決策だと考えたが、どんなに楽観的になろうとも、二人には成り立たなかった。 開演も間近になったが席は疎らで、世界的な演奏家のコンサートとは思えなかった。バンドネオン奏者のファン・カンバレリを中心としたバイオリン二名、ピアノ一名の四重奏団で、歯切れのよいアルザンチンタンゴが披露された。生演奏の良さを実感し、二人の立場を忘れて単なる聴衆となり、時には言葉をやり取りし、熱演に頷き合ってタンゴを楽しんでいた。 互いに素直な気持ちでいれば、今までと全く変わらずにいられ、時間が許されれば、どんなカップルにもまけないラブロマンスが出来上がると思った。だが、浮名が立ったいま、二人の関係を維持していくには、今までの子供騙しの友達同士とはいかず、興味本位の戯れ言を撤回することも叶わなかった。好きと言って恋人同士になるのが最も相応しい結末だと分かっていながら、殻に包まれた純情を納得させるのは不可能だった。後は互いの気持ちを誤魔化すしかなかった。同人との名目をことさら強調し、何もないと演じつづければいいと考えた。だが、視線を合わせれば心が分かり、空々しい猿芝居が長く続くはずもなく、傷を深め合うに決まっていた。 武司は好きと言えば破局になると予感しながら、好きと言いたかった。自分の気持ちを表すには好きというしかなかった。だが、好きと言えば美里を傷つけることも間違いなかった。むしろ、嫌われて、何も言わずに関係が閉ざされたほうが気楽だった。 逃げるつもりはなかったが、美里に嫌われていると考えていた。今までのやり取りを考えると信頼されていることは否めず、無理があったが、失恋が幕切れに最も相応しいと思った。美里は自分には勿体なかった。もっと素晴らしい男は幾らでもいる。自分がお節介をやかなくとも、美里は幸福になれるのに決まっている。 帰路に付き、武司はうやむやの別離を意識して何も言わなかった。美里に嫌われていると考えれば考えるほど気が楽になり、恭子に失恋話を聞かせるのも間近だと、自分の心に冗談をぶつけていた。 「後ろ指を差されるようなことは何もしていないのに、何故ですか」 と言って、美里は沈黙を許してくれなかった。 美里の悲しげな声に愛する思いが呼び覚まされ、自分が守ってやりたいとの気持ちを抑えることが出来なかった。美里の心を何としても満たしてやりたかった。手に触れてみたかった。頬にも触れてみたかった。ささやかでも温もりさえ感じ合えれば、今まで以上に満たされた時間が作れるはずであった。美里の心を理解できる人間がどれだけいようか。美里を永劫に愛してくれる人間がどれだけいようか。美里を幸福にできる人間がどれだけいようか。今すぐにでも抱きしめて結婚したと言いたかった。 武司は抱きしめることは元より、声も出せなかった。二十歳の風来坊に結婚を口走るなど絶対に許せなかった。それは、美里とは関係なく、時代の流れに抗うもので、愛の重さが蹂躪される風潮が許せなかったのである。盛りの付いた犬猫と同様に、心が置き去りになって、欲望の赴くままに肉体を求め合うことが我慢ならず、前後の見境なしに結婚など成り立つはずがなかった。単なるゲームのテクニックに成り下がって、切り札の乱用としか言いようがなく、自分を同列に置くなど絶対にあり得なかった。 美里の心を思えば思うほど、欲望の対象にはなりえなかった。どうしても時間が必要だった。条件が揃わないかぎり結婚と口走ることなど認められるはずがなかった。好きといって、美里が全てを信じて待ってくれるか推し量ってみるが、美里の姉の冷たい視線を思い出すと、やはり不可能に思われた。 結局は返す言葉が見つからず、 「僕が悪かったんだよ」 と言って、再び沈黙した。 家に着いて美里が車を降りる前に、 「今のままでは納得できません」 と言って、逃げだすのを許さなかった。 武司は時間を気にして、 「もう遅いから、今度の日曜日の午後にでも来るよ」 と告げ、 「ご両親にご挨拶しないけど、宜しく言って下さい」 と、付け足して、車を走らせた。 平日の九時になると国道十七号も空いており、十時前にアパートに着いた。気持ちを整理したく、文章を書いてみたくなったが、牛乳配達のこともあって、早々に横になった。 疲れているはずなのに、美里のことが浮かんできてなかなか寝付けなかった。初めて会ったときの表情が印象的で、美里を思い浮かべると必ず最初に出てきた。警戒心がありありとした頑な姿で、男のさもしい魂胆を見透かすような視線は、美しい顔だちと相まって高慢とも感じられ、取っ付きづらいとの印象が拭えなかった。強がりに隠された女らしさを感じると、今にも脆く砕け散ってしまいそうに思え、ベールに包まれた美里の心に入り込もうとしてきた。 家での寛いだときの優しい表情を知ると本当は臆病だと感じ、余計に引かれていった。思い込みと言い聞かせたが、自分を必要としているように思えてならなかった。次第に何でも力になってやれるような幻想を抱くようになり、美里の本心を知らぬままに突っ走ってきた。 武司は、自分の思い込みに過ぎないと結論付けていた。美里の心は置き去りになって、恭子を失った心の隙間を、穴埋めする代用を求めていたに違いないと思えてきた。美里のためと偽って、美里の心を踏みにじってきたのではあるまいか。自分には誇れるものが何一つとして無いではないか。二人を結び付けるものは何もないのに、いつまでも未練がましく追い求めている。自分の卑しい姿が浮かんでくると涙が溢れていた。 十月二十六日。日曜日になっても結局は何の解決策も見出せないままに、美里を訪れていた。それは、再び時間の亀裂に迷い込んで、再現フィルムでも見ているような一日となっていた。 柿が熟しきって、収穫作業に始まり、父親との語らい、かまどでの触れ合いと、わだかまりは消え去り、家族の一員となって幸福な時間を過ごした。何の罪もない時間をいつまでも維持していければと願っても、客間で二人になると男と女になり、消しようがないわだかまりをもてあそんでいた。 「自分は駄目な人間だとつくづく思う。自分には何もない。いっぱしに主張するけど基になるものが何もなく、論ずる価値がなどあるはずがない。自分の立場を明確にすることが先決で、今のままでは何をやっても無意味だと分かっている」 武司は語るべきものがなく、言い訳がましく無為に言葉を発し、次第に白々しくなって自分が嫌になっていた。 美里は武司の心を見透かすように、 「そんな話をしても仕方がないです。中途半端では何の解決にならないと思います」 と言ってきた。 武司は美里の言葉をどう受けたものか分からなかった。自分の生活を指摘されているのか、二人の関係を明確にしろと言っているのか判断できなかった。後者であれば、限りなく二人の関係を認知した発言と考えられた。今問題なのは、友人関係に過ぎないのに恋人同士と噂されたことで、いかに始末を付けるか思い悩んでいるはずであった。美里の気持ちが、二人の関係を発展的に考えているとは思えず、ただ単に自分の生活を批判していると考えていた。 美里はさらに追い打ちをかけるように、 「お姉さんに対する甘えが抜けないのではないですか」 と、厳しく言ってきた。 武司は美里の言葉に鼓動が高鳴り、顔が熱くなるのを感じた。今まで一度として相手の姉の話しはしなかった。互いに姉の影響力が大きいと感じ、触れることを恐れていた。美里が恭子のことを言うとは夢にも思わず、触れられたくないとの気持ちもあって、少なからず衝撃が走った。暫く下俯いていたが、観念するように美里を見た。美里の表情が何を語っているのか判別できなったが、軽蔑されているとしか考えようがなかった。 武司は自分が本当に駄目な人間に思えてきて嫌になっていた。美里に嫌われても仕方がないと思えてきて、一緒にいるのも苦痛になっていた。これが最後になるのかと思いながら去った。 全てがうやむやになった状態で二人の関係が終わってしまうと思うと、辛くてならなかった。一週間が過ぎると、堪え様のない虚しさに襲われて、美里に会わずにはいられなくなり、美里を求めて車を乗り出していた。 家の近くに来ると、急に逃げ腰となり、門を潜らずに通り過ぎていた。暫く行くと再び戻り、意を決して近づいていくが、やはり門を潜ることが出来なかった。帰路に付くがすぐに気が変わり、自分のしていることが何だか分からなくなっていた。 美里に会いたいとの思いが発作的に襲ってきて、家へ家へと足を向けさせるが、いざ門を前にすると、美里の嫌がる顔が大写しになって、逃げまどうしかなくなっていた。結局は、美里に迷惑をかけまいとの思いが勝って諦めが付くと、皮肉なことに家に向かって歩いてくる美里と出くわしていた。 視線が合うと逃げだすわけにも行かず、車から降りて頭を下げた。今までは、目を見れば何となく美里の気持ちが分かったように感じられたが、今は眼差しから何を考えているのか全く分からなかった。戸惑いと取るべきなのか、それとも軽蔑されているのか判別付かぬまま、しばし見つめ合っていた。 道路脇で立ち話も憚れ、車に乗るように勧めて、取り敢えず車を走らせた。このままどこまでも走りつづけたいと願ったが、近所の公園で車を止めていた。 「会いたくて仕方がなかった」 と、何とか言って、 「君に迷惑がかかることは分かっていたんだが、もう一度だけ顔が見たくて。本当に申し訳ないことをした」 と、心から詫びた。 美里の言葉を聞きたかったが、一時だけでも傍に居られたことで満足するしかないと言い聞かせ、諦めを付けた。十分程して再び車を走らせ、家に向かうと、 「こんなのはいやです」 と、美里が言葉を初めて発した。 もっともな言い分に、 「すまなかった」 と応えるしかなかった。 「あなたは勝手です」 と言って非難されると、気恥ずかしくなって返す言葉がなかった。 門の前に止めると、美里は視線を向けてきて、 「嫌いです」 と言われた。 果たしてどれほどの時間だったのか武司には分からなかったが、本当に最後になるのだと思いながら美里を見ていた。 「すまなかった」 と、再び言って目を逸らすと、美里は車から降り、振り替えることはなかった。 何もかも終わってしまったと思うと、悲しみよりも、美里に出会えたことの喜びが勝っていた。自分にも、美里のような素敵な女性と時間を共有できたと考えると、幸福に思えた。同時に自分が見すぼらしく思えてきて、生きている価値がない気がした。
十一月に入ると、沖縄返還と安保問題で佐藤首相が訪米するのに合わせ、抗議行動が活発となり、訪米を反対して学生の街頭ゲリラが激化し、銀座四丁目、地下鉄泉岳寺駅周辺では、約百本の火炎瓶が投げられ、通行人にやけどを負わせた。他にも全国各地で機動隊とゲリラが激突し、全国で二千人以上が逮捕される。大阪では岡山大生が頭を骨折して死亡した。山梨県、大菩薩峠の山荘で、武闘訓練をしていた赤軍派五十三人が逮捕される。十月二十一日の反戦デーで、豊島郵便局の郵便集配車が、火炎瓶輸送に使われたことが明るみに出た。 十七日に佐藤首相が訪米し、ニクソン大統領との会談で、七十二年返還、七十年安保取り決め変更なしとし、沖縄返還後は安保を適用することが確認され、「核抜き」については、「有事持込みへの道を事実上残す」形となった。佐藤首相は「非核三原則を堅持し、その方針で事前協議に応ずる」と述べ、有事核持込みを否定した。 アメリカでは各地でベトナム反戦統一行動が行われ、ワシントンだけで三十万人が参加し、欧州各国でも反戦デモが行われた。南ベトナム、クアンガ省ソンミ村で起きた、アメリカ軍による五百六十七人の村民虐殺事件が問題となり、事件究明に乗り出している。アポロ十二号が打ち上げられ、二度目の月着陸に成功する。 相模原市で、出産間もない乳児死体が捨てられていた。他にも、母子の無理心中や、捨て子、誘拐などが続発し、五ヶ月の赤ちゃんが、パチンコに夢中になった若い夫婦に車内に四時間半も置き去りにされたり、産院での赤ちゃんの取り違えや、実母に死産と偽って商品のように横流しされたり、乳幼児受難の時代となっている。今年の交通事故死者数が一万四千二百六十人を超え、史上最悪の記録を更新し、交通戦争が激化している。 プロ野球日本シリーズで巨人が阪急を四勝二敗で破り、日本シリーズを五年連続で制覇した。最優秀選手には、巨人長島が、二十二打数九安打、本塁打四本(日本シリーズ通算十八本で記録更新)の成績で選ばれた。ペナントレースの最優秀選手には、巨人王、阪急長池、新人王は、阪神田淵、ロッテ有藤が選ばれた。往年の名選手で、強打者西鉄の中西選手兼監督の引退が決まり、四百勝投手、巨人金田の引退が囁かれる。ドラフト会議では三沢高校の太田、早大の荒川、谷沢が注目されている。大相撲九州場所では大関北の富士が優勝。高見山が外人力士初の三役、新小結になって話題となった場所である。プロボクシング、世界ジュニアライト級で小林弘が四回目の防衛を果たす。サッカーでは、横山、杉山、落合、片山、森を擁する三菱が初優勝をする。 テレビでは、中山仁、岡田可愛の「サインはV」、巨泉、前武の「ゲバゲバ九十分」が人気で、歌手では大型(身長百七十二センチ)新人の和田アキ子が十九歳でデビューし、リズム・アンド・ブルースの数少ない歌手として、体の大きさと共に注目されている。
武司は美里と別れるのに合わせ、同人雑誌の退会も通知し、友も失って孤独と戦う日々となっていた。書くことの価値も薄れていったが、投稿をするつもりで、「愛の重さ」と題して書きはじめていた。 自分に素直になりたいと思うが、何が本当に素直なのか答えが見つからない。欲しいものを、何も考えずに手に入れようとすることが素直なのか、何を欲しているのか考えるのが素直なのか分からない。 馬が目の前に人参をぶら下げられて走りだすのと同じで、現代は常に欲望をそそる物が目の前にぶら下がり、物が溢れている。それが本当に欲しいのか分からぬままに、欲しいと思わされ、手に入れることが生活のベースとなってきている。 人間はただ単に本能に基づいて行動できるのであればいいが、社会の仕組み自体が複雑になり過ぎて、思考することによって初めてより良い選択が可能となっている。しかし、時代は逆行し、何も考えずに欲望を満たすことが求められており、だからといって原始に戻れるはずもなく、ややもすると狂気が時代を動かしている。 人間の驕りが他の動物を侮り、知性に基づく人間らしさを規定したがるが、結局は、子孫繁栄に基づいた歯車を正常化するための定義付けで、結婚、出産、子育てと、本能を歪めてきた人間の行動を律する、カンフル剤にしようとするものである。むしろ、動物らしくすればより愛情の深い夫婦関係、親子関係が成り立つのに、人間らしい余計な欲望に支配され、曖昧な関係になっている。 物欲が人間をも物質化し、異性も単なる欲望の対象物となり、人としての価値より物としての価値が優先され、相手を思いやることは希薄になってしまう。愛そのものが存在しなくなり、合理性で結婚が成り立ち、不都合になれば掛け替えが可能な関係である。子供がいなければ本人都合で処理されようが、子供が係わってくるとそうもいかなくなる。結局は子孫繁栄という大儀が失せて、多くの子供が犠牲になるのが、欲望が優先される時代の宿命なのであろう。 経済成長を促すには、狂気が最も望まれるのであろうが、敢えて物の価値を問うてみたい。欲求を満たすべく物を追い求めても、時々刻々目新しいものが溢れだしてきて、果たして欲求が満たせるのであろうか。そもそも物質に対する欲求がどれだけ人間を満足させるのであろうか。必要な物を手にする満足感はあるだろうが、不必要な物まで追い求め、無用に数だけ増やしても、欲求を満たすことにはならず、正に狂気としか言いようがない。何も考えなければ、訳も分からず夢中になっていられようが、生きている以上夢が覚め、正気に戻って本当に満足していられるのか甚だ疑問である。 人間の欲求も本能に基づくものであり、子孫繁栄に準じた欲望を無視できないはずである。子供を産み、育てるという大業を成すには、盛りの付いた犬猫と同じというわけにはいかない。人間の複雑化した社会で家族を作るには、夫婦の絆を無視することが出来ず、夫婦の価値をより高めようとする欲求があるのは当然で、そこに愛が成り立つのではあるまいか。 愛を感じ、愛を求めることは正に自然な欲求であり、素直になれば余計に愛の価値を感じるはずである。愛を重視すればするほど閉ざされた狭隘な人生になってしまうかもしれないが、より尊大な愛を見出そうとすれば、欲望の赴くままに安易に異性を求められなくなる。愛の重さは量れないが、人生を決定付けようとするものと、情交を演出するものとではおのずから重さが違ってくる。 子供の存在を考えると未来永劫の結び付きが大前提になり、結婚に人生を賭けることになる。掛け替えのない関係を求めると、場当たり的な恋愛とはいかず、互いに唯一無二の存在として意識し、貞節を求め、貞節を守ることが最低条件になってくる。それは互いの価値観を同一にし、相手を思いやる気持ちがなければ絶対に成り立たないことで、自己の欲求を少なからず犠牲にすることになる。 自らの欲求を抑止することなど時代後れも甚だしく、現代には成り立たない気がしてくる。だが、究極の愛は、夫婦の協調の上に築きえるもので、自らの欲求にうつつを抜かすわけにはいかない。その分、愛が実ればこのうえない幸福が築けるというもの。自らの一時的な欲求を満たすことに力を注ぐか、究極の愛を求めるか、二者択一であり、両者とも満たすことなどあり得ない。 たった一度のチャンスに、人生を賭ける確率の低い生き方と、その場その場を楽しんで、気楽に人生を築く確率の高い生き方と、果たしてどちらが幸福になれるか、人それぞれの価値観の違いで、どちらがいいとはけっして言えない。ただ、人間の進化は明らかに愛よりも欲望を求めようとしている。 武司は書きおわって、宛て先のない原稿であることを思い出し、美里の幸福を祈るものだと自らに語った。 嫌われたと思うと諦めが早く付いて、美里への思いも門外漢となり、美里が素敵な人と出会えるのを、見守る心境になっていた。既に忘れることが目的で、美里の気持ちは別離を望み、顔を見るのも嫌なのだろうと思い込んでいた。ところが、美里から会いたいと手紙が来た。武司は会おうとする目的が分からず、困惑せずにはいられなかった。 会っても何もならない気がした。美里に改めて返事を求められても、好きとしか言いようがなく、わだかまりを取り払うことなどできるはずがなかった。既に何もかも終わってしまったことなのに、何故再び会おうとするのか、いくら考えても分からなかった。会っても仕方がないと思いながらも、再び美里の姿が大きく浮かび上がってきて、堪らなく会いたくなっていた。苦しみを蘇らせる罪な女だと、恨み言を口ずさんでいた。 十一月二十三日日曜日。十時待ち合わせの高崎へ列車で向かった。好きと言うしかないと決め、受け取ってもらえるとは思えなかったが、コスモスをかたどった小さな花飾りを用意してあった。好きと言ってしまえばすぐに話が終わってしまいそうで、会いにいくのが苦痛だった。どんなに楽観的に考えようとしても、二人を結び付けるものは何も浮かばず、好きと本心を言えることだけが唯一救いだと思った。 駅前で顔を合わせると、美里は相変わらず清楚な出で立ちで、益々美しくなったように思えた。同時に、益々遠い存在に感じられ、自分のような詰まらぬ人間とよく付き合ってくれたと、有り難く思うばかりだった。 美里の眼差しからは何も読み取ることが出来ず、軽蔑されているのだろうと考えるしかなかった。辛くなって視線を逸らすと、美里が案内する形で歩きだした。公園に行ってベンチに座り、語らいの環境はすぐに出来上がった。曇りがちで、二人の関係に相応しい天気だった。 言葉は出ずにじっと座っていると、美里の息づかいが聞こえてきた。手を出せば触れられる距離にあると思うと心が騒ぎだし、今までのことが蘇ってきた。何の理屈もなく愛しくなり、頑な姿が浮かんでくると、自分が守ってやりたいとの思いが溢れだしてきた。 元に戻ってしまったと感ずると、別れの辛さを意識せずにはいられなかった。嫌われていると何度も言い聞かせるが既に手遅れで、逃げだすことは出来なかった。 美里の時代後れの純情を、本当に分かってくれる男など滅多にいるはずがないと、つい考えてしまう。二人の人生観は限りなく類似し、求めているものは同じである。互いに認め合っており、好き合っていることは分かりきっていることで、今更好きといっても意味がない。恋人同士と囁かれた以上、子供騙しの無邪気な付き合いは卒業するしかなく、うやむやは許されず、人生の決断が迫られていると考えるべきだった。 武司は、「今の自分に決断なんか出来るわけがない」と、心で叫んでいた。美里をどんなに好きでも、どんなに大切にしたいと思っても、触れてはならない女神であった。恭子の存在と全く同じで、命を賭けて尽くしたいが、肉体の交わりは考えられなかった。美里に恭子を見出しているに違いなく、恭子への思いが断ち切れず、そのまま向けているとしか考えられなかった。これから気持ちちがいかに変化していくか全く分からず、将来を約束できるものなど何もなかった。 嘘が付ければいいと思った。嘘と誤魔化しで成り立っている時代だと考えていた。その場その場を帳尻合わせしていけば、それでいいではないかと言い聞かせた。嘘を突き、誤魔化し通せれば真実など意味がなくなると思い込もうとした。本音では生きていけない。真心なんて必要ない。永久の愛などあるはずがなく、何もかも場当たり的でいいではないか。 どんなに誤魔化そうとしても、不器用な心は美里に究極の愛を示したかった。それにはどうしても時間が必要だったが、将来を約束できずに猶予を求めるのは無理だと思った。経済力がない。明日のことすら決まっていない。誇りえるものが何もないではないか。何よりも問題なのは、恭子への思いを断ち切れないことだった。 武司は、時間をいくら掛けても結果は同じで、別れが辛くなるだけだと思い、花飾りを取り出し、 「僕が君を好きになったのがいけなかったんだ」 と言って差し出した。 美里は視線を合わせることなく、首を横に二回振って立ち去った。 「ごめん」 と、後ろ姿に口ずさみ、全てが夢の出来事として消え去った気がした。 帰りの列車に揺られながら夢を回想していた。純粋で、真剣で、心が通じ合って、楽しくて、切なくて、虚しくて、悲しくて、何もかもが現実離れして不思議でならなかった。妖怪に化かされていたのか、神の悪戯か、同じ考えを持った人間の、極めて確率の低い出会いであり、どう考えても夢としか思えなかった。 現実に戻ると、美里に振られたに過ぎないと言い聞かせていた。とても手の届く相手ではなかった。自分は美里に相応しい人間でなかっただけで、何も心配することはない。もっと相応しい人間が必ず現れるはずだ。美里のような素敵な女性が不幸になるなんてありっこない。武司には、美里が自分を求めていたとはとても考えられなかった。 駅を出るとアパートに直接向かわず、手土産を持って恭子を訪ねた。恭子と離れて既に七ヵ月が過ぎ、武司は、我ながらよく会わずに辛抱できたと感心していた。 玄関を開けると、予期していたかのように恭子が現れ、視線が合うとすぐに涙を溢れさせていた。冷静でいられると思ったが、武司も、恭子の顔を見ると鬱積していた思いが弾けるように、愛しさが激情となって、すがりつきたいとの衝動に駆られていた。互いに身体を寄せ合いたいと願ったが、二人の置かれた現実を無視することが出来ず、空を手繰り寄せるだけで、距離を縮めることが出来なかった。 七ヵ月のブランクは何も変えておらず、顔を合わせてしまうと心身共に掛け替えのない姉弟に戻っていた。どれほどの時間が過ぎたのか、何とか恭子の涙が止まり、再開に言葉を添えられるようになった。 「少しやせたみたいだね」 と、武司が問うと、恭子は観察するような視線を向けてきて、 「思ったより元気にしているみたいで安心した」 と言って、武司の問いは無視された。 「七ヵ月も会いにこないのはいくらなんでもひどすぎる。ガールフレンドが出来て私のことなど忘れてしまったのかと思った」 恭子のひがみに笑顔で応え、手土産を差し出し、花飾りを添えた。 恭子は花飾りを受け取るとすぐに視線を向けてきて、憂えある眼差しでじっと見つめてきた。花飾りの出来事を全て察するかのように涙を浮かべ、 「失恋したのね」 と、慰めるように言った。 「もしかして」 恭子は途中で言葉を止め、思いついたことを最後まで語らず、頬に手を当ててきた。 一瞬、昔の生活に戻った気がして、幸福感に包まれたが、すぐに現実に返り、距離を置いた。 武司は、恭子には何も隠せないと思いながら、優しさ溢れた眼差しをじっと受け止めていた。恭子に勝る女性なんかいるはずがないと、美里への思いを打ち消していた。 花飾りは初めから恭子に渡そうとしていたのかもしれない。恭子への思いはいつになったら棚上げできるのだろうと、悟られまいと意識しながら考えていた。 「お上がりなさい」 恭子の誘いに、 「またにする」 と応え、 「今日のところはこれで帰るよ。お店のほうに回って挨拶していくから」 と言って、恭子の物憂い視線を押し切り、あっけない再開に幕を閉じた。
武司は次男の運転する車に揺られながら、美里の別れと、恭子との再開シーンを思い浮かべていた。日記に美里のことが記されているのを確認し、現実に起こったことだと納得していたが、美里との出会いは余りにも不可解で、夢との疑いを完全に消し去ることが出来なかった。 もし現実に起こったこととすると、美里と別れた理由が分からなくなってくる。美里からわざわざ会いたいと言ってきたからには、何らかの解決策を求めていたはずである。ただ単に振られたと思い込んできたが、今考えるとどうしても符合してこない。好きと言って許されないのが、嫌いと言って許されるはずがなく、他に答えがあるとしたら結婚しかなくなってしまう。考えまいとしても、美里の求めていたのは結婚へと結び付き、自分にはそんな価値がないと否定しても、結局は他に答えは浮かばなかった。 もし本当に美里が結婚を求めていたと考えると、罪の大きさに息苦しくなっていた。最も大切にしなければならない女性を裏切ったことになり、三十一年の時を越えて何としても謝罪したいと願った。 そんなはずはないと、呪文を唱えるように何度も心に言い聞かせ、忘れようと懸命になっていた。一方で、もし美里の本心が結婚と見抜いていたら、結婚を約束できたか考えると、無理との答えが返ってきた。結局は逃げだしていたとしか考えようがなく、罪から逃れることは出来なかった。 美里のことばかり考えているのが妻に気が引けて、つい視線を向けると、気配を察するように妻も視線を向けてきた。 「気分でも悪いんですか」 いつものように罪がない眼差しで、自分には過ぎた女房だと思いながら、首を横に振って憂慮に応えた。 再び思い出に思考を巡らしていた。美里と別れるとすぐに恭子に会いにいったのは、美里に恭子の代わりを求めていた証に思えた。恭子に会ったら一瞬にして悲しみは消え去って、恭子に心が支配されていた。恭子の存在は、母子や姉弟の愛情に止まらず、恋人でもあり、夫婦に限りなく近かったのかもしれない。 もし、恭子と美里が顔を合わせていたら、火花が散ったのではないか。二人は限りなく類似しており、特に鋭敏な感性は酷似して、自分という共通の愛玩物を持ったら、その一挙手一投足に嫉妬で狂い、嫁姑の問題と同じで中に入って悩まされたに違いない。所詮結婚は無理だったのかもしれない。武司は、恭子の存在が自分の人生に永遠に付きまとうと感じていた。 美里も姉の影響を少なからず受け、男に対する猜疑心はひとかどではなかった。そんな心に、限りなく奥深く入っていけたことは誇りである。もし、互いに姉の影響がなければ、好きとの言葉に応じ、期が熟す迄待ってくれたようにも思える。いずれにしても、二人とも姉の影響を大きく受けて、尋常ではいられなかったのだろう。 「今日は何の日か覚えてる」 と、妻が謎掛けてきた。 思考を巡らしているときで、何を言ってきているのかすぐに解せずにいると、 「二人の結婚記念日よ」 妻は不満そうに付け足してきた。 「お姉さんのことばかり考えて、私のことなど少しも頭にないんでしょ」 妻の皮肉に、子供に聞こえると気にしながら、妻の手を握った。 「過ぎた嫁さんだよ」 と言いながら、恭子に連れられ、初めて自分の前に姿を現したときの、妻の初な顔を思い浮かべていた。 武司は美里のことがあってから、女性と接近するのに怖さを感じ、親しく付き合うことはなかった。結局大学には進学せず、二十二才でサラリーマンになっていた。三年もすると生活が安定してきて、恭子は結婚を促すようになり、武司も恭子が納得するのであれば安心して結婚できると考えた。 妻は、恭子が結婚前に厄介になっていた洋裁店に勤めていた。恭子は結婚後も洋裁店に顔出しする機会があり、何回か顔を合わせると妻を見初め、頃合いを見計らって結婚相手として目合わせてきた。 武司は結婚を忌避しようと決意していたわけでなく、むしろ、幸福な家庭を築きたいとの願望は強かった。ただ、結婚するには、相手のことより先ずは恭子の気持ちを考え、結婚しても上手く付き合っていけるかが問題だった。恭子が見つけてきたことだけあって、妻は恭子の嫉妬を最低限に治められる女に感じられた。ことによると、恭子の思いが注がれた代替えだったのかもしれない。妻よりも恭子を意識した結婚になりかねず、後ろめたさはあったが、結婚に人生の全てを賭けようとする妻の一途さは、美里と少しも変わらないように思え、疑うことを知らない初なところに強く引かれていた。熱烈な恋愛とはならなかったが、最良の伴侶と感じられ、強く望んで結婚した。 武司は妻の皮肉に結婚記念日を意識すると同時に、美里と別れた日に符合するのに気付いた。美里と別れたのが、昭和四十四年の十一月二十三日で、奇しくも五年後の同日に妻と結婚式を挙げたのだった。そして、恭子代わりに可愛がっていた姪が、やはり、今日、十一月二十三日に結婚を迎え、恭子との縁が薄らごうとしており、曰くを感じないわけにはいかなかった。 妻と初めて会ったころを思い浮かべると、美里と表向きの雰囲気は全く違ったが、家庭を守ろうとする意識は、頑固なまでにひたむきで、今考えると美里が姿を変えて現れたとも思えてくる。美里に尽くそうと思ったことを妻に全て捧げ、幸福な家庭を築き上げてきた。もし、妻が美里の身代わりなら、罪滅ぼしになると思った。 再び美里との不可思議な出会いが蘇って、本当に美里が妻に乗り移ったのではと思えてきた。確認するようについ妻を見ると、 「どうかしたの」 と、怪訝そうな顔で視線を合わせてきた。 五十路を迎え、歳は隠せなかったが、武司には結婚したときにも増して妻が愛しく感じられ、恭子も美里も全部包含した最良の伴侶だと思った。正に究極の愛を作り上げたとの満足感が溢れてきた。 「お前が一番だから」 と言って、手を強く握り締めると、妻ははにかみながらも、いかにも嬉しそうな表情をした。 式場には早目に着き、妻に促され、武司はすぐに恭子を訪れた。 姪の着付けは順調に進んで、和んだ雰囲気のなかへ入っていった。 武司は、すぐに恭子と視線が合って、久々に見る姿に、胸にこみ上げてくるものを感じた。恭子も平静を装うとしていたが、感情が目元に一滴滲み出ているのを捕らえ、互いに思いは少しも変わらないのを確認した。 恭子に軽く頭を下げただけで、先ずは、 「おめでとう」 と、姪に声をかけた。 姪はすっかり花嫁に変身し、今までに見せたことのないしとやかな装いに、見間違わんばかりだった。まだ身動きが取れずに、祝辞に表情で応じた。 妻や子供も従い、祝いの言葉を思い思いに投げかけた。妻は遠慮して引き下がろうとしていたが、子供たちは恭子の誘いに応じて近づいていき、母子のような雰囲気で話しだした。 武司は自分が姪を可愛がったのと同様、知ら間に、子供たちも恭子に可愛がられていたのを知った。妻の嫉妬が気になって目をやると、容認する表情を見せ、自分だけが置いてきぼりを食って、妻が意識的に子供たちを出向かせていたのを察し、気遣いが有り難くてならなかった。 頃合いを見て、妻が子供たちを引き連れて部屋を出ていき、姪の花嫁姿がすっかり出来上がって、恭子と三人となった。 「叔父さん」 と、姪が改まって話しかけてきた。 武司はいつにない姪の真剣な眼差しに、何事かと懸念しながら耳を傾けると、 「これからは、叔父さんからお母さんに会いにいってあげてね」 と言ってきた。 武司は返事に困ったが、視線を逸らすこともできず、頷くしかなかった。 「武司は忙しいんだから無理を言っては駄目よ」 と、恭子が慌てて否定しにかかった。 「私がいないと、叔父さんの様子を伝える人がいなくなってしまうもの」 と語り、母を思う花嫁の憂いを聞いて、武司は涙がこぼれそうになった。 姪の眼差しに嘘は付けず、 「これからは出来るだけ顔を出すようにするよ」 と、素直に答えていた。 「皆に花嫁姿を見せてくる」 と言って、姪は二人を気づかって部屋を出ていった。 二人取り残されると、戸惑いを感じ、三十一年ぶりの二人きりの会話は一瞬滞った。やがて、求め合うように視線を合わせ、姪や妻たちの気遣いを互いに頷いて確認した。 「武司はいつも私を待たせるのね」 恭子は二人だけの気安さからか、三十一年ぶりのひがみを言ってきた。 「ごめん」 と、すっかり子供に返って返事をした。 恭子は五十七才になり、老境に近づいて、別離のころの瑞々しさは失せたが、気品があり、慈愛に満ちた眼差しを向けられると女神のように感じられ、昔と少しも変わらなかった。 「姉さんは少しも変わらないな。二人でこうしていると、昔に戻ってしまう」 武司の話しかけに恭子は表情を変えず、 「何もかも変わってしまったわ。変わらないのは思い出だけ。二人きりの姉弟でも、互いに結婚してしまえば他人と同じ」 と、静かに語った。 恭子の言葉に寂しさを無視できず、互いに幸福だったではないかと、心のなかで訴えたが、原因が自分にあることは否めず、もっと会いにいくべきだったと悔やまれた。 姉弟だからこそ味わえた大きな喜びもあったが、姉弟だからこそ感じざるを得ない、大きな苦しみもあった。二人の運命を吉と見るべきか、凶と見るべきか武司には分からなかった。 「二人とも本当に初だったね。いつまでも純真で、当時でも時代後れの純情だったな。時代がすっかり変わってしまって、現代に置き換えて話すことなど絶対にできない。でも姉さんから学んだ、人を思いやる気持ちは失わずにきた。お蔭で幸福な家庭が築けた」 「武司もいいお嫁さんをもらって、幸福そうで安心ね」 武司は、恭子の表情に嫉妬が潜んでいるのを感じ、返事に窮した。恭子の甘えから生じた妬みと察し、優しく慰めてやりたいと思いながらも、恭子への思いを変節しようと心に決めたばかりで、夫婦への干渉を許すまいと意識していた。 「本当に幸せだよ。姉さんが見つけてくれた嫁さんだもの。いい嫁に決まっているよ。良き妻、良き子供、そして良き姉に恵まれて僕は最高に幸せ者だよ。姉さんだって僕以上に幸せじゃないか。お互いにいい人生を歩んでこられて良かったじゃないか」 武司の訴えを無視するように、恭子はおもむろにバックから小さな箱を取り出し、コスモスの花飾りを現した。武司はすぐに三十一年前の花飾りと気付き、大事に取っておいてくれたと思うと、恭子への思いが再び燃え上がろうとした。 「これは最も大切な人に渡しなさい」 と言って、恭子は笑みを浮かべて差し出してきた。 武司は花飾りを受け取ったが、言葉に含まれる意味合いを解せずに、戸惑いながら恭子を凝視していた。 恭子の笑みを嘲笑とも感じられ、女心を謎掛けられていた。 「男には、女の本当の心は分からないわ」 と、視線を逸らして言った。 ノックをして、妻が遠慮がちに覗き、 「お姉さん、そろそろ時間ですよ」 と言ってきた。 「そんな時間なの」 恭子は時計を見ながら頷いて急ぎ動きだした。 今度は妻と二人取り残され、武司は妻と視線を合わせ、微笑みかけて、花飾りをそっと差し出した。 |