5、夢 武司は着替えを終えて、出発までにまだ時間があるのを確認し、居間のソファーに腰を下ろした。 妻が走るようにやって来て、 「何をのんびりしているんですか」 と、しかるように言った。 「お父さんは一度も挨拶にいってないんですから、今日は早めにいってちゃんと挨拶してもらわなければ困りますよ」 と、手を引かれ、出発を促された。 「私が行かせなかったなんて思われるのはいやですからね」 武司は、いつになく賑やかな妻に呆れながら玄関に向かった。 車に乗り込むと、美里と出会った数奇な半年間が蘇ってきた。 それは、恭子を失った心の空白を少なからず埋めてくれた出会いだった。自分の人生を築く上で、非常に有意義な経験だったと思ったが、女心の不可思議さを謎掛けられた、未だに理解しがたい出来事でもあった。
結婚式場に着いて、恭子は次女が花嫁姿に変わっていくのを静かに見ながら、次女の諫言を思い出していた。 実に簡単な理屈で自分が変わったのを感じると、今までの自分が何だったのか分からなくなっていた。 武司への思いは正にままごと遊びと呼ぶに相応しい気がした。次女は二人の橋渡しをしてきており、二人の心を一番分かっていればこそ言える言葉だと実感していた。 幼いときの姉弟の気持ちをそのまま持ち込んだ人生で、二人がお互いに絶対的な存在の初な心を捨てきれずにいたのだろうと、何となく分かってきた。 武司を大人と考えると心配することは何もないはずなのに、いつも気にせずにはいられなかった。そんなままごと遊びは今日で終わらせると言い聞かせていた。 それにつけても、武司のやって来るのが遅いのが気になって仕方がなかった。少なくとも今日ぐらい早くやって来てもよさそうなものだと、ついいらいらしていた。 いらいらが、ふと、武司との空白の七ヵ月間を蘇らせていた。別離のあとに、武司に暫く接触を絶つと言われたときは、気が狂うほどに寂しさが募った。 唯一、ガールフレンドが出来たと葉書が来たときは、複雑な心模様に、ただ涙がしきりなしに流れていたのを覚えている。
昭和四十四年八月。四日に台風七号が本州に今年初めて上陸、中部東海山岳地帯に局地的な豪雨をもたらし、死者九名、行方不明七人を出す。八日から十二日かけては、前線による影響で集中豪雨が北陸、信越、新潟、福島を襲った。ゲリラのような豪雨により、死者二十四名、行方不明十六人を出す。二十二日には台風九号が九州、四国、紀伊半島、東海、関東を縦断する。 九日、アメリカ、ロサンゼルス市ハリウッドの高級住宅街で、女優シャロンテートら五人が殺害され、続けて市内で特異な殺人事件が起こった。ワルシャワ条約統一軍チェコ侵入一周年に向けて、チェコでは緊張が高まってきている。二十九日、パレスチナ解放人民戦線所属の男女二人のゲリラ隊員が、アメリカ、トランスワールド航空旅客機を地中海上空で乗っ取り、シリア、ダマスカス空港に強制着陸させた。 全国交通事故死が、二十八日に一万人を超えて最悪の記録となった。根室市花崎港を出港したイカ釣り漁船、「第十三福寿丸」が、九日、ソ連監視船と歯舞諸島沖で衝突、沈没して十一人が死亡した。アルプス、アイガー北壁の新直登ルートを日本隊六人がアタック、十六日に頂上に立った。六人の中に今井道子さんも加わり、女性初の直登を果たした。 全国高校野球大会決勝は、松山商井上投手と三沢高太田投手との投手戦となり、延長十八回、〇対〇で引き分けとなる。翌日再試合が行われ、四対二で松山商が優勝する。太田投手は二試合二十七イニングを一人で投げきった。プロ野球では巨人高橋一三投手が十五連勝をする。映画では山田洋次監督、原作、渥美清主演、倍賞智恵子共演の「男はつらいよ」が封切られ、今までにない映画だと評判になり、テレビでは新番組、石原裕次郎主演の「黒部の太陽」が話題となっている。
八月下旬に雑誌が郵送されてきて、大久保から電話が入り、作品について語り合おうということになった。 八月三十日土曜日。武司はそれほど気乗りしなかったが、美里に少しでも近づきたいとの思いが、本庄へと足を向けさせていた。 雑誌は、前号で提起された「愛のすがた」がテーマとなった投稿が多く、永遠の愛を信じたいと思いながらも、難しいと思うのが大勢であった。 男女の友情と恋愛の比較をする者。運命的な出会と愛を信ずる者。片思いだけに真実の愛を見出す者。恋愛や結婚と必ずしも結び付かない愛を語る者と、様々な愛のかたちが論ぜられていた。 経験不足もあって理屈で規定するのは無理があり、実際にその状況になってみなかれば分からないというのが、男子の率直な感想だった。女子は、女は家庭との考え方が古くなり、男女の役割が均一化していくことを意識しながらも、平凡な家庭生活を最上の幸福と考える者が多く、永久の愛を信じようとする姿が感じられた。 仲間の誰もが時代の移り変わりを敏感に感じ取って、精神的な交わりよりも物質的な欲求が優先されると予感していた。現実に、四才、五才と歳が離れるに連れ、自分たちが歩んできた学生生活と大きな違いを感じさせられた。アメリカナイズは日本文化を席巻し、男女交際も開放的な風潮が強まっていった。好きという意思をストレートに表すようになり、遊び感覚で性欲を満たし合うことに罪悪感が薄れていくように思われた。 一年一年、歳の差で確実に価値観が違ってきており、一年一年、時代の流れで社会も大きく変貌していった。清純な恋愛と、幸福な結婚を追い求める健気な姿は、時代に取り残された形となって浮き上がってくる。 仲間たちとの語らいに美里の名は出ず、安心させられる。武司の先の見えない身上を心配する言葉が多く、厚い友情を感じながらも意志薄弱を弁明するのが苦痛だった。慌てる必要はないと思っても、時代のならわしでは極めて不安定な立場であることは否めず、友の気遣いを慎んで受けた。 青春の燃えたぎる思いは語らいを長引かせそうなので、武司は丁重に断りを入れ、中途で退座した。 美里の存在は、今回の雑誌にも投稿がなく、完全に消滅していた。武司は美里の存在を確かめずにはいられず、車は躊躇なく美里の家へと向かった。 武司は仲間を欺いているという感覚を拭えず、そこまでして会いにいこうとする自分が怖かった。美里に会いにいく必然性は全く無く、明らかに同人との関係を逸脱していた。美里を訪れることによって、全てが無になることも考えていたが、会わずにいられなかった。たとえ破局を迎えようとも己に忠実でありたかった。 家に近づくと鼓動が高鳴ってくるのを抑えることが出来ず、大胆極まりない行為に一瞬の躊躇いが生じたが、車は所定通り門を潜っていた。母屋までの距離は十五メートル余りに過ぎないのに敷居が遥か彼方に感じられ、武司の脳裏では時間が停止していた。 足が本当に進んでいるのかじれていると、美里が時間を飛び越えるように目前に迫っていた。緊張感の極致に到った時で、すべての経過が省略されて忽然と現れ、少なからず驚かされていた。だが、美里が初めて向けてきた笑顔に救われ、会いにきた必然性を感じ、一気に平常心に戻っていた。 言い訳が不要と感じると、 「話がしたくて」 と、素直に言葉が出ていた。 「雑誌のことで私も話したいと思っていました」 視線を合わせて話をするのは初めてで、美里の表情を間近に見て少女のような愛らしさを感じた。それは、武司がかつて思い描いた美里と全く別人に思われた。 「気が付くと目の前にいたんでびっくりしたよ」 「車が入ってくるのが見えたので」 武司は美里の走り寄ってくる姿を想像してみたが、時間に歪みがあったと考えるのが妥当に思われた。二ヶ月間の空白がもたらした美里の笑顔にも不可解さを禁じえず、夢でも見ているのではと疑ってみた。しかし、一メートル足らず先の美里の姿は、夢にしては余りにも生々し過ぎた。 「今回も投稿しなかったんだね」 「何も書くことが浮かばなかったのです」 「気軽に考えればいいんだよ」 「でも中島さんの文章を読んでいると大分難しいことが書いてありますね」 「難しいことを書こうと思っていないのについ堅苦しい話になってしまう。きっとみんなつまらないと思ってるんだろうな」 「私はつまらないとは思っていません。中島さんの真面目さが感じられ、好感が持てます。言わんとすることは何となく分かるのですが、理解できないところも出てきます」 「何となくでも分かってもらえれば嬉しいな。どうしても理屈っぽくなってしまって、自分でも何を書こうとしているのか分からなくなってくることがあるんだ」 美里は面白そうに頷き、 「仲間うちでは理論派ということになっているけど、本当は単純で、大したことは言ってないんだよ」 と、付け足すと、 「真剣さが伝わってきます」 と、擁護してくれた。 美里の表情に心が照らしだされ、限りなく純真さを感じると、何の理屈もなく心が奪われていた。手を差し出して美里の気持ちを確認するのが二十歳の男と女のごく自然な成り行きだと承知しながら、二人の関係は同人に過ぎないと言い聞かせていた。 二人が佇む一メートル足らずの距離は接近可能な限界値で、手を握るなど絶対にありえなかった。限界値が美里の警戒心が作りだしたのか、自分の臆病が作りだしたのか定かでなく、これからの付き合いで距離を縮めることが可能かいたずらに考えるだけだった。 武司にとって庭先の街道が最高の舞台となり、自分にも本物の恋が出来たと嬉しくなっていた。たとえ実らずとも、美里の警戒心を取り去って心を和らげたことだけでも充分に満足できた。むしろ、心の奥底に潜む殻に覆われた純情に、力の限り尽くしたいと願っていた。 僅かな沈黙が訪れると、互いに目の置き所を失って、意に反して折角の舞台に幕を下ろし、 「お茶を入れますから」 との案内で動きだしていた。 日が大分傾き、大きな柿の木の上部だけが夕陽が差して、まだ熟れるのに間がある果実をオレンジ色に染めていた。 「夕食の準備で忙しいんじゃないの」 と問うと、三つ編みに結った二本の髪を振らして振り向くと、 「だいじょうぶです」 と応え、語らいの続きを望んでいるのが分かった。 「お茶はいいから夕飯の支度を進めて。かまどがあれば是非見てみたいんだ」 「母が嫌がります」 敷居の前で再び向かい合っていると、母親が奥からやって来て、 「何をやってるんだね。早くあがってもらって、お茶をお出ししなさい」 と言い、今まで二人の様子を窺っていたのが分かった。 武司は、母親が初な娘の恋愛に、気を揉みながら覗き見ているのを想像しながらお辞儀をした。 「夕飯の支度は私がするから、美里も一緒にあがっておいで」 母親の話し振りから、二人の舞台を整えてやろうと躍起になっている心情が窺えた。 「中島さんは夕飯の支度を見ていたいと言うの」 「馬鹿を言うんじゃないよ。汚い台所なんか見せられたもんじゃない」 母親は手を振って断ってきたが、 「かまどを是非見てみたいんです。まだ一度も見たことがないものですから、好学のために見させてください」 と言って強く迫ると、しぶしぶ応じた。 「無理を言ってごめんね」 「私はかまどが好きです。薪の燃えるのを見ていると何となく気持ちが安らいでいくみたいで」 武司は、美里に何のこだわりがないのを知り、ホットさせられる。今日の自分がとことん大胆なのに少々恐さを感じたが、素直な気持ちが無用な分別を押しやったと考え、どこまでも深入りしていった。 「お父さんはいないの」 「今日は寄り合いで帰りが遅いんです」 「前来たときに、お父さんと話していたらゆったりした気分になっていた。この頃は気持ちにゆとりが無いようで、安らぐってことがなく、久々にのんびりした」 美里は何も応えずに台所に入っていき、土間に吊るされた電球を点灯させた。黒光りするかまどが二つ、あくまでも薄暗い灯に照らしだされていた。既に薪が燃やされていたがくすぶりはじめ、美里が燃し付けた残骸だと想像された。 「本当は忙しかったみたいだね」 と言って、恐縮すると、 「だいじょうぶです」 と再び応え、屈んでかまどを覗き込み、薪をくべようとした。 「僕にやらせて」 傍に屈んで薪を受け取り、目で手順を確認しながらくべていった。薪は勢い良く燃えはじめ、かまどの灯が電球に勝って、黙って見守る美里の顔を金色に浮き上がらせていた。落ちつきはらった表情は、一切の煩悩を超越した観音となって、今までと全く別人になっていた。 武司はかまどに顔を近づけて幼児のように炎の揺れを楽しんでいた。知らず知らずに二人の距離は縮まって、触れ合うほどに間近に感じていた。しかし、美里の視線に求めるものは男女の関係とは程遠い母の薫りで、限りなく赤子になっていた。 夢見る時間がどれほど過ぎたのか、武司はふと我に返り、雑念が出てきて二人の距離を意識しはじめていた。美里も雰囲気を感じ取ったのか、次の作業に身体を向けて離れていた。 武司は二人の距離が本来に戻るとホッとしているのを感じた。かまどの燃える映像を心にたっぷりと刻み込んで満足感が支配し、そろそろ潮時と考えていた。 「どうもありがとう」 と言って、帰る意思を示すと、 「かまどで炊いたご飯を食べていってください」 と言って引き止められた。 「ずうずうしく押しかけてきて、食事まで御馳走になっては申し訳ないもの」 あくまでも帰る姿勢を示したが、美里の視線を確認すると、遠慮が不調法に感じられて言葉を待たずに頷いていた。 ちょっと離れた場所から美里の仕事ぶりを見ていると、かまど、ガス台、調理台を無駄なく行き来して手際よく作業を進めていた。手慣れた姿に、「遅くなるのが嫌」と言って帰宅を急いだ理由が何となく頷けて、美里がいかに家庭的か分かった。母親の汚いと言った台所は、暗くて古めかしかったが、良く整理整頓され、恥じるものは何もなかった。そこにも美里が大きく関与しているように思え、潔癖な面を強く感じた。 釜が吹き上がってきて香ばしい薫りが漂いはじめ、武司は思わず、かまどに近づいていった。美里も武司の物珍しがる姿を楽しむかのように笑顔で近寄って、至近距離で言葉を交わしていた。 「何もかもが初めてで、別の世界にいるみたいだ」 「田舎暮らしは嫌いですか」 「都会暮らしよりもいいな。東京に行くと息苦しくなってくるもの」 美里の満足そうな眼差しに、 「僕は姉さんと二人きりで生活してきたようなもので、ごくごく限られた世界しか知らないんだ。本だけが頼りの世間知らずだから、森田さんの家で起こることは何もかも新鮮に感じられて楽しい」 と、素直な気持ちで応えていた。 一瞬、恭子と居るような感覚が走り、顔立ちは違っても根底にあるものが非常に類似しているように思えた。堪らなく嬉しくなったが、女が一歩遠のいた気がした。 後ろに人の気配を感じて振り向くと、美里の姉と想像される女が立っていた。すぐに頭を下げて挨拶すると、姉はいかにもうさん臭そうに冷たい視線を向けて、微かに頭を垂れて応えてきた。 邪魔者扱いにされているようで居場所を失ったが、一切の疚しさがないとの自負が少しもたじろがせなかった。姉は三十前後の年格好で、前に美里が、「愛は不変ではない」と姉の弁を持ち出したのが思い出され、男性不信のオールドミスをイメージした。僅かな時間の接触であったが、美里に初めて会ったときの頑な姿に姉の影響を感じ取って、不吉な予感を禁じえなかった。 美里の表情に憂慮が窺え、自然に醸しだされていた笑顔が薄れていった。土間を回って客間に案内され、お膳だけの簡素な部屋で待つことになった。台所より幾らか明るい電球が灯されたが、時を積み重ねて黒ずんだ障子が光を吸い込んで、日の陰りに応じて色合いの感じられない暗さとなっていった。 待っているあいだ、目が輝きだして、柱、天井、鴨居、欄間、障子、土壁と、身体全体で歴史を感じ取り、時代を遥か昔に逆上っていくのを楽しんだ。クロスで覆われたアパート暮らしでは絶対に味わえない情緒を感じると、生活が無味乾燥に思えてきて帰るのが苦痛になった。だが、すぐに恭子との満たされたアパート暮らしを思い出し、生活環境よりも心のより所の問題だと気付いた。 待っている間、風流にすっかり酔い、まだ覚めぬうちに美里が一膳だけ食事を運んできた。美里も一緒に食事をすると思い込んでいると、お盆を膝に乗せて正座となり、給仕に専念することが分かって、一人箸を付けることになった。これがしきたりなのかと、いささか腑に落ちなかったが、今置かれた舞台に相応しいシナリオを思い描いていた。 かまどで炊かれた米粒を口に運ぶと、いつもと全く違う味がした。 「美味いな。かまどだとこんなにも違うんだ」 素直な気持ちで美里を見ると、一緒に喜んでくれているのが分かったが、表情には姉の意思が反映されたと思われる、僅かな陰りが感じられた。かまどを覗き込んだ時の無心な気持ちで見つめ合うのはもう無理なのだろうと思った。 沈黙のなかで、青菜のお浸し、茄子の糠漬け、葱の酢味噌和え、肉じゃが、玉葱とジャガイモの味噌汁と、一つ一つが飯を引き立てて、じっくりと味わって食べた。にわかづくりのもてなしに心尽くしを感じ取り、幸せ一杯だった。 美里の差し出すお盆に何の躊躇いもなく茶碗を乗せ、お代わりもたっぷりと味わった。三杯目は丁重に断って、静寂が最も相応しい時代劇を空想しながら、最後に出されたお茶に口を付けた。 現代が全て消え去って、二人とも髷を結っているのではとの錯覚に陥り、美里の髪を確認していた。三つ編みの長い髪は胸元に垂らされて、夢でないことを確認したが、今日起こったことは、全て夢の出来事と考えるのが相応しい気がした。 語り足りないと思いながらも、美里の食事をいつまでも足止めするのが心苦しく、帰り支度を始めた。美里の表情からは何も読み取れず、二人の関係がいったい何なのかさっぱり分からなかった。二人でいると楽しいことは認め合えると思ったが、再び同人との立場を逸脱できないと感じていた。 土間から回って台所にいた母親に挨拶をした。姉も居るようだったが、声を聞きつけても顔を出そうとしなかった。車に乗り込む前に美里と向かい合い、 「来月の下旬にドライブを予定しているみたいだけど、参加するの」 と、確認した。 美里は頷いて、何となく会う約束をしているようで、一瞬だったが恋人のように感じられた。 「もっと話がしたかったけど、でもとっても楽しかった。本当に有り難う」 美里ははにかみ、下俯くだけで何も応えなかったが、気持ちは充分に伝わっていると感じた。お辞儀に見送られながら、闇に車を走らせた。 美里の家を離れるに連れ、はち切れそうな満足が夢の出来事に思えてきた。美里の登場からして納得が行かず、笑顔にいたっては絶対にあり得ないことだった。時間の亀裂に迷い込んで、自分の願い通りに勝手に時間を塗り替えてしまったのではとの疑念が生じていた。 武司は机に向かうと恭子に宛てて葉書を書きはじめた。恭子との接触を絶って四ヵ月余り、よく耐えられたと振り返っていた。恭子も辛かったに違いないと思うと涙が滲み出てきた。葉書を出すだけでもずいぶん違うだろうと、恭子への思いが沸き上がっていた。 拝啓姉上様 大変御無沙汰して申し訳ありません 私の方は何とか元気でやっています 夏も終わりに近づき、やりのこしが沢山ある気がしてあせりを感じています 七月から牛乳配達を始め、何とか続いています。初めは早起きが辛かったですが、慣れると朝の空気が美味く感じられるようになりました 高校の仲間と六月から同人雑誌を作るようになり、創作を楽しんでいます 尚、ガールフレンドが出来たことをご報告しておきます くれぐれもお身体をお労り下さい 武司はガールフレンドと書きながら恭子が何と思うか想像し、やきもちをやくと思うと可笑しかった。恋人と書いて恭子を嫉妬させようとの冗談も考えたが、すぐに絶対にあり得ないとの気持ちが襲ってきて、どうしても書けなかった。 葉書が書きおわると、恭子と美里を知らず知らずのうちに対比させていた。考えれば考えるほど、どちらを置き換えてもすっかり同じ人生を歩むように思えた。二人が共通するのは時代後れのひたむきな姿だった。自分の与えられた役割を違わずに勤めようとする、子供のような純粋な気持ちで、もろさを併せ持ったところもそっくりな気がした。 美里の姿が恭子と重なり合って浮かんでくると、恋人とは言えない要因を見出していた。美里を守ってやりたいとの気持ちは高まるが、恭子への思いと同じで神聖化され、汚れを伴った欲望の対象には成りえなかった。関係が進展していけば、肉体の交わりが究極の愛情表現として感じえるだろうと、期待を持つが、現状では美里の裸身を脳裏にさらけ出すことは出来なかった。 武司は時代に取り残された二人の女神を子供扱いにしながら、己の時代遅れも嫌気がさしていた。欲望の赴くままに異性を求めるのが自然な姿だと言い聞かせるが、恭子に見出した純な心を、好きな相手に置き換えるともてあそぶことは叶わず、永遠の愛と絡めた交わりしか考えられなかった。否応なしに欲望と熱情との葛藤が起こり、堪らなく息苦しくなることもあった。 武司は「道すがら」と題して、次号の原稿に着手していた。 薄っぺらな雲が行き場を失い、皮肉にも太陽の方向に叢って、夏というのに少しも暑さを感じない。天気に関係あるまいが、外に出ると何とも重苦しい。足を踏み出しても何も起こるはずがなく、いつもと同じ歩調で家を離れていく。 駅まで歩いて十分程かかる。それはいたって正確で、時計に操られて歩いているようである。線路沿いの直線道路が五百メートルほど続く。世の中には同じように正確に時間を刻んで通勤、通学する者がいて、毎日同じ場所で擦れ違う。顔を突き合わせていればおのずから顔を覚えて、口を聞いたことがないのに知り合いになった気がする。 毎日顔を突き合わせているのだから挨拶でもすればよさそうだが、今までのところ自他ともにただ一度として声をかけ合ったことがなかった。本意不本意いずれにせよ、軽く声帯を振るわせても損をするとは思えないが、互いに情を交わそうとしない。たまには声をかけてみようと思うが、いざ声をかける段になると、蜘蛛の巣に自由を奪われた蝶のように、社会通念や、自らの思惑にがんじがらめにされて行動できない。 先ずは五十過ぎの男と擦れ違う。いかにも実直そうな人で、何十年も同じ道を行き来してきたことが想像される。二人組の男子中学生とも出会う。よほど仲がいいと見えていつも二人一緒で、たまに片方が欠けると風邪でも引いたのだろうと想像する。玄関先に繋がれた犬も顔見知りになり、初めは警戒心を見せていたが、今ではしっぽを振って必ず挨拶をしてくる。実に気持ちがよい。自転車で通学する高校生も多く、その中の何組かは顔をすっかり覚え、顔つきの変化に大人へ脱皮していく経過を見るようで面白い。 擦れ違うなかには気になって仕方がない女性もいる。年格好が同じ年代で、数少ない出会いのなかでは是非付き合ってみたい女性の一人である。天変地異でも起こらないかぎり、もうじき彼女の顔が見えてくるはずである。重苦しい気分で歩いてきた理由が彼女にあることを思い出す。 二十年足らずの人生では出会いは少なく、多くの人間を知ったとは言えない。現状のなかでは、ごく限られた世界を行き来するだけで、一億もいる日本人の中の十に満たない人間との接触に過ぎない。閉ざされた世界で人生を創造していくのではあまりにもちっぽけに思えてくる。世界を広げるには成り行き任せでは不可能と分かる。何としても新たな世界に踏み出していく必要がある。 道すがら、何度も彼女を見ているうちに運命的な出会いを意識せずにいられなくなっていた。彼女がどんな人間が全く分かるはずがないが、声をかけないかぎり自分にとって最良の人間かどうか確認しようがない。人生を決する巡り合いと考えると、それを確かめないのは人生最大の損失と思えてくる。彼女を得ることよりも、人生を創造していく勇気があるかが問題で、何としても声をかけたくなる。 前々から声をかけようと考えてきたが、結局は勇気がなく、指をくわえて見ているだけであった。彼女の美貌を考えるといい男にさらわれていってしまいそうで、一刻も早く声をかけねばと思うが、既に決まった人間がいるのではと考えると、徒労はしたくなくなる。結局は結果を意識して何もせずにいる。そもそも己の風貌を考えると彼女に選択される可能性はないに等しく、通りすがりの男に声をかけられて応じる女では不謹慎にも思える。いずれにしても明るい展望は全く無く、ただ単に勇気が試されるだけである。 逃げ腰の気持ちを納得させるには、何らかの理由付けが欲しくなる。同性でも声をかけられないのに、女性となるとちょっとやそっとで、できっこない。諦めてしまうのが一番だがそれでは男が廃る。難事業を成し遂げて初めて生き甲斐があるというもの。だが、大義名分を振りかざしても勇気には繋がってこない。単純に彼女と親しくなりたいだけなのだから、軟派をすると考えればよい。それでは自尊心が傷つき、どうしても納得が出来ない。面倒臭くなってきて終りにしようと思うが、それではもの足りない。 いったい何が納得させたのか分からないが、昨日の晩に声をかけると結論付けていた。人生を創造するとの気持ちが強まって、声をかけることが今後の人生を占うように思えた。出会いが増えれば人生がどんどん広がっていく気がするのである。 彼女が視界に入って近づいてくるのを感じると、こね繰り返した理屈は影を潜め、結果ばかりが気になってくる。無視されることを考えると並大抵の勇気では成しえない。断念するいいがかりを考えるが何も思いつかなかった。勇気を試すだけであった。 彼女は足音が聞こえるほどに迫ってきた。決意は不動の姿勢を懸命に堪えているが、風が吹けば倒れてしまいそうである。空は相変わらず曇っていたが、今のところ風が吹く兆しはない。 武司は書きおわって、出会いについて考えていた。限られた出会いのなかで人生を決していくことに不条理さを感じずにはいられなかった。 恭子の人生はごく限られた出会いの中で作り上げられており、全く選択の余地がなかった。果たしてそれで幸福でいられるのだろうかと思うと、気掛かりになって、いてもたってもいられなくなる。だが、恭子と同じような人生を歩んでいる者が数限りなくおり、その誰もが不幸になっているわけではなかった。むしろ、華々しい恋愛遍歴を持つ人間の方が多くの悲恋を耳にする。 恭子には選択の余地がなかったが、相手を信じ込むことは出来たはずである。おそらくは規則的な生活を一心に守って、不幸と考える余地がない気がする。多くの出会いを経て選択の余地があったとしても、選択した相手が信じ込めるか疑問である。経験があるがためにかえって比較する気持ちが起こり、一人の相手だけを思い込んでいくのが難しくなるのではないのか。多くを知ることはいいことであるが、必ずしも幸福になるとは限らない気がしてくる。 時代を考えると、男女に関係なく出会いの場がどんどん広がっていくと思われた。従来であれば外で働くのは男が中心で、浮気は男の甲斐性と相場が決まっていた。今後は女も社会進出が進み、多くの男との交わりが出てくるに違いなく、女の性分では浮気で治まらず、本気になって、離婚の増大は否めないだろうと思った。 武司は多くの出会いを求めたいと思うが、どんなに足掻いても高が知れた世界で生きていくしかない気がした。多くの人間を知りたいと思う反面、限られた出会を最良と信じ込む女性の心を大事にしたいと思った。 美里の顔があった。美里のとことん閉鎖的な生活を思い浮かべていた。たった一回の選択で人生を決しようとする心を感じ、余計に臆病にさせるだろうと思った。美里を思えば思うほど大事にしたくなった。 武司は、美里にドライブの日は迎えにいきたいと手紙を出した。かまどで炊いたご飯のお礼に菓子折でも持っていこうと思った。そこには同人を逸脱した特別な行為との意識は全く無く、美里も何の躊躇いもなく応諾していた。
九月三日、ベトナム独立闘争の中心だった、北ベトナム、ホー・チ・ミン大統領が心臓発作のため七十九歳の生涯を終えた。弔問外交とも関係し、ベトナム戦争は休戦状態に入った。十六日には、アメリカ、ニクソン大統領が、十二月十五日までに南ベトナムからアメリカ軍三万五千人を、第二次撤兵分として引き上げると、声明を出した。 九月に入ると、大学紛争が再燃するかのように各地で封鎖騒ぎや、学生間の対立、学年末試験の妨害などが相次いだ。早大では全共闘と革マル派の内ゲバとなり、学生対立が深刻化して警官が出動した。大隈講堂などを占拠していた学生を排除するとともに、殺人未遂、放火、凶器準備集合などの疑いで百二人を逮捕した。東大も文学部が七ヶ月ぶりにバリケードが張られて封鎖されたが、五日後に解除される。京大、東京外語大、東工大、広島大、駒大、慶大など、各地の大学で機動隊が出動する騒ぎがあった。芝浦工大では封鎖中の学生が対立する学生に襲われ、逃げようとして二階の窓から落ちて死亡するという事件が起きた。警視庁を中心に各地の警察が赤軍派の一斉捜査をして二十一人を逮捕する。一方で、大阪、京都の計四ヶ所の派出所で、過激派学生による火炎瓶放火事件あった。 渋谷区恵比寿で六歳の男の子が誘拐され、殺害されて小荷物一時預かり所に預けられるという事件が起き、山口市湯田原温泉でも五歳の女の子が誘拐され殺された。埼玉大宮では、次男が両親を殺害して捨てるという事件が起き、東京福生では、情夫と若い母親が一歳九ヶ月の赤ん坊を殺害した。家出少年が急増し、東京、新宿、上野の駅周辺で保護した五百三十四人の事情聴取で、大半が無一文状態というのが分かった。 ボクシング、世界フェザー級タイトルマッチが七日に行われ、西城正三が王座を防衛。大相撲秋場所では玉乃島が二度目の優勝。映画、武智監督の製作した「黒い雪」の、芸術かわいせつかをめぐる裁判で、「映画はわいせつ」と断定しながら、「映論の審査をパスしているから被告に犯意はない」と無罪判決が出る。テレビの低俗番組に対する批判が高まって、会場使用を断る会館も出てくる。国産衛星ラムダ四号の打ち上げが失敗する。
九月二十三日火曜日。曇りの天気でドライブには相応しくなかったが、武司の心は、美里を迎えにいくことを考えると、快晴そのものだった。 美里の家の門を潜ると、柿が色づいてきているのが目に入ってきた。菓子折を持って車を降りると、軒先から美里が近づいてくるのが分かり、武司も歩を進めて柿の木の下で対面していた。 美里がめかし込んでいるのが分かり、飾り気のない簡素な装いで、美里らしさが感じられ、堪らなく魅力的であった。明るい日差しの下で凝視するのは気が引けて、つい柿の木に目をやっていた。 「大分色づいてきたみたいだね」 武司は美里を直視して挨拶するのが照れくさく、話の順序を違えているのに気付いていたが、大きく広がった枝を見て回った。 「帰りに柿を取っていってください」 と、美里も照れを理解して話を合わせてくれた。 「こないだは、どうも御馳走さまでした」 菓子折をそっと出してお辞儀をすると、美里は首を大きく横に振って、礼に及ばないことを強く語っていた。眼差しが幾分責めるように感じられ、目を逸らして顔を赤らめるしかなかった。 父親の姿を確認すると、美里から逃げるようにして近寄り、 「先日はお留守中にすっかり御馳走になりまして申し訳ございませんでした」 と、急ぎ挨拶した。 「礼はいらんよ。時間があれば何度でも遊びにくればいい」 と、笑顔を絶やさずに応えてくれた。 美里が菓子折を見せると、 「つまらん心配をするんじゃないぞ」 と言って、返させようとしているのが分かり、 「これからもお邪魔しますので、今日のところはお納めください」 と、一歩退いた。 お茶を勧められたが断って、出掛ける素振りをすると、 「帰りに柿を取っていくがいい。取る者がいないもんで鳥の餌になってしまう」 と言って、父親にも柿の収穫権を保証された。 両親が美里を心配しているのをうっすらと感じながら、車を走らせた。美里は家を出ると幾分固さが出てきて、家がいかに寛がせているのか分かった。外に出て気丈夫そうに見せるのは、殻に包まれた純情だろうと思うといたわしくなり、いつも守っていてやりたくなった。 仲間が集まって、ドライブの準備を進めながら、武司は美里を連れ立ってきたことが悔やまれた。仲間の好奇な目が感じられ、行きがけの連れとは理解されていないのが分かった。自分の軽薄さが忌まわしく、今後の展開に大きな影響を及ぼしそうで、不安にならずにはいられなかった。 美里は固さが増していたが、回りの雰囲気を意識している様子はなかった。むしろ、邪推を感知することが出来ないと思われた。あからさまに言葉を向けられないかぎり、問題ないと分かったが、中傷されないとの保証は全く無かった。 武司の車は男ばかりの四人で、美里のことをいつ追求されるかひやひやしながら車を走らせた。自分は何を言われても仕方がないと思いながら、美里に直接害が及ばぬことを祈っていた。針の筵のようなドライブとなり、長く辛いものだった。 目的地の赤城に到着し、解放感が出てきて、グループ全体は和やかな雰囲気だった。美里だけが沈黙気味で、男子の話しかけに逃げ腰となり、知らず知らずのうちに武司を頼るような素振りを見せた。否応なしに二人が浮いた存在となり、誤魔化しようがなかった。 武司は秘策を練り、同人という立場を強調すべく、回りにも聞こえるように雑誌になぞらえた議論を美里に持ちかけた。 「日常の生活のなかでは、ごく限られた出会いしかないから、お見合いという習慣を否定できない気がするな」 「相手の方の人柄を知ることが大事だと思います。出会いの機会よりも、相手を知る時間が必要となってくると思います」 「確かに時間が必要だね。フィーリングが持て囃されるけど、遊び心だったら誰でもフィーリングが合ってしまうかもしれない。その場限りの感情で人生が決せられると思うと恐いな」 「でも、どんなに時間を掛けても人を理解するのは難しいと思います。結局は信じるしかないのかもしれません。逆に、時間を掛けなくとも分かり合えるかもしれないし、運命に従うしかないのかもしれません」 「運命的な出会いもあるかもしれないが、人生を創造すると考えると、成り行き任せは我慢できないな」 「でもひたすら待つしか出来ない人もいるかもしれません」 「それを言われるとつらいな。人生を創造すると言っても、やることは一緒だと思うんだ。人を思いやることが基本で、好き勝手をやろうとは思わない。ひたすら待つ人を大切にするのも人生の目的かもしれない」 武司は意味深な会話に発展してきたのを感じ、論点を逸らそうと意識していた。 「自分のことがまともにできないくせに、人生を創造するなんて、できっこないよね。理屈よりも先ずは生活を作り上げていかなければ」 「でも、考えることも重要だと思います。私は決まったことを何も考えずにやっていくだけで進歩がないのです。何か自分の意思でやらねばと思うけど、枠にはまって身動きが取れません。枠に捕らわれずに思いどおりにしている人が羨ましい」 武司は美里の言葉に応えようがなく、話が途切れていた。美里の今の生活は古いしきたりに限りなく縛られているのではないかと疑問になる。しかし、かまどへの愛着を考えると自身が望んで留まっているように思えた。むしろ、消費が美徳とばかりに古いものを無闇に否定する時代の急激な変貌に抗い、旧来の良いところを残そうとする思いが、頑な姿になっているのではと思われた。 時代は確実に物が溢れだしてきて、豊かさを誇ろうとしているが、それが人間にとって本当に良いのか分からなかった。良識によって動いていると言うより、常軌を逸した姿がすうせいではないか。古いものに固執する必要はないと思うが、新しいものに振り回されるのは、もっと考え物である。 「時代がどんどん変わって、出会いの心配をするのは時代後れかもしれない。これからは開放的になって、奥ゆかしさなんて死語になってしまうかもしれない」 「中島さんは奥ゆかしいのは嫌いですか」 武司は同人との構えを意識して、あくまでも美里を横に感じるだけで視線を合わせずにいた。しかし、今発せられた美里の問いに顔を向けずにはいられなかった。 「何よりも大事にしたい」 奥ゆかしさは、恭子であり、美里の代名詞で、熱い思いを打ち明けた言葉だった。 武司は一瞬、回りの事を忘れて二人の世界に没頭し、美里の眼差しに安心を見いだして嬉しくなっていた。二人が危うい態勢にあることに気付き、慌てて回りを見回し、今の会話が聞かれなかったか確認した。 他の仲間は遊ぶのが目的のようで、二人の固い話しに辟易するのか、置いてきぼりにされていた。ホッとしながら、目論見があたって、二人の関係が同人との印象を強めたと確信した。 移動の度に美里と別になったが、車を降りると、ひきりなしに議論を交わした。回りは色気のない会話に呆れるだけで、二人の仲を咎める者はなかった。昼食時だけは無言となって食事に専念していると、 「森田さんにしつこく議論を吹っ掛けると嫌がられるぞ」 と、仲間に冗談まじりに諭された。 楽しいはずのドライブが、武司にとっては早く終わらせるのが目的となっていた。美里を家に送り届けるときばかりを想像した。 かまどに気を取られ、語り合いが少なかったのを穴埋めするかのように、話したいことが溢れ出てきて議論していた。 「これからの時代は男女の格差がなくなって、生活スタイルがどんどん変わっていくのは当然だと思う。女の人に経済力が出てくれば発言力も増して、我慢して泣き寝入りしていたのが、自分の意思で自由に選択できるようになると思うんだ」 「それほど簡単に女性の地位が向上するとは思えないです。慣習の問題もあるでしょうけど、女性の性質も問題で、依頼心はそう簡単になくなってしまうとは思えません」 「女性自身が時代をどう選択していくかってことかな。男は今までと変わらない生活スタイルで、わがままが言えたのが言いづらくなるだけで、後は馬車馬みたく、尻を叩かれて働いていくだけだろうから、女がどう経済に関与するかで、時代が変わっていくのかもしれないな」 「私には分かりません。女性自身で変わっていくのか、それとも意思に関係なく、変えさせられていくかが問題だと思います。今までが全て悪いとは限らないでしょうし、人間が求めているものは、今も昔も少しも変わらない気がします」 「僕も求めているものは何も変わらない気がするけど、否応なしに変わっていってしまうと思う。人間は環境によって価値観が違ってしまうと思うんだ。思いやりを一番大切にしたいと思っても、窮地に立てば自分のことで精一杯だろうし、ゆとりが出来れば余分な欲求が湧いてくるだろうし、理性よりも欲望が働いて、盲目的になってしまう人間が多い気がするな」 「女性の保守性がなくなってしまったら家庭を維持するのが難しいでしょうね」 「野性動物なら何も考えずに子孫繁栄に徹することが出来るだろうけど、人間は余計な欲求に振り回されて、本能そのものが薄れていってしまうのかもしれない。大人は自分の気まぐれで人生を選択するんだから、不幸になろうとかまわないが、子供は、自分の意思では何も選択できないと考えると、可哀相になってくる」 「結局はそこが問題なんですよね。子供のことを考えると安易な結婚が出来なくなります」 「人を信じられるかってことになるな」 武司の言葉で会話が途切れていた。 沈黙が何を意味しているのか考えずにいられなかった。回りが気になって視線を合わせるのが憚れ、美里の心を読み取る術がなく、武司も無言で応ずるしかなかった。 自分の身の上を考えると信頼に足るものが何もなく、切なくなってきた。美里に誇りえるものがあれば「信じてほしい」と言いたかった。美里の封印された純情に真心を伝えたかったが、結局は出来なかった。 二人の深刻な姿を気づかって、 「いじめてるんじゃないだろうな」 と言って仲間が寄ってきた。 美里が頭を横に振って否定したが、 「中島は議論に熱中すると過激になってくるんだから、冷静に議論しろよな」 と言って責められた。 武司は、 「分かっている」 と言って、手を上げてその場を治めた。 ドライブの目的は何も記憶に残らず、沈黙を引きずったまま帰路に着いた。仲間と解散し、二人で車に乗り込むと、会話の続きを意識して、美里の言葉を待った。 「姉は男の人を信じないと言っています」 武司は姉の冷たい視線を思い出し、予感したとおり、美里の心に大きく伸しかかっているのだと感じた。美里は信じようとしていると考えたかった。信じたいが限りなく臆病になっていると思った。そんな美里に伝える言葉がすぐに見つからず、将棋を指すように、今度は武司が封じ手をして沈黙が訪れた。 家も間近になって、 「僕は姉から信じることを学んだ」 と言って、封じ手を披露し、 「信じられる人が必ずいると思っている」 と、美里の心に語りかけた。 家について早々に柿を取りにかかった。 「柿の木は折れやすいから無理をするな」 父親の忠告を耳にしながら木によじ登っていった。久々に木に登り、自分が不格好な姿をさらけ出していると意識しながら、出来るだけ上へと登っていった。全体的に熟すには早めだったが、色付のよい柿を見つけてはもいでいった。美里目掛けて投ずると意外に器用にキャッチして、互いに童心に返る場面があった。 父親が二人のやりとりを何と感じたのか分からなかったが、柿取りは二人に委ねられ、早々に縁側に引き上げて、邪魔はすまいとの気持ちが感じられた。美里は言葉を発しなかったが心配そうに見上げてきて、目が合う度に無理をしては駄目よと表情で語り、武司も笑顔で大丈夫と応えていた。 柿はすぐに一杯となり、木に留まる理由はなかったが、登れる限界地点で辺りを見回していた。今にも雨が降りそうな天気で余計に暗さがまし、秋の日の短さを実感しながら、お山の大将気取りで景色を楽しんでいた。何もかもが初めて手にする世界で、楽しくて仕方がなかった。 美里は柿取りの作業が終わったことを承知しながら、いつまでも持ち場を動かず、武司を見上げて待っていた。母子か姉弟か、恭子とすっかり同じ関係になって、少なからず情が加わっていた。美里の憂慮を解消すべく、登ったときよりも不格好に木を降りた。 「夕食を用意しますから」 と、美里は当然のように言い、武司に遠慮をする余地を少しも残さなかった。家族の一員になっているとの錯覚に陥り、姉弟から夫婦に昇格した気分だった。縁側で気長に待ち受けていた父親との語らいは、さすがに婿のつもりというわけにはいかなかったが、何の気兼ねもいらなかった。 客間で手打ちうどんが振る舞われ、薄暗くて、彩色に乏しいセピアカラーの舞台が出来上がった。美里は例のごとく行儀良く正座し、お盆を膝に乗せて食事を共にする意思を見せなかった。沈黙が相応しく、無声映画となって、武司一人がこしのあるうどんをもくもくと食べた。 お茶が出され、武司はお礼と満足の意を、簡潔に心を込めて表した。これで、現代であるはずがない、幻の舞台に幕が下ろされるとばかり思っていると、それはあくまでも序章に過ぎなかった。 「十月下旬に群馬音楽センターで、ファン・カンバレリ楽団のコンサートがあるのですが」 武司はコンサートが夜だと察し、 「僕でボディーガードが勤まるなら是非行きたいです」 と、すぐに応えていた。 美里の表情に気兼ねがありありと出て、武司の応諾に頷くにも躊躇いがあった。 「僕も音楽はよく聞くほうだけど、タンゴはあまり縁がないんで、是非聞いてみたいな。どちらかと言うとストリングスが好きで、マントバーニーやパーシーフェースを聞く機会が多いんだ。でも何でも嫌いじゃなくて、気分によって良かったり悪かったりする。ラテンではペレスプラード、ジャズではスウィングが好きでカウントベーシー、デュークエリントン、グレンミラー、それにオスカーピータソン、マイルスデェービス、クラッシックだとカラヤンの演奏をけっこう聞いて、何となくベートーベンがいいかな。最近ではバッハやビバルディのバロック音楽も好きになってきている。コニーフランシスにも凝っていたし、パットブーンを真似て歌ってみたり、ニニロッソやサラボーンはコンサートに行ったりしたことがある」 武司は美里に気兼ねをさすまいと躍起になり、つい雄弁になっていた。 「パットブーンのコンサートに行ったことがあります」 と言って、美里の表情から気兼ねは消えていた。 美里の正座と武司の胡座の関係はそのまま維持され、車からの会話が再開されて、言葉数は少なかったが、多くのことを感じて語り合っていた。 「コンサートに行ったり、演劇を見にいったり、少しずつ、今までの限られた生活から広げていきたいと思っています。音楽でも劇でも何でも楽しもうと思っています。でもそれは目的ではないと分かっています」 自分を変えようとする美里の心情を武司にも何となく分かる気がした。多くを体験していかねば善し悪しが分かるはずがない。閉鎖的な人生を歩んだとしても、自らの意思で選択したものであれば意味があるが、ただ単に無知で暗愚がもたらした結果では、人生の価値が薄れてしまう。 時代は明らかに娯楽を主体とした生活を目指している。ややもすると日常生活の営みすら否定しているように思われた。遊び暮らすのが究極的な姿で、そのために仕事があったり、仮の生活があったり、結婚が利用されたりで、日常生活を主眼に置く人間は真っ向から否定されかねない時の勢いである。流れに乗って何も考えずに享楽できればそれでいい気もした。 武司は恭子と娯楽を楽しんできた。映画、コンサート、遊園地、旅行と、けっして回数は多くなかったが生活に変化をもたらし、より充実した人生となった。だが、映画の内容に満足したことはなかった。いかにも作り事で必然性に乏しく感じられ、何も考えずに楽しむことが出来なかった。名曲も三度聞けば飽きてしまうし、どんなに刺激的なジェットコースターも三回乗れば飽きてしまう。美しい景色も話のつまであって、何度も行きたいと思ったことがない。それでもはち切れんばかりの満足を味わってきた。 それは、恭子と一緒だったからである。何をするにしても語らいがあり、触れ合いがあって、心の交わりを楽しんでいた。互いに存在感を感じ合うことが目的で、日常生活にも演劇を感じ、旋律を感じ、冒険を感じ、幻想を感じた。生活全てに輝きがあって、正に究極的な享楽であった。娯楽は小道具になっても目的にはなりえなかった。 美里の人生にも彩りを添えてやりたいと願った。コンサートのなかに語らいを加え、触れ合いを加えて、互いに存在感を感じ合いたい。美里が隠し持つ魅力を全て引き出してやりたい。心の支えになっていつも寛がせてやりたい。生活にドラマを演出してロマンスを感じさせてやりたい。そして、美里のために全てを捧げたいと願った。 美里への思いは高まるばかりであったが、けっして激情とはならなかった。悲しいくらいに冷静だった。自分には何もしてやれないと分かっていたからである。好きだった。好きで、好きで、堪らなかった。好きなだけでは何もしてやれないのが痛いほど分かった。美里にとって、好きとの言葉には何の意味も持たないと思われた。美里の人生に彩りを添えるには好きではなく、結婚して欲しいと言う以外にないと感じていた。 結婚の保証は何もなかった。生活を伴った関係は、武司が今身を置く立場では絶対に成り立たなかった。一年後に保証することもできなかった。二年後、それとも三年後、いや何年先にも結婚を保証できるものが何もなかった。 二十歳の若気の至りが懸命にそそのかし、好きならいいではないかと言っていた。男女の仲は欲情を駆り立て合うのが自然な姿で、肉欲を許容するための儀式が恋愛であり、好きと言って欲情に準じても誰も咎めるはずがない。たとえ指一本触れずに、ただ誠心誠意尽くしたいと思っても、好きと言えば情交をも要求しているように思われた。好きとの言葉はその場限りの交わりを肯定しても、永続的な関係を裏付けるものは何もなかった。周りの目は真偽に関係なく、好き合った関係がのっぴきならぬ仲となり、興に任せて浮名に花を咲かせるに違いない。 美里の姉の冷たい視線を思い出していた。好きとの言葉に応じて全てを委ねた男の裏切りを想像していた。男を信じない気持ちが伝わってきた。美里の心には常に姉の恨みが重く伸しかかっているはずであった。美里は全てを委ねる相手をただ一人と決めているに違いなかった。それがたとえ儀式に過ぎなくとも、結婚の保証が絶対に必要であった。出会うのがあまりにも早すぎたと悔やまれた。好きと言ってこれ以上関わりを深めていくことは不可能だった。 「デュケンズの二都物語を読んだことがあるかな」 武司の問いに美里は怪訝な顔をしたが、頷いていた。 「シドニーカートンが、片思いに過ぎないのに愛する女性のために命を投げ出すというのが、いつまでも記憶に残っているんだ」 二人の視線が合ってそのまま暫く停止していた。互いの心が行き交って、何でも分かっていながらどうにもならないと感じていた。嘘が付ければいいと思った。嘘を言ってでも美里の心を奪ってしまいたいと思った。むしろ、奪われるのを望んでいるようにも思われた。それが一時のゲームに終わってしまったとしても、思うがまま愛し合えれば後悔しない気がした。感情を思いっきりさらけ出したいと思いながら、不器用に育った時代後れの純情は、互いにただ単なる同人の関係へ懸命に押しやっていた。 武司の心は何のこだわりもなくなって、美里の幸福を願うだけであった。美里の幸福に自分を結び付けることはなく、同人が果たせる役割を可能な限り勤めていきたいと思うだけであった。 「姉はいつもひたむきで、何も疑いを持たずに一心に尽くす人なんだ。僕は姉に大事にされて最高に幸福だった。姉をどこまでも信じていた。でもそれは姉弟だから成り立っていたのかもしれない。果たして他人が信じられるかというと分からない。信じたくとも信じさせてもらえないかもしれない。とても難しいと思うけど、でも、同じ人間なんだから、信じ合えると思いたいな」 武司は美里の心を覆う殻を、少しでも打ち砕いてやりたいと思いながら語った。素晴らしい人と出会って、信じられる人が出来るように祈った。 武司は美里との距離が限りなく離れていくのを意識すると、虚しさに襲われていた。街道での出会い、かまどでの交流、客間での語らい、柿の木のやりとり、美里の家で起こった一つ一つが蘇り、胸をこみ上げてくるものがあった。俯いていると涙がこぼれそうで天井に視線を移した。 黒ずんだ天井を走馬灯に見立て、諦め悪く何度も回想していると、全てが現実離れしていて、幻と考えるのが妥当に思えた。美里の家には本当に時間の亀裂があり、いつしか彷徨い込んで、願い通りに時間を捏造してきたように思えた。悪戯に罰があたり、全ての願いが打ち砕かれてしまったのかもしれない。 どっと疲れが出て妄想を抱きはじめた。恭子の幻影が脳裏に現れ、二人の関係を嫉妬しているようにも思えてきた。恭子は男女の情欲に走るのを認知しても、姉弟で培ってきた荘厳な愛情を、他人に向けるのを許さないような気がした。美里への思いは、一切打算のない愛情で、恭子に向けてきたものと寸分違わず、明らかに恭子のことを忘れがちであった。武司は、美里に求めていたものは恭子そのものだったように思えてきた。恭子と美里が重なり合って、自分の愛するものがみな離れていく姿を思い浮かべていた。 沈黙が主体の語らいは、時間だけが容赦なく過ぎ、青春色とは程遠いセピアの古めかしい色彩だった。少しも華やぐものがなく、ロマンスと呼ぶには寂し過ぎた。 帰りを意識して美里に視線を求めると、すぐに気持ちを感じ取って応じてくれた。美里の憂いある眼差しに、恭子を見出し、安全運転で帰ることを笑顔で頷いて伝えた。 両親にお礼と遅くなったお詫びを言って、母屋を出た。愛想良く送りだしてくれたが、美里の陰りのある表情に、憂慮する親の心情を微かに感じ取れた。 車に乗り込む前に、一人で食べるには多すぎる袋一杯の柿を渡され、言葉は出ずに頭を下げた。既に八時を回り、渋滞がまだ残る国道に出て、帰宅時間を十時と見込んで走りだした。先の長い道のりに時間を彷徨うだろうと予感し、先ずは恭子を思い浮かべた。
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