2、死の遊戯 昭和四十四年三月に入り、関東以西の太平洋側で季節はずれの大雪に見舞われ、東京都心でも三十センチの記録的な大雪となった。異常気象は暖冬としても現れ、十二月から二月までの月平均気温は、東京で今までの最高だった六・六度を上回る七・二度、最低気温が零度以下の冬日は平年の四分の一、十一日しかなく、観測史上最も暖かい冬となった。 大学紛争は、東大を皮切りに警察が混乱する大学に随時介入していった。三月に入ると京大が集中的取り締まられ、機動隊二千三百人を導入、火炎瓶の押収や、占拠学生の退去などが強行された。学生の反発は強まったが、警察の介入で建物の封鎖は解除され、授業再開のめどが立った学部も出てきて、正常化に向けて動きだしている。学生運動に加わる総数は少なくなっていったが、闘争に過激さが増し、火炎瓶などによる襲撃事件や、内部抗争などの傷害事件が増え、孤立したグループがゲリラ化していく様相が窺える。大学紛争の影響が高校にも現れ、高校の卒業式が各地で荒れて、投石事件やボイコット騒ぎが相次いだ。 アメリカではアポロ九号が月着陸船のテストに成功し、月着陸を目指すアポロ十一号の打ち上げ予定日が、七月十六日と発表されるなど、月旅行に関心が高まっていく。火星向け無人探測器マリーナ七号の打ち上げにも成功し、ソ連との宇宙合戦は、アメリカが一歩リードしたかたちとなった。 春場所では、大鵬の連勝が幾つまで伸ばせるか期待されたが、二日目、初顔合わせの戸田に破れ、四十五連勝でストップとなる。それでも、双葉山の六十九連勝に次ぐ歴代二位の記録として残った。アメリカ大リーグでは、ニューヨーク・ヤンキースのベーブ・ルース以来の長距離打者、ミッキー・マントルが引退する。洋画では、クラーク・ゲーブル、ビビアン・リーの「風と共に去りぬ」をはじめ、「ブーベの恋人」、「黄金の七人」と、話題作が次から次へと封切られる。スペインのギター奏者、ナルシソ・イエペスの「禁じられた遊び」が大ヒットし、ギターを持つ人が増えている。
真冬の暖冬に反して三月に入ると寒い日が続いたが、彼岸が過ぎて何とか春らしくなった。三月二十四日月曜日。伊豆旅行は晴天で始まり、恭子の狂気はすっかり失せて、母親らしい一面も覗かせながら恋人気分で旅立った。 熊谷を九時に出発。渋滞しがちな道路を地図で方向を確認しながら、ゲームをするような感覚で車を走らせた。国道十六号に出て、入間、横田、立川、八王子、相模原、厚木、平塚へと抜けた。狭い車内が、途絶えることのない華やいだ語らいで大きく広がり、思うように進まない道路事情も少しも苦にならなかった。 旅を楽しむよりも、二人に残された時間を惜しむように心を精一杯さらけ出し、秘められた恋愛ごっこの総仕上げにかかっていた。しらふではさすがに分別が先に立ち、淫らな振る舞いは影を潜めたが、恭子は今までに見せたことのない愛らしい表情をさり気なく繰り出してきた。深遠なる美しさに惑わされながら、心の持ちようで千変万化する表情を興味深く観察していた。 武司は危うかった慕情を振り返り、道を踏み外しかけた行きがかりを考察していた。 全幅の信頼で裏打ちされた姉弟の愛情と、男女の情欲とは紙一重に思えてくる。赤の他人の男女が、限られた時間で理解し合って愛情を深めていくのは非常に難しいが、長年に渡って培われてきた姉弟の愛情は、見返りを求めない純愛で、姉弟という枠を取り外してしまえば、最高のカップルが出来上がるはずである。 二人の関係は、孤島で暮らしてきたのと同じである。閉ざされた世界では姉弟である前に動物であり、異性であれば本能的に求め合ってもごく自然な成り行きではないのか。自分は目新しい世界への憧れが高まり、二人だけの閉鎖的な生活に微かなうずきを感じはじめていた。姉は閉ざされた生活を一途に守りつづけ、自分以外の人間に見向きもしない人生だった。ただひたすら自分に愛情を注ぎ、二人の関係を姉弟と既定することが出来ず、親子になり、恋人同士になり、夫婦の感覚になっても仕方がない。 姉と男女の関係で一緒に居られれば、どんな相手よりも幸福になれると確信している。だが、未知なる人間との交わりにも抑えがたい欲求が駆けめぐり、異性に少なからず興味を引かれている。果たして幸福になれるか分からないが、結ばれていく過程においてどんなやり取りがあり、どんな表情を見出せるか考えるとわくわくしてきて、閉鎖的な生活から飛び出してみたくなる。 自分のために形作られた姉の単調な人生を考えると責任を感じ、何とか償ってやらねばと思うが、自らの人生を同列に置くことに少なからず迷いがあり、姉の狂乱に応じて欲情を駆り立てることは出来なかった。姉は自分にとって女神であり、脳裏に肉体をさらけ出すことは絶対に許されはずがなく、姉の幸福をただひたすら祈るしかなかった。 武司は車の狭い空間に様々なドラマを演出しようとしていた。運転に気を取られながらも、恭子の温もりに応じて胸を時めかせ、限りなく恋人同士になって、女神の情事を盛り上げていた。盛り上がり過ぎて甘美な薫りに酔い痴れ、手元が危うくなることもあり、死線を彷徨えるドライブとなった。 海岸線に出て、海に幾分気持ちを奪われたが、雰囲気がさらに盛り上がり、格段と相愛の仲になって、悦楽がこんこんと沸き上がってきた。景色はただ単に舞台の背景に過ぎず、旅の主役にはなれなかった。洒落たレストランも、豪華な食事も、ロマンスの些細な小道具で、二人で居られるなら特別にあつらえる必要がなかった。 一泊目は熱海に宿を取り、三時過ぎに着くと車を置いて街に繰り出した。恋人同士のつもりで散策しようと思っても、どうしても人目を憚って腕を組めずにいた。武司は歳の差を気にすることはないと思ったが、恭子は人前に出ると可憐さを押し隠し、お姉さんらしい顔となって、恋愛ごっこを他人に見せることはなかった。 春にはまだ早い、冷たい風が吹きつける海岸に出ると人影は疎らで、コートで包み込むように身体を寄せ合い、誰が見ても恋人同士になっていた。 旅行の計画段階では、伊豆にちなんだ文学散歩を意識していたが、姉弟の関係から恋人同士へと設定が変わってしまうと、現実にロマンスを描き上げ、小説の世界は全く意味を成さなくなっていた。 金色夜叉も全く話題にならず、お宮の松を通りすぎて二人の世界に酔い痴れていた。言葉は途絶えがちであったが、視線を合わせると過去が蘇り、姉弟から男女の交わりに置き換えられ、夢うつつで味わっていた。ゆったりと時間がながれ、気持ちが一体となって掛け替えのない幸福感に包まれた。 宿に戻り、何もかもが新婚夫婦に成りきっていたが、寝るときは暴走を恐れ、お互いに背中を向けて眠りに着いた。 二日目も晴れて一段と暖かくなった。熱海から下田に向けて海岸線をゆっくりと南下し、景色よりも二人きりの語らいの場を求めるように車を走らせた。 伊豆には著名な芸術家の足跡が多く残されており、恭子は多くの情報を仕入れ、行く前から芸術探訪を空想して楽しんでいた。特に川端康成の「伊豆の踊り子」の足跡を辿りたいとの思いが強かった。川端康成を愛読するというより、映画で見た吉永小百合の清純さに憧れ、伊豆の踊り子の舞台となった場所を見つけ歩くつもりだった。案内書も取り揃えてあったが旅の目的はすっかり失せ、地図だけが道案内となり、ひたすら海岸線の道路を辿った。 賑わいを逃れるように、川奈、城ヶ崎、今井浜、爪木崎と、閑散な海岸で、二人の残された時間を惜しむように身体を寄せ合い、視線は海よりも互いの心に向けられ、現在過去未来と、一つ一つを確認するように見つめ合いを繰り返していた。 恭子の眼差しは、心の揺れ動きに呼応して姉になり、母になって、必ずしも恋人になりきっているわけではなかった。先々を憂えているのがありありとして、何度となく涙を滲ませていた。 恭子の結婚に伴い、今までどおりに触れ合うことが出来ないとしても、姉弟という関係が変わるわけではなく、必要があればいつでも会えるはずであった。武司は極力接触を絶って自立するとの気持ちが強いが、互いに窮地に立てば、どんな禁戒を破ってでも復縁するに違いないと思っていた。 永久の別れでなければ、互いに行く末を心配し合っても、生死を危惧するような憂いはないはずである。恭子の表情には、永続的な別離が包含されているように思われてならなかった。恋人としての表情も、次第に恋愛ごっこの域を越しはじめ、けっして淫らな姿を見せなかったが、心の奥底に可憐な女が入り込んできて、過ちを促されているような感覚に陥っていた。 武司は今作り上げている幻が、現実に融和してしまうことに言い知れぬ不可解さを感じていた。演じているつもりが、全てが真実となって、心より恭子を愛し、このうえない幸福を感じていた。果たして今以上の恋愛が出来るのか疑問になってきて、恭子と離れた人生を考えると、空虚な筋書きしか思い浮かばなかった。 恭子は催眠状態になくとも一貫して男と女の関係に成りきろうとしていた。幻を現実として受け入れ、運命を全て委ねてきているようだった。危険をすっかり回避できたと信じていた秘め事が、今までにも増して耽美な世界となり、悪魔に容赦せずに惑わされていた。我に返ると理不尽な落とし穴が待ち受けるのを予感し、不安が募った。 何度となく姉弟という現実を思い返していたが、恭子のうっとりとした眼差しを感じると、不甲斐なく蕩けさせられていた。恭子の眼光に狂気は見いだせず、理屈も用が成さなくなり、暴走の歯止めになるものが何もなかった。 恭子のお守りが苦痛となり、 「もう耐えられないよ」 と言って、涙を浮かべ、罪作りな遊戯に応じなかった。 恭子は異変に気付くと、すぐに母親らしい表情を取り戻し、 「ごめんなさい」 と言って、幼児をあやすように武司の顔を胸に包み込み、 「甘えすぎてしまったのね」 と言って、涙を流した。 車を走らせても暫くは沈黙が続き、貴重な時間が無為に過ぎていった。武司は恭子を思うと、沈黙に刃物のような鋭さを感じ、心の痛みに堪えかねて車を止めていた。 「結婚して死んでしまいたい」 との武司の申し出に、恭子は下俯いてすぐに応えてこなかった。 やがて、意を決するように顔を上げ、両肩に手を当てると、女神を思わせる慈愛に満ちた眼差しで、諭すように話しだした。 「武司は絶対に死んでは駄目よ」 恭子の言葉の意を解しかねていると、 「武司には思い存分人生を楽しんでもらいたいの。死ぬのは私一人だけよ」 と言って、真意を明らかにした。 武司は首を振りながら、 「そんなの絶対に認めない」 と、強い口調で言い、 「姉さんが死んで人生を楽しめるはずがないだろ」 と、責めたてた。 「僕は姉さんの身体に指一本触れないからね」 と言って、自身にも言い聞かせていた。 「姉さんが死んでしまったら生きている意味がなくなってしまうよ。死ぬなら一緒だからね」 恭子は、武司の高らかな宣言にたじろいで視線を逸らし、行き場を失った表情で次の言葉を捜し求めていた。 「思い出とともに死んでしまいたいの」 と、力なく言い、 「武司と別々の生活はどうしても考えられない」 と、恭子らしい一途な思いを涙ながらに訴えてきた。 らちのあかない話し合いを切り上げて、沈黙しがちなドライブを始めた。解決策が見出せなかったが、お互いの深い愛情を確かめ合ったメロドラマが出来上がり、今までの華やいだドライブにも劣らぬ心地よさを感じた。貴重な時間を無為に過ごさずに済み、気が重くなることはなかった。 恭子の頑な姿勢を何としても崩さねばと、そればかり考えながら車を走らせた。恭子の視線を感じても、無視を決めて一切脇目を振らずにいたが、知らず知らずのうちに笑みがこぼれ、恭子もくすくすと笑って恋人同士に戻っていた。 二日目は下田に宿を取り、まだ三時を少し回っただけだったが、宿に着くと部屋に籠もって窓から海を眺めていた。 恭子は部屋で寛ぐと、一切の迷いが失せたようにすっかり落ちつきはらっていた。武司は恭子の表情から、これから先の筋立てをすっかり決めていることを察し、危険なシナリオには絶対に応じないと、自分に言い聞かせていた。 呪文を唱えるように、 「自分勝手は許さないよ」 と何度も口ずさんだが、恭子は無視するように全く表情を変えず、海と交互に視線を向けるだけだった。 予感は的中し、夜も更けて、恭子が湯上がり姿を見せると、武司を誘い込むように夜具に横たわり、 「お願い」 と、哀願するように言って、身体を開こうとした。 すぐに恭子の両手を取って自由を奪い、 「死ぬなんて許さないよ」 と言って、死を演出するアバンチュールを弾劾し、決意を込めて凝視した。 恭子は視線を逸らし、 「お願い」 と、再び言って涙を流した。 武司は恭子の死の選択を完全に否定できずにいた。生き長らえてどんな人生が待ち受けているのか考えると、今感じ取っている、極致に到った幸福を再び作りだすのは困難に思われた。今ここで壮麗な愛情を重ね合わせ、夫婦になって絶頂感を道ずれに死ねれば、究極の人生になると思った。 恭子の心に際限なく同調し、望みを叶えるべく手を放しかけたが、恭子の美しい横顔が女神となって心を神々しく覆い尽くし、女神を死なすわけにはいかないと、叫びたくなるような衝動に駆られていた。 手を放し、恭子の胸に顔を埋めて、 「僕にも死ねと言っているのと同じことなんだよ」 と、切々と訴えた。 恭子は武司を強く抱きしめて、 「武司は死んでは駄目よ」 と、情感の籠もった声音で応えてきた。 「姉さんと離れていても心は一緒だよ。別々の人生を歩んでも、二人の気持ちは少しも変わらないはずだ。むしろ、遠く離れていたほうが純真な気持ちを壊さずに、いつまでも素晴らしい思い出を心に刻んでおけるんだから」 と、祈りにも似た思いで囁いた。 長い沈黙が訪れて、恭子の初な心が賄ってきた、究極のままごと遊びを互いに思い浮かべていた。 武司は恭子のしようとしていることが、駄々っ子の火遊びとしか思えなくなっていた。死によってもたらされるものは何もなく、二度と作りえない、汚れなき思い出も、二人にしか育めない、純な思いやりも、何もかも消失してしまうと言いたかった。 恭子は思い出に酔っているのに気付き、我に返って、死んだら思い出がどこにいってしまうのだろうと、限りなくあどけない感情で考えていた。珠玉の思い出を、たった一度の火遊びで焼失させるのが忍びなくなり、いつまでも心に残しておきたいとの思いが強まっていた。 「死んでしまったら二人の思い出も消えてしまうのね」 武司は呟きを聞き、恭子の思い込みに陰りが生じはじめたとすぐに分かった。恭子が思い描いた終焉は、無邪気な心が作り上げたままごと遊びの延長に過ぎず、現実であろうはずがないと、自分に言い聞かせ、手の焼ける純な心に呆れていた。 恭子の無邪気さを大人ぶって分析する一方で、窮地を脱した安心感から、庇護者となって閉じ込められていた欲望が無節操に押し出されてきた。二十歳のまだ定まらぬ分別は餓狼に一気に豹変し、若気に煽られて恭子と立場が逆転していた。 恭子の純真さが益々好きになって離れられなくなっていた。恭子がどんな人生を歩んでいくのか考えると心配でいられなくなり、いつまでもままごとを続け、自分が守っていてやりたいとの激情が、男の欲望と重なりあって、こんこんと溢れ出してきた。 恭子の胸で心地よい安心感を味わっていたが、浴衣を通して微かに伝わってくる胸の膨らみを無視できなくなっていた。身体が燃えるように熱くなって、鼓動の高まりを抑えることが出来ず、卑猥な妄想が脳裏にぼんやりと映し出されていた。 「もう死ぬなんて言わないから、武司の思いどおりにしていいのよ」 恭子は全てを察して優しく囁いた。 武司は囁きに、落雷を受けたようにびくっとなって身体を放していた。一瞬たりとも恭子の裸身を想像したことに、息が詰まるほどの罪悪感にさいなまれ、逃げ場を求めてうろたえていた。 隣の夜具に何とかもぐり込み、妄想を振り払おうと目を強く瞑った。 恭子は布団を剥がし、顔を覗き込んで、 「いじけてしまったの」 と、幼児をあやすように頬を優しく撫でてきた。 「とっても可愛い」 と囁いて、布団に一緒に入り、赤子を寝かしつけるように胸に包み込んだ。 武司が目を覚ますと、恭子の顔が触れるほどに間近にあった。前夜のことを思い出そうとしたが、寝かしつけられたところまでは微かに残っていたが、悪魔に魂を売ってしまったかのように、自分ではない自分が存在し、夢と現実との区別が付かなくなっていた。 夢のなかで、母が死んで間もない夢うつつの出来事が蘇っていた。 母の死は姿となって悲しませなかったが、一人寝の寂しさとなって涙を溢れさせた。物心付かぬころから、恭子の添い寝で味わった安心感が、夢の中に母の乳房となって何度も現れていた。だが、母の死を知ると乳房はぼやけ、安心感が味わえなくなっていた。無性に悲しくなって布団で泣いていると、恭子が添い寝をしてきて、小さな胸を開き、乳房をしゃぶらせてくれた。鼓動を感じさせる心地よいリズムで背中を叩かれ、子守歌を聞きながら、出るはずがない乳を夢中で吸っていた。いつしか悲しみが和らぎ、不足のない安心感に包まれて夢路を辿った。目を覚ますと恭子の顔が間近にあり、添い寝をしてくれたのをすぐに思い出したが、胸にしゃぶり付いたことは、夢かうつつか定かでなかった。赤ん坊のすることだと、六才の面目もあって思い出すまいとしたが、蕩けるような快感が蘇り、乳房を吸う姿が鮮明に浮かび上がってきた。恭子が目覚めて視線を向けられると、赤ちゃんと言われそうで顔が熱くなり、視線と気持ちが逃げだしていた。恭子は心地よい薫りを漂わせ、赤ちゃんと言わずに、髪を撫でながら可愛いと言い、もう少し寝ていなさいと言って胸に包まれていた。恭子に本当のことを聞けず、真実を知らぬままに忘れ去ろうとしたが、母に代わって恭子の胸が夢に現れるようになった。心の奥底に懸命に封印しようとしたが、どうしても忘れることが出来ず、面目と快感がいつまでも交錯していた。 この頃は思い出すことがなかったが、今朝目覚めると、昨日のことのように鮮やかに蘇っていた。 「姉さん」 と囁くと、恭子はうまいからゆっくりと目覚め、うっとりとした視線を向けてきた。回りの気配を窺い、 「まだ早いわ」 と言って、腕を絡ませてきて、武司の顔を胸に包み込もうとした。 腕を振りほどき、 「覚えていないんだけど」 と囁いて、不安そうな顔をすると、 「あやまちはおかさなかったからだいじょうぶよ」 と、楽しそうに応えてきた。 恭子の言葉は、姦淫を否定してきたのは確かだったが、大丈夫のなかには、夢うつつの出来事を、母と子の当然の成り行きとして限りなく肯定しているように思えた。真実を知るのを恐れ、武司にはこれ以上問いただせなかった。 武司の思い出のなかには絶対にあり得ない物語が数多くあった。いつも恭子の手に掴まり、一度も行ったことがないジャングルや、山、川、海、そして地中や宇宙など、何度となく大冒険をしてきたことになっていた。 現実には、恭子の裁量で可能な行動範囲はごく限られており、本が唯一、二人だけの閉ざされた空間を広げていった。恭子は時間があると本を読んでくれて、現実のことのように二人の物語に発展させ、空想を楽しんでいた。武司の幼心では、現実と空想との区別が付かなかった。 年齢とともに空想の世界は一人歩きしだしたが、常に恭子も連れ立って、一時も離れ離れになることがなかった。恭子がままごと遊びに夢中になっていたのと同様、武司は空想に夢中になって、二人で耽美な世界にいつまでも陶酔し、現実に生きていることを忘れていた。 夢か幻か、恭子との満たされた時間が途絶えることがなかった。二人ともいつまで立っても大人になれないで、絶対に現実であるはずがない幻を捨てきれずにいた。武司は、幻に取りつかれているうちは出口が見つかるはずがないと、自分に言い聞かせていた。 布団から抜け出すと窓際の椅子に腰を下ろし、まだ薄暗い海を眺めながら恭子のあどけなさを思い浮かべ、腹が立つほどに愛しくなっていた。 次から次へと恭子と離れられない言い訳を並べ立て、現実が遥か彼方に遠のこうとしていた。すぐに諦めの悪さに気付き、姉さんは無邪気であってもけっして愚鈍ではないと心で叫び、現実を直視した。 恭子はうら若き乙女として可能な最善の人生を築き、賢明な判断を下してきた。幼女のように純真でいられたのは、暗愚のためではなく、限られた選択肢のなかでは、無闇に大人になる必要がなかった。新たな人生に踏み出して、大人としての分別が必要となればいくらでも大人になり、最善の判断が出来るはずである。 武司は、自分がいなくとも恭子は幸せな人生をいくらでも築いてけると、虚しさを感じながら認めていた。 恭子が起きだしてきて、何のためらいもなく膝に乗り、頬ずりをしてきた。恭子の眼差しから無邪気さは消え、愛児をいとおしむ母親になり、愛情のかぎりを尽くそうとしているようだった。 「今日一日だけなのね」 恭子の雰囲気から揺るぎない大人を感じ、ままごとから既に抜け出して、思い出とともに生きていくとの決心を感じ取った。 死は全く意味を失い、生への貪欲さが余計に大人臭さを感じさせた。それはどんなに淫らな姿になっても、初な心を失わなかった幻の女と違って、現実の女としての欲望が表情に微かに感じられた。 恭子の微妙な変化に、生きる術であった女神と別人を感じ、空想の世界が思い出となって氷結していくのを意識していた。武司も現実の男となって、恭子が姉であることをしっかりと見据えていた。それは親子と違って、恭子が結婚とともに、心身共に一切触れることの出来ない他人になることを意味し、残るのは思い出だけだと、切なくなりながら悟っていた。 恭子が既に状況を理解し、残された時間を貪欲に触れ合おうとしているのが分かった。二人で成しえることは全て受け入れようとしており、禁断の交わりも思い出として心に刻もうとしているように思われた。恭子の賢明さを知り尽くしているだけに、仁義無き溺愛ぶりに恐さを感じ、母性に潜む計り知れない情念に、魔物を意識しないわけにはいかなかった。 二十六日水曜日。三日目も晴れて暖かくなり、心地よい風が車内に入ってきた。伊豆の踊り子は既に恭子の意識からすっかり消え、山間に進むことを促したが、首を横に振って海を選んだ。海岸線のドライブは石廊崎へと向かい、恭子の希望で散策に時間を費やすことになった。 平日だというのに観光客が多く、恭子は人目を憚って離れて歩こうとした。武司は恭子の分別に逆らい、わざと身体を寄り添わせ、何度となく心を読み取るように顔を覗き込んだ。 石廊崎は恭子が選んでいた終焉の地と想像され、武司は足を踏み入れると言い知れぬ鬱憤が沸き上がっていた。死の選択が自分を独りぼっちにさせることだと思うと、無性に腹立たしかった。恭子にとって自分が一番であるはずなのに、他愛ない美学が優先されたことを、赤子のように泣いて責めたかった。二度と同じ過ちを繰り返さないと分かっていながら、罪を暴き立てたくなっていた。 奥石廊崎へ出て見晴らしのよい断崖に立ち、海を望んだ。南国を感じさせる薫風に髪をなびかせながら、荒々しい断崖と青く澄んだ海を展望していた。武司は悪戯心で断崖を覗き込むように前に出ると、恭子は反射的に手を強く握り締め、恐怖心を露にして、声の代わりに首を何度も横に振って制止してきた。手を引いて後ずさりし、人目も憚らずに身体をもたれかけ、死の遊戯で高まった鼓動を懸命に静めようとしていた。 「ごめんね」 と言い、悔やんでいることを、声音以上に表情で表していた。 恭子は武司の気持ちを全て感じ取って、仕打ちに異を唱えなかった。 「私をひとりぼっちにさせないで」 と、祈りに似た囁きで、ほんの瞬時であったが、二人に生じた溝を懸命に埋めようとしていた。 恭子も死が限りなく罪深いものと感じ、禁じられた遊びを心に刻み込むべく、敢えて死地と選んだ場所を見ておこうとしているようだった。表情は一層曇り、老成した雰囲気を感じさせ、いつまでも沈黙していた。少女の心を全て洗い流そうとしているのか、中々動こうとはしなかった。 武司はやつれきった恭子の姿を見ると、哀れで堪らなく抱きしめたくなっていたが、人目を無視できずに手を強く握るだけだった。握り返してきた手の温もりから、自分の気持ちが全て伝わったと感じた。 武司は恭子との満たされた日々を思い浮かべ、二十年間も最高の女性と一緒に居られただけでも幸運だと思った。姉弟だからこそ掛け替えのない不変な関係が維持され、肉欲に踊らされず、利害の絡まない、思いやる心だけで成り立った、完璧なロマンスを享楽できたと考えていた。 男女の肉欲が絡んだ関係がどんなものか分かるはずがなかったが、他人であるがためにいくらでも変更が可能な関係にあり、一人の異性を思いつづけるのは困難極まりないと思った。成り行きで心変わりをしていくのは当然で、結婚の難しさと恐さを意識しないわけにはいかなかった。 幻と現実との開きを考えると、恭子の幸福を保証するものが何もなく、堪らなく気掛かりだったが、逆に何が起こるか分からない面白味に、恭子の幸運を賭けてみたかった。良縁であることをただ祈るしかなかった。 石廊崎を出て海岸線を北上していった。車のなかでの賑わいはすっかり影を潜め、恭子の触れられた手の温もりから涙を誘う快感が伝わり、頬を伝わって何度もこぼれ落ちた。恭子も涙を滲ませていたが拭こうとせずに、武司の頬を手で拭っていた。 顔を合わせる毎に恭子が大人になっていくようで、年の差以上に母親らしく感じられた。どんなに寄り添っても恋人気分とはなれず、二人の根底にあった親子としての情感が何の不足も感じさせなかった。 土肥からさらに海岸線を北上、大瀬崎に出て富士山を眺望する。天気はよく、富士が鮮明に映し出され、ゆったりした気分になって将来への不安を和らげてくれる。富士を見ながら海岸線を東へとゆっくりと進んでいった。 時間は無情に過ぎて、最後の夜を修善寺で向かえた。時間を惜しんで語り合おうと思うが、お互いに思いを伝える言葉が見つからず、じっと見つめ合うばかりだった。 十時を回って別々の夜具で横になると、恭子が思い出したようにゆっくりと話しだした。 「母さんが亡くなる少し前に、子供を宿している夢を見たの。お腹が動いているようで不思議な気持ちになったことが何度もあったわ。子供が生まれる夢を見て、生まれる瞬間に目が覚めていたの。ちょうど武司を抱いて寝ている時で、自分の子供と信じようとしていた。夢と現実の区別が付かなくなることが何度もあったわ」 恭子は身体を向けて視線を要求してきた。武司も関心を示し、身を乗り出していた。 「母さんは命が尽きるのを察して、私に乗り移ってきたのかもしれないわね。武司を抱けないのが何よりも辛そうで、母さんの気持ちが伝わったらしく、武司を抱いていると、とても幸せな気持ちになれたわ」 恭子は涙を吹いてから話を続けた。 「母さんが亡くなってすぐのこと、武司が布団で泣いているのを見ると、何のためらいもなくお乳をしゃぶらせて添い寝をしていたのよ」 と、武司が忘れようとしても忘れられなかった思い出が語られ、顔が熱くなってくるのを感じながら、目の置き所に窮していた。 「でも、それも夢だったのかもしれないわね」 恭子はいくらか悪戯っぽい目をして、 「小学生ではまだ小さな乳房で、お乳が出るはずがないのに、武司は本当に満足そうにお乳を吸っていたのよ」 と言って、笑った。 恭子の話から、十四年も面目と快感とが交錯し、悩まされつづけてきた幻覚の正体が説き明かされていた。昨夜の出来事として微かに残る夢うつつの真偽も聞き出そうと思ったが、どちらにしても面目が保たれそうにないので敢えて聞かなかった。 語らいが終わって寝ることになったが、恭子が堪えきれずに寄り添ってきて、全ての思い出を一体化して夢路を辿っていた。
旅から帰ると恭子は結婚式の準備に余念がなく、二人の秘め事は原型を全く止めなかった。武司は恭子の変わり様が堪らなく妬けたが、恭子らしい厳格な生活が茫洋と続く姿を想像し、肩の荷が下りる思いだった。一方で他人の関係が忍び寄るのを感じ、恭子に触れるのが憚れ、乳房を求める赤子のように温もりが恋しかった。 恭子は気持ちを察するように、どんなに忙しそうにしていても日に一度は必ず頬ずりをしてきた。艶やかな肌の温もりを感ずれば感ずるほど、恭子を失う狂おしさが募り、光陰矢の如し、結婚の日が迫ってきた。 四月十三日日曜日。晴れて暖かな天気となった。武司は着飾った恭子の姿を見るのが辛く、下俯きがちだった。恭子のほうは、前夜の涙が止まらなかったのが嘘のように、母の顔を覆い隠し、一切の迷いを超越して、毅然とした花嫁に生まれ変わっていた。恭子の視線を受けると未練がましさが恥ずかしくなり、気持ちを引き締めざるをえなかった。 披露宴は、花嫁側の事情を気づかい、花婿側も人数を絞ってひっそりと行われた。武司は寂しさを拭うことは出来なかったが、餞の席を濁すまいとの思いで子供心を押し隠し、不慣れな手つきで酒をついでまわり、宴を盛り上げようと意識していた。 恭子が視線を向けてこないのは察しが付いて、武司も顔を見様としなかった。晴れがましい姿に潜む、生きる支えとなる思い出に心を同調するだけで、花嫁姿を思い出として残すことはなかった。 武司がロビーの片隅で、窓越しに時を告げる夕闇を見つめながら一人座っていると、恭子が披露宴を拭いきった姿でやって来た。今日失ってきた二人の時間を取り戻すように、最後となるであろう愛情のかぎりを尽くした眼差しを向けてきた。それは鼓動を五つほど数えた僅かな時間で、見せるはずがなかった涙が、永久の愛情となって互いに一滴こぼれ落ちた。 結局は何も語らず、恭子は武司の頬に触れて涙を拭い、嫁としての義務を感じさせる顔となり、逃げ去るようにして新婚旅行の旅立ちに向かった。
四月に入っても、関東、甲信越地方に季節はずれの雪が降り、碓氷峠、軽井沢、日光、河口湖などでは三十センチ以上の大雪となる。春闘統一ストでは、鉄道関係を中心に三百万人が参加、雪と絡んで交通機関が麻痺し、通勤客に大きな影響を及ぼした。 沖縄返還に向けた取り組みが労組、学生を中心に高まり、二十八日、東京・代々木公園で「沖縄デー」が開かれた。社会党と共産党が統一して行った初の中央集会で、十四万九千人が参加して大変な盛り上がりを見せた。一方で、集会の参加を拒否された一部過激派学生が銀座に集まり、高校生を含め、二千人がデモや交番への投石、放火を繰り返し、機動隊との衝突で銀座、有楽町一帯が騒然となって、交通機関も深夜まで混乱した。 大学では入学式シーズンとなり、過激派学生の入学式妨害が相次ぎ、岡山大学では機動隊が出動、学生の投石で巡査が死亡、山梨大学、京大で放火騒ぎなどもあって緊迫した状況となる。横浜市内の中高校の女性徒百十二人が集団万引きで補導されるという事件も起きた。一〇八号連続射殺事件は十九歳の男が逮捕され、百七十五日目で解決する。 チェコスロバキアでは、ソ連のプラハ侵攻により、自由化の旗頭、ドプチェク第一書記が辞任に追い込まれ、自由化が一気に遠のく。厚木基地から発進したアメリカ偵察機が北朝鮮に撃墜され、三十一人が行方不明となる。 高校野球、春の選抜大会では、三重高校が堀越高校を破って優勝。プロ野球が開幕し、セリーグは川上巨人の五年連続優勝、パリーグは西本阪急の三年連続優勝となるか話題になっている。セリーグでは巨人王の七年連続ホームラン王や、巨人長島の首位打者、巨人金田の四百勝、投手では阪神江夏、巨人高橋一、堀内、広島外木場、新人では阪神田淵、広島山本浩が注目される。パリーグではホームラン王争いに阪急長池、東映大杉、南海野村、首位打者争いでは東映張本、南海土井、榎本、広瀬、投手では阪急米田、南海皆川、近鉄鈴木に注目が集まり、東京オリンピック百メートル代表のロッテ飯島の走塁も関心が集まる。世界卓球選手権の混合ダブルスで、長谷川、今野ペアーが優勝した。日本はこの種目で七連勝を果たし、女子は小和田が優勝、他の種目でも二位以内の好成績を残す。 映画では、田中邦衛、山本圭、佐藤オリエらの「若者がゆく」が話題となり、洋画では、バーブラ・ストライサンドの「ファニーガール」、アラン・ドロン、ロミー・シュナイダーの「太陽が知っている」などが封切られ、カルメン・マキの「時には母のないこのように」、由紀さおりの「夜明けのスキャット」がヒットしている。
まどろみのなかに、優しく語りかける姉の恭子が出てきて、言葉が聞き取れないのに無性に満たされた語らいが続いていた。 武司はいつしか居眠りが始まり、六時を告げる時計の音に起こされて、つい恭子の存在を感じ取ろうと耳を澄ましていた。 恭子が嫁いで二週間が過ぎ、五月の連休に入ろうとしていたが、未だに傍にいるような気がしてならなかった。心に大きな空洞が出来、満たされない日々が続いていた。夢に出てくるのは恭子ばかりで、いつまでも幻影に取りつかれていた。 今日は恭子がアパートにやって来て部屋を片付け、食料を買い足してあった。武司は恭子の足跡に気付くと、知らず知らずのうちに恭子を見いだそうと薫りを嗅いだが、快感は全く蘇らず、虚しさばかりが募って現実から逃げるように横になっていた。 顔を合わせると互いに引き合って元に戻ってしまうのを恐れ、会うのを避けるようにしていた。恭子が心配でいられなくなり、自分が居ないのを見計らい、様子を見にきたのだろうと察した。 空腹を感じ、恭子が買い足しておいてくれた食料に手を付けて、夕食の準備を始めようと思ったが、すぐに気が変わって冷蔵庫を閉めていた。再び居間に戻って横になり、何もかもが嫌になっていた。 かつては好んで台所に入り、恭子と並んで料理を作るのを楽しんできた。恭子の帰宅が遅いときは武司が夕飯の仕度をしたこともあり、少しも苦にしなかったのが、恭子が結婚すると堪らなく苦痛になっていた。自分のしてきたことは、恭子の存在があって初めて意味があったのだと改めて感じていた。今は何をするにしても虚しさが付きまとい、何もしたくなかった。自分が駄目になっていく気がして、恭子に顔向けできないと思った。 恭子を失った痛手の大きさを感じながら、自分の人生をいかに作り上げていくか少しずつ考えるようにしていた。恭子から抜け出すためには、代わりとなる人を見つけるのが一番だと言い聞かせていた。 恭子が取り込んでおいてくれた郵便物に目をやると、高校のときの友人から来た封筒があった。開封するのも億劫で再び横になろうとしたが、恭子の怖い顔が浮かんできて横になるのを諦め、郵便を開封した。 高校のときの仲間が集まり、同人雑誌を作るから参加しないかとの内容だった。書くことの好きな人間が、何となく集まって出来た男ばかりの六人のグループで、武司だけが浪人で、他は別々の大学に進み、最近は会う機会がなかった。 武司は子供のころから書くのが好きで、感じることがあると何でも文章にし、日記などに書き綴ってきた。書いたものを恭子に読んでもらい、批評され、語り合って楽しんでいた。しかし、恭子との別離を意識しはじめたころから自分の気持ちを知られるのを恐れ、書くのを避けるようになっていた。 手紙に促されたわけではないが、今の心境を書き綴ることが、新たな人生へのステップになるような気がしていた。同時に、書くことに意欲が湧いてきて、恭子との人生を書き残したいとも考えていた。 台所に入って夕飯の仕度をしていると、恭子から電話がかかってきた。 「武司」 と言ったきりで、暫く言葉が途絶えた。アパートの乱れた様子を見て、心配でいられずに電話をしてきたのだとすぐに分かった。 武司も、 「姉さん」 と、何とか応えたが、それ以上言葉が発せられなかった。 「ちゃんと食事をしているの」 との恭子の涙声に、武司も涙が出そうになったが、 「僕のことなら心配いらない。姉さんの声を聞くと辛くなるから、気持ちが整理できるまで一切接触を絶とうよ」 と、厳しく言った。 「それは無理よ」 哀願するような声にも何とか耐え、 「僕が一人前になったら姉さんに会いにいくから、それまで待っていてよ。浩一さんを大事にしなければ駄目だよ。僕は姉さんが幸福になることを一番願ってるんだからね」 と言って、恭子のためにも精一杯生きていかねばと思った。 恭子が応えずにいるので、 「電話を切るよ」 と言うと、 「頑張ってね」 と、切なそうに言って、恭子のほうから電話を切った。 |