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40字×40字×32枚2000年3月完成

 黒川は四階にある職場まで階段で上る習慣が付いていた。意識的に一日に四回、上り下りするようにしていた。

 転勤に伴い、通勤時間が多く掛かるようになって、夕方にジョギングをするのが難しくなり、トレーニング代わりに階段を利用していた。勤務中に公然とできるトレーニングで、時間の不足を感じている黒川にとっては一石二鳥だった。

 黒川は今年で五十歳となり、老化を気にしないわけにはいかなかった。健康維持には人一倍気を使い、規則的に運動をするように心掛けていた。少々無理をしている嫌いがあり、この頃は仕事の方も非常に忙しくなって、大分疲れを感じていた。

 仕事が忙しいといっても仕事人間のつもりはなく、出世を考えたことは全くといってなかった。仕事は決められた時間を無難に過ごせばそれでいいとの考えで、仕事よりも自らの人生を重視しており、勤務時間が終わればすぐに帰宅したいと思っていた。

 しかし、黒川にはいかんともし難い内部矛盾があった。会社に対して割り切りは何の躊躇いも無くできたが、仕事は嫌いではなく、むしろ楽しんでおり、特に人間関係は非常に良好で、時として人間関係が大きな拘束となっていた。

 黒川の職場は、厳しい景気状況にあっても新人が毎年増えて、若手との交流を大いに楽しんでいた。誰に言われたわけでもなく、自ら進んで若手の指導を買って出て、頼られる存在になっていた。

 技術関係の職場に二十二年間携わってきたが、六年前に合理化に伴う配転で営業の職場に押し出されてきた。配転に抵抗を示す者もいたが、黒川は、今までの経験が生かせるとの考えで、自分に向いていると言い聞かせ、進んで営業にやってきた。

 想像したとおり、過去の技術経験が営業をする上で有効に作用し、新たな仕事にそれほど抵抗を感じないで馴染むことができた。他部門からやはり押し出されて営業にやってきた者より有利な面が多く、何年もしないうちに同僚から頼られる存在となっていた。

 階段を上るのがいつもと違って足取りが重く感じられ、疲れを意識しないわけにはいかなかった。それでもいつもの時間に階段を上りきって廊下へ出た。

 黒川は車で通勤しており、通勤時間は道路状況によって幾分異なるが、早めに家を出ているので遅刻することはなかった。むしろ駐車場に早めに着いて、読書をして時間調整しており、職場に到着する時間は九時五分前と至って正確だった。

 職場は廊下の突き当たりにあり、部屋はいつものようにドアが開け放され、廊下の幅だけ中が見渡せて、自分の机が見えてきた。いつもなら隣の席は空いているのが、今日は女性の姿が目に入ってきた。

 前々から、育児休職中の女子社員が休職明けで八月上旬に出てくることを聞かされていたが、すっかり忘れていた。

誰だろうと一瞬疑問に思ったが、すぐに思い出して、今日からだったのかと納得していた。

「おはようございます」

 と言って、壊れかけた鳩時計よりも正確に時を告げ、部屋へ入っていった。

 仕事は挨拶から始まるとの考えに同調し、職場全体に聞こえるような大きな声を出して挨拶をするのを日課としていた。

 自分の机に到着すると幾分声を和らげて、

「おはよう」

 と、隣の席に挨拶すると、彼女は慌てて席を立ち上がり、

 「おはようございます。今日からこちらでお世話になります坂崎友子です。よろしくお願いします」

 と、幾分ぎこちない語り口で挨拶し、頭を深々と下げた。

 彼女は少し緊張気味で、色白の顔が余計に白くなり、新しい職場に不安を隠せない様子だった。黒川には、友子の緊張した表情が新入社員以上に初々しく感じられ、友子さんかと名前を脳裏に刻み込み、好感を持って見ていた。

「黒川です」

 と、軽く頭を下げて席に付くと、友子も少し遅れて腰を下ろしたが、右足をかばうようにしていた。

 立ち上がるときには気付かなかったが、足を怪我していると分かり、袖机に立てかけられた松葉杖にも気付いた。

「足を怪我しているの」

 と問うと、

「膝を傷めて一年近くなるのにいまだに痛みが抜けないのです」

 と言って、悲しそうな顔をした。

 始業時間となってミーティングが始まり、全員が立ち上がった。友子も回りに習って慌てて立ち上がったが、足に痛みが走ると見えて急ぎ松葉杖を引き寄せ、身体の重みを傾けていた。

 課長が友子を紹介し、転入の経過が説明されて挨拶となり、友子は松葉杖で足をかばいながら前へ進み出た。

 友子の様子を間近に見ていて、黒川には足の痛みが酷いのがよく分かった。

友子は足の痛みを堪え、気持ちを奮い立たせて一切の苦渋を消し去り、いかにも新人らしい決意を瞳に輝かせ、挨拶を始めた。

 黒川はいつしか友子に釘付けとなり、仕種や言葉尻から必要以上に心を読み取ろうとしている自分に気付き、深入りするのを慌てて打ち消そうとしていた。

 友子のことをある程度聞かされて、事情を多少は理解していた。合理化に伴って他部門から営業に押し出され、一年前に配属となっていたが、育児に伴う休職で、今日が初めての出社だった。

 育児休職に伴う職場復帰の重圧と、新たな職場に対する不安や、足に障害を持つ不安など、友子の置かれた状況を推察するとつい痛ましくなって、何とか力になりたいと考えていた。特に、足にハンディを負って営業活動をしていくのは尋常ではなく、余計なお節介はすまいと気持ちを打ち消す先から、何をしてやれるのか気負って考えていた。

 ミーティングが終わって席に付くと、友子は膝を揉んでいた。

黒川は、緊張が緩んで再び痛みだしたのだろうと想像し、

「痛むの」

 と聞いていた。

友子は言葉を出さずに、

「大丈夫です」

と痛みを打ち消すような表情で返事をしてきたが、色白の顔が一層白くなって、痛みが酷いのだと分かった。

 痛みが落ちつくのを見計らって、

「大分酷い怪我だったんだね」

 と事情を聞いてみた。

「おいっこを遊ばせていて坂道でつまずいて倒れそうになり、足を踏ん張ったら膝を傷めてしまったのです」

 と答えてきた。

「普通の状態だったら怪我するような状況ではなかったのですが、妊娠中の切迫などで長期に渡ってほとんど歩かなかったので、足の筋肉が大分衰えていたみたいです」

 友子の説明から状況を想像していると、

「幾つかのお医者さんで見てもらったのですが、異常はないって言われて」

 と付け足してきた。

 幾つもの医者に通って様々な治療を受けたが、快復しないうちに一年となり、休職が明けるのに合わせ、効果は保証されなかったが手術を試みたという。手術はむしろ逆効果で、膝の痛みは酷くなって、もう治らないのではとの失意のうちに、松葉杖での出勤となったことを話してきた。

 黒川は、友子の心中を知れば知るほど、何とか力になりたいとの思いが強まる一方で、自分では律しきれないお節介心が頭をもたげ、友子の今後の進むべき道筋を勝手に模索していた。

「先は長いのだから、焦らずに気長にやるのだな」

 黒川は何の慰めにもならないと分かっていたが、くよくよするなよとの励ましを込めて言葉を投げかけた。それは又、できるだけ力になるとの意思表示をしたつもりだった。

言葉の調子が少し気楽すぎたように思え、気掛かりだったが、

「はい、ありがとうございます」

 との、友子の素直な返事に安心し、満足していた。

 黒川は自らの意思で経験の乏しい若手や転入者などを指導、支援してきた。営業マンであるからには常に売り上げを管理され、他人のことなどかまっている暇はなかったが、いつしか指導的立場に立っていた。それは暗黙のうちに職場で認知されるようになり、自分の仕事を犠牲にしてまで係わってきた。

 友子が隣の席に配置されたのは、友子を指導するとの、会社の意思が働いていることを知っていたが、会社の意思を受けて指導するつもりはなかった。指導するのが嫌というわけではなく、むしろ、友子を指導することにやり甲斐を感じていた。

 会社の方針では、机上での研修さえ済ませれば、後は片手間に触り程度教え込めば全てが淘汰できるとの考えで、特別な指導、支援は不要との姿勢を取っていた。

実態的には、なまはんかな知識や経験で、お客の多様化したニーズに即応していくのは困難だった。指導や支援が必要なことを誰もが分かっていても、現場段階での指導体制は一切考慮されておらず、指導、支援は個人的な裁量に委ねられ、会社の見て見ぬ振りをしている姿勢に、黒川は強い反発を感じていた。

 黒川が指導的役割を果たそうとするのは仲間を思う気持ちからで、問題をうやむやにする会社の姿勢を補うつもりはなかった。四十人に及ぶ職場に膨れ上がり、個人的な裁量で問題を補いきれるはずもなく、職場改善が急務だと感じていた。若手により良い職場環境を作ってやりたいとの思いが強く、会社へ再三に渡って意見提起してきた。

 職場での役割が大きくなればなるほど、自分の仕事がおろそかになり、信頼関係を築いてきたお客とも疎遠となりがちで、自らの実績は下がる一方だった。実績が下がれば営業マンとして失格であり、仲間の売り上げにどれほど貢献しても、自分の成績を補うものではないと承知し、今のままでは退職を覚悟する必要があると考えていた。

 黒川が友子に営業実態について話を始めようとすると、今年入社した社員が、

「電話を代わってください」

と言ってきた。

お客の言っていることが理解できず、応対しきれないためだった。

 四ヵ月の研修を終えた新入社員が八月から正式に配属となり、積極的な電話応対が義務づけられ、懸命に電話を受けていたが、応対しきれないことが多かった。

本来なら、新入社員一人一人に指導役が決められており、問題があれば代行することになっていたが、会社の思惑通りに機能しておらず、黒川は、自分に応対を差し向けさせる者もいると感じていた。新入社員が中心に電話へ出ると、かえって負担が重くなった。

 応対できないからといって新入社員を責めるわけにもいかず、お客に迷惑を掛けられるはずもなく、黒川はいつも、

「分かった」

と言って、快く電話を引き継ぐことにしていた。

 引き継いだ応対が完了すると、待ち受けていたように次の応対依頼があり、暫くは電話に追われていた。一区切りしても、若手の長期研修や休暇に伴う留守中の引き継ぎを幾つも受けていて、続けざまに電話が入り、息付く暇もなく応対するようだった。

黒川のせわしなく応対する姿は、誰の目にも異常に映った。

 友子が見るに見かねて、

「私にできることがありましたら手伝わせてください」

 と、力強く言ってきた。

 黒川は、頼まれるのがどんなにも大変か誰よりも分かっており、いつもなら他人に頼まれても、できるだけ頼まないようにしていたが、異常な忙しさに救いが欲しくなっていた。友子の顔を覗き込むと瞳が限り無く澄み、飽和状態となった状況を打開してくれる救世主のように思えた。

「お願いするかな」

 と言って、書類を取り出していた。

 まだ顔を合わせて何時間も立っていないのに、不思議と気兼ねのいらないパートナーのように感じられ、抵抗を感じつつも遠慮をしないで依頼した。

 友子は外販活動の経験はなかったが、営業関連の仕事に携わってきて事務処理は心得ていた。簡単な説明で状況を把握し、溜まっていた仕事に手をつけ、思いのほか迅速に処理されていった。

なかなか鳴りやまぬ電話にも積極的に出て、無難に応対していた。不明な点が出てきても、確認する程度で理解し、電話を代わるまでに至らなかった。

 友子のやっていることは、事務処理や電話応対が中心だったが、机上だけで処理が済まないで、何度となく席を立って、松葉杖で動き回っていた。

 足のことが気になって、友子の様子を窺ったが、懸命に仕事をしていて、少しも痛む素振りを見せなかった。

黒川は無理をさせたくないとの気持ちが働いて、

「足のほうは大丈夫かい」

 と何度か聞いてみたが、

「はい、大丈夫です」

 と、その都度笑顔で答えてきた。

「先は長いのだから無理するなよ」

と言って、念を押しながら、甘えすぎたと後悔していた。

 一方で、友子の理解力と処理能力の高さを知り、教え甲斐があると、楽しみにもなっていた。足の怪我が治癒することを祈りつつ、足が不自由でも職場にとって頼られる存在になれば道筋が開けると考えていた。もはやお節介心を律することはできなかった。

 黒川の置かれた状況は、ここ何ヶ月間か、常に仕事が飽和状態で、ストレスが溜まって嫌気がさしているところだった。精神的に仕事のウエイトが大きくなりすぎて、自分の求めている人生ではないと強く意識し、職場の仲間との係わりをいかに減らしていくかを考えるようになった。それは又、退職をも意識するもので、改めて人生を築きなおしたいと考えていた。

 表向きには今までどおりお人好しを演じ、仲間に頼まれれば嫌とは言わずに支援し、引き継ぎを快く受けていたが、気持ちはそっぽを向きはじめていた。自分の仕事ができなくなるのも諦めが付いて、仲間や仕事に対する情熱も薄れる一方だった。職場においては心身ともに八方塞がりの状態で、自らを窮地に陥らせていた。

 今まで、若手のことを考えて、少しでも良い職場環境を作ってやりたいと躍起になって取り組んできた。職場の問題点に対して、何度となく会社に意見具申してきたが、会社側の旧態依然とした体質を変えられるはずがなく、改善の余地がないと痛感するばかりだった。職場全体が立ち上がれば少しは改善されると思ったが、管理者と同様、指導的な立場の者も自分のことが精一杯で、問題を感じていても見て見ぬ振りをしていた。

今のままでは職場は失われると予感し、一方で、自分がやるべきことは完了したと言い聞かせていた。

 友子の出現が黒川の心を大きく揺れ動かしていた。仕事にそっぽを向きはじめていた心が、友子に求心され、既に未来に向けて走りだしていた。友子をいかに育てていくかが目的となっていた。それはけっして浮ついたものではなく、冷徹に道筋を思い描き、自分の可能な限り教示していこうと言うものだった。

 今までにも若手を専属的に指導、支援し、指導の成果が出て著しい成長を遂げた者もいた。自分の弟子だと勝手に決め込んで、弟子の成長ぶりを折々に感じ取ると、自分のことのように嬉しくなった。友子に対しても弟子を持つ気分で、どこまで育て上げられるか考えると、ぞくぞくするような楽しみが湧いてきた。

 いつもは、仕事の区切りが付かないままに持ち越して、会社から離れても仕事のことが頭から離れず、気が重くなる日々となっていたが、今日は友子のお蔭で溜まっていた仕事が今までの何倍もの速度で処理され、何とか先行きが見えてきた。肩の荷が軽くなった気分となり、久々の安堵感に浸っていた。友子の存在が正に救世主となり、黒川を生き返らせていた。

 友子は初出勤でありながら、目まぐるしく一日を過ごし、明らかに疲れの色を見せていた。

黒川は無理をさせてしまったと後悔し、

「ごめんよ」

 と言って心より詫びたが、友子は黒川の言葉を意に介しないで、

「今日は有り難うございました」

 と言って、いかにも満足そうな笑顔を返してきた。

 初めて対面したときの不安に苛まれた顔つきと明らかに違っていた。既に休職に伴う時間的なハンディは乗り越え、新たな職場の一員に成りきっていた。ひたむきに仕事に打ち込んだ結果として、あらぬ心配は全て消し飛んで、存在感のある笑顔となって返ってきたのだと思った。

 一方で、仕事が落ちつくと足の痛みが思い出したように襲ってくるようで、懸命に痛みを堪える姿が痛ましかった。

「大分痛むようだね」

 と問うと、

「大丈夫です」

 と、決意を込めるように言って、痛みとの戦いに少しもたじろがない姿勢を示した。

 友子の凛々しい姿に、特別なものを見る思いがあった。現代女性の悪いイメージと全くかけ離れた女性だった。現代もまだ捨てたものではないと思いつつ、妻に報告しなければと考えていた。

 黒川は、久々に満足感を感じながら帰宅すると、一時も黙っていられず、着替えが済まないうちから、

「今日からすごくいい子が隣の席にきたのだよ」

 と、妻に自慢そうに報告していた。

「それはよかったわね」

 と言って、妻は黒川のはしゃぎぶりに、呆れ顔で応えてきた。

「現代にもこんな子がいるのかと思うと嬉しくなってくる」

 と言って、一人悦に浸っていると、

「このあいだは、さえこちゃんのことを現代っ子と思えないって、言ってたのじゃなかったかしら」

 との、妻のひやかしに、

「さえこちゃんもいい子だけど、坂崎さんは、また違った意味で現代っ子ではないのだよ」

 と言ってみたが、友子のことを何と表現したものか、すぐに答えが出てこなかった。

 友子のことを何でも分かっているつもりで喋っていたが、今日一日の友子とのやり取りは、忙しすぎて知ったと言えるほどの交流はなく、友子のイメージは、ただ単に直感に連動した空想に過ぎないことに気付いた。

 食事のときも友子の話題に終始し、

「綺麗な人だ、頭のいい子だ」

と、黒川の執心ぶりを披露すると、

「おじさんなんか相手にされないわよ」

 と言って、適当にあしらわれたが、

「足を怪我して松葉杖なんだ」

 と、友子の足のことを詳しく話すと、

「同情して本気になっては駄目よ」

 と言って、妻は幾分真剣になった。

 黒川は結婚して今年で二十五年になる。子供は男子が二人で、既に成人していた。女の子に縁がなかった関係で、若い女性の扱いに不慣れだった。若手社員との交流でも、男子に対しては何の抵抗もなく入り込んで気心が知れたが、女子に対しては、心理を理解しかねてどうしても隔たりを感じ、遠慮がちとなった。

 女子にも指導、支援する機会が少なからずあったが、完全に打ち解けるまでに至らず、依頼があればいつでも応じたが、一部の男子にしたような、徹底指導という関係にはならなかった。

 女子には、いつも厳しさよりも優しくしなければとの気持ちが先行し、男子から、

「黒川さんは女の子に甘いのだから」

と言われて返答に困り、笑って誤魔化すこともあった。

 黒川にとって、女性というのは妻が全てを代表し、優しくて弱いものとの思い込みがあり、男は優しくて強くあるべきだとの図式が成り立っていた。妻は自分が守るとの気持ちで二十五年を過ごしてきた。妻も夫は頼るものとすっかりその気になって、夫婦として互いに頼り頼られ、全く違和感無く幸福な人生を歩んできたと思っていた。

 男女平等を考えると、女性は弱いとの考えは時代錯誤も甚だしいと承知していた。現に年季のいった女性を見ると、弱いとのイメージと全くかけ離れ、したたかさを感じていた。妻とのギャップが、まだ初々しい若い女性の心理をつかみかねる要因となっていた。

 現代女性が本当に強いのか疑問を持っていた。けっして弱いとは思わなかったが、時代に翻弄される哀れな姿を感じていた。現代人の強さの基準は経済力のように見え、女性の経済力が付いて、明らかに地位が向上した。しかし、経済力の価値は生活がベースであり、食うに事欠かない時代にあっては、どんなに余剰金があっても、人間の強弱の目安にならないと思った。人生をいかに楽しんでいけるかが人間の価値を決め、強さの基準になるとの考えだった。

 人生を楽しむには自己を強く持たねばならないと思っていた。だからといって、自分勝手になるというのではなく、自分らしさを見失わずに、いかに自然体で生きていけるかが重要だと思っていた。誘惑に満ちた現代にあって、自分を見失わずに思いどおりに生きていくのは至難の業だと思った。氾濫する情報から有害無害を見極め、有益な情報を的確に捕らえ、自分が本当に欲するものを知り、自分らしい人生を創造しえる人間こそ強い人間だと考えていた。

 強いはずの女性が、果たしてどれだけ思いどおりの人生を築いているのか疑問だった。有害な情報に振り回されずに、自分らしさを持ちつづけて人生を謳歌するよりも、狂気に満ちた時代の餌食となって、余剰金の使途に狂奔している姿が浮かび上がってきた。盲目的に情報に飛びついて、時代に翻弄されている人間が数限りなくいるように思えてならなかった。

 黒川は、妻が弱いと決め込んで守るとの気持ちを維持していたが、妻はけっして弱くないと分かっていた。妻は誘惑に満ちた時代にあっても、有害な情報に翻弄されることがなかった。頑固なまでに変化を嫌い、融通の聞かない強情張りで、自分らしさを持ち続ける強い人間だった。守るべき役割は本来無くても、妻を守っていたいとの思いが常に働いていた。

 妻は規則的な生活を重視し、平々凡々とした日々を最良と信じ、変化を徹底的に嫌った。家庭を守るという意識が強く、単調な生活を苦にしないで安らげる家庭を守っていてくれた。自分の役割を正確に果たすことが人生の目的であるかのように、余計なことを全く考えないひたむきさがあった。ひたむきさがいつまでも初々しさを維持させ、たまらない魅力となっていた。そんな妻が理想の女性だった。

 妻は口下手が講じて人付き合いが苦手だった。ボランティアや生活協同組合の活動を通じ、多くの交流があったが特別に親しい付き合いはなかった。しかし、家族の中にあっては気兼ねはいらないとばかりに、うるさいくらいにお喋りで、家庭というごく限られた世界で閉じこもった生活を好み、自分から積極的に外へ出ようとしなかった。妻を新たな世界に誘ってやることが自分の役割だとも考えていた。

 黒川自身は多くの付き合いがあり、付き合いに多くの時間を費やしてきた。結婚生活が長くなるに連れて、妻を思う気持ちが付き合いを抑制し、妻との時間を最優先する生活へと変わっていった。妻は自分から一切要求せず、しおらしさが余計に愛しさを募らせ、大事にしなければとの思いとなり、様々なロマンスを作り上げてきた。買い物や散策、お茶や食事、そして旅行と、ささやかであったが恋人気分で、二人の時間を満喫してきた。

 黒川の心は常に妻を向いており、仕事が終われば一刻も早く帰宅したいと思った。しかし、職場での人間関係が良好であればあるほど心身ともに負担が大きくなり、最近は時間外労働が増えて、帰宅が遅くなることが多くなっていた。

妻は、

「大変ね」

と言って不満は言わずに労ってくれたが、勤務時間を越えて仕事に従事するのは人生の損失だと考えていた。

 黒川は今年で五十歳となり、これからの人生を考えると不足を感じないわけにはいかなかった。公私ともに充実した人生だったが、それは時の流れに身を委ねた結果で、自分の求めてきた人生と食い違っていた。限られた時間のなかで自分が求める人生を実現できるか疑問だったが、時間との競争に身を置かねば気が済まなくなっていた。特に仕事に振り回され、時間が失われていくのが脅迫感となり、仕事の負担をいかに軽減するかが当面の課題と意識していた。

 翌日、黒川がいつものように九時五分前に職場に入ると、松葉杖を使って忙しそうに歩く友子の姿が目に入ってきた。時間前に電話が鳴って対応しているようだった。

 友子と顔を合わせると、

「足のほうは大丈夫なの」

 と言って、無理をしないように促すと、

「大丈夫です」

 と、笑顔で答えてきた。

 友子が笑顔で打ち消しても、黒川には痛みが酷いのが分かった。

 昨日と同様忙しさが続き、黒川は友子を指導しなければと意識しながらも、実態的にはアシスタントのように仕事を肩代わりさせ、時間に追われていた。

無理にならないように思っても、忙しさに紛れて友子の状況を把握するゆとりがなかった。友子は慌しく動き、それがかえって足の痛みを忘れさせるようで、黒川がたまに目をやっても、痛がる素振りは見せなかった。

一日があっという間に過ぎ、黒川が礼を言って友子と視線を合わせると、友子は自分の仕事を持ったことで、新たな職場でいち早く存在感を示し、厳しい精神状態を緩和させているのが分かった。

 友子との係わりは違和感無く進行し、席を共にして何日も立たないのに不思議と息があった。友子は、黒川の手が行き届かない部分を的確に捕らえて手回し良く代行し、積もり積もった仕事が、思った以上にはかどって処理されていった。黒川は追われるような状況にほとほと嫌気がさしていたところだったので、仕事の先行きが見えてきて、気が楽になると共に、友子の存在が明らかに潤いとなっていた。

 友子が職場復帰したときの心情は、息苦しいほどに心細かったに違いなかった。黒川と席を共にしたことで、窮地にある心模様をもてあそぶ暇はなく、成り行きとして仕事に没頭していた。雑念を取り去って仕事に打ち込んでいるうちに、自らの存在感が感じ取れるようになり、生き生きとしていた。

 瞳がどこまでも澄んで、童顔な顔だちと相まって正義感に溢れた少女のような輝きがあった。足の痛みと敢然と戦う姿は凛々しくもあり、黒川には眩しいくらいに美しく感じられた。魅力を感じれば感じるほど黒川の心は冷徹になり、女性に対する遠慮は友子には少しも見せなかった。

 黒川は他人の仕事に追われ、自らの懸案となっている仕事にほとんど手が付かず、急を要することも少なからずあって対応に頭を痛めていた。自分の仕事を友子に肩代わりさせれば、実践に即した、生きた勉強になると判断し、単なる事務処理から、提案書や見積書の作成を手掛けさせた。

 友子は呑み込みが早く、ただ単に丸暗記をしようとするのではなく、理論的に理解をしようとする意識が高かった。納得が行かないと先へ進めない性分で、疑問点があると納得いくまで問い詰めてきた。黒川もその都度図式化して理論を教示し、さらに一歩踏み込んで徹底指導した。懸案になっていた提案書も、ある程度指示すれば状況を的確に把握し、分かりやすく、正確なものを速やかに作成した。友子は経験した一つ一つを確実に理解し、一度教え込んだことは単なる知識ではなく、応用の可能な技術として自分のものにしていった。

 友子の足が気掛かりだったが、お客訪問も同行させるようにした。本人の意思を確認すると、

「ご迷惑でなければ、是非お願いします」

と言って、全く躊躇は無かった。

少しでも早く慣れたいとの意欲が感じられ、松葉杖を携えての訪問活動となったが、黒川は少しも迷わずに同行させた。

 お客訪問ではどうしても階段の上り下りが多くなり、足の痛みが絶えず走るようで痛々しかった。同行させるほうが辛かったが、どこまで頑張れるか見ているしかないと言い聞かせ、冷酷なほどに友子を一人前として扱った。

 同行させるだけでなく、お客応対もさせてみた。友子の消極的な姿勢を叱咤して、少しの有余も与えずに懸案事項の提案説明をさせた。幾分ぎこちなさがあったが、情報を正確に伝えようとする姿勢が窺え、非常に好感が持てた。友子の個性を生かした語り口が誠意となって伝わり、経験が浅くとも、営業として充分通用していた。

 職場における二人のやり取りは真剣勝負を挑むような緊迫感があり、他の者を寄せつけない雰囲気があった。いつもなら安直に支援を求めてきた者も、遠慮してあまり近づいてこなくなった。他人の仕事が減少し、自分の懸案も処理されて、黒川にとっては全ての面で良好に推移していった。

 二人の関係は思わぬ方向に転じ、師弟関係と共に、パートナーとしての役割を担っていた。黒川は利用しようなどと考えていなかったが、成り行きとして飽和状態となった仕事を二人三脚でこなすことになり、黒川にとって最も課題となっていた時間的拘束を一気に軽減する結果となった。後ろめたさがあったが、友子を力のかぎり指導し、一人前に育て上げることで借りを返したいと思っていた。

 友子の足の痛みは不規則に襲ってきて、机に向かっていても痛むことがあった。表情には出すまいと堪えていたが、黒川には自分のことのように痛みが感じられた。色々と治療を試みても思うような効果はなく、常に痛みとの戦いとなっていた。

 怪我の発端は運動不足によるもので、足の筋肉の衰えが大きな障害となっているようだった。黒川は、足をかばっていてはいつまでたっても筋肉の回復はできないと考え、痛みと筋肉の衰えの悪循環を断ち切るには、無理を押しても歩行して、筋肉を回復するしかないと、独りよがりの恐れを感じつつも決めていた。

治療だけ頼っていても、根本的な改善が成されなければ一歩も先に進まないと考えた。たとえ障害が残ったとしても、とことん前進するしかなく、友子には全く選択の余地はないと、同情するよりも、冷静に観察していくのが自分の勤めだと思った。

 障害が残ったときの友子の進むべき道筋も模索していた。

どんな仕事にも適材適所があり、全員が同じ仕事をするのが必ずしも効率的な運営とは限らないと考えていた。現に自分の職場を見ても旧態依然の体制で著しく効率性が落ちており、適材適所の抜本的な改善が急務だと感じていた。友子の知識や技術を高めさえすれば、障害を持っていたとしても大きな役割は担えるはずで、職場の環境さえ改善できれば、後ろめたさを感じずに仕事が続けていけると考えた。

 黒川は前々から職場改善の必要性を感じ、今までにも何度となく働き掛けてきた。仲間を思う気持ちから取り組んできたもので、自分の利害は全く意識していなかった。上司に食い下がってみると、膠着した管理体系ばかりが全面に浮き出てきて、改善する余地がないと痛感し、嫌気がさしていた。

 今は、職場の展望よりも自分自身の人生をいかに転換していくかが重要だった。これ以上他人のことに係わりたくないと意識するようになっていた。願いとは裏腹で、そう簡単に人間関係を閉ざせるはずもなく、いつまで立っても開放されず、何とか区切りを付けなければと思う日々だった。

 友子の存在が再び黒川の心を揺り動かしていた。仲間を思う気持ちからというよりも、友子の将来と連動するもので、友子がいつまでも仕事を続けていける環境を作ってやりたいとの思いが、職場改善に向けて、再び動きださずにはいられなくなっていた。

 職場改善の要求は、ただ単に友子一個の人間に固執できるはずもなく、職場全体の抜本的改善を求めるものだった。最後の提言と銘打った文章を、同僚に配ると共に、会社及び労働組合に提出していた。内容的には非常に良くできあがったと満足し、多くの者から陰で同感との声を耳にしたが、表向きには一切声は上がらず、黙殺される形で何の動きもなかった。

本当は、最初から改善が成されるとは期待しておらず、自分の可能な限り取り組んだという実績を、友子に示せればそれで満足できた。

 友子はいつしか松葉杖を使用しなくなり、痛んでいる足をかばいながらの痛々しい歩行だったが、行動範囲は確実に広がっていった。松葉杖を使っているときよりも、足にかかる負担が大きくなるだけ痛みが酷くなるようだったが、痛みを克服する戦いから筋力を養成する戦いへと大きく前進し、完治する可能性を感じさせた。

 治療の効果か、訓練の賜物なのか断定しかねたが、黒川の目には、足の状態が間違いなく好転していると映った。友子にとっては、痛みが先行し、完治する期待感よりも不安が先に立ち、心が揺れ動いて弱音を吐くこともあったが、表情に明るさが増し、語らいに笑顔が加わった。

 訪問活動の回数が増え、移動のときの車中での会話が多くなった。会社では常に仕事に追われ、ゆっくりと世間話などしている暇がなかったが、車での移動中は開放され、お喋りに花を咲かせ、互いに理解し合った。

 子供の話をするときの友子の瞳は女神のような輝きを放ち、子供の仕種を思い浮かべて、可愛くて仕方がないとの思いが、優しさに満ちた声音となって伝わってきた。

 子供を散歩に連れていき、犬や猫と遭遇したときの話が出て、

「怖いという気持ちが強いのか、固まってしまい、じっと見つめている表情がとっても可愛いです」

 と言って、愛しそうに目を細めた。

「だんなが帰宅すると、子供がすぐにだっこをねだるのです。でも着替えを先にしようとして、だっこと着替えでおっかけっこをするのです」

 と、満足そうに話していた。

 幼児虐待の問題になると憤りを隠さずに、

「絶対に許せないです」

と言って、熱のこもった語り口となった。

 夫を語る友子の口調はけっして甘さはなかったが、信頼していることがよく伝わってきた。

家事、育児、仕事、怪我と、毎日の生活のなかで重く伸しかかる重圧が、やり切れない思いとなって心に淀み、時として鬱憤を吐き出さずにはいられなくなって、どうしても夫にあたってしまうという。黒川には、少しも動ずること無く、友子の重圧を鷹揚に受け止めて、気分を和らげさせる夫の姿が浮かんできた。

「だんなにあたってかわいそうなことをしてしまうのです」

 と言って、悔やんでいる言葉尻から、夫を信頼しきって甘えている心模様が窺え、仲睦まじさが感じ取れた。

夫が穏やかで寛容な、包容力のある人物と想像され、友子の男を見る目の確かさを感じた。

「母は孫を見るのは大変と言いながら、可愛くて自分の手元に置いておきたいとの気持ちとがあって、複雑な心境みたいです」

 子供を実母に預けての共働きで、友子は母のお蔭で、安心して共働きができると、いつも感謝している心情をしみじみ語り、

「姉の子供も預かっていて、母は大変なのです。この頃は体調が悪いときがあって、ちょっと心配で」

 と言って、心配の種が尽きない様子だった。

 お互いに言葉が淀みなく出てきて、友子の人柄が痛快に伝わってきた。友子と初めて会ったときに感じた印象と大差はなく、黒川が現代の若い女性に抱く悪いイメージと全くかけ離れた、素晴らしい女性と感じられた。

 怪我の回復とともに友子の行動は活発となり、自分の懸案を処理するだけでなく、鳴りやまない電話へも積極的に対応し、他人から頼まれることも出てきて、仕事を次から次へと抱え込んで、少しもじっとしていなかった。

 黒川は、友子を容赦なく過酷な状況に追いやっていった。意識的に友子が身に付けた知識や技術を職場全体にピーアールし、自分が果たしていた指導的役割を一部肩代わりさせるようにした。

 友子は、

「自分にはできないです」

と言って抵抗を示したが、黒川は不思議なくらいに冷酷になり、友子の意思を全く無視して、

「大丈夫」

との一言で強要していた。友子はやむなく自分の勉強と割り切って、にわかに起こった支援依頼に応じていた。

 ほんの駆け出しの立場でありながら、友子は既に職場で一定の役割を担うようになっていた。短期間に営業として必要な知識を身に付け、さらには営業を越えた技術も積極的に習得していった。回りから一歩踏み出して、頼られる存在に成りつつあった。

 黒川がマンツーマンで友子を指導していることに、雑音程度の不公平との声も聞かれたが、全く気にしなかった。黒川の可能な限り教示すると言う意志に応えて、友子も貪欲に学ぼうとする姿勢を示し、回りの雑音をかき消してしまった。むしろ、友子が指導的役割を果たすことによって二次的効果が生まれ、二人の関係に好感を持つ者もいた。

 営業は売り上げだけが評価基準で、職場でどんなに重要な役割を担っても、売り上げが伴わなければ評価されることはなかった。多くの者が売り上げに躍起になって、他人のことまでかまっていられない風を装っていた。

 気の合う者同士で協力し合う姿は見られたが、新人等に対する指導、被指導という関係は必ずしも成り立っていなかった。又、経験を積んできた者でも、ただ単に営業知識だけではお客応対ができなくなり、支援を必要とすることが少なからず出てきたが、快く支援に応ずる者はいなかった。

 会社の旧態依然とした数値管理だけの事業運営は、自分さえ良ければとの職場体質を育み、他人の支援は元より、電話応対や他人の仕事の引き継ぎにそっぽを向いてしまう人間を作り上げていた。むしろ、ずるくならなければとの雰囲気があった。

 友子の職場における立ち振る舞いは、黒川には際立って感じられた。回りから頼られるようになってもけっして奢ること無く、頼まれれば何でも快く応じていた。友子は誰に対してもさり気ない気配りや気遣いを見せ、思いやりが伝わって相手を素直にさせた。自然と誰にでも好感を持たれるようになり、特別な存在になっていった。

 お客に対する姿勢も、言葉の節々に気遣いが感じられ、誠実そのものだった。お客にできるだけ正確に伝えたいという意識が滲み出た語り口で、生真面目な性格がストレートに感じ取れた。それがかえって固さとなり、ゆとりが少しも持てず、用件だけの会話に終始していた。時間がどこまで会話に命を吹き込んでくれるか、唯一気になるところだった。

 友子が扱ったお客からのクレームに対応する姿を見ていて、友子の心根の優しさが、宝石のように感じられたことがあった。

 友子が電話を受けると、みるみるうちに瞳が曇り、申し訳ないとの思いが悲しみとなって、消え入るような声音で相手の心に言葉を投げかけていた。

クレームの内容はけっして友子の責任ではなく、お客も怒っているというよりも相談してきたという口調だったが、お客の困り具合を感じると、何とか力になりたいという心情が溢れ出て、相手を思いやる姿は、余りにも純真すぎて気の毒なようだった。

 友子の思いやりは、既に失われた過去の遺物としか言いようがなかった。骨董品の価値であり、時代を考えると、友子にとって大きな足かせになると思われた。特に、職場実態に即していくには、思いやりよりもずる賢さが有効だった。

 黒川自身、仲間を思う気持ちが仇となり、他人のことに追われて身動きが取れなくなっていた。むしろ、お人好しが講じて職場の欠陥点を補う効果があり、困惑していた仲間を安穏とさせ、自分さえ良ければという意識を助長し、職場改善を足踏みさせている気がした。

 友子が見せるお人好し振りは、現状では勉強の一環となり、知識や技術の厚みを増す効果があるが、職場が改善されないかぎり負担が増すばかりで、いつまでもお人好しを演じているわけにはいかず、優しさが友子を苦しませると、気掛かりになってきた。

 現代は優しさを失わずに生きていくのが非常に難しいと思っていた。物質的に豊かになっても、常に欲求を駆り立てられ、自分のことで精一杯な人間ばかりに思われた。思いやりはもはや過去の遺物となって、優しさを育む余地は少しも残っていないのではと危惧していた。

 黒川は常に妻の優しさを感じていた。妻の無心な優しさが、安らげる家庭を作り上げ、限り無く心豊かな人生を育んでくれると思っていた。妻の優しさは、二人の子供たちにも確実に受け継がれていた。殺伐とした時代を生きていくには、優しすぎては時代に適合できないとの心配もあったが、子供たちが暗闇に明滅するきらきら星のような存在になってくれればと思っていた。

 友子は黒川が知る三人目のきらきら星だった。友子がさりげなく示す回りへの気配りや気づかいは、現代人が失いかけた思いやりと優しさがひしひしと伝わってきた。今までの人生で育んできた人格もさることながら、怪我の巧妙で自らが痛みを知り、他人の痛みが分かる特別な人間になっているように思えた。

 闇が支配する時代にあって、光明を灯す存在と感じていた。友子を知れば知るほど底無しに魅力を感じ、友子の発する輝きは黒川には眩しいくらいだった。しかし、どんなに直視していても、心は常に目をそらしていた。

 友子を知れば知るほど嬉しくなって、妻に報告しなければと勇んで帰宅し、

「優しくて本当にいい子だ」

 と、自慢した。

「それはよかったわね」

 と言って、妻は黒川の執心振りに呆れ顔をするが、一方で友子を感じ取って一緒になって喜んでくれた。

「足はまだ痛むようだけど、大分活発に動けるようになって、毎日お客さんのところに連れだしている」

「無理をさせては駄目よ。先は長いのだから気長に構えてやらなければ」

 と言って、黒川のはしゃぎ振りに釘を刺してきた。

「今度昼飯をご馳走しようと思う。弁当はしばらく作らなくていいや」

「小遣いはあるの」

「何とかなる」

「五千円だったらあげるわ」

 と言って、妻はさっそく五千円を取りに席を立った。

 黒川は職場での出来事を妻によく話して聞かせた。仕事を家庭まで持ち込もうとは思わなかったが、職場での人間関係や業績については、妻にも一緒になって感じ取ってもらいたいと思った。

 職場での人間関係は非常に良好で、頼られる存在になっていた。営業としての売り上げは低く、役職的には出世と縁がなかったが、非常に重要な役割を果たし、大きな業績を残してきたとの自負があった。

 自分の築き上げてきた業績は、自分だけのものではなく、妻との二人三脚で初めて成しえるものだと思っていた。妻にも自分の甘受している満足を分かち合うのは当然だと考えており、職場で楽しんでいることをつぶさに語った。

 妻は職場を一度も見たことがなく、顔も知らないのに、

「今日のお昼はひとみちゃん、それともこうた君」

と言って、何でも知り尽くしているかのような口ぶりで話してきた。

黒川の感じ取っている世間は、完全に一致しなくとも妻に確実に伝わって、時代を共有していた。

 若手女性社員のことを、可愛い子、頭のいい子、品のある子などと言って、恋人ができたように話をするが、

「おじさんなんか相手にされないわよ」

と言って、軽くあしらわれていた。

多少なりともやきもちはあるのだろうが、信じきっていることが痛いほどに伝わって、妻を絶対に裏切れないと、呪文をかけていた。

 友子の存在は、神々の気まぐれか、それとも悪戯なのか、老境に一歩踏み出した、うだつの上がらぬ熟年男の人生に、部不相応な彩りを添えて、にやにやしながら反応を観察でもしているのだろうと思っていた。

本来なら心をときめかせ、暴走してもおかしくないと思ったが、黒川は常に友子を妻と比較して、妻が濾過の役割を果たし、友子の姿はストレートに伝わってこなかった。

 妻は平々凡々とした人間で、これといって自慢できるものは何もなかった。容貌でも、才能でも、平凡以外の何ものでもなかった。色っぽさ、艶っぽさも一切なく、知らない者が見たならば、全く記憶に残らずに通りすぎてしまうと思われた。妻自身、正に人込みに消え入るような存在を理想と考えていた。

 友子と比較したのでは何を取っても見劣りがして、比較すること自体、罪なことなのかもしれないと思ったが、黒川は大胆にも妻を上位に置いて、友子を妻の次元まで高めてやりたいと考えていた。

友子との会話の節々で、妻のことを遠慮なしに語っていた。

「うちの女房はまず気がきかないもんで」

と言いつつ、不足は感じずに、さりげなく小遣いを差し出す姿を思い浮かべていた。

「料理がへたくそで、同じものを作ってもその都度味が違ってくるのだよ」

 と言いながら、子供と料理を評する団欒の時を楽しく思い返していた。

「パソコンを見ると近づくのも嫌がって、進歩と縁のない人間でね」

 と言って妻をけなすが、可愛いところなのだと言いたかった。

「毎日弁当を作ってくれるのだよ」

 と言って、当たり前な顔をしながら、内心では自慢していた。

「一切文句を言わずに、自分の思いどおりにさせてくれてね」

 と、良くできた妻だと語っていた。

「優しさだけが取り柄の女なのだ」

 と、友子の優しさに負けないと自慢して、白々しくものろけていた。

 友子は相槌を打ったり、コメントを加えたり、自分の生活を語ったりで、けっして不快感を見せなかった。

「夫婦仲がいいって自慢すると嫌がられから」

と妻に常々言われているのを思い出し、少々浅はかだったと自戒していた。

「人間の関係は、見てくれや経済力で成り立つわけではなく、相手を思う気持ちが大事だと思うのだ。女房は家庭第一で、家でこつこつと毎日の生活を維持していくことしか考えていない。他人から見ると何の価値もない人間なのかもしれないが、自分みたいにわがままで好き勝手やっている人間には最高のパートナーだと思っている」

「家事というのは大変なのですよね。家事がもっと認められるべきだと思います」

 友子は自分を置き換えて語っているようだった。

 黒川は友子の幸福を祈りつつ、自分の幸福の極致にある生活を披瀝して、少しでも参考になればと考えていた。

「多くの人が、夫婦だからといって横着になり、相手の気持ちを蔑ろにして自分勝手になってしまう」

 妻と気持ちがいつも一つになっていることをつい自慢していた。

「だんなは自分から進んで家のことを少しもやろうとしないのです。でも、こちらが頼めば文句を言わずに何でもやってくれるので助かります」

 本当はもっと夫を好きにさせてやりたいとの思いを窺わせ、共働きの理想的な姿を想像させた。

「夫婦には色々な形があって、どっちが指導権を握ってもかまわないと思うけど、気持ちを合わせようと互いに意識していないとうまくやっていけない」

 と言ってみたが、友子は充分に承知しており、蛇足に思われた。

「うちでは、私がいろいろ考えてリードしているみたいです」

 と応えてきたが、必ずしも望んでいるようには見えなかった。

「共働きでお互いに経済力があると、ちょっとした行き違いで、自分は一人でもやっていけるとついついその気になって、気持ちがそっぽを向いてしまう」

 共働きをする女性社員の話を聞く機会が少なからずあり、共働き夫婦の心の行き違いは日常的で、ややもすると不幸のなすり合いに成りかねない実態も知っていた。

「私も家事に専念して、子供ことをもっと見ていてやりたいのです」

 と言って、寂しそうにした。

片時も子供のことが離れず、仕事を続けていくことに少なからず迷いがあるようだった。

「夫婦だからこそお互いの気持ちを大事にし、とことん会話をして、馴れ合いにならないようにすることが肝要だな」

 友子には無用な忠告だと思ったが、ついつい調子づいて語っていた。

 友子はテンポ良く言葉を発し、いつも語らいは淀みなく続いた。会話の内容は多岐に及んで、泉のごとくこんこんと湧いて出て限り無く相性がいいと感じていた。友子の意思まで規定できなかったが、限られた時間に貪欲にお互いを知ろうとしている気がした。むしろ、お互いが直感で分かり合っていて、それを確認し、安心しているようにも思えた。

「女房は何でも亭主任せで二人の気持ちはいつも一つになっている。信頼しきって頼られると余計に大切にしなければという気持ちになってくる。いつも傍にいる相手が最愛と信じていられるのが最も幸福なのかもしれない」

 黒川は簡単に幸福論を語ってみたが、簡単に幸福が手に入るとは思っていなかった。

現代は欲望の渦の中にあり、様々な誘惑が取り巻いて、自分が本当に求めているものを見失っている者が少なからずいると考えていた。氾濫する情報に振り回され、人間らしさ、自分らしさが後ずさりして、時代に踊らされる姿が浮かんできた。

 黒川は、溢れ出る情報の良否を判断できるかが、人間の価値を決めると考えていた。しかし、判断基準を成す規範、規律、作法、良識などの言葉は既に死語になったと痛感した。大人として自己を持ち、人格を確立するのはもはや困難で、大人に成れない大人たちが時代を形成していろと考えていた。大人の影響を受けた子供たちは時代の虜になり、多くの者が華々しさに踊らされ、刺々しさを見誤って情報に翻弄されていると感じた。

 友子が果たして自分らしさをどこまで維持していけるか気掛かりだったが、他人の価値観まで介入するのは行き過ぎとの良識が頭をもたげ、お節介もほどほどにと、自戒の念が支配していた。

 友子の足は確実に快方に向かっていた。痛みは相変わらず抜けきらなかったが、足取りがしっかりしてきて、筋力が付いていることが分かった。不治という危惧は去って、気持ちに幾らかゆとりがもてるようだった。

 黒川は妻に貰った五千円を財布に入れて、友子を行きつけの豆腐料理の店に案内した。

新人が来ると豆腐料理を馳走するのを習慣にしてきた。名目だけだったが係長の肩書きがあり、係長手当は後輩に奢るための別収入とうそぶいて、何度となく大盤振る舞いをしてきた。友子にも慣例に従って馳走しようとやって来たのである。

 豆腐料理はヘルシー感があって、誰にでも好評で、友子もあっさりした味わいに、

「とってもおいしいです」

 と言って満足の意を表した。

「ゴールデンウィークに家族を連れてきたら好評でね」

 と言うと、

「私も家族を連れてきたいです」

 と言って、ヘルシーなメニューに賛同して、

「是非案内したいです」

と付け足した。

「姉も共働きで、母は三人も孫の面倒を見ているのです。この頃は体調があまりよくなくてとても心配なのです」

 と言って、母親に無理をさせていることを悔やんでいた。

「今度、姉の家族と旅行にいくのです」

 と言って、姉との深いつながりあることを話してきた。

両親を中心に、娘二人が寄り添うような形で、有効な関係を保っていることが感じられた。

「学生時代にファミコンが欲しくて、父は囲碁が好きなので、囲碁ができるとそそのかして買ってもらったのです。初めは父もやろうとしましたが、ファミコンのテンポに付いていけず、操作がうまくできなかったのです。自分が父に代わって操作してあげて、少しはやっていたのでが、結局は面倒くさがって見向きもしなくなり、ファミコンは自分専用になっていたのです」

 父親に対する後ろめたさを窺わせながら思い出を語った。

黒川は、娘の思惑を見透かして、ファミコンを一緒になってやっている姿を想像しながら、素晴らしい娘を持った父親を、妬ましく思った。

 友子の言葉の節々から、家族を思う気持ちがなみなみと伝わってきて、生活を何よりも大切にしているのが感じられた。仕事に対する姿勢もけっしていい加減さはなく、公私を明確にし、どちらも大事にしていくという意志が表れていた。

 黒川は、何事にも懸命に取り組む友子の姿を幾重にも思い浮かべ、透き通った瞳の底に、想像を遥かに越えた、宝石が潜んでいると感じていた。一方で、純真なひたむきな姿に脆さも感じ、職場にあっては、否応なしに理不尽な現実に突き当たり、傷つき、悲しい思いをするであろうと予感していた。

黒川は、公私共に懸命に生きることが人生を謳歌する常套手段だといつも考えていた。  しかし、会社を知るに連れ、仕事に専念するのが難しい実態を感じていた。懸命にやればやるほど問題点が浮き彫りになり、問題を提起しても、些細な問題すら改善できないのが現実だった。気持ちを込めて会社に接するとバカを見るのが実態で、場当たり的に帳尻合わせおしておけば充分だと考えるようになっていた。

 仕事に打ち込んでいる風を装い、時間ばかり浪費して帰宅が遅くなり、人生を損失している者が少なからずいた。決まったことを無難に消化するだけで、その気になって能力をフルに発揮する機会も意欲もないのが普通だった。会社自体が私生活をいかに犠牲にするかが評価の基準としており、社員一人一人の能力をどれだけ発揮させるか思案はなく、盲目的に競争を煽るだけの無策に終始していると考えていた。

 黒川自身も真意は無難を望んでいたが、友子の手前、粋がって職場改善の提言をしていた。もし提言どおりに動きだしたとしたら、責任が出てきて、人生のスケジュールに大きな狂いを生じる恐れがあった。先行きの結果を見込んだ大芝居に過ぎなかった。

 黒川は再び沈黙したが、楽しみが倍加していた。職場改善が果たせず、将来的な職場確保は絶望的だったが、一時的には友子の後ろ楯になり、理不尽の矢面に立って少しは悲しみを和らげてやれると思った。退職の意志は変わらなかったが、残された月日を、闇に安らぎを湛えて輝くきらきら星に、精一杯力添えができれば満足できると思っていた。

 友子との会食を満喫して、支払いになると一悶着起きた。

黒川が支払いをしようとすると、

「いつもお世話になっているのは私ですから、私に払わせてください」

 と言ってきた。

「バカをいうなよ、ご馳走したくて連れてきたのだから」

 と言って、友子を制止した。

 お互いに払う、払わせないの言い合いが続いて、てこずらされたが、

「可愛くないな」

と言って何とか押し退け、心地よい喧嘩を味わった。

 その後も食事やお茶のたびに奢り合いの喧嘩になり、たとえ奢ったとしてもすぐにお返しが返ってきた。いつも呆れながら、人心地を堪能していた。

 黒川は、若手に食事を振る舞うのを楽しみにしていた。経済的な問題もあって回数に限度があったが、二十も三十も違う若者との交流は、可能性が感じられ、仕事に対する張り合いが出てきた。時にはお返しされることもあったが、できるだけ一方的に奢りたいと思っていた。中には先輩後輩の当然の成り行きと割り切って、馳走されることに全く抵抗を示さない者もいた。大盤振る舞いを楽しんでいながら、当たり前の顔をされると不快となり、いつしか付き合いが遠のいていった。

 仕事を仕込まれながら、さらには食事も奢られるという、されっぱなしの関係は、現代っ子でも特別に受け止めているようで、黒川が接しているときには、いい子の面ばかりが目立って、悪い子が影を潜めていた。回りの多面的な評判と、黒川が直接受ける人物像とは大きな隔たりがあった。むしろ悪い面は見まいと意識していた。

 人の評価ほどいい加減なものはなく、自分に都合がいいか、悪いかで決まり、十人いれば十の評価があり、評価されるほうも、相手によって接する態度が変わり、十の顔を持つことになる。利害を離れて人間を客観的に評価するのは困難だと考えていた。

 黒川は若者から利益を得ようなどと少しも考えなかった。頼まれてもけっして頼まないのを本分とし、限り無くお人好しを演じることが職場での自分の役割だと決めていた。自分にとって不利益になったとしても、他人のことを優先してきた。そこには必ず爽快な交流があり、美辞麗句が書き込まれた表彰状よりも、遥かに価値のある人生の勲章を得ることができた。

 人生の勲章は、ややもすると職場における睨みとなって、仲間と隔たりを生じさせた。ごく自然の成り行きとして、誰もが職場に慣れると横着になり、ずるさが出てきた。むしろ、ずるくなければ仕事がまともにできないという状況でもあった。常に一貫して毅然たる態度を取っている人間は、けむたがられるのが必定で、望まなくとも睨みがきいた存在に成り上がってしまった。

 自分の目の届く範囲と、そうでないときでは、仲間の素行が変わるのを感じるようになっていた。自分で仕立て上げた役割が、あまりにも高貴な立場に押し上げ、仲間との隔たりが生じ、常に余所行きの付き合いになっている気がした。

 自分の果たしてきた役割が、仲間のずるさを助長させていたのではないかと考えていた。職場の欠落点を懸命に穴埋めし、仲間の当座の問題を軽減させてきた。それは問題解決の糸口を示したつもりだったが、むしろ問題から目を背けさせていた。危機感が失せると安穏として横着になり、わがままを許容してしまったと後悔していた。職場改善を意識してお人好しを演じてきたが、思惑と逆効果となり、自分の負担が重くなる一方だった。

 勲章を連ねることが重荷に感じられるようになっていた。自分の時間に大きく食い込んできて、身動きが取れなくなるのが何よりも辛かった。妻との時間を常に最優先として、精神的にけっして食い込むことはなかったが、人生を転換する時間が大きく失われていた。他人のことより自分のことが大事になってきていた。

 友子に対しては、他の仲間に対する思いと全く違っていた。友子の純真なひたむきな心は、黒川の逃げ腰になった心より遥かに高貴だった。お互いに正面を向き合い、胸襟を開いて対等に会話することができた。特別な師弟関係が成り立って、友子に対して労を惜しむ気は起きなかった。逆に何でも遠慮せずに頼むことができ、黒川が今まで感じたことのない信頼関係が確立されていた。

 友子を営業のプロに仕立て上げることが自分の仕事だと勝手に思い込んでいた。プロ意識を持つように仕向け、女性だからという甘えは持たせずに、何でも自分で対処させるようにした。友子を一人前にすることに、年甲斐もなく情熱を燃やしていた。

  友子の仕事に対する理解度は高く、前職場での営業知識と相まって、僅かな期間で飛躍的なレベルアップが図られた。黒川の仕事を肩代わりすることで様々な営業事例を取り組む結果となり、通常だと何年もかけて蓄積されるはずの知識と経験を、三ヵ月に満たない期間で習得し、営業として必要な知識はほぼ身に付けてしまった。

 それは、黒川自身が厳しすぎるほどに指導した成果でもあり、気分として愛弟子の成長を見る思いだった。秘蔵っ子として、自分の、可能性のあるお客を引き継いで担当させたいとの考えを持ちはじめていた。

 今までにも多くの者を指導、支援し、成長の補助を果たしてきた。何回かの指導でレベルアップが図られ、係わりが少なくなっていったが、中には支援というよりも、ただ単に仕事の肩代わりをさせられ、いくら指導しても、同様な事柄で何度となく支援を求めてくる者もいた。いつもお人好しぶって、頼まれれば快く引き受けるようにしていたが、給料を貰っているからには独力でやっていくのが本来だと思っていた。

 職場自体が営業のプロとは言いがたく、仕事を失って押し出されてきた者が、寄り集まってできた吹き溜まりで、ただ単なる人余りの受け皿に過ぎないとの見方もあった。会社は本腰で営業の発展を模索するというよりも、新たな合理化の胸算用をしながら、落ちこぼれ集団の奮闘ぶりを高みの見物でもしているようだった。実態的に営業効率を高めるという姿勢は全く感じられなかった。

 会社の思惑を意識して意地でも吹き溜まりに息を吹き込みたいと願っていた。営業の素人でも、過去の経験と、それぞれが持って生まれた個性や能力を最大限引き出してチームとしてまとめあげれば、プロの一個の知恵を越えた文殊の知恵を発揮できると踏んでいた。口先が売り物の硬直したプロに、一人ではかなわなくとも、チームワークと誠意で対抗すれば十分に渡り合え、不況下に適合した今までにない営業体制が確立できるのではないかと期待していた。

 現実には、全員を全く同列において、ただ単に尻をたたくだけで、経験も個性も全く関係なく、得て不得手も無視されて、不効率極まりない体制が築かれていった。仲間に対する最後のご奉公と意気込んで、様々な提言を会社にぶつけて取り組んだが、同調する声は上がらず、全くの独りよがりに終わった。愚かなお人好しの儚い夢だったと実感し、新たな合理化計画を、指をくわえて待っているしかないとすっかり悟っていた。

 会社を全く当てにしておらず、管理体系が何も成しえないことも承知していた。職場改善を迫って管理者に立ち向かったが、心と言葉は仲間に投げかけていたのである。現場段階から気運を高め、声を巻き上げていかなければ職場改善は絶対にありえなかった。どんなに理想的な政策でも、運用していく人間が伴わなければ絵に描いた餅でしかない。企業の能力は社員の能力でもあり、結果を見れば一目瞭然だった。

 職場の意思として変革にそっぽ向き、横並びの体制を選択したからには、一人一人が売り上げ本位のプロの営業に徹するべきで、甘えは許されないはずだった。自分も、たとえ多くの者を指導、支援して職場全体の売り上げに貢献したとしても、それは個人的な行為に過ぎない。自らの売り上げが伴わなければプロとはいい難く、営業は失格であり、当然退職を覚悟すべきだった。

 今後、新たな合理化計画が進行し、よりすぐられた体制ができたとしても、友子だけは生き残れるように、次元の高い営業のプロに仕立て上げたいと考えていた。

 黒川の営業姿勢は、常に相手企業の一員になったつもりで提案書を作成した。相手を思う気持ちが伝わり、自分の言葉がお客の心を捕らえ、すっかり陶酔させていくのが分かった。ビジネスを越えた信頼関係が成り立ち、お任せしますとの言葉を受けて全てを託されると、ぞくぞくするような快感が走った。営業の極致に至った満足感を友子にも是非味合わせてやりたいと思った。

 友子は、一度教示を受けたものは自分のものにするという意識が非常に高かった。ただ単に丸暗記ではなく、理論を納得いくまで探究し、営業領域を越えた技術的な知識にも踏み込んで、一つ一つを完全に自分のものにしなければ気が済まなかった。友子の探究心にとことん答えることに、真剣を交えるようなつばぜり合いがあって、極上の快感があった。

 友子の足はほぼ回復し、まだかばいながらの足取りで、痛みも完全に抜けきらないようだったが、ハンディは完全に克服されていた。黒川は、怪我からの開放を自分のことのように嬉しかったが、一方で、自分の役割は終わったとも自覚していた。これ以上の関わりは、私的領域となり、指導、被指導との関係から、ただの気の合う関係に成り下がってしまうと思っていた。

 友子とのつながりを完全に閉ざしたくないとの気持ちが働き、何とか係わる余地を残そうと悪あがきをし、潔く身を引くことができなかった。お節介から、もっと貪欲に指導していきたいとの気持ちもあったが、それ以上に友子をもう少し身近に感じていたいとの気持ちが強かった。

 かねてから考えていた、優良ユーザを友子に引き継ぐ作業に入っていった。退職を意識し、切り捨てがたいユーザを一つでも多く友子に引き継いでもらいたいとの希望もあり、退職の意向を気付かれないように慎重に対応していった。友子なら安心して大事なお客を任せられると確信していた。

 車や昼時の友子との会話は、黒川の人生にこのうえない彩りを添えてくれた。娘を持たぬ男にとって、めったに味わえない交流で、ふだんはベールに覆われて触れることのできない娘心を、直に感じ取っていた。

 黒川は、時代を憂え、次代に悲観的に成りがちだったが、友子との語らいは一服の清涼剤となっていた。自分が知らないだけで、人心地のする若い女性も少なからずいると思うようになっていた。まだまだ日本人も捨てたものではないと、おぼつかないながら甘い希望が湧いてきていた。

 友子が人気アニメーション映画のヒロインのように思えてならなかった。正義感に満ちた心優しい少女を連想させ、

「風の谷のナウシカみたいだ」

 と言ってみた。

友子は怪訝な顔をして、意味合いを解せないようだった。

「ナウシカがすごい人気があるけど、それは無いものねだりみたいなもので、正義感が溢れる優しい少女の姿が失われてしまったからではないのかな」

 友子は口ごもるように、

「今の女の子にも表現の仕方が違っても優しさはあるのだと思います」

 と言って、最後は幾分声が沈みがちに女の子を擁護していた。

それは、既に自分は少女ではないと意識すると共に、少女の実態を友子なりに憂えて、悲しそうな口調になったと思われた。

「自分のことばかりで人を思いやることを忘れている。大人も子供も関係無しで、世の中全体が自分勝手になっている気がする。殺伐としてきて何か狂っていると分かっていても、自分が優しくなれないで、他人に優しさを求めている。ナウシカのような少女を人の心が求めているのだよ」

 と言いつつ、見かけ倒しの自由と平和が足かせとなって、ヒーロー、ヒロインは絶対に表舞台に立てないとも考えていた。

 もし平和が乱されたなら、人心の成り行きとしてナポレオンやジャンヌダルクの登場を促し、スポットライトを浴びていたかもしれない。人心を攪乱する戦慄すべき社会であっても、表向きに平安が保たれている前提であれば、たとえ異常事態が勃発しても、全てが特例として安易に見過ごされ、うやむやになってしまう。平和との幻想を抱いているかぎり、どんなに素晴らしいヒロインが登場しても、おぼろげに輝く星でしかなく、散漫な心に映し出されることがない。むしろヒロインを渇望する本人が狂気を生んだ共犯者となり、ヒロインの登場は自らの置かれた立場を否定することになりかねない。

 友子はナウシカみたいだとの問いに何も答えてこなかったが、ナウシカが必要な時代であることを意識しているのは明らかだった。自分をナウシカに置き換えることは考えられないとする雰囲気が感じ取れたが、向けられた言葉を全く無視できずに、心が微妙に揺れ動いているのが分かった。

 黒川は、心の根底を流れる精神は友子と一致をみているような気がしていた。自分の差し向けた言葉が、友子を褒めるというよりも、いたいけな心に重く伸しかかり、傷つけているような気がして悔やまれた。

 友子から感じるものは、アニメのヒロインそのもので、透き通った瞳は、天使の輝きを持つ少女に相応しく、回りに対する気づかいは優し過ぎるくらいに繊細だった。接していると自然に心が安らいで、幸せな気分にさせてくれた。ひたむきな姿に、痛々しいほどに心細さが漂って、ヒロインに仕立て上げるのは残酷だった。

優しさを渇望する心自体が、テレビや映画の上で、たとえ作りごとに過ぎないヒーロー、ヒロインに感動を覚えても、現実のヒロインを感知する術を心得ず、夢と現実とが大きくかけ離れていくばかりに思えた。

 友子はきらびやかな表街道に躍り出てヒロインを演ずるよりも、裏街道を自分らしく歩むのが相応しい気がした。次代を担う新しい命に優しさを吹き込むことが、友子に課せられた役割だと勝手に納得していた。

 一人でも多くの子供たちに思いやりと優しさを受け継がせることが、狂気に満ちた時代を救う唯一の方法だと信じていた。同時に、自分の妻との幸福に包まれた生活を、一人でも多くの人間に語りたいと思った。一組でも多くの幸福な夫婦ができれば、子供に幸福をもたらすと考えていた。幸福を語ることが、他人の幸福にどんな影響を及ぼすか分からなかったが、幸福になる秘訣を少しでも感じ取ってもらえばと願っていた。

 黒川は今までも職場の仲間に自分の家庭生活を話してきたが、若者の関心が以外に高いのに驚かされていた。

子供を中心としてきた人生から、夫婦関係を最優先し、妻との時間を大事にしていることを語ると、多くの者から共感の声が上がった。結婚に対し、けっして安易でないことが分かり、ホッとさせられることが度々あった。

 若者も共働きに伴う結婚生活の難しさを強く意識しているようで、

「一馬力だと夫婦の役割が明確になって、お互いが頼り頼られで、価値観が自然一緒になり、気持ちを合わせていくのも簡単なのだよ」

 と語ると、否応なしに経済性と精神性を天秤に掛けざるをえないようだった。

「共働きになるとそうもいかない。収入が男女による差がなくなり、女性も自分一人でもやっていけるという気持ちが常にあると思うのだ。結婚しても自立心が先に立ち、ちょっとした行き違いで夫婦が互いにそっぽ向いてしまう」

 と語ると、誰もが結婚の難しさを感じるようだった。

「夫婦がいつまでも価値観を一致させていくのは難しいと思うな。お互いが意識的に価値観を合わせていかないと必ず破局がきてしまう」

 と語ると、大いに納得していた。特に女子は無視できない話として、真剣に聞き入っていた。

 友子とも同様な会話をすると、共働きによる夫婦のありかたについて、しっかりした考えを持っているのが伝わってきた。夫婦が互いに協力し合わなければ絶対に共働きは成り立たないとの考えで、常に話しい、協力し合うようにして、理想的な共働き夫婦を演じているようだった。

「協力し合っても、どうしも忙しくていらいらしてきてしまうのです。子供には絶対にあたらないようにしているのですが、その分だんなにあたってしまうのです。忙しくなると衝動的に買い物がしたくなって余計な物をつい買ってしまうのです」

 と言って、反省していた。

 黒川は共働きの経験はなく、友子が背負っている苦労は一度として感じたことがなかった。共働きをしなかった理由は明確で、子供を最優先するとの考えで、妻は家庭を守るという役割を、全く揺るぎない姿勢で保ってきた。それは、金と時間を秤に掛け、二人の意思として時間的ゆとりを選んだのだった。

 当然収入は少なく、経済的には常に逼迫した状況で、無駄遣いはできなかった。衣類などが節減対象となり、着ているものは安売りで仕入れたものばかりで、ブランド品には全く縁がなかった。装飾品などの、生活に不要な高価な物に興味を示す余裕さえなく、虚栄や虚飾とは一切無縁の充実した人生だった。化粧や衣裳に凝るよりも、優しさに彩られた笑顔を際立たせたほうが美しくなれると思っていた。

 子供に夢中になった人生は、迷いは全く生じずに夫婦の価値観が一致して、一体感を持った生活となった。子はかすがいという相乗効果が発揮され、夫婦関係も最高のものとなり、子供が足かせと感じたことは全く無かった。

 妻は生活を守るという姿勢が強く、変化を徹底的に嫌って融通が聞かないくらいだった。新しいことに対して何でも消極的で、あらゆる点で時代の非適合者だった。望む、望まないに係わらず、進歩という建前で時代に迎合する必要があった。生活に変化をもたらし、妻をも巻き込んで様々な変革を試みてきた。その都度妻の抵抗にあったが、結局は黒川を信頼しきって手放しで依存し、必要最小限の変革を果たし、時代に取り残されないようにしてきた。静と動が両輪を成して子育てには磐石な体制だった。

「子育てのことを考えると不安で仕方がないのです」

 と言って、友子は学校の実態を憂え、いじめと子育ての因果関係を解析できずにいるようだった。

「子供がいじめにあっても守ってやれないと思うのです」

 と言って、目の届かない世界での、我が子の姿を思い描いているようだった。

「学校を買いかぶっている親が多い気がするな。一クラス三十人も四十人もいるのだから、先生が生徒にできることなど高が知れている。ただ単に教科書通りに教科書を披露していけば本来の先生の任務を果たしているはずで、子供の人格を形成するのは全て親の責任なのだよ」

 黒川は、我が子の成長が自分や妻の影響によるもので、学校の果たしてきた役割は微々たるものだという自負があった。

「でもいじめに関しては学校の責任が大きいと思います」

「確かに学校の監視も必要だと思うけど、いじめは子供の世界で起こっていることで、監視が強化されても、いじめが行われる場所と形が変わるだけで、いじめそのものは少しも無くならない気がするな」

 と言って、友子の不安を増幅させた。

「親子の問題を学校に転化したがる親が多すぎるのだよ。子供を大事に思う気持ちはみんな一緒なのかもしれないが、子供を異常な世界に追い込んでいるのは親だと思うな。親自体が受験や就職に対して幻想を抱き、わけの分からない常識を持って子供の人生を規定している。子供のためにという前提で子供の人権を奪っている気がする」

 友子は、言わんとすることを理解しているようだったが、だからといってどうしたらいいのか分からない様子だった。

「親自体が有害な情報に振り回されていつまでたっても大人になれないのだよ。親が駄目だから子供も駄目になってしまう。親がもっと大人になって自信を持って育てていくことが肝要で、子供の個性を尊重し、ごく自然体で育てていけばいじめを恐れることはないと思うのだ」

 黒川は、我が子が学校を一度も嫌がったことがないのが自慢だった。子供は二人とも小柄で、見た目にはいじめの対象になるのではとの危惧を抱いたが、いつも楽しそうに学校へ通っていた。

長男が、回りから見ていじめられていると、担任が心配して言ってきたことがあり、本人に聞くと、

「相手にしていないもの」

と一言返ってきただけだった。

「共働きをしていると、忙しさにかまけて子供の顔色をいつも見ていてあげられない気がします。子供の様子をいつもつかんでいれば、いじめられているのもすぐに分かって対処のしようもあると思うのです。子供のことを思うと仕事を続けていくのが難しい気がします」

 友子はまだ二才に満たない我が子の行く末を気づかって、様々な思いを巡らしていた。子供を心底から思いやる表情は、母親が最も美しくなれる瞬間だと思った。一切の打算がない一途な姿に、黒川は言葉が出せないほどに心を打たれていた。

 時代の流れで、女性の社会進出が脚光を浴び、家庭内に閉じこもった女性は社会に取り残された感があった。女性の能力をフルに発揮していくことが望ましいと思ったが、仕事の価値がどれだけあるのか疑問だった。むしろ、子育ての価値を過小評価して、家庭を逃げだす口実にしている者も少なくない気がした。

 子育ては簡単なようで非常に難しい仕事だと思っていた。親が子に差し向けた行為が直接結果となって返り、最もやり甲斐のある仕事だと実感した。親子関係が良好であれば、現代に続発している青少年犯罪の多くが起こらないで済むと考えていた。むしろ問題のない親子を見つけるほうが難しいと思った。

 共働きが問題だと断定することはできなくとも、親子の触れ合いで育まれるものは計り知れず、共働きで失うものは少なくない。人生の目的は人それぞれで、自分のことを差し置いて、子供の幸福を最優先するのは時代遅れだが、肌の触れ合いで発する子供の笑顔は、どんな高価な宝石よりも光輝いて美しい。子供の笑顔に夢中になって夫婦で懸命に歩んできた日々は、究極的な満足感が支配し、正に人生の目的に相応しかった。

 友子の迷いに対し、子供を最優先すべきだと、黒川は高らかに宣言したいと思ったが、それは絶対に語るべきではないと分かっていた。理屈は充分に承知していても、感情が先走り、自分の力で友子を守ってやりたいとの思いが止めなく溢れてきた。

今まで友子を理屈や妻を通して濾過して見てきたが、今は感情で見ているような気がした。情が加わって門外漢に成れきれなかった。それは疑似的な親心だと自分に言い聞かせていたが、言い訳がましくて苦痛だった。

 帰宅すると、いつものように戯れ言を妻に投げかけることができなかった。しかし、沈黙が作りだした憂えある妻の眼差しは、稲妻が打ちつけるような、衝撃的な美しさがあり、抱きしめたいとの衝動に駆られていた。同時に、いつまでもわだかまりが抜けきれなかった友子に対する思いは、限り無く親心だと確信していた。

 黒川は妻を常に感情で見ていた。理屈で捕らえていたらそれほど魅力を感じななかったかもしれないが、妻に恋して、あばたもえくぼに感じていた。妻を恋する日々は、ロマンスがたっぷりの最高の人生だった。

 妻との触れ合いのなかで、五十歳になってもいまだに恋心を動かされている。日常生活は元より、散策や買い物、お茶や会食など、恋人気分で語らいを楽しんでいた。旅行ともなるとさらに気分は盛り上がり、心の通った珠玉のロマンスを味わい、それはお互いが優しくなれる瞬間で、妻が最も美しく感じられる時でもあった。

 黒川は、妻が美しく感じられる時々を語ってみたいとの思いに駆られていた。妻を語り尽くすことが、自分に課せられたライフワークだと決め込んでいた。それは、子供の手が離れ、二人の時間が中心になってから、ずっと思いつづけてきた。

 今までにも何度となく試みてきたが、時間との競争に敢え無く破れ、口先だけの大法螺吹きの域を脱することができなかった。黒川は五十歳になって、もはや人生に猶予がないと感じはじめ、今が人生の正否を決する最大の山場だと自分に言い聞かせていた。

 結婚二十五年を記念して、十一月に旅行を計画していた。旅行は四日間だったが、休暇は旅行日を含め、連続で二十五日間を予定していた。長期休暇は、妻の思いを書き綴るのが最大の目的だったが、同時に退職を模索するものでもあった。

 人生を決すると気負っても、ビジネスを越えた交流のあるお客を、そう簡単に切り捨てて、思いどおりに長期休暇を取れるはずもなかった。幸いにも友子という最良のパートナーを得て、お客を任せて心置きなく休めると勝手に決め込んで、着々と計画を遂行していった。もし今回の休暇で、思惑通りに人生の転換を図ることが叶ったとしたら、友子は人生の恩人になるのかもしれないと思った。

 友子は、足の状態が良くなると車の運転を積極的に買って出て、同行するときは友子が運転するようになった。運転は性格がよく現れ、友子の運転は真面目そのものだった。車の運転は、生真面目が向いているとは限らず、友子は前方とハンドル操作に真面目に気を取られ、少しも余裕がなかった。生真面目が回りの状況が見られないという大きな欠陥を生じさせた。

 黒川は友子の運転が気になって、親心を増幅させていた。車や歩行者の流れに応じた判断や、道路状況に応じたスピードコントロールなど、友子の欠陥点を遠慮なく指摘した。しかし、生真面目が仇となり、ゆとりの無い、融通性に乏しい運転となり、気づかいや気配りに長けているはずなのに、譲り合いが上手にできなかった。

 黒川は、今まで譲り合いの精神と程遠い不良ドライバーを多く目にして、自分勝手な人間の成せる業と規定し、いつも腹立たしく思っていた。しかし、友子の運転を見て、ゆとりがないために神経が行き届かないドライバーもいると知り、多少は同情的になった。

 ゆとりのない運転は、回りの景色が目に入らず、道を覚えるのが苦手となり、友子は同じ道路を走っても判別できないことが度々あった。頭脳明晰な人間が何で分からないのだろうといつも不思議に思っていたが、断片的な記憶を辿るだけでは、地図とイメージがなかなか一致せず、いつまでたっても道路を覚えることができないと分かった。

 黒川は、友子の道が不案内な状況を妻と比較して楽しんでいた。

「亭主を頼りきって、全く道を覚える気がないのだよ。行ったことがない所は絶対に一人では行こうとしないのだ」

 と言って、妻の怠慢をぼやきながら、

「甘やかせが悪いのだよ」

 と言って、のろけていた。

妻に過保護であったことを反省する素振りを見せながら、妻をいつまでも懐のうちに置いておきたいとの思いが勝っていた。

 友子にも妻に対する思いと同様な心持ちになりそうで、心のうちで首を横に振って、ダメダと自戒していた。

 黒川はお客訪問で、お客の視線に違和感を持ったことは無かったが、友子を同行し、偏見を帯びた視線が友子に浴びせられるのを感じることがあった。

外販活動に携わる女性が多くなってきていたが、男女平等もなかなか本物にならず、女性であるがために、男性にはない気苦労があるようだった。特にお客との会話のなかで、分からないと、発することに大きな違いがあった。

男が分からないと言っても、調べてきますで完了したが、女が分からないとなると、女だからとの蔑視の眼差しが浴びせられ、女性社員を悩ませるようだった。あからさまに偏見を見せるのはごく限られた人間だったが、偏見を一度感じると必要以上に神経質となり、お客の誰もが蔑視や好奇の視線を浴びせてきそうでしり込みしてしまうようだった。

営業知識を完全に身に付けてガードしてからでないと、販売に出られないとの思いに駆られ、男性より女性のほうが勉強熱心だった。しかし、勉強が及ばないと依頼心となって、経験や年の功を頼り、男性の同行を求める傾向にあった。偏見も否めなかったが、女性自身も独立心が旺盛とは言いがたかった。

 友子のお客応対を見るかぎり、知識不足による蔑視に悩まされる様子はなかったが、友子の鋭敏な神経は、好奇な視線を敏感に感じ取り、怖さとなって悩まされているようだった。

黒川も同様に感じ取って、女性であるがためのハンディが現前としていることを痛感していた。仕事と割り切って懸命に従事しているが、友子を好奇の目にさらしたくないとの思いがあった。

 友子の力になりたいとの思いが強まる一方だったが、それは友子に対する思いやりというより、自分のわがままでしかないと意識しはじめていた。友子には、かばってやらねばならないハンディは無いといってよかった。後は、親が子を思うごとく放ってはおけないだけだった。

 長期休暇に入るまでに、運転のノウハウをどこまで教え込めるか、道路をどこまで覚えさせられるか、優良なお客を少しでも多く引き継ぎたい、技術をさらに教示しておきたいなど、気掛かりは尽きなかった。子供ではないのだから放っておくしかないと充分に分かっていても、甘やかせが先行し、過保護になっていることは否めなかった。

 友子も過保護を薄々感じているようで、単独で行動したり、他の同僚と出たりすることが多くなっていった。反感というより、迷惑を掛けまいとの雰囲気があり、愛弟子の巣立ちと理解し、喜ぶべきだった。それでも同行する機会は閉ざされず、友子との時間を楽しむことができた。

 黒川は妻を書き綴ることを最優先にしていたが、機会を見て友子のことも是非書き上げてみたいと思っていた。現代に失われつつある、優しさに満ちた女性像として、次代に語り継ぎたいとの衝動に駆られていた。

 友子は正にきらきら星で、友子の存在を世に語り継ぐことは自分の役割であるかのように思っていた。友子のことを少しでも多く心に残し、一刻も早く書き綴りたいとの思いが疼いていた。

 休暇が間近になり、時間が無いとの切迫感に苛まれはじめた。理屈では友子のことは知らないことだらけで、微妙な女心を理解できるはずがないと言い聞かせていた。友子をどれだけ語り尽くせるかは疑問で、さらに貪欲に知らねばならないと自らに命じていた。

本当は、心が通じ合って友子を少なからず理解していることに気付いていた。ただ単に友子と少しでも長く接し、心に深く刻んでおきたいとのわがままでしかなかった。

 残された時間、成り行きとして友子との語らいが維持されてさらなる魅力を感じ取っていた。

それは母親との関係を語ったときで、黒川にとってはほろ苦い会話となった。

「母親と絶縁状態にあるのだ」

 と黒川が語ると、

「それは絶対によくないです」

 と言って、友子は猛然と反発してきた。

 妻との幸福な人生は、母と離れていることによって成り立っていた。二度の同居の時期があったが、世話にならないとの母の絶縁宣言で、二度とも破局を迎えていた。

 父を二十八年前に亡くし、年老いた母との同居を拒む余地は全くなかった。母は弟と同居していたが、弟が結婚すると間もなく不仲になり、黒川が受け入れることになった。

長男という意識から、

「母が望むならいつでも受け入れる」

との覚悟はできていて、妻も同意の上で同居の求めに応じていた。

母は年金生活だったが、父の労災年金によって、経済力は黒川に勝っていた。特に、同居に伴う家の建て替えで、黒川は多額な借金を抱え込み、母の援助を当て込んだ生活となっていた。

 嫁の姑に対する従順な姿勢は理想そのもので、初めは母も理想の姑を演じ、他人に嫁を自慢して、一切の不満は言わなかった。しかし、嫁への不満というよりも、自分自身の言い知れぬ欲求を満たせずに、捌け口がどうしても必要だった。同居して半年足らずで本性が剥き出しになり、謂われなき因縁を吐き出さずにはいられず、いつしか嫁に愚痴を零す日々となった。

 母の鬱憤は、多額な援助が絶対値となり、口答えは許せないとの妄想となって、最も弱く見える嫁へと向けら、暴発をじっと待つ生活となった。それはほんの些細な嫁姑のやり取りに過ぎなかったが、母は感情を剥き出しにして、嫁に対する不満を黒川にぶつけてきた。

 黒川は既に母の日常の言動に嫌気がさしていて、躊躇無く

「つまらないことでぐずぐず言うなよ」

 と一喝していた。

 母は口答えが許せるはずもなく、

「世話にならない」

との理由で別居となった。

 黒川は母を見捨てていたが、むしろ、母の援助で成り立っている経済状態を考えると、見捨てられたというのが妥当だった。母自身、援助を楯に取れば頭を下げて来るとの計算があるように思われた。

 借金財政による窮乏状態は尋常ではなかったが、苦しさよりも、家族が協力し合って危機を乗り越えるという一体感があって、むしろ貧乏暮らしを楽しんでいた。気兼ねのいらない家族水入らずの生活は、幸福このうえないもので、母の存在がいかに足かせになっていたか実感した。

破局によるマイナスは一切感じなかったが、理想を追い求める黒川にとって、長男という立場上、母との別居は限り無い汚点となり、唯一気になるところだった。

 行き来を完全に閉ざさずにいると、何年かして、母が再び同居の意向を匂わせはじめ、芳しくない体調も考慮して、受け入れ姿勢を示さないわけにはいかなかった。すぐに同居を求められ、黒川は同じことが繰り返されると予感しながらも受け入れていた。前回の九ヵ月を越えて、三年は持ったが、過去の苦い経験を生かせずに、妻への弱いものいじめが始まり、案の定、一回の口答えで全てが御破算になっていた。

 予感した成り行きとして、破局に対して何の抵抗もなかった。母に対する日常の気づかいは、申し分無い息子であり、嫁だった。それでも、言い知れぬ欲求に駆られ、従順な嫁を標的にして苛む母の姿に嫌悪すら感じていた。妻を守ることが何よりも大事で、断絶を少しも後悔していなかった。

 二度も同じことを繰り返し、三度目は絶対にありえなかった。絶縁状態がけっしてよいとは思わなかったが、接点を持てば三たび同居の意向を示してくる可能性があり、母の弱さを見せられると応じずにはいられなくなると考えた。同じ過ちを犯す恐れを感じて一切無視を決め込んでいた。

 母には経済力に裏打ちされた、誰にも世話にならないとのプライドがあり、心の交わりよりも金の価値が勝った人生となっていた。

精神性を重んじた黒川の生きざまとは相いれないものであり、どんなに尽くしても、母のいかんともし難い煩悩を満たすことはできなかった。

 黒川が、

「妻を守るのが大事だった」

 と、本音を言うと、

「確かにそうかもしれませんが、それでもお母さんと断絶状態にあるのは絶対によくありません」

 と言って、友子は自らの母に寄せる思いと重ね合わせ、断絶は絶対にありえないと力説しているようだった。

 友子の心情が痛いほどに伝わってきて、黒川は、自らの仕出かしてきた罪の重さを、針のような鋭さでつつかれている思いだった。母の非道を暴き、断絶を正当化して罪から開放されたいとの思いが走ったが、同時に、友子の優しさが一段と輝いて、母親を思いやる純粋な心を汚したくないとの気持ちが勝っていた。

「言わんとすることは良く分かる」

 と言うのが精一杯で、罪を負った自分をいかに受け止めているのか友子の心を推し量ろうとしたが、気持ちが萎縮して壁を感じ、とても見透かすことができなかった。

 家に帰るとさっそく妻に報告し、

「悪者になっちゃった」

 と言うと、妻は状況を全て飲み込んでいるかのように頷き、

「本当に優しい娘さんなのね」

 と、黒川の感じていることを代弁した。

 妻も同罪との思いがあるのか、僅かな沈黙と寂寥感が訪れたが、

「お前を守ることが一番大事だから」

 と言って、妻の手をそっと握った。

 友子には一切のハンディが無くなり、職場に於ける役割は、既に指導的な立場に立っていた。ややもすると、黒川が担ってきたお人好しを肩代わりするような状況で、割りの合わぬ苦労をさせてしまうのではと危惧せずにいられなかった。

 黒川は、誰に命じられたわけでもなく、勝手にお人好しを演じてきた。自らの仕事を犠牲にし、他人の仕事に係わることがどんなにも大変なことか痛感しながら、仲間との交流を楽しむとの建前で、嫌な顔を一切せずに続けてきた。

 初めは友子に試練を与えるつもりで、黒川を頼ってくる者を意識的に差し向け、指導的な役割を肩代わりさせていた。他人に頼られることによって自身の知識に磨きを掛けるとの目論見で、案の定友子の知識、技術は格段に向上した。一方で、お人好しのレッテルが貼られると、安易に頼まれやすくもなり、負担が大きくなっていくのが目に見えていた。

 友子の性分は黒川に酷似しているように思え、余計に引かれていた。特に、頼まれると嫌とは言えない性分が魅力で、優しさが成せる業だと思っていた。友子の思いやり溢れた懸命な姿は、宝石の輝きがあり、いつまでも変わらずに輝いていて欲しいと願わずにはいられなかった。

 憧れとは裏腹で、仕事を続けていくには、お人好しではいられないと思っていた。どんなに理想を求め、人間関係を重視してみても、仕事で生き残りを考えるなら、所詮は自己中心になっていくしかなかった。管理者や同僚も、お人好しの役割がいかに大事か分かっていても、物好きという枠組みを取り外すことはできず、黒川が担ってきた負担は、全く救済されることがなかった。

他人のことまでかまっていられないと言うのが本音で、ずるさも進歩と考えるべきだった。お人好しを通しつづけると、自分のように先行きが見えなくなり、職場に止まることが苦痛になってくるに違いなかった。

 友子の置かれた環境を少しも改善してやれなかったことが、何よりも悔やまれた。時代の流れで、合理化の波が止めなく押し寄せ、友子が働きつづけていく条件は、より厳しくなっていくのは明らかだった。

既に友子にしてやれることはなく、手の届かない存在と分かっていながら、自分で守ってやりたいとの気持ちを完全に消し去ることができなかった。

 友子は、ハンディを克服すると気持ちにゆとりができたとみえて、会話の内容もその一端を感じさせた。

 健康食品のことが話題となり、ダイエットの話になった。

「出産で体重が大分増えて元に戻らないのです」

 と言って、黒川には細身に見える身体を、結婚前の体重と比較して、友子は太っていると意識しているようだった。

「少しも太っているように見えないけど」

 と言って、黒川は行き過ぎのダイエットの問題が頭をもたげ、少々気になった。

「体脂肪率が高いのが気になって」

 と言って、色々なダイエット食品を試すと共に運動も心掛けていると話してきた。

 黒川は、大分気持ちにゆとりができたようだと安心する反面、ゆとりが余計なことを考えさせなければいいがと、少々危惧していた。

 友子はよく気が付き、よく気が回り、時には行き過ぎと感じられることもあった。今までにも、足の怪我のこともあって医療関係の話を聞かされてきたが、体調に異変があると医学書を見て、あれやこれやと心配となり、すぐに医者を頼っているようだった。

 黒川は丈夫だけが取り柄で、医者に用がないことを自慢にしてきて、医療については全く関心がなかった。

友子の博学ぶりに、

「医療の大家だな」

 と言って、ひやかしたこともあった。

 ダイエット食品のことを色々と並べ、論評を加えるのを聞いて、

「今度はダイエットの大家になっている」

と言って、冗談まじりにひやかしたが、あまり感心できなかった。

 友子の賢明さを充分に承知していても、よく気が付き、よく気が回る繊細さが、逆に情報に振り回されやすい性格ではないかと思われた。時代に翻弄されて、友子らしさを失わせ、優しさを喪失してしまうのではないかと気掛かりだった。

 黒川は、常に有害な情報を濾過する役割を担い、家族を守ってきたと思っている。友子の繊細な心は、どんなに気張ってみても押し寄せる情報を律しきれるとは思えなかった。情報を濾過する存在が絶対に必要で、重荷を軽減してやらねば情報に押しつぶされてしまうと思われた。

「ご主人にも、重荷を幾らか担ってもらうべきだ」

 と、何気なく語ったことがあった。

多くを語らずに、唐突に発した言葉で、友子が意味合いをどこまで解釈しているのか勘繰るつもりはなかったが、沈黙とは裏腹で、心では語りきれないほど言葉が飛び交っているように思えた。

 豊かなはずの社会にあって、仕事、家事、育児と、常に追い立てられた生活で、本当の豊かさが得られるのか疑問だった。ややもすると人生の目的すら見失ってしまう恐れがあり、たとえゆとりができたとしても、心の赴く先が、最愛の子供や夫よりも、きらびやかさと刺々しさに彩られた欲望の渦巻く世界だとしたら、思いやりが失せて優しさにも陰りが出てくると思われた。

 様々な思いが駆けめぐり、友子の行く末が気になって仕方がなかった。どうしても口出しをしたくなるが、それはただ単に独りよがりのおし付けに過ぎないと気付いて、言葉は心に仕舞い込んだ。たとえ情報に振り回されたとしても、時代に適合しようとするもので、けっして異常ではないと言い聞かせた。

 何もかもが、黒川には手が届かない世界のことで、友子の生きざまに口出し無用と、沈黙を守るしかなかった。

 沈黙は幻想となって、正義感のある優しさに満ちた少女が大空を羽ばたいていた。暗黒の世界に淡い輝きを放すヒロインが心地よく伝わってきた。変わり行く友子の姿を見たくないとの思いが強まる一方だった。素晴らしい思い出のなかにいつまでも友子を閉じ込めておきたかった。現代にヒロインなどいるはずがなかった。今まで感じ取ってきたことは全て夢であり、新たな人生の旅立ちに、神々より送られた餞別と解釈するのが妥当だった。

 長期休暇を前にして、黒川は普段と変わらぬつもりで、友子に引き継ぎを委託していった。自分では平静を装っているつもりだったが、やけに明るく振る舞ってしまい、友子には普段と違うと感じ取れたようで、怪訝な顔をした。

 銀婚旅行の計画書を渡し、

「何かあれば携帯に連絡して」

 と、引き継ぎを全て済ませた。

 友子は計画書を開き、

「素敵ですね」

 と言って、旅行日程を見ていた。

 「旅行記録も作るつもりだから、できたらあげるよ」

 と応え、

「女房のことを書き綴るのが旅行の目的なのだ」

 と付け足した。

 既に妻を語る作品の構想はできていて、友子にも語ったことがあった。友子には残された言葉の意味を薄々感じているようで、笑顔が返ってこなかった。

「女房のことが書き上がったら、坂崎さんのことも是非書いてみたい」

 と言って、黒川は友子の優しさに満ちた笑顔を求めていた。