住宅の役割

 住めば都と言うが、生活をしていく上で、住まい役割は非常に大きい。家の大きさや、持ち家かどうかの問題ではなく、どれだけ快適な環境かが問題である。住宅街を回る仕事をしてきて、住宅事情をわずかながら垣間見てきた。住宅の、生活に当てる影響について検証してみた。

2004年1月30日

 

2002年9月11日(水)の日記より

 アメリカナイズされて、日本でも資本主義経済を推進し、高度成長で国民全体が豊かになることを目指してきた。テレビなどでは資本主義経済がもたらした豊かさの象徴ばかり見せ付けて、置き去りになった最下層の生活は見てみぬふりをしており、現実の生活実感と大きくかけ離れているのではなかろうか。住宅の外面で生活を判断することは不可能だが、様様な想像をめぐらすことができる。多くの家を回っていて気になるのは、昔ながらの一戸建ての借家である。ほとんどが老朽化して、実際に人が住んでいるのは3分の2から半分ぐらいではなかろうか。玄関先まで草ぼうぼうの家が多く、雨戸が閉まっているので住んでいないかと思うと、自転車や車があって人の気配がしてくる。多くが細々と暮らしている様子が窺え、高齢者が大半で、けっして表舞台に立たない人々のようである。中には若者向けの自転車が置いてあることもあり、苦学している若者が利用しているのかもしれない。

 

2002年9月12日(木)の日記より

 生活ぶりが質素だからといって貧乏とは限らないが、高齢者の中には年金だけでぎりぎりの生活をしている人も少なくないようである。経済成長は国民全体に豊かさをもたらしたわけではなく、一部の人間に金が集中する傾向があり、豊かさは個人レベルでしか実現できなかったようだ。老朽化した一戸建ての借家は、正に貧富の差の象徴ではないかと思われる。細々とした暮らしの中にどんな喜びがあるのか分からないが、生きた屍となって、じっと死を待ちつづける生活だとしたら、余りにも哀れである。家庭崩壊、家族崩壊の証として孤立した生活となったとしたら、余りにも寂しい。実際に家に入り込まなければ分からない、単なる想像の話しである。貧困が必ずしも哀れであったり、寂しかったりするとは限らない。むしろ、豊かさがために孤立した生活をしている人間も少なくないのではなかろうか。

 

2002年9月13日(金)の日記より

 借家があるなら、必ず家主がいる。住宅メーカーや不動産屋の甘い話しに乗って、小遣い銭稼ぎで、大地主が次から次えとアパートや借家を建てたのに違いない。家賃5万円の部屋を10個持っていれば、月々50万円の収入となる。今や建設過剰で満室になることは少ないと思われるが、アパートを持つことは、資本主義経済の、豊かさの象徴でもある。日本は世界でも例を見ない経済成長を遂げ、アメリカに並ぶ経済大国になった。物が溢れ、使い切れないほどの物を所有する人は多くなったが、住宅事情だけは、経済成長に順ずることなく、甚だ悪い。家というのは城でもあり、自分さえ良ければという時代にあって、安らげる場所でありたい。

 

2002年9月14日(土)の日記より

 アパートなどの環境を見ると、物が溢れる時代でありながら物置が少なく、出入り口に物が散乱していることが多い。自転車などの置き場にどこも窮しており、生活通路にはみ出して、少なからず生活に支障をきたしている。物の散乱状態は年数のたった持ち家にも言えることで、全体的に整理整頓ができていない。物を買い集めることを学んでも、整理することは学んでおらず、玄関先が散らかって、出入りに不自由していると思われる家も少なくない。整理するにはそれなりの能力が必要である。現代人は情報に順ずるだけで、思考するのは不得手であり、物が増えれば所かまわず溢れ出してしまうのが成り行きである。新築当初は綺麗にしていても、何年かすると収まりがつかなくなるのが世の常である。昔は見栄もあって、玄関先だけは綺麗に保つことを気にしていたが、今は全く頓着がないようだ。人間はいつまでも進化すると考えたいが、今は退化していると考えたほうがよさそうである。

 

2002年9月15日(日)の日記より

 高度成長は多くの成金を産み、豪邸を築かせている。バブル崩壊で、折角の豪邸も廃墟となっているケースも少なくないが、いずれにしても腐るほど私腹を肥やした人が少なからずいるのは確かである。豪邸の多くが警戒厳重で、家庭事情を全く察することはできないが、閉鎖的な生活をしているのではないかと見ている。人生とは人と人との関係に終始するもので、経済的にどんなに豊かになっても、人間的な交わりが乏しければ、精神的に豊かな人生とは言えない。家族関係も金が取り持つ縁だとしたら情けない。ひがみ根性かもしれないが、豪邸を前にして想像するのは、老人が老朽化した借家で一人暮らしするのと同じで、言葉を飲み込むしかない、沈黙の世界である。

 

2002年9月16日(月)の日記より

 「住まいと人生」などと言うと大げさになるが、毎日憩う住まいが綺麗に整理されているかどうかで、人生が大きく左右される気がしてならない。最も身近な空間を、より良い環境にするのは簡単なようで大変難しく、それは住まいの大小や新旧には関係なく、家族に対する愛情がなければできない仕事なのである。「女は家庭」などと言っては怒られる時代であるが、いかに住環境を管理するかが生活の課題であり、他の仕事よりも重要なのである。くつろげる城を作れば、家族が勇んで帰ってくるだろうし、足の踏み場も無い状況では家に帰ること自体が億劫になってくるのに違いない。くつろげる場が無ければ心の平静が維持できなり、とんでもない人生を歩むことになる。現代は尋常でない人間が続出していることから考えても、くつろげる家庭、くつろげる住環境がいかに少ないかを示している気がする。

 

2002年9月17日(火)の日記より

 くつろげる住環境と言うのは、必ずしも綺麗に整理整頓されているからいいとは限らない。家を管理するのと同様、家族までも独り善がりの世界に縛り付けるようでは逆効果である。得てして既成概念にとらわれ、決まったレールの上を決まったように進んでいかなければ人間失格と勘違いしている人が少なくない。人間を型にはめては成長や進歩の阻害となり、くつろぐよりも針のむしろになってしまう。住まいも生き物であり、住人とともに成長していくものである。家族の成長に合わせて住環境を変えていかなければならず、それは正に創造の世界であり、最も難しい仕事の一つである。現代は「カリスマ」などとわけの分からない、様様な分野のプロがいる。自分や家族のことは自分が一番分かっているはずなのに、何事も自分や家族の個性で決めるのではなく、名のあるカリスマに委ねるのがもてはやされている。逆に言うと最も創造性に飛んで面白い事を他人に金を出して譲っているようなものである。住環境を自分や家族の意思でいかに進展させていくかが、家族の成長と大きく結びついていくのではなかろうか。

 

2002年9月18日(水)の日記より

核家族化が進んで、単身世帯が多くなってきている。何世代もの家族が一緒になって生活するのはごくごく限られてきており、子供を含めた2世代家族が大半で、アパートなどに三輪車や乳母車が置かれていることが多い。核家族化と比例し、離婚の増大で、中高年の単身世帯も多くなってきているようである。学生を意識したものから中高年を意識した単身用アパートが増えているのではなかろうか。毎日の生活に、ごくごく自然に会話が生まれる住まいから、一切言葉の不要な住まいが確実に増えているのが日本の現状ではなかろうか。

 

2002年9月20日(金)の日記より

 日本の国土は大変小さく、住居として求められる大都市周辺の土地は飽和状態と考えたほうがいい。緑との共存が人間にとって最も望ましい生活なのだが、余りにも多くの自然が失われてきた。緑が完全に不足している状態でも、経済活動が優先されて、いまだに自然破壊が繰り返され、住宅が建設されている。建築関係が活況を呈すれば経済効果が大きく、景気のカンフル剤になるのかもしれないが、全般的な住環境が良くなるとは限らない。大気汚染が進めば益々住みづらくなり、建築に向かない土地も住宅地になって、地盤沈下が激しく、まともに住めなくなった住宅も見受けられる。生活にとって住宅の役割は大きく、家も新陳代謝が求められるのは確かである。経済大国日本と自負する割に住宅政策は甚だ粗末である。不況の中、全ての国民が満足いく住環境を作り上げるのは不可能であり、悪化こそすれ良くなることはないだろう。

 

2002年9月21日(土)の日記より

 住まいの状態を問題にしてきたが、住む人間の方がさらに問題が大きい気がする。人間には持って生まれた才能もあるが、一人前の人間になるためには、知恵や良識を日々の暮らしの中で培っていかねばなれないのである。言い方を変えると、何でも分かっているような顔をした大人が、意外と何でも分かっていないのである。自分の都合のいいようにものごとを解釈して周りのことは気にかけず、マナーに反することを平然と行なっているのである。自分に都合がよければ問題を感じないのだから、他人に迷惑をかけても少しも悪いと思っていない。ことによると、良いも悪いも気が付かない大人が大半を占めているのではなかろうか。そんな大人たちは、マナーを学んでこなかったのと同様、知恵も学んできていないのいで創造性に乏しく、物をかき集める事はしても、生かす知恵が無いのである。住まいが生かされないのは知恵が無いからで、より良い人生も築けないのではなかろうか。

 

2002年9月22日(日)の日記より

 多くの家を回っていて、ちょっとの工夫で住みやすくなると思われることが多くある。この頃は「日曜大工」という言葉が死語になりつつあるようで、大工道具を持ち出す習慣がほとんど無くいなっている。「日曜大工」などというと、簡易な作業をイメージしてしまうが、けっして安直では済まされない。大工仕事をこなせると「器用」と誉める人がいるが、器用さの前に企画力がなければ手がつかない作業であり、知恵が大きな要素なのである。「日曜大工」が影をひそめている原因は、忙しさよりも知恵のある人間が少なくなった証ではなかろうか。生活を快適にするために、知恵を搾り出して住まいに手を加えることは、日常生活における重要な仕事なのである。生活そのものをうまくやっていけない人がどんどん増えているのではなかろうか。

 

2002年9月24日(火)の日記より

 日本は車社会で、住まいがどんなにみすぼらしくても車は高級車を乗り回している人が多い。車の役割と住まいの役割を比較すると、我輩は住まいに価値を見出している。車は安物でも高級車との違いはそれほど無く、人生に与える影響は限られている。ところが、日本人の収入では車は買えても家まで買えないとの現実があり、車への愛着が強くなってもいたし方がない。親の代から引き継ぐかたちでなければ中々家は持てず、核家族化が進んで独立独歩の世帯が増え、アパート暮らしが妥当となってくる。集合住宅がどんどん増えており、過当競争も起こって良い物件が安価で借りられる時代になっているのではなかろうか。アパートを有効に利用し、気分で借り換えを繰り返す生活も面白いかもしれない。だが、アパートの多くが、新旧関係なく、非常に乱雑に使われており、住まいとしての役割がそれほど大きくなさそうである。環境を整えることがくつろげる住まいの絶対条件であり、日本人がゆとりを持った生活ができないのは、人生の足場を確立できないためではなかろうか。

 

2003年11月16日(日)に日記より

 我が家を建ててから早18年になり、年数だけを考えると大分古くなったと言わざるを得ない。気分では少しも古いと感じておらず、生活が便利になるように、日曜大工の域を越えて、自らが多く手をかけてきて、今も発展中との感覚である。10年以上も前に、台所を出たところに野菜や食品が置けるように棚を作ったのだが、とりあえず使えるところまで出来上がると、横着をして、未完成のまま放置してきた。最近になって、本来の構想どおり、ゴキブリやネズミ、砂埃などの対策と、明かり取りを損なわないように、網や透明のエンビ板を使って扉や覆いをつける工事を再開し、本日完了した。ジャガイモなどを置く、虫が入らない工夫をした冷暗棚や、ネギなどを置く、網戸式の風通しの良い棚、そして、食品などの一次置き場として、ほこりが入らない素通しの棚など、主婦にとって非常に便利なボックスである。知恵を最大限発揮して、我ながら素晴らしいものが出来たと満足している。何ものも、手をかければかけるほど、古いと言って嫌うより、愛着が湧くものである。