スポーツ論

 日々のニュースの中で、スポーツ情報は欠かせないコーナーである。新聞にしても、一番読まれるのは、テレビ番組とスポーツ欄ではなかろうか。暇を持て余す時代にあって、見るスポーツが花盛りとなり、野球を筆頭に、サッカー、バスケット、バレー、テニス、ゴルフ、ラグビーなど、多くの人々を引き付けている。演出がほとんど省かれたスポーツは、やらせでは成り立たない、新鮮なドラマがあり、飽きさせることがない。

 メディアのみならず、企業にとっても、宣伝効果の高いスポーツは大きな価値がある。より有能な選手を抱えることが、企業の戦略となり、売上に大きな影響を及ぼす。否応なしに人気選手の争奪戦が繰り広げられ、最終的には、金銭が大きなものを言うことになる。選手の側からすれば、有名になることが、一攫千金の大望を叶える、最も見やすい夢である。他のことを犠牲にして、一心にスポーツに打ち込む若者が増え、中には幼児から英才教育を受けている。何も分からない幼児が、果たしてどれだけの意思を持ってスポーツをやっているのか、大きな疑問が出てくる。スポーツそのものが、いったい何なのか、考えざるを得なくなる。

日々、ジョギングやウオーキング、ウエイトトレーニングを欠かさない者として、スポーツの、人生における役割とはいったい何なのかを、日記で論じてきた。

2004年3月9日

 

2004年2月の日記から

 日本のプロ野球については、今まで一度も日記で書いたことが無い。サッカーに比べて興味が薄いと言うこともあるが、本音は、最近の野球は面白くないと言うことである。ヨーロッパサッカーは金で選手が動いており、金持ちのチームに有名選手が集まって、貧乏チームとの力の差が開く一方である。サッカーのスターになることが目的なのか、金儲けが目的なのか分からないが、資本主義経済にあっては、プロであれば金で動くのが当然なのかもしれない。日本のプロ野球も同じことが言えて、金持ちのチームがスター選手をかき集め、名前だけ見ればクリーンナップが9人揃ってしまう。それでも優勝できないのだから、面白いと言えば面白いのかもしれない。世の中何でも金、金、金で、他にもっと大切なものがあるのではと、つい考えてしまう。特にスポーツのあり方がどうあるべきか語らずにはいられなくなっている。

 日本ではプロ野球の人気が高く、観客動員数やテレビの視聴率は、他のスポーツの追随を許さない。特に読売ジャイアンツは、1試合あたりの観客動員数が世界一と言われている。サッカーより試合数が多いので、入場料収入だけで、余裕を持ってチームが維持できてしまう。セリーグの各チームもジャイアンツ戦があるので余裕があるが、パリーグは全体的に観客動員数は低調で、経営が厳しいようである。世界的に見ると、野球が盛んに行われている国はごくわずかで、アメリカと中南米、日本と韓国、台湾ぐらいで、他の国々ではいたってマイナーなスポーツである。日本はアメリカの影響を強く受けて早々とプロ野球が誕生し、メディアと一体となって人気を高めてきた。娯楽の乏しい時代にあって、野球が唯一の楽しみという人が多く、揺るぎない人気を誇ったのである。そんな時代に育った中高年の多くは、いまだに野球が中心で、サッカー人気が野球に追いつかない原因になっている。しかし、若者たちの間では野球よりもサッカーの人気が高まっており、休日のグランドでは野球よりサッカーをやっている子供のほうが多い。現代の子供は娯楽慣れして、選択肢が広くなっており、テレビの影響に関係なく、単純にサッカーが面白いからではないのか。中高年の多くは先入観で評価してしまい、惰性で野球を見ている気がする。最近のテレビは中高年の男性にとって面白いものが少なく、野球が唯一楽しみなっているのではなかろうか。ワールドカップサッカーフランス大会のころ、サッカーも野球のようにメディアが人気を操作しようとしたが、ファンは純粋に優れた選手を評価して、野球と同じようにはいかなかった。サッカーは地元意識が強く、地域と深く結びついて、全国区は成り立たなかった。全国区志向のメディア誘導型チームはいまだに人気が低迷している。この辺のところから考察していくと、スポーツのあるべき姿が見えてくる。

 スポーツがアマチュア全盛時代は、オリンピックにプロ選手は参加できなかった。アメリカを中心とした資本主義国は、多くの競技でプロ化が進み、優秀な選手はプロとなった。オリンピックに参加できる者は限られ、共産主義国の英才教育を受けた、プロと同等のアマチュア選手に太刀打ちできなかった。ソビエトや東ドイツが勢力を強め、オリンピックのメダル争いは、スポーツ大国アメリカも厳しい状況となっていた。資本主義国が中心となってプロの参加問題が論議され、やがてプロとアマの障壁が一つ一つ撤廃されてきた。同時に勝者には大金が入る仕組みとなって、勝つためには手段を選ばず、薬物使用の問題が常に付きまとうようになった。スポーツは自分が楽しむものから、見世物となり、金銭で買われる世界となった。「真実は小説より奇なり」で、作り事の芝居より、掛け値なしのスポーツが作り出す芸術は、多くの人々に感動を与え、けっして飽きさせることが無い。多くの人間が目を向ける世界は、宣伝効果が高いので、企業が手をこまねいているはずも無く、スター選手獲得に過当競争が繰り広げられてきた。今では選手の高い年俸で、資本力に乏しいチームは経営を維持できなくなってきている。企業のエゴでスポーツが左右されることが、果たして許されて良いのだろうか。

 資本主義経済が世界の主流になった現在、金銭が人間性よりも価値が高くなってしまった。「人間の尊厳」などと言ったら、いかにも古臭くなってしまった。現代は誇りを捨てて、心身ともに金銭で売買されることに、何の違和感も無くなってしまったのである。人間性を評価したいが、形となって表れない心模様は、あまりにも不透明で、姿形で評価するほうが簡単明瞭である。資本主義経済に相応しく、浪費を基本とした、見てくれを精一杯飾り立てるのがごく一般的な生き様になってしまった。スポーツも名前を売るための道具で、名前を売るためには手段を選ばず、フェアープレーに重きが置かれなくなった。勝つことが何よりも重要となり、サッカーなど、反則もテクニックの一つになってしまった。スーパープレーは反則によって遮断され、反則によるけが人が続出し、選手生命が絶たれた者もいる。明らかに犯罪行為である。「サッカーの王様」と呼ばれた、ブラジルのペレは、ワールドカップで徹底的に反則を仕掛けられ、まともに動けない状態になってしまった。当時は交代が出来ない決まりで、ブラジルは優勝候補にありながら敗退した。反則が大きな問題となり、ルール改正されて交代が出来るようになった。しかし、反則が減ることは無く、むしろひどくなる一方で、いまや手を使ったプレーが当たり前になってしまった。スポーツの人気はより優れた者へと向けられているが、人気の真相を見ていくと、資本とメディアが一体となって作り上げた幻想である。情報に踊らされた、一部の浪費家が人気を支えているだけで、本物の人気とは異なる気がする。昨年、J2のアルビレックス新潟が、サッカー年間観客動員数の新記録を作った。Jリーグ人気ナンバー1は浦和レッズだが、試合数がJ2のほうがはるかに多く、年間では新潟が断然多かった。新潟県民の、地元に根付いた熱い思いを窺い知ることが出来る。浦和レッズがどんなに負けても、サポーターはどこまでもバックアップしてきた。人間の心とは、身近なものに親近感を持つのが本当で、人間総体が金銭で踊らされていても、金で動かされる世界に魅力を感じていないのではなかろうか。

 夏の甲子園、高校野球の埼玉代表は、私立が多く、どうしても盛り上がりに欠けてしまう。私立高校は名前を売る方法として、最も手っ取り早い、スポーツでよい成績を残すことに力を入れている。公立高校は学区制度があって、地元の生徒しか入学できず、名前を売るために特別扱いをすることができない。私立高校には規制が無く、生徒の対象は全国区で、全国の野心のある選手を特別待遇で引き抜き、セミプロ化して、色々な競技で強豪となっている。野球のみならず、サッカーや陸上、ラグビーなど、ほとんどの競技が私立高校に軍配が上がっている。強ければ確かに全国的に知れ渡るが、地元ではほとんど関心がない。たまに甲子園に公立高校が出場すると、町を上げて大変な盛り上がりを見せ、大挙応援に駆けつけていた。ここ何年か、甲子園の人気が下がっており、明らかに、出場校の多くが私立になってしまったためである。高校野球に興味を示すのは、自分の家族や、親戚、隣近所、知り合いなど、地元意識によるもので、どこの誰かも分からないチームに興味が持てるわけがない。スポーツは、家族のスーパースターであることが最も大切なのである。どんなにへたくそでも、成長の証を感じ取れれば、最高のファインプレーとなる。スポーツの原点は正にそこにあり、儲け主義から発するメディアや企業の目指すものと、市民の求めているものと大きくかけ離れてしまったのが、現代のスポーツ事情ではないのか。

2002年ワールドカップサッカー日韓大会で、日本チームのテレビ観戦は、どの試合も史上まれに見る高視聴率を記録した。日本人には愛国心があるはずが無いと思っていたが、サッカーでは日本の勝利に国中が沸きあがった。特に若者たちは「ニッポン、ニッポン」と連呼して、声を振り絞って応援していた。明らかに国民意識が高揚し、中高年より愛国心が強いのではと思いたくなった。日本が負けて、韓国が勝ち残ると、今度は日本人の多くが韓国を応援し、アジア人としての意識が強く感じられた。そこには、明らかに地元意識があり、人の心は、より身近なものへと関心が向けられるのが自然なのである。Jリーグの基本理念は地域と一体となることが上げられ、チーム名に地域名が付けられている。浦和レッズや鹿島アントラーズなど、地域ぐるみでチームを支え、観客動員数が多い。他のチームも同様なのだろうが、それでも客足が伸びず、経営難に陥っているチームも少なくない。プロチームであるからには勝たなければならず、どのチームもプロ野球を真似て、地元とは関係ない、外国選手や、有名選手をかき集めている。世界の多くの国々ではサッカー人口が非常に多く、特定な地域でも優秀な選手が大勢いる。日本もサッカー人口が急激に増えており、地元にも素晴らしい選手がひしめいている。もし地元の選手でチームが作られたら、どれだけ人気が出るだろうか。身近な人間がチームにいたら、自ら関心が高まるのではないのか。さらには家族の関係、親戚の関係、隣近所の関係も強まり、人間関係が深まっていくと考えられないか。

人類にとってスポーツの役割は極めて大きいと考えている。日本を見たとき、物質的な豊かさとは裏腹で、精神的には極めて貧相で、殺伐とした事件が続発している。スポーツも資本主義経済の道具となって、スポーツに一攫千金の夢を見られても、人間が人間らしく生きる夢は見られなくなっている。何をするにしても、健康で安定した精神生活を送ることが肝要で、両者ともスポーツが叶えてくれると確信している。若者たちが誰でも夢が見られる時代にすることが、大人たちに課せられた課題であり、スポーツのあり方を見直すことが、その第一歩になると考えている。

 人生における、スポーツの役割とはいったい何なのだろうか。中には一生を通じてスポーツと呼べることをただ一度として経験していない者もいるようである。それでも、スポーツに匹敵する運動量をこなしている者が多く、仕事をスポーツと見るか、労働と見るかによって、スポーツ人口の比率が異なってくる。野球やサッカーのプロ選手は、スポーツが仕事であり、スポーツと呼ぶより労働と呼ぶほうが相応しい。安易に考えると、好きなことをできるのだから遊びの延長にも思えるが、実力が伴わなければすぐに戦力外となってしまい、明日の生活もままならなくなってしまうのである。他の仕事では、多少実力が劣っても何とかなり、収入は少ないが、プロスポーツ選手よりはるかに安定し、気楽である。スポーツの価値を感じられるのは、アマチュアリズムに徹しているときで、好きなことを好きなようにやれるのだから、心身ともに楽しむことができる。しかし、日本人の中で、スポーツを楽しんでいる人間がどれだけいるだろうか。小中学生では義務的にスポーツをやることがあっても、社会人になると、多くの者が運動らしい運動をしなくなってしまうのが実情ではなかろうか。

 日々の生活において、仕事や家事の負担が軽くなるようにするのが、社会の発展として位置付けられてきた。余暇を作ることが近代的な生活で、時間を持て余さないように、スポーツの意義が出てきた。時間の問題だけでなく、楽な生活になると運動不足が生じ、健康維持のためにもスポーツが重要になってきた。ところが、人間と言うのは横着なもので、楽に浸って、余暇を作った目的を逸脱し、ぐうたらな生活をする者が多くなってしまった。成人病なる奇病は、正に近代化の副産物で、無気力無節操な人間に取り付いた病と言える。様々なスポーツがプロ化して、優れた競技者を輩出する反面、運動と疎遠な人間が激増した。健康を害する者が多くなり、医療機関はいつも満員御礼で、多くの医者が大儲けしている。結局、資本主義経済が作り上げた人間構造は、金になれば何でもやるが、金にならないと、意義など関係なく、そっぽを向いてしまうのである。スポーツの意義を再認識し、健康を害してから、にわかにやるのではなく、健康で快適な生活を送るために、計画的に体を動かしていく必要がある。

 日常的にスポーツをやる者と、やらない者とでは、肉体の作りが全く違ってしまう。ただ単に競技能力の問題ではなく、仕事や家事、遊びをする上でも大きな違いが出てくる。食事が美味く、快眠ができ、通じが良くなり、日常活動が楽に感じられ、生活サイクルの潤滑剤となる。生活が快適になれば、何をするにしても快感となり、精神生活も充足してくる。人間が生きていくうえで、適度な運動は絶対条件であり、運動をしないことが異常なのである。受験戦争を煽るより、万民がスポーツを楽しめる環境を作ることが、近代国家の進歩、発展であり、地域の取り組みが重要になってくる。誰もがスポーツに参加して、関心を持つようになれば、地域全体のレベルアップが図られ、ごく限られた者の中から選ばれるのではなく、より多くの者の中から選ばれ、より優れた競技者を輩出することができる。