労働問題2003年版

 景気が低迷して久しくなる。政府は常に楽観的な見通しを立ててきたが、一部大手企業がリストラの成果が出て業績が上がっているようであるが、社会全般から見ると、少しも良くなっていないのが現状である。不況の根本原因が何なのか、本当は分かっているが、それを表立って言えないのが、一番問題である。

2004年1月30日

 

6月7日(土)の日記より

 人間、何も考えずに自分一人で生きていければいいが、それは不可能である。家族のみならず、学校でも、仕事でも、全てが人間関係で成り立っている。現代は登校拒否をする子供が多くなっており、正に笑顔を忘れた子供たちが選択した生き方なのではなかろうか。社会人になって仕事に付くようになると、戦場の真っ只中にいるようなものである。周りの人間は常に自分が得するように意識して仕事をしており、他人のことなど気にしていられないのである。本当は人間関係を楽しむことが仕事を楽しむ方法であり、拘束された時間を楽しめることほど得なことはないのだが、損得勘定には、上司に対するへつらいで笑い声を上げることしか計算されないのである。笑顔は人生の処世術で、どんな環境におかれても、うまくやっていくための、最強武装である。人間、笑顔を向けられると自然気持ちが和らぎ、損得勘定が一時的に消えてしまう。日常的に互いに笑顔を向け合えるようになると、会社という戦場で友ができるようなもので、武装を一層強固なものにする。友が一人増え二人増えていけば、チームとなって、自分の仕事を守る、イコール企業を発展させるために、仲間で互いに力を出し合い、文殊の知恵となって仕事を充実させていけるのである。仕事でスタッフという言葉が好まれて使われている。一人が勝手に動くのではなく、それぞれが持っている能力をフルに発揮できるように役割分担を決め、総合力を高めていこうというものである。スタッフとして機能を高める潤滑剤が正に笑顔で、笑顔が人生を楽しむ達人技なのである。

 

6月11日(水)の日記より

 人間は気持ちの持ちようで、同じ出来事でも感じ方が違ってくる。特に人間関係は非常に大きな違いとなり、職場など、利害関係のある他人が集まった環境では、相手がどんな人間か分からないで、警戒心をもって見ざるを得ない。慣れとともに一定の関係が出来上がるが、相手をライバルと見るか、仲間と見るかで、会話の意味が全く違ってくる。企業からすれば、社員全員がライバル意識をもって競争しあうのを望んでいるだろうが、それが必ずしも作業効率の向上とはならない。人間一個の知恵など高が知れており、やれることが決まってしまうが、仲間意識をもった者が何人か集まって文殊の知恵を発揮すれば、可能性がどんどん広がっていく。日本の企業は、株式会社であっても、社長のワンマンが事業運営に大きくかかわっている。高度成長やバブルなど、人間の狂気に乗じて、下手な鉄砲も数撃てば当たるで、大した政策がなくても何とかなったが、景気が低迷すると、途端に破綻をきたした企業が少なからずある。社長が企業を成長させるわけではないのに、幻想を捨て切れないで、私腹だけ肥やして会社を駄目にしてしまう。企業は人なりで、社員がいかに能力を発揮できるかが命運を決めるのである。同じ職場の人間が、仲間と感じられるかどうかが重要で、仲間と思って接していくと、実に仕事が楽しくなる。

 

6月12日(木)の日記より

 家族で互いに頼りあって生活していると、互いの存在感が大きくなり、家に戻って家族と顔をあわせると、気持ちが安らいで、自然と笑顔が醸し出される。家族の存在が生きる力を与えるのが本来の姿なのだが、現代は、一緒にいても精神的に繋がりが無い家族が増えている。家には寝に帰るだけという、安らげる場所を持たない人が多くなり、時間の過ぎるのを忘れ、自分を忘れることが唯一安らぎとなっているのではなかろうか。職場にあっても同様なことが言えて、同僚が仲間なのかライバルなのかで、自分の居所が有るか無いかの違いが出てくる。仕事が面白いかどうかは、仕事の中味よりも、仲間とどれだけ上手くやっていけるかが鍵となり、互いに笑顔を向け合って安らげるようになることが、仕事の価値を決めることなのである。株式会社であるならば、職場は社長のものではなく、社員一人一人のものであり、社長の顔色を窺うよりも、自分の職場をいかに発展させるかが重要で、能力をフルに発揮することのほうが大事なのである。裸の王様となって、過ちを過ちとしてものを言えない企業は、景気が厳しくなれば破綻をきたすのは必定である。職場の不文律が守られないのは、社員自身の自覚が無いことも大きな要因で、社員の能力となって、職場が維持できなくなってしまう。家族にあっても笑顔が人生の価値を決め、職場にあっても、笑顔が仕事の価値を決めるのである。

 

6月13日(金)の日記より

 ここ何年か、破綻する企業が多く、過去のように名前だけで安定企業と格付けするのが難しくなってきている。証券会社や銀行、保険会社などの金融機関を初め、スーパーやデパート、IT関連企業や食品メーカなど、あらゆる業種に渡っており、かつては考えられない、冷え切った景気状況である。株式会社法では、会社が倒産しても、個人の資産に類が及ばないように規定されていている。社長は私腹を限りなく肥やしていても責任は免れ、社員がリストラの憂き目にあって、明日の生活もままならなくなっても、左団扇で美食をむさぼっている。ワンマン社長でも、私財まで投げ打って企業を守ろうなどと考えておらず、口から出任せ出放題で、企業の存亡に、害になっても益にはならず、無責任極まりないのである。民間会社と言って、あたかも私的な企業と思われがちだが、株式会社と名が付いた以上、運営の自主性を持った、公的な事業なのである。国民の雇用を創生するのが目的と考えるべきであり、能力の無い社長は社員が糾弾して交代させるぐらいの気概があってしかるべきである。社長にへつらって、裸の王様を作り上げたとしたら、社員の重大な責任問題なのである。残念ながら日本企業では相も変わらずイエスマン社員が大半で、倒産して慌てるしかないのである。不況下にあっては労働組合も機能しておらず、失業者増大の歯止めが利かないのが現実である。これから高齢化が加速して、年金を受給する者と積み立てる者との逆ざやがおこり、どうやっても国家運営ができなくなってしまう。

 

6月15日(日)の日記より

 社会は富みのバランスの上に成り立っており、富のバランスが大きく崩れると、社会は維持できなくなる。経済発展で、日本全体の財産は膨大になり、最下層の収入でも一定の水準が保たれていたが、世界経済の力関係が大きく塗り替えられ、日本全体の財産は小さくなる一方で、同時に富が一定の層に集中してしまい、社会全体のバランスが維持できなくなっている。食うことを心配したことがなく、危機意識を少しも持てない国民性であり、今日の食うものが無くなって、初めて問題解決に乗りだし、解決策として出てくるのが、最も即効性のある、泥棒や強盗など、犯罪なのである。食うために犯罪へ走るのだから、命がけであり、目的を達成するには殺人もいとわない。殺伐とした事件が相次いでおり、食えない人間が確実に増えてきている。預貯金で生活を維持している者が多くおり、行き着く先をどこまで意識しているのか分からないが、何年もしないうちに食えない人が増大し、混乱が起こる可能性がある。同時に日本の国家財政は借金の上に成り立っており、景気回復が遅れると破綻をきたして、国家そのものが成り立たなくなってしまう。財産は国家が維持できて初めて価値があるもので、国が滅びてしまったら、何の価値もなくなってしまう。逆な言い方をすると、富を独り占めするより、バランスを保った方が大きな価値、大きな財産を持ったことになる。日本の現状を考えると、財産を維持するには、国のために財産を生かすしかないのである。

 

6月16日(月)の日記より

 経済を発展させるには、需要と供給のバランスが保たれることが重要で、日本の景気回復が遅れている要因として、一般消費の鈍化が上げられている。どんなに多く生産しても、買い手がなければ価値が無く、ゴミとなってしまう。高度成長経済にあっては、人間の持つ狂気を煽っていれば限りなく物が売れたが、収入が少なくなると、今までの浪費ペースで物を買い揃えることが難しくなっている。景気が悪くとも、全く無関係な浪費家をターゲットにした商売だけは維持できても、ある程度景気を勘案する一般消費者をターゲットとした商売は、どこまでも冷え切っている。日本の経済は必要ベースの需要供給だったわけではなく、余剰ベースで営まれてきて、生産ラインの適正化が遅れた企業から破綻をきたしたと考えられる。失業者の増大は、消費を一層冷え込ませ、倒産が相次いでいる。海外から安価な商品が入り込み、需要供給のバランスが完全に崩れてしまい、悪循環がどこまでも続いて、景気回復は不可能である。

 

6月17日(火)の日記より

 最低賃金制度というのがある。これ以上低い賃金で雇ってはいけませんと、規定してあるようだが、多くの若者が最低賃金ぎりぎりの収入に甘んじているようだ。企業の存亡を前面に出し、倒産か賃下げかで、労働者を威嚇し、有無も言わせずに労働者は安く買いたたかれている。仕事に夢を持つことができず、能力を発揮する場がどんどん失われ、仕方なく時間を過ごしている。安売り合戦が主流で、知恵を競い合う、付加価値のある商品が陰を潜めてしまった。技術力を売り物にしてきた企業も、安売り合戦に巻き込まれ、結果的に実績が上がらず、改めて技術力で勝負するように、方向転換する企業も出てきている。人間の持つ知恵や能力をどれだけ引き出せるかが、結果的に企業の力となっている。社員がノーベル賞を取ったら、途端に売上が伸びたようだが、企業の能力は少しも変わらないはずで、国際的に評価されて、やっと日本でも価値を認められるようになった。日本人自体が技術を評価する能力を持ち合わせておらず、競争の焦点が全くずれてしまっている。人それぞれの個性や能力をいかに引き出すかが、企業にとって最も重要なことなのだが、安い賃金で買いたたくことが、いまだに能力と錯覚している愚かな企業が数限りなくある。

 

6月18日(水)の日記より

 日本企業は、昔ながらの、売る側の恣意で商いがされていることが多く、消費意欲をいかに煽るかに力点がおかれている。外資系企業の中には、消費者のニーズを引き出すことに力点を置いているところもあり、日本企業が押され気味になっている。日本の消費者は選別能力に乏しい者が多く、消費者契約法なるものができて、消費者を守ろうとしている。考えない国民性であることを示すもので、そんな消費者を考えさせて、物を売るのは、非常に手間のかかる仕事であるが、信頼を得るには最良の方法であり、深い関係ができれば自ずから後へと商売を継続していける。固定客の存在は大きく、企業経営に欠かせない条件である。景気のいいときは、裏取引で公共事業と関連づけ、安定した利益が得られたが、掛け値なしの競争化に置かれると、正に信頼をいかに売って行けるかが、勝敗の分かれ目になってくる。牛肉偽装事件などのように、信頼が失墜すると、一気に会社が維持できなくなってしまい、日本の経営者がいかに能力が低いかが分かる。銀行の国有化が話題になったが、民間の活力などと言って、公営を悪者扱いにして、どんどん民営化してきたが、民間の活力が幻想に過ぎなかったという証である。個人の利益を考えて商売をしている経営者がほとんどで、国の存亡に貢献できる企業など無いのではなかろうか。

 

6月28日(土)の日記より

 大きな交通事故や、殺人事件が毎日ニュース番組を賑わしている。事故を起こした本人が死亡しているのでハッキリとしたことは分からないようだが、交通事故の原因に、過労や飲酒による居眠りが上げられている。現代は、労働基準法はあってないようなもので、法治国家とはとても言えず、不当労働行為が公然と行われている。会社の存亡を楯に、リストラをちらつかせて、経営者が私腹を限りなく膨らませているのと裏腹で、安い賃金で目一杯働かされている。過労とストレスで、車を使って仕事をする人は、常に事故と隣り合わせである。仕事に夢をもてなくなった人が社会の大勢となっており、気持ちが荒んで事件を起こす者が多くなっているのではなかろうか。事件事故の本人責任は無論重大だが、社会責任も無視はできない。世界のトップクラスにある豊穣国家のはずだが、精神は貧相そのものである。

 

9月12日(金)の日記より

景気低迷によって求人が少なく、就職難は深刻である。就職できたとしても、就職難を傘にきて不当労働行為を公然と行っている実態がある。労働基準監督署は実態を把握しているはずだが、監督署として全く機能していない。観光バスや貨物など、居眠り事故で大きな惨事となり、大きな問題となっている。ベテランドライバーが何故事故を起こしたのか追求していくと、多くが無理なスケジュールによる過労が原因である。多くの企業がリストラを進め、会社で生き残るには無理を承知で仕事に応じなければならない実態がある。労働組合が全く機能せず、多くの労働者は自己の保身に躍起になっている。労働基準監督所は事故が起こって始めて調査に乗り出すだけで、労働者の基本的人権を守ろうとせず、過労による事故を未然に防ぐこともなく、怠慢も甚だしい。これから何日か、基本的人権と不当労働行為について論じてみようと思う。

 

9月16日(火)の日記より

現代は就職難を傘にきて、不当労働行為を公然と行う悪徳企業が多く、憲法で保障された基本的人権が踏みにじられている。労働基準法に則った良心的な企業にとって、悪徳企業のルール無視の競争力は脅威となり、正常な雇用と正常な企業運営の阻害をしている。民間の競争力などと言っても、反則を平気で犯すようでは公正な競争条件とは言えず、国家の発展を大きく阻害していることになる。企業と政治家の癒着はいかんともしがたく、金で政治が動くいじょうは、儲けさえすれば、悪徳企業であっても優遇されてしまうのである。

 

9月17日(水)の日記より

日本の経済は大量消費で成長してきた。消費の多くが、生活に必要のない浪費であり、必要のないものを必要と感じさせ、無理やり売りつけてきたのである。消費者が賢くて、製品やサービスの価値を判断できればよいが、社会そのものが何も考えないことを強要し、見識の無い人間を作り上げてきた。受験戦争が正にその象徴で、受験に適合するには何も考えずに詰め込むことが肝要であり、企業が学歴偏重を前面に出して親心を縛り付け、何も考えずに受験勉強の専念する、思考力に欠けた若者を作り出した。企業が示す情報に順じた人間が優遇される、人間の尊厳を無視した社会が出来上がったのである。

 

9月18日(木)の日記より

この頃はあまり使われなくなったが、イエスマンという言葉がある。企業において何事も良否の判断をせずに、上司の言いなりになる人間である。自らの仕事に誇りを持たず、言われることを言われるままに行動するだけである。企業というのは、企業の発展よりも自らの保身が重要で、上下関係においても、企業に有用な人間を重視するのではなく、自分の都合のいい人間を有用視するのである。イエスマンが企業で生き抜いていく処世術で、末端の社員も、結局は自らの保身に終始し、裸の王様を作り上げている。各支店、各支社、各企業に多くの裸の王様ができあがり、現場のことを知らない、無知無能な人間で企業運営がされていく。高度成長下の、大量消費の時代であれば能力を必要としないで、尻たたきやコマーシャル、贈収賄で成り立ったが、景気が落ち込むと本来の能力が求められ、イエスマンばかりの企業は時代に適合できなくなるのである。

 

9月20日(土)の日記より

 日本の労働者は権利意識が低く、労働契約との考え方を理解している者が少ない。会社に採用されると誓約書を書かされ、会社側だけの、就業規則に則った、解雇の可能性を強調している。本来は、労働契約に基づいて、労働者は労働力を売るものであり、会社側の契約違反に対しても、労働者は労働基準法に則り、労働基準監督所に会社を訴えることができる。現代は、多くの会社が就職難を傘にきて平然と労働契約違反を行っており、多くの労働者は泣き寝入りをしているのが実態である。それは、労働者自らが権利を知らず、「労働時間を超えて拘束するのはどこの会社でも当たり前」などと、上司や先輩社員の偽った情報に振り回されてしまうのである。拘束時間が長すぎて会社が嫌になると、あたかも、やる気が無い脱落者として扱われ、肩身の狭い思いをして、会社を辞めることになってしまう。不当労働行為を公然と行い、押し売り同然の営業活動をする企業は、営業の求人を常にピーアールし、初めから長く続かない前提で年がら年中数多く募集している。採用しても、試用期間との名目で、最低賃金に達しない安い賃金で働かせ、元々売れないものを、「下手な鉄砲で数打てば当たる」とのやり方で、とにかく、数多くお客との接点を持とうとしている。企業が人権無視を平然と行っている要因として、先輩社員が企業の不当労働行為を容認しているからで、人生を全く保証してくれない企業に人生を限りなく拘束された、愚な労働者が数多くいるからである。

 

9月21日(日)の日記より

 労働者の地位が低いのは、労働組合の役割にも起因している。日本の経済が高度成長期に、労働組合は「国民春闘」と言って、意気盛んに賃上げ闘争を行ってきた。あたかも国民を巻き込んだ春闘のようであるが、現実には大手企業を中心とした、限られた層の、恒例儀式以外の何ものでもなかった。食うのがやっとの時代から、経済が安定してきて、国民全体が大同団結できる環境を作り上げる、最もいい機会であったが、企業労組の枠を超えることはできなかった。中小企業を中心とした未組織労働者の組織化は進まず、むしろ、御用組合と言って、会社の利便を図る、労働者の地位向上にとって大きな壁となっている組合も少なからず存在した。日本の労働組合は、労働者自らが権利意識を持って勝ち取った組織と言うよりも、不穏分子を押さえ込むために、経営者側から与えられた、欧米を真似た組織と言った方が合っている。民主主義がアメリカによってもたらされたように、労働組合も外国の影響を受けて組織化されたもので、物真似文化そのものであり、日本の労働者が、権利意識が低いのは当然のことなのかもしれない。

 

9月22日(月)の日記より

 労働組合が、企業従属の組織に過ぎず、企業の経営悪化に対して歯止めをかけられず、倒産の憂き目にあい、結局は労働者の地位を確保できないことが多い。不況になると、会社側の言いなりに、リストラや労働強化、賃下げに応じており、企業が資本家や経営者の私物として位置付けられている。株式会社の名を名乗るからには、株式法に基づいて擁護され、社会性を持ったものでなければならない。個人の意思で自由うに動かすことなど許されるはずが無く、そこに働く者の権利は、少なからず大きいのである。企業の経営に問題があれば是正していくのも労働者の役割で、多くがイエスマンとなって、経営悪化に対して何の歯止めになっていない。企業が破綻すれば自らの職場は奪われるわけで、むしろ、職場を確保するために言うべきことを言うのが本来の姿である。残念ながら日本企業においては、労働者自らが経営に参加する意思が無く、上司のご機嫌伺いが最大の保身術と心得ている。多くの人間がそうだから、企業そのものが能力主義から、自分の都合のいい人間を有用視する、ご都合主義を助長するのである。

 

9月23日(火)の日記より

 基本的人権を意識して生きているものが果たしてどれだけいるだろうか。日本の民主主義や経済、憲法は欧米を真似て作られてきたが、生きていく上での基本的人権については少しも育たなかった。欧米では、「人間は生まれながらにして、自由かつ平等」との基本的人権が国家の基本原理として確立され、日本国憲法でも、「平等権、自由権的基本権(人身の自由・精神の自由・経済の自由)、社会的基本権、参政権」などが規定されている。これだけ立派な基本的人権を有していながら、日本では、自由の権利でも最後に位置する「経済の自由」ばかりが独り歩きして、政財界の癒着や、献金との名目で贈収賄が公然と行われ、国家を動かしてきた。「金が力なり」で、どんな手段であれ、多く儲けたものが強者であり、正義となって、資本家や経営者に有利なように国家が運営されている。憲法で最初に規定されている「平等」との基本的人権は根底から守られていないのである。

 

9月24日(水)の日記より

 日本人に欠如しているのは、基本的人権の中でも「人身の自由・精神の自由」である。物真似文化は、個性を作り上げるよりも、イエスマンに象徴されるように、利己主義型資本主義経済に適した、規格型人間を作り上げている。入社すると多くの者は、労働条件は賃金面ばかり意識して、「労働力は売るが、精神まで決して売らない」との、人間の尊厳を失っている。労働時間内は精一杯働くが、時間を過ぎれば自らの意思で生活を精一杯楽しむのが、正に、人身の自由・精神の自由である。残念ながら、経営者の思惑通り、労働者自らが同じ職場の仲間同士で牽制しあい、拘束しあって自由を抑制している。それは、ただ単に現代だけの話ではなく、長い歴史においても、常にごく一握りの権力者によって人身の自由が抑制されてきた。現代も、精神の進歩は少しも無く、形こそ変わっていても、金という力を持った権力者に支配されているのである。

 

9月25日(木)の日記より

 基本的人権が守られないのは、「経済の自由」を悪用して、社会そのものが金で動いているからである。社会は国民自らが動かすものであり、そのために「参政権」がある。現代の金権体質を容認してきたのは、経済界の利権を代表する自民党を、選挙で選んできたからである。独裁主義ならいざ知らず、国民自らが、汚職の絶えない政党を営々と許容するなど、通常では考えられない変事であり、日本は異常といわざるを得ない。逆に言うと、政財界の悪行を見極める知恵がないのである。何度も言うようであるが、イエスマンとなって、何も考えない物真似人間が多すぎるのである。政界における対抗勢力が弱体と言うのも否めないが、それも、労働者を代表する政治家や指導者が創造力に乏しいからである。目先の利益しか見出せないチッポケナ人間が、日本人を代表しているのである。