幸福論

 誰もが幸福を願っているのに、幸福と縁の薄い人間が増大しているのではなかろうか。幸福そのものが何なのか分からなくなり、消費を中心とした欲求を満たすことに、幸福を求めているのではなかろうか。日本は物質的には世界に誇りえる大国であるが、社会を揺るがす事件、事故を考えると、多くの人間が不幸を背負って生きているのが浮き上がってくる。日記で幸福について論じたものを、「幸福論」として編集することにした。

2004年4月20日

 

2004年3月22日から27日の日記より

前段で、「季節外れの大雪」と書きながら、35年前のことを思い出した。我輩が二十歳のときで、3月に大雪が降った。東京で30センチにも達し、交通が大々的に麻痺した。大雪だけでなく、近頃頻発している、幼児虐待や、殺傷事件、交通事故など、時代の移り変わりの歪が、35年前にもすっかり同じように起こっていたのも思い出した。当時は狂信的な過激派学生が集団暴力や殺人事件を起こし、社会を震撼させたが、オーム真理教が起こした悪逆非道な事件と大変類似している。幼児虐待や誘拐殺人、青少年犯罪、連続殺傷事件などが多発し、35年前も殺伐とした時代だった。時代は間違いなく変わってきているが、現代が抱える病巣は、既に30年も40年も前に始まっていたのかもしれない。幸福の形についても、既に35年前から、家庭の価値観が薄れ、経済が作り上げる豊かさに重きが置かれていた。見方によっては、今も昔も少しも変わっていないのかもしれない。昔は慣れないために、躊躇いがあって抑制されていた不良行為が、時を刻むのに合わせて慣れてしまい、善悪関係なく、多くの若者が、素直に不良行為するようになっただけではないのか。さらに探求していくと、自由に幸福を求めているはずが、常に不足を感じており、多くの者が幸福の原点を見失っているのではなかろうか。幸福の姿は、時代が変わろうとも、少しも変わらないのではなかろうか。

人間の幸福というのは、時代とともに変わるものなのか、考察してみる必要がある。時代とともに文化、習俗、習慣が違ってきていることは確かである。多くの人間が、時代に適した欲求に基づいて、豊かさを享楽していることと思われる。豊かさとともに、万民が幸福になったと、断言できればいいのだが、本当に充足した生活を送っている者が、果たして何人いるのだろうか。幸福の基準は、より高価で、より多くの物を持っていることなのだろうか。名前を売って大金持ちになることなのだろうか。資本主義経済を維持していくには、全てが金で動くという原則を守っていかねばならないのである。手を替え、品を替え、あらゆる手段を使って消費文化の発展を遂げてきた。必要不必要、善悪、良否関係なく、消費意欲をそそることが、資本家の意思を受け継いだ国家の至上命令で、国民の意思と大きくかけ離れていたのではなかろうか。男女同権が騒がれたのは、卑下された女性の鬱憤から起こったものなのだろうか。男尊女卑と社会を糾弾するほど、女性が苦しめられていたのだろうか。女性の社会進出が叫ばれて、女性の地位が本当に向上したのだろうか。男女雇用機会均等法ができて、女性が働きやすい環境となったのだろうか。人間が人間らしく、男は男らしく、女は女らしく、子供は子供らしく、自然体で生きていくのを、根底から覆してきたのではなかろうか。現代は、どこまでも不自然な生活を強いられているのではなかろうか。

高齢化社会を向かえ、地方では過疎と高齢化が進み、ややもすると置き去りになった社会に思えてくるが、テレビなどで映し出される、長寿で知られた過疎地のお年寄りが、大変元気で、明るいのに驚かされる。非常に充実した日々を送っているのが窺え、痴呆や寝たきりと無縁の世界である。元気なお年寄りの健康法は、ごくごく自然体で生活することで、余計な情報に振り回されていないのが分かる。生きる役割を持ち、遣り甲斐を感じ、存在感溢れる人々で、人間が本来持っている欲求を全て満たしているのではなかろうか。幸福を考えるとき、そこに大きなヒントが潜んでいる気がする。我輩の人生を振り返ると、順風満帆で、幸福そのものであった。幸福を感じさせる大きな要因は、妻や子供にどこまでも頼られていたからである。荒んだ社会にあって、妻や子供達が安らげる生活を送れるよう、精一杯生きてきた。目的を持った生き方には、迷いが無く、どこまでも充実した生活となった。家族の気持ちが一つになると、互いに存在感が感じられ、家族との交流は、どんな美酒よりも味わいがあり、煙草よりも、安らげるひと時となった。人間が最も求めているものは、家族が中心となった、人と人との、心の交わりでではないのか。離婚率の増大、家庭内離婚、家庭崩壊、家庭内暴力、幼児虐待と、本来最も安らげる世界が、どこまでも腐敗しているのが現代ではなかろうか。

現代は足元が見えない社会である。常に遠くを見るように仕向けられ、自分の目線で見るのではなく、背伸びをして、自分らしさを全て削いだ形で、世の中を見ているのである。言い方を替えると、型にはまった生活を強いられ、見識を持たずに、盲目的に突き進んでいるのである。目的としたものが、本当に幸福をもたらすものならいいが、現実には、幸福と縁の薄い人間が多く存在している。動物には個性が存在する。同じ種族でも、個々の行動パターンは異なり、せっかちのものもいれば、おっとりしたものもいる。素早いものもいれば、鈍重なものもいる。人間は特に個性が強く、個人差を一本化するのは不可能である。それぞれが持って生まれた性分を無理に殺して、型にはめることは、疎外に他ならない。幼児虐待は、正に、子供を親の思い通りにしようとする表れである。虐待をする、しないに関係なく、親となった多くの人々が、訳の分からぬ社会通念で、子供を縛り付けている。親であれば、子供の幸福を願い、個性を最も大切にしてくれるはずなのに、大人たちが背伸びをして遠くばかり見ており、肝心な足元が見えないのである。先を見据えることも大切であるが、足元をしっかり見据えた上でなければ先が見えないのである。目指すものは個性に合わせて見つけ出すべきであるが、先に目標が決められ、個性を目標に合わせようとしている。自ら歪が生じ、情緒不安定な青少年が後を絶たないのである。

人間が人間らしく生きられるようにするのが、理想とする社会である。生活手段である職業が、自分に最も適したものを選択できる社会を目指すべきである。個々の持った個性や能力が生かせる仕事を創生することが、国民の英知を結集することとなり、社会の発展へと繋がっていくのではなかろうか。現代社会は、企業の都合のいいように人間を作り上げようとしており、個々の能力を生かせずに、結果的に企業の発展を阻害する原因になっている。多くの経営者は、会社が破綻するまで、社員の持つ、創造力の価値に気が付かないのである。企業にとって都合がいいのは、学業学歴優秀で、何でもイエスと言う、ロボット的人間である。ロボットが肩代わりできる人間など少しも価値がないのに、営々と学歴偏重主義が取られてきた。多くの大人たちが、企業の都合のいいようになろうとしており、子供たちにも同様に強要しているのである。

人間らしく生きるというのは、初めから生き方が規定されるのではなく、自分らしく、自由に世の中を見ていくことである。それは、言い方を替えると、常に夢を抱けるような世界であり、可能性をどこまでも広げていくことである。新たな発見は夢から始まり、あらゆるものの進化の源になる。世界が一つになって、全ての人間が幸福になれるようにするのが進化の道筋であり、人間らしさそのものである。人類、長い歴史を営んできたが、いまだに世界平和は築けないでいる。むしろ、人類滅亡の危機もはらんでいるのが現代であり、人間性は、進化よりも退化していると考えられる。日本を見ても、人間性喪失と考えざるを得ない現象が後を絶たず、人類平和の根源を成す、他人への思いやりが欠如してしまった。自分さえ良ければ、他人のことなど一切気にしない人間が増大している。それは、親子、兄弟、友人知人、仲間など、思いやりを育む、情が薄れてしまったのである。夢は、自己を離れた世界を想像するとことから始まり、相手の気持ちを理解する能力にも繋がって、情が育まれる。思いやりが失せたのは、夢を見られなくなったのと、決して無縁では無いと考えられる。