生活の基準 人間の判断というのは、経験によって異なってくる。感じ方や見え方、良否や善悪など、人それぞれである。一人だけの世界に生きているのならいいが、他人とのかかわりを無視できない社会にあって、一定の判断基準が無ければ、人間関係を維持していくのが難しい。ここでは生活をしていく上で必要な判断基準を模索してみた。 2004年1月30日
2002年1月6日(日)の日記より 今年の正月は家族水入らずで過ごし、寒さが厳しい中にあっても暖かく感じられた。長男がアパート暮らしの関係で、家族が揃うのはごく限られており、貴重な時間である。子供たちは子供たちなりの世界を持っており、親が入り込めない部分もあるが、基本的には家族が中心の生活であることを互いに認め合っている。生きていく上で家族の役割は大きく、喜びも悲しみも同じ価値観で受け止められる。 人間はえてして自己満足の世界に陥りがちである。自己の目的や目標を達成することが重要なのは確かであるが、達成感を共有し合える相手がいるといないとでは満足感が違ってくる。無論自分ひとりの世界で満足できるという人間もいるのかもしれないが、存在価値を規定するのは人と人とのかかわりの中にのみ生ずるもので、どんな偉業を成し遂げようと他人から見れば何の価値もない。どんなちっぽけな業績でも、心の通った家族ならどこまでも高く価値を認めてくれて、常にやりがいが満ち溢れてくるというもの。 現代は家族の関係が希薄になっていて、生きる価値を見失いがちの若者が増えているのではなかろうか。日々の生活でどれだけ家族のかかわりを持てるかが重要なのだが、精神的にゆとりがなく、心の交わりが途絶えがちで、決まったことを決まったとおりにこなして時間を過ごすのが通常になっている。自分のしていることの目的が何なのか改めて考えれば、何が大切なのか簡単に答えが出てくるはずである。
2002年7月9日(火)の日記より 人間の感覚には絶対値がなく、同じものを評価するにしても、その時々で感じ方が異なってくる。ぬるま湯の温度を手で知ろうとしても、肌の温度が熱ければぬるく感じられ、冷たければ暖かく感じられて、正確な温度は割り出せない。手足の温度は天候や環境で変化し、一定の温度を保つのが困難である。むしろ、変化することを承知しておくことが肝要で、しばらくぬるま湯につけておけば、肌本来の温度がよみがえり、体温より高いか低いかが分かってくる。人生を楽しむためには、体温と同じように、正確な基準を認識する必要がある。生きていくためには必要不可欠な営みがあり、生活のサイクルが人生のベースをなしているのである。人間の感覚は体調に大きく左右され、健康であることが、何事でも気持ちよく感じるための絶対条件である。どんなに愉快なことでも、気分次第で少しも面白く感じられなくなってしまう。同時に、最も拘束される日々の営みを楽しめるかどうかが、人生そのものを大きく左右する。
2002年7月10日(水)の日記より 人生を楽しむための基準作りは、心身の健康を維持することから始まる。身体のリズムを正常に保ち、いつも爽快な気分でいられるようにするには、規則的な生活が望まれる。本来は、家庭が生活のベースとなり、人生の成否を決定付けるのである。しかしながら、現代は消費が生活のベースとなり、収入の増大に主眼が置かれ、家庭の役割が小さくなっている。家事に対する評価が低くなる一方で、外での労働に「やりがい」を吹聴する人が多くなっている。家庭がないがしろになれば、家族の関係も希薄となり、子供たちにとって、心身ともに安らげる場が失われてしまうのである。現代の子供たちにとって、初めから正常な人生を歩むことができないシステムになっている。
2002年7月12日(金)の日記より 動物が生きていく(子孫繁栄も含む)ためには、最低限しなければならないことがある。人間が規定するものは「衣食住」で、衣食住を確保するためには、様様な営みが必要となってくる。人口の増大と文化の発展で、自給自足を原則とした生活スタイルから、生産の効率化、専業化が求められ、貨幣の流通が図られて、仕事と収入が生活に重要な役割を持つようになった。仕事の重要性が高まっても、本来は生活を営むための手段として存在するものであり、あくまでも二次的な目的だったのである。
2002年7月13日(土)の日記より 心身ともに安定した生活を営むことが、人生の究極的な目的なのだが、人間らしさを強調して、ややもすると欲望の追及が目的となってくる。欲望の追求は経済の発展とともに、社会そのものの使命となって、コマーシャリズムとあいまって、止まることを知らない欲望をとことん煽ってきた。人間の無節操な欲望は、本来の生きる目的を見失わせて、心身の安定と全く結びつかず、家庭は崩壊、家族間の愛情も喪失させてしまう。
2002年7月14日(日)の日記より 人間の思考力は現状に甘んじることができず、常に新たな世界を思い描いている。誰にでも共通する、人間としての特性と考えたいが、一握りの人間の世界であって、多くの人間は情報に従って、順応することを基本としている。情報が少なければ余計な欲望を駆り立てないですむが、情報が溢れていると、多くの人間は振り回されて狂気となってしまう。情報の良否を判別するだけの良識を、学ばず、身につけずで、狂いだした生活を正常化するのは非常に困難なことである。
2002年7月15日(月)の日記より 人間の手に入れようとする欲望を律するのは難しい。欲しいと思ったら、手に入れなければ気がすまなくなってくる。それが必要かどうかなど全く関係なく、手に入れない限り気持ちが治まらないのである。一つ手に入れば満足できれば良いのだが、一つが二つになり、三つになって、いくら手に入れても安らぐことがないのである。それは、魔物に取り付かれたのと同じで、自らではどうにもならなくなってしまうのである。現代の日本は、アメリカに追随して、浪費することが社会の根幹をなし、多くの人間がすっかり同調して、狂気に等しい生活を送っている。家庭も浪費社会の申し子となり、精神的なものよりも物質的なもの方が優先されてしまうのである。
2002年7月16日(火)の日記より 生活の基本は、最低限の衣食住が揃っているかどうかが問題で、余分なものを増やすのは、バランスを充分に見計らう必要がある。生活のために仕事をして収入を得る。物質的に豊かさを求めるには、収入を多く得なければならず、おのずから仕事の負担が大きくなる。生活を大事にするために働いているはずだが、仕事が正常な家庭生活を阻害してしまう。より豊かな生活を求めるのは大事なことであるが、中でも精神生活の面で、どこまでも豊かさを求めたいものである。しかしながら、精神生活と言っても形に表れるものでないから、観念的にどんなことなのか理解するしかない。人間の特性である、思考力を駆使すれば簡単に理解できることであっても、理屈をこねるのが苦手な人間が多く、おのずから理解できるはずがない。単純に物の数だけ多く揃えることが豊かとしか考えられないのである。
2002年7月17日(水)の日記より 日本は平和が売り物の国である。確かに戦争や紛争とは縁がなく、経済的にも世界に名だたる大国で、表向きにはこんな良い国はない。平和と経済力を持っていれば、国民は幸福そのものである。だが現実には、人生に満足している人間はけっして多くなく、時間を無為に刻んでいるのではなかろうか。日々の生活で充足感を味わえるかどうかは、自己の欲求を追い求めることより、むしろ存在感を感じ得るかどうかにかかっている。経済力で生活を確立していたのでは、家族同士でも互いの存在感が薄くなってしまう。家族同士が幸福のために気持ちを合わせていくところに意義がある。消費文化が作り上げた社会は、自己の欲求が主眼となって、自分さえ良ければとの考えで運営されている。多くの人間は他人に対する思いやりなど持ち合わせておらず、日本は平和とは裏腹で、戦時下にある。家庭という絶対的な城が確立されなければ、社会に出てまともにやっていけない。
2002年7月19日(金)の日記より 平和で豊かな社会であれば、自由で、楽しいはずであるが、見掛け倒しの平和に馴染むには、ずるがしこいことが必要となってくる。自分さえ良ければとの身勝手な考えが人間の行動を律し、大人になればなるほど、ルールやマナーなどが存在しなくなってしまう。大人たちは自分の都合で物事を考え、利己的な常識を作り上げているから、自分自身が基準となって、マナーに欠けていても少しも悪いと考えていない。一方で、自分の基準を外れた若者たちの行動に対して批判をする。そもそも大人たちは子供たちにどれだけマナーを身につけさせ、ルールをどれだけ教授してきたのか。ルールやマナー、生活の知恵は親が子に受け継ぐべき最低限のものである。現実には、子のマナーの悪さを他人のせいにしたがる親が多くいるのが実態である。若者たちも大人たちから学んできた身勝手な常識で行動しており、少しも悪いと思っていないのではなかろうか。
2002年7月20日(土)の日記より 人間には本能的に身に備わっているものと、学んで身につけていくものとがある。生活の手法は、時代時代で異なっており、時代に適合するためには、子供の頃から多くを学習しなければならない。ところが、受験勉強や、塾通いに躍起になっても、肝心の生活の知恵を学ばずに大人になってしまう。情報が氾濫して大人を真似ることに長けていても、精神的には大人になるための経験や知識が備わっておらず、本当の意味では、大人になれない人間で溢れ返っている。ただ単に若者だけでなく、大人の顔をした人々も、次代に引き継ぐべき大人としての知恵を持ち合わせておらず、情報に振り回されて、大人気ない生き様をしているのではなかろうか。
2002年7月21日(日)の日記より 日常の営みがまともにできないことを苦にしない若者が多くなってきている。生活手法を知らずに苦労をするのは他人ではなく、あくまでも自分自身なのである。しかし、世の中便利になって、何でもが、金を出せば肩代わりしてくれる。日常の営みに面白みを感じない人間にとっては理想的な社会なのである。逆に、金で生産した時間を何に使うというのだろうか。生活を金で解決するには収入が多くなければならず、収入の増大を図っていると、遊ぶ時間が必ずしも多くなるとは限らない。では、仕事、遊び、日常の営みのどれが面白いというのか。初めから家事はつまらないものと決め付けている者が多いが、仕事が本当に面白いのだろうか。遊びに夢中になれればよいが、ややもすると時間を忘れるためのセレモニーになってはいないのか。同じような遊びを繰り返していれば飽きてしまうのがおちで、酒、博打、麻薬、際限のない浪費と、刺激を求めてどこまでもエスカレートしていくのではなかろうか。それではもはや遊びではなくなり、楽しむことができなくなってしまう。むしろ、日常の営みに基準をおけば、他のことが変化に富んで面白みが感じられると、考えられないだろうか。さらには、家事自体を楽しむことができないのだろうか。
2002年7月22日(月)の日記より テレビの影響は余りにも大きく、日本人の習俗を形作っているといっても過言ではない。ややもすると、楽しみが全てテレビに結びついてしまい、テレビを教祖とする信者で溢れているのではないのか。たとえば、家事を嫌う人間が多くいる一方で、話題がなくなって、テレビで家事と関連づく事柄を取り上げると、テレビ教に属する人間がこぞって飛びついてしまう。ごく普通にしていれば、当たり前のこととしてやっているはずなのに、テレビが取り上げて、特別なことにならなければ見向きもしない。気持ちの持ちようで、同じ事をするにしても、面白かったり、つまらなかったりする。やっていることが問題なのではなく、気持ちがこもっているかどうかが問題である。さらには、人間が本来持っているはずの、創造力をどれだけ働かせるかによって、価値が決まってくる。仕事を楽しむには、自らが企画し、チャレンジをするところにある。それは仕事のみに当てはまるわけではなく、どんなことにも当てはまってくるのである。現代は創造力欠乏症の人間が多く、テレビを中心とした情報に順ずるだけで、生活を本当に楽しんでいるとは言いがたい。人生は創造なのである。
2002年7月23日(火)の日記より 生活環境の維持改善は、人間にとって心身ともに大きな影響を及ぼし、大変重要なことである。環境がよければ日常生活が楽しくなるものだが、現代は浪費がもたらした物余り現象の弊害で、生活環境が悪化する一方である。家を新築した当初は綺麗な状態で出発しても、時間とともに物が溢れ、整理できない状態となってしまう。ただ単に物が溢れるという問題だけでなく、物を増やすことしか経験していない人間は、改善する能力を持ち合わせていないのである。能力があれば、企画とチャレンジができ、より良い環境作りを楽しみながらできる。環境改善を他人に高い金を出してやってもらうなど、愚の骨頂である。家族のため、自らのために、我が家を居心地よくする仕事は、何よりもやりがいがあり、価値がある。
2002年7月24日(水)の日記より 子供たちが、生活環境の維持改善について学ぶことは、自立するときに大いに役に立つのである。自立というのは、「親から離れる」と考えるよりも、「自らの意思で人生を創造できるようになる」ことである。日常生活の中で、衣食住のことを学び、健康や衛生管理を知り、遊びや旅行、冒険を重ねて危険を知るとともに、回避する知恵を身につけ、スポーツや音楽、芸術などの技術を習得するのである。人生を築く上で必要な経験と知識、知恵を育んでいくのが家庭の最大の役割なのである。人生を築けるようになれば、仕事でも、遊びでも、あらゆることに創造力を発揮できるようになり、能力の高さを示すことになる。創造力は人間の持つ特性で、本来は思考する欲求があって、空想や想像、仮想することで満足感が得られるのである。現代は、思考することより真似ることが生活習慣となって、人生を楽しむための最大の武器を、ガラクタ同然にしてしまう。学校で学ぶことは暗記が中心で、創造力を育むのは家庭しかないのである。子供のときにどれだけの空想をして、夢を見られるかが、人生の価値を決定付けるといっても過言ではない。
2002年7月25日(木)の日記より 子供が子供らしくいられない時代であり、子供でなければ味わえない面白さを知らずに大人になってしまう。それは、人生の全てにおいて大きな損失である。人生を楽しむ原点は子供心で、いつまでも子供みたいな気持ちで夢を見ていられることが最も幸福なことである。夢を持てない人間は進歩がなく、自らの発想で人生を築くことができず、何となく形作られた過程を、決まったとおりに時間を費やしていくだけの、実に味気ないものとなってしまう。子供が子供らしくいられるようにしてやれるのは、親だけなのである。
2002年7月27日(土)の日記より 子供の頃に創造力を培うと、他人の心が分かるようになる。創造力は想像をめぐらせ、相手が何を考えているのか常に意識するようになる。同じことに対しても、立場立場で感じかたが異なり、相手の気持ちが理解できれば、自分の立場ばかりでの言動を慎むようになる。それは思いやりに繋がり、人間が本来持っているはずの優しさに結びついてくる。現代は自分の都合ばかり考えて、相手の気持ちを知ることなど全く意識していない。少しも悪気はないのだろうが、気遣いのできる人間がほとんどいない。
2002年7月29日(月)の日記より 現代の生活習慣を考えると、子供の頃に奉仕の心を持つことができない仕組みになっている。家のことでも、日常的に手伝う習慣は、生活の知恵を学ぶと同時に、役割分担や存在価値について意識することになる。他人に対しても同様で、人と人とのかかわりを実体験し、社会性を身につけられ、育っていく過程で、非常に重要な勉強である。しかし、親自体が家のことや他人のことなどかまっている時間があれば、塾通いをさせることに価値を感じている。社会というのは受験のテクニックだけ長けていても少しも役に立たず、人と人との関係を理解しているほうが、はるかに有効なのである。人間づきあいがうまくできないようだと社会の一員になれず、世の中の厄介物になってしまう。子供がいつまでも社会の一員になれないで苦労をするのは、本人とその親なのだが、多くの親たちがそんな簡単な理屈も理解できず、いつまでたっても改善されずにいる。
2002年7月30日(火)の日記より 昨日、子供の頃の「奉仕の心」について書いてみたが、ニュースでもタイミングよく子供のボランティア活動についてやっており、今後の教育方針として、奉仕活動を積極的に推し進めていくとの考えのようだ。奉仕の心を学校教育として培っていくとの考えと思われ、家族が主体となって取り組まれるのと異なる。奉仕活動によって生ずる学業の遅れを、進学時に考慮することが重要な検討課題となっている。結局、子供が本当に必要なものを学んでいく体制を、親と学校が一体となって作り上げていくとの考えと全く異なる。進学問題も、全て就職との兼ね合いとなり、企業が欲する学歴を追い求めることが大前提になっている。企業があって学校があるのではないのだが、資本主義経済である以上、政府自体が企業の御用聞きみたいなもので、国民の幸福よりも企業の発展が第一義に置かれているのである。農作物の自給率が低い日本にとって、経済の発展で生き延びていくしかなく、工業生産の国際競争力を常に維持していかねばならない。高度成長とともに労働者の賃金も大幅に高くなり、資本主義経済の有効性を充分発揮してきたが、無為無策、無節操な消費経済が破綻をきたし、膨れ上がった資産は私腹となって、動きようがないマネーが日本経済を麻痺させている。現状では景気回復の余地がなく、国家の破滅も憂慮する必要がある。新たな企業体系、国家体系が求められるときで、今でこそ、国民があって初めて政府があり、企業があるとの原則にたって、国民の幸福を希求する時期にあるのではなかろうか。
2002年8月2日(金)の日記より 大分昔になるが、子供がまだ小学生の頃、夏休みになると「冒険」を意識して家族旅行をしていた。「ささやかな我が家の大冒険」と銘打って旅立ち、家族で成しえるささやかな冒険を試みたのである。川、湖、山などで少々危険を伴う遊びをし、危険を知り、危険を回避する手法を学んだのである。身の回りには、常に危険がつきもので、危険性を事前にキャッチする能力を身につけておく必要がある。危険を恐れるばかりで目をそむけていたのでは、避けて通れない、危険が待ち受けていても察知できず、問題が起きてから騒がなければならない。公園などにある遊具が危険だということで、必ず設置されていた遊具も取り払われ、すっかり様変わりしている。どんな遊具も使い方によっては危険であり、親が危険を教え込んで子供が使いこなせるようにするのが本来なのである。今は責任を他人に押し付けることが先行し、子供に知恵を授けようとしないようだ。
2002年8月3日(土)の日記より 大人たちの会話で、問題が提起されたときに発せられる言葉に、「せわないよ」というのがある。「今まで問題が起きなかったのだから問題ない」との考えで、大人になっても、危険を事前に察知できないのが日本の大人たちなのである。戦争と縁がなくなってから久しく、危機意識が乏しいのはやむをえないのかもしれないが、本当は先行きの展望が立てられないのであり、能力が乏しいのである。医療ミスや食品事故、原発事故や風水害、交通事故や海山での遭難、警察の失態や官僚の汚職など、あげればきりがない。常に問題や危険が付きまとっていながら、安易に「せわない」との見通しで動いてしまうのである。そんな大人たちが次代に何を引き継げるのか考えると、非常に恐ろしくなってくる。若者たちが巻き起こす問題の多くが、大人たちが、人間として大事なものを引き継げなかった結果なのではなかろうか。
2002年8月4日(日)の日記より 大人たちが次代に引き継ぐべきものを考えると、親子関係、社会環境、経済状況、自然環境、どれをとっても誇りえるものがない気がしてくる。そもそも、次代に対する責任を感じている大人がどれだけいるのだろうか。自分さえ良ければとの考えが趨勢で、未来に対して何も考えていないと弾劾したくなる。次代に責任を感ずることが、自らの存在価値を見出す唯一の方法なのに、どんなに年齢を積み重ねても損得勘定でしか考えられない。昭和は、人工美の追求が使命となり、ためらいなく自然破壊を繰り返し、自然との調和が崩れて人間の棲息が脅かされる時代だった。しかし、大自然の営みは途絶えることなく、身近なところで今もたくましく息づいている。大人たちは大きな過ちを繰り返してきたが、ごくごく自然体で時代を築き、生活を積み重ねることが最良だと、気付いているはずである。今でこそ身近な世界の素晴らしさを次代に継承していく時である。
2002年8月5日(月)の日記より 我輩は、『三文文士映像日記』で、次代の人たちに身近な世界の素晴らしさを伝えようと、可能な限り取り組んできた。言葉より映像のほうが、伝達能力が高いと判断し、先ずは身近な自然に目を向けて、日常的な視野で感受できる素晴らしさを提示してきたのである。当初、何でも分かっているつもりで自然と接触してきたのだが、深くかかわればかかわるほど、自らが何も知らなかったことを知った。人間の視野は心に連動していると、何度も語ってきたが、心の持ちようで見えるものも見えないと日々痛感しており、改めて語って見たくなる。同じ荒川を何年も前から散策してきたのに、今年初めて気付いた草花、野鳥が数限りなくあった。足元に何気なく咲いていると、気付かずに通り過ぎてしまい、小鳥たちの美しいさえずりも耳元を素通りしていたのである。自然破壊が進んで、大気汚染は、生物が正常な営みをできない状況まで進んでいる。そんな中でも人間はしたたかに生きてきたが、同様に身近な自然もさらにしたたかに息づいている。自然との対話の中で多くのことを学び、自らの役割を見つめなおすことができる。さらには、人間が自然体で生きるということがどんなことなのか見出すことができるのである。これからも、可能な限り身近な素晴らしさを伝えていきたいと思う。
2002年8月6日(火)の日記より テレビを見ていて知ったのだが、食べ物を扱ったテーマパークが大変繁盛しているそうだ。ラーメン、餃子、寿司など、全国の有名店がいくつも出店し、味を競い合うのである。利用者側も、全国各地の味をいながらにして味わえるので大変メリットがあり、ありふれた食べ物でも美味いものは美味いのであり、大いに好奇心がそそられる。色々なテーマパークがあるが、ディズニーランドなど一部を除いて経営が厳しく、閉園に追い込まれるものも少なくない。テーマパークは特別な世界を体現するのが目的で、現代に相応しいと思われるが、結局は飽きてしまい、むしろ、ごくごくありふれた食べ物を扱ったほうが多くの人を引き付けている。昨日も書いたが、身近な世界がいかに素晴らしかの証ではないのか。行列を作る店は特別なのではない。地道な努力が作り上げた汗の結晶で、毎日の営みを何よりも大事にしているのである。足元に人生の命運が転がっており、遠くばかり見ていたのでは人生の展望が開けない。足元をきっちりと固める算段ができてから、遠くを見晴らすのが望ましいのである。
2002年8月7日(水)の日記より 昨日に引き続いてテーマパークの話しをするが、ディズニーランドがいまだに高い人気を誇っていることに、敬意を評したい。夢の体現ということでは非常にありがたいのだが、逆に、出来合いの夢にいつまでもしがみついている、夢の無い人間がいかに多いかが分かる。夢は自らが描くもので、他力本願では意味が無い。現代は夢が見られない時代になってしまい、テーマパークのみならず、ゲームの世界に埋没している者が多いのではなかろうか。夢の見られない人間に、創造できるものは乏しく、次代を先進的に発展させていく推進者にはなれない。結局は、物真似文化の継承発展が日本の先行きなのだろう。
2003年6月24日(火)の日記より 小説の中で、ものごとの判断規準について書いている。人間の感覚や判断は、絶対値を持っていないので、正確に感じ取ったり、常に一定の立場に立って論じたりするのが難しい。温度について考えると、たとえば、寒い日に外から帰って、冷え切った手を10度の水で洗うと、暖かく感じられるが、逆に、暑い日に、20度のぬるま湯に手をつけると冷たく感じられる。小春日和で10度まで上がると、大変暖かく感じられるが、梅雨寒といって、20度以上あっても、肌寒く感じられる。 身体は、温度計のような絶対値を持っておらず、変化を比較して感じ取るものだから、正確な温度が分からないのである。同様に、人間関係を考えてみると、困っているときに親切を受けると、相手が神様のように感じられるが、親切が度重なると、有り難味を忘れ、当たり前になって、お蔭様の気持ちを忘れてしまう。経験や慣れは、人生の大きな財産だが、ずるさや横着に繋がり、本来の価値を見失ってしまう。常に一定の基準を持つことが、大人の証なのだが、危機意識の薄れた現代にあっては、多くの大人が自分の都合や立場で判断し、絶対に間違っていることでも、習慣化して、所謂、常識が出来上がってしまう。 常識は目先の利益を感じさせるが、人それぞれで価値が異なり、人間関係をぎすぎすさせるとともに、人生の重要な判断が迫られたとき、大局的な判断が下せず、過ちを犯すのが必定である。人間の尊厳に基づいた判断基準を良識と言い、個人の利害に関係なく、絶対数の人間が認める基準である。良識のある言動は、誰でもが納得し、価値を認めて、人間関係を有効にするとともに、どんな状況にあっても的確な判断が下せ、幸福な人生を築くうえでも大きな役割を果たす。残念ながら現代は、髪がいたむことなど関係なく、ほとんどの女性が髪を染めるのが当たり前となった、常識の時代で、良識は既に存在しないのである。
2003年6月25日(水)の日記より 大人たちが既に良識を失い、良識を知る機会を持たない子供たちが成人したら、生きていくのが大変である。人それぞれの価値観で、自分勝手な常識で社会が動いているのだから、身を置く場所によって、行動規範が全く違い、生きていく目安がつかめない。生活の中で判断基準ができないと、テレビなど、売る側の恣意で捏造された情報に順ずるしかなく、結局は、良識とかけ離れた、幾通りもある常識に振り回され、自分に相応しい道筋を見出すのは難しい。そんな若者が、良識と出会ったら、どんな思いを抱くだろうか。良識は、人間が本来あるべき姿を定義付けた、万人に共通した判断基準であり、話しを聞けば理解ができ、納得できる事柄である。良識は、人生の最良の選択をするための基礎データでもあり、幸福になるための目安である。若者が良識を知ったら、人生観を根底から覆されてしまうのではなかろうか。悪化していく社会状況を知りながら、どうにもならない時代だが、子供たちに良識を植え付ければ、簡単に世直しができるはずである。こんな簡単な理屈も、良識を知り、良識を教える者がいないのが現実で、教える立場の大人たちを、どう教育していくか問題となってくる。
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