社会批評2002年版

 現状の日本を考えると、経済文化どれを取ってみても先行きは大変厳しく、文明の崩壊も全くの空言とは言えなくなってきています。ここでは、我輩の独善的な政治論、経済論を集大成しようと思っています。尚、2001年の日記も一部含んでいます。

2003年5月5日

 

11月5日(火)の日記より

 日本経済は麻痺しており、景気回復の見通しが全く立っていない。経済の基本である需要と供給のバランスがとれておらず、消費の伸び悩みが景気回復を遅らせる最大の原因になっている。日本は世界に名だたる経済大国だが、富が一部の人間に集中しており、倒産やリストラなどで一般大衆はぎりぎりの生活を強いられている。パート労働者の労働条件について問題になっているが、企業は社員を首にして、格安の賃金でパートを雇うのが通例になってしまった。どんなに大きな富を持っていても、消費には限度があり、社会に与える影響など微々たるもので、金持ちは景気回復の役には一切立たないのである。消費の核になる一般大衆の賃金が上がらない限り、日本経済は崩壊するのみである。ペイオフの完全導入が日本の危機を救う切り札になるのは明らかだが、富裕者の徹底抗戦で本格実施には至っていない。

 

8月30日(金)の日記より

 企業のOA化やオートメーション化など、労働阻害を生む要因とされているが、現実には、力仕事や流れ作業の、いたって原始的な作業が日常的に行われている。科学の発展は人間の行う作業を知的なものするのが目的であったはずだが、パートやアルバイトの仕事の多くが、それこそ先進国とは思えない肉体労働である。機械ができないことを補うのが人間の仕事で、人間疎外もはなはだしい。機械ができないことなら当然賃金が高くなるべきだが、最低の給料しか払われない。日本がどれだけ進んだ国だか分からないが、国として第一義に考えるべき国民、人間そのものをないがしろにした、それこそ後進国そのものである。

 

8月27日(火)の日記より

 景気の低迷で就職難となっており、たとえ再就職できたとしても賃金は安く、パートやアルバイトだと時給700円というのもある。仕事の内容で若干差があるが、750円が一般的となり、10万円を稼ぐのが大変である。採用条件に年齢制限があり、50歳を越えると就職が非常に困難になってくる。団塊の世代は人口分布率で最も膨れ上がっており、その年代の収入を抑制していたのでは景気回復は不可能である。生活そのものが大きく変わって、大量消費をベースにした企業経営は不可能となり、国家的レベルで時代を見直してみる必要がる。国そのものが企業優先を基本として営まれてきており、国や企業の不正に甘い体質が培われ、内部告発によって次から次へと膿が浮き出ている。多くの経営者はあくまでも私腹を肥やすのが目的で、人を生かすことは考えていない。逆に言うなら、一般国民からみると、全く存在価値が無い人間と言うことになる。互いに価値を認め合っていないので、国の発展はありえない。

 

8月22日(木)の日記より

現代は景気の低迷で先行きの不安を感じるが、意外と人生を楽しんでいる人が多くなったのかもしれない。今までは安定した収入を保証されても、人生そのものを見失いがちで、何か大切なものを置き去りになっていたのではなかろうか。消費優先の生活習慣から、不況によって家族や夫婦のあり方を見直すきっかけができ、本当に必要なもの、本当に求めているものが見えてくるような気がする。生活ができる収入が基本で、後は人生を有意義に過ごせるかどうかの兼ね合いで考えるべきであり、収入のことばかり先行しているようでは本当の人生を築けない。

 

8月14日(水)の日記より

 農業の後継者不足の問題は、資本主義経済が作り上げた幻想に起因している。大量消費を誘導する派手やかな世界を作り上げ、消費を抑制しかねない、自然との対話を基調とした地味な生活を、汚くてきついというイメージを作り上げ、若者の目、特に女性の目をそらしてきた。自分の力がストレートに結果として出る仕事は、限りなくやりがいがあるもので、農業はその最たるものである。高度成長、バブルと、日本の経済は華々しく成長を遂げてきたが、そこに働く人間がどれだけやりがいを感じていたのだろうか。大幅な賃上げとあいまって大量消費に貢献してきたが、生活にどれだけの満足をもたらしたのだろうか。幼児虐待や家庭内暴力、いじめや家庭崩壊など、幸福の原点になるものが大きく揺らいでいる。華々しさがもてはやされる一方で、人間性が喪失した陰湿な社会が作り上げられてきたのである。農業のみならず、伝統的な文化や技術も同様な理由で失われようとしている。伝統は、日本人の気質や、風土、気候などのふるいにかけられて培われたもので、日本に最も相応しいものである。最近になって伝統が見直されてきたが、趣味や流行の域でもてはやされるだけで、社会の意思として伝統に学ぶまでには程遠い。今後は後継者の育成と、コマーシャルイズムに踊らされず、安さから優れたものへと、選定された消費に発展させていく必要がある。

 

8月13日(火)の日記より

 生活の基本は食べることにある。命を永らえるには、食料を安定して確保できるかどうかにかかってくる。それは自然の営みを有効に活用することであり、気候を初めとして、立地環境、植物の性質、動物の習性など、充分に把握する必要がある。自然に学ぶところから生活安定を図っていくのである。どんなに経済的に豊かになっても、食料の絶対量が確保できなければ国家は破綻して、弱肉強食の死闘が繰り広げられることになる。日本は食料自給率が低く、世界的な天候不順が起こって農作物の収穫量が激減したなら、日本への供給がストップする可能性が大である。国家的レベルで自給率を高めることは最早不可能になってきており、個人レベルで、自給自足が原則の生活に切り替えていく必要がある。私腹を肥やせなければ会社をつぶせばいいとの、株式法を悪用した経営者が主流となった今、資本主義経済は破綻したと言っても過言ではない。団塊の世代を中心に、職を得られない人間が増大の一途をたどり、ややもすると無用の存在として扱われている。預貯金で食いつないでいければよいが、いつまでも続くはずがなく、既に、食えなくなった人間が連日のように強盗や窃盗を起こしている。誇りと生活の安定を求め、50才連合と銘打って、自給自足を目指した、資本主義と相反する組織を作ることも視野に入れる必要がある。

 

8月12日(月)の日記より

 自然に学ぶといっても、どんなことなのか分からない日本人が多いのではなかろうか。人間の生活は自然とのかかわりを抜きにしては成り立たないのである。既に過去の事として忘れ去られているかもしれないが、冷夏、日照不足で米が不作となり、日本中が大騒ぎをしたことがある。政府が輸入処置など、日常の生活に影響を及ぼさないと断言しても、高齢者が中心に米屋で行列を作る姿を何度も見てきた。米の値段が一気に倍となったり、予約制となってすぐ手に入らなかったり、売る側、買う側両者とも、戦争を体験した人たちの、たくましさ、したたかさを嫌というほど見せ付けられた。科学に対する過信、おごりはへし折られたのである。どんなに苦い経験をしても、自然と協調との考え方は成り立たず、海外依存で全てが解決するとの安易さは拭いきれないのである。日本の農業政策は世界でも類を見ない失政で、農業の健全化は全く図られていない。狂牛病の問題も、水際作戦が当然の処置で、国内で起こさせないのが対策でありながら、手をこまねいて全て後手後手となった。牛肉買い上げについても、輸入肉の混入は今までの農業政策がもたらした、なれあい問題であり、内部告発がなければそのまま見逃されていたに違いない。日本人の根底に自然に対する畏敬の念がないことから発する暴挙と考えるべきである。親も学校も、子供たちに自然とのかかわりを教授することができず、人間のおごりを煽っているだけである。

 

7月28日(日)の日記より

 倒産やリストラ、失業者の増大は、外出をするとありありとしている。平日でも中高年の姿があちこちで見られ、交通量調査のアルバイトが、学生風からおじさん風にすっかり人変わりしている。頻発する事件の多くが、食えなくなっての犯行で、逮捕されたときの所持金が、ほんのわずかというケースが多い。今までは、失業しても蓄えで持ちこたえてきたが、就職難は少しも改善されず、蓄えが尽きて犯罪を引き起こすことが、益々増えてくるのに違いない。何不自由ない政府、大臣の方々は、これほど厳しい経済状況にありながら、いまだに楽観的な見通しを立てており、無政府状態が起こっても致し方ないことである。物質的な豊かさにすっかりなれている国民は、今までがそうであったように、経済危機が訪れても何とかなるとの感覚が拭えず、本当に食えなくなるまで問題意識が起こらないのである。差し迫ってから対処するには強盗が一番手っ取り早く、衝動的な犯行となって、一つ間違えれば殺人に結びついてしまう。江戸末期の辻斬り強盗と同じような犯罪が頻発し、平成ねずみ小僧ではないが、ペイオフの導入と絡んで、計画的な、金持ちを狙った泥棒が出没するようになると予想している。

 

2001年11月27日(火)の日記より

銀行の不良債権問題がクローズアップされてきているが、税金が使われると思うと何とも割り切れない思いである。バブル時代の、企業の無節操な投資が生んだ負債が、景気後退で一気に重くのしかかり、企業倒産、不良債権と連なってきている。企業の業績悪化とは裏腹で、バブルは正にあぶく銭を産む仕組みとなっており、企業、銀行、証券、国とが絡んで撒き散らされた資産が、仁義無き蓄財の原資をなし、損失補填など、金が金を産み、バブルで膨れ上がった資産の多くが個人の懐に収められてしまった。経営者は会社がつぶれても、個人の資産に影響を及ぼすわけではないから再建意欲に乏しく、企業倒産が後を絶たない。国民の財産である貴重な自然が切り刻まれ、国土開発、国債発行と多額な借金を抱え込み、不良債権問題で税金が使われるとなると、ややもすると、不正蓄財による大金持ちの財産保護に結びついていく。貧乏人にでは絶対にありえない優遇処置である。

 

2001年11月21日(水)の日記より

 今日のニュースで、狂牛病に感染した牛が新たに確認されたとの報道がされていたが、原因が全く特定できていないようである。最初に確認された牛は肉骨紛を感染ルートに仮定しているようであるが、現状では確たる要因がつかめていないようだ。逆に考えるなら、既に消費された牛肉の中にも、狂牛病に感染していた可能性もあり、今回の騒動は尋常ではないのである。

 イギリスで、狂牛病によって牛が大量処分されたことを考えるなら、絶対に起こってはならない問題である。今までに、労力と経費とを惜しまずに、水際での防衛策を打っておけば起こらなかったことで、全てが後手に回ってしまった。政府が、市場に出回る牛肉は問題無いと、見解を示しているが、少しも重みが無く、牛肉の消費はますます冷え込んでいくに違いない。怠慢のつけは甚大で、酪農家や食肉業界の存続自体が危機にさらされている。

いつも思うのだが、日本人の多くが、実際に自分の身に火の粉が降りかからない限り、「せわないよ」との言葉で問題をうやむやにし、かなり重い危機意識欠乏症にかかっている。何でもが目先の損得で判断され、問題の想定と対策など、長期見通しを立てるのが実にへたくそである。