雨に踊れば








まず、ここはどこなのか。いや、それ以前に自分は誰なのか。
それとも、何故自分は左腕から血を滴らせているのか、それを疑問にしたほうが善策だろうか。
頭の中を浮かんでは消え、消えては浮かんでいく疑問に何一つ答えを見いだせぬまま、彼女はゆっくりと襲い来る睡魔に身を預けて、固く瞼に鍵を掛けた。
まるで二度と目覚めることのないような深い眠り。
それもいいのかもしれない。この左腕の焼け付くような痛みから解放されるのなら。
そう思いつつ、彼女は深いまどろみに身を沈めた。


うっそうと生い茂る神秘のジャングルに彼が足を踏み入れたのは、決して偶然では無かったのかも知れない。
浮遊島の聖なる祭壇、何ら変わりのない日常を、日がな一日そこで腰掛けて過ごそうとした矢先に思いも掛けず襲来した胸騒ぎを打ち消すことが出来ず、とうとうここまでやって来てしまった。
こうだ、と言い切れる自信もなく、かと言って放っておけば腐臭を漂わせるような胸くそ悪さを味わうのはどうにも癪だったのだ。
後悔するのなら、行動し終えた後のほうがいい。
むしろ、何も事無く自分の気のせいだったと分かればそれで良いではないか。
しかし、目の前に横たえる彼女を見た瞬間にこれほど己の第六感を褒め称えたいような、恨めしく呪いたいような複雑な心持ちになったことはない。
もっとも、この時の彼にそんなことを考えていられる余裕などろくすっぽ無かったが。
「お、おい!!ルージュ!!」
久しく見える好敵手、褐色の肌を黒で包み、しなやかに闇夜を踊るであろうコウモリ、ルージュ・ザ・バット。
しかしながら、今、彼女は無様にその肢体を母なる大地に横たえ、止めどなく流れる血は確実に彼女の生命の危うさを物語っていた。
呼びかけても身じろぎ一つせぬ彼女の身体に触れた刹那、あまりの冷たさに、それがこの辺り一帯に降り注ぐ慈雨のせいであることに気付くのにはしばらく時間がかかった。
「くそっ!驚かしやがって!!」
肝が潰れるような思いを精一杯罵って、彼はすぐさまルージュの身体を抱き上げた。
予想よりも幾分か軽い、しなやかな曲線美のその身体は、力なくだらりと両手両足を投げ出して、まるでマネキンか何かを持ち上げているようで怖かった。
「おい!!こんなところでくたばるなよ!!」
一瞬でも頭を掠めた最悪の事態が腹立たしくて、彼は、ナックルズはそう叫んで、駆け出していった。
鬱陶しい密林の中を駆けていく最中、それ以外に何も考えられない己の中で、片隅で冷静に己を傍観する自分がぽつねんといた。
傍観する自分が冷静に沈着に事態を解するところ、抱き上げて先ず驚いたのがあまりの体の冷たさもそうだが、何よりこの体の軽さに冷水を浴びせられたような心持ちだった。
以前にこの手を掴んだ時にはもう幾らか重みがあったような覚えがある。
あの時でさえ軽々しく感じたと言うに、今のこの異常なまでの体重の軽さの意味するところ、それは則ち、彼女がこのジャングルに足を踏み入れて結構な時間が経っているということだ。
「・・・・・・ルージュ。」
奥歯を噛みしめ、華奢なその体を壊すまいと、それでもしかと抱いて、ナックルズは小高い丘に居を構えるテイルスの工房の戸を荒々しく叩きつけた。



「ルージュのほうは命に別状は無いよ。ただ、ドアが重傷だねえ。ああ、別に怒ってないよ?でもさ、一応、ドアは倒す物じゃなくて、開ける物なんだからさ・・・・・・・・・・・・ナックルズ。」
言葉を返す暇も与えられぬまま、ナックルズは情けなく首部を垂れた。
「すまん。」
「よっと、まあ、これで良いだろ。」
折良く傍らでドアを打ち付け終えたソニックの言葉が殊更居たたまれ無さを感じさせた。
元来自分に猪突猛進の気があることは承知していた、が、今こうして打ち付けられたドアの真ん真ん中に堂々と罰点印に貼り付けられたる二枚の板を見ると、甚だ後悔を禁じ得ない。
自分ではよく認めなかったが、恐らくその二枚の板を取り払えば、そこには丁度ナックルズの拳程度の風穴がぽっかりと空いているのだろう。
これからしばらくはソニックに物笑いの種として冷やかされるのかと思うと、当分此処には立ち寄れないな、と心中深く溜息を零した。
しかし、何はともあれルージュに命の別状が無いと知って、俄然肩の力が抜ける我が身に覚えず失笑した。
安堵と脱力に一気に体全体の力を奪われて、ナックルズは力なくずるずると椅子にもたれ掛かった。
「まあ、危険はないにしても、一応医者にはみせたほうが良いと思うよ。今日は大雨で電車が運休してるから、明日にでも連れていこう。」
「ああ・・・・・・。」
「にしても、危なかったわよね〜。ナックルズが偶々通りかからなかったら、かなりやばかったんじゃない?」
忽然に、台所に引っ込んで茶の用意をしていたエミーが横合いから口にした言葉は、確かに一つの可能性を示していた。
否、可能性と呼ぶより、それは確実にルージュに待ち受けていたであろう死という現実だ。
この悪天候の中、それも探検隊かそれこそソニックのような物好きでなければ足を踏み入れないジャングルに、平生天空の孤島で日々を過ごすナックルズがそこを訪れる可能性など、大凡稀薄なものでしかない。
必然、死という現実が避けられない一つの道であったことに、今更ながらナックルズは自らの行動に深く感謝した。
「そりゃ、あれだろ、エミー。運命ってやつなんじゃねえの?」
「え〜!素敵!!心で繋がりあってるなんて最高!!」
と、人が深く感慨に耽っている横から余計な茶々を入れられて、ナックルズは酷く剣呑な目つきでソニックを見咎めた。
見咎められたソニックはと言えば、ナックルズの眼力など蚊ほどにも感ぜられぬのか、意を介した様子も無く、にやにやとひっぱたきたくなるような面でこちらを見ていた。
平生、自分がそういう話しを持ち込まれれば嫌な顔をする癖、相手にするのは楽しいらしい。
「運命かどうかは別として、でも、放って置いたら危険だったのは間違いないよ。腕の出血は大したことなかったんだけど、全身に打撲があったから、少し熱があるんだ。」
「打撲?」
「多分、空中で撃たれて落ちていったんだと思うけど・・・・、腕の傷は弾が掠った痕だっていうのは分かるから。」
「奴さん、またスパイ活動でもしてたのかもな。」
あまり仲間内で使わない単語に、ふとナックルズは瞼を伏せた。
思えば、先達てマスターエメラルドを盗まれて追いかけていた時分から、彼女はその活動に奔走していたのだろう。
高が宝石泥棒だと思いこんでいた勢い、その事実には大層面食らった。
しかして、それ以上の感慨はナックルズの中にはろくすっぽ浮かぶことはなかった。
互いにそれぎりの関係であろうと思っていたし、何より自分に余程縁遠い世界であったから。
自分と同じく闇を愛しても、彼女はその闇の中艶やかに煌めくネオンを背に踊るような女であって、正直苦手な相手だ。
挑戦的な青みがかった翠玉の双眸も、美しく曲線に撓んだ艶やかな唇も、黒に縁取られていっそ強調された肢体も、凡そナックルズには抵抗のある存在だ。
その存在と、ソニックの言うような運命という繋がりがあったのだとしたら、それは御免被りたい。
あの雨ざらしになった彼女を見る前の自分であったなら、きっとそう言ったのだろう。
「味方は誰もいないんだな。」
「?・・・・潜入スパイなんだったらそうなんじゃないのか?エッグマンの時もそうだったらしいしな。」
「よく、『失敗しても、当局は一切責任を負わない、健闘を祈る。』とか言うけど、本当なのかしらね〜。」
「やっぱり、公には出来ないことなんだろうし、そうなんじゃない?」
「でも、007って、あれはどう見てもスパイって気がしなくないか?行動が派手すぎるだろ。」
途端、エミーの疑問を皮切りにソニック達のスパイに関する討論会が熱く交わされ、ナックルズは話に加わる気にもなれなくて部屋を後にした。
ドアを境にソニック達の空間と切り離された静かな廊下に立っていると、雨に降られて大地に伏していたルージュの姿が何遍もナックルズの頭を行き過ぎて、ナックルズは酷く気分の悪い心持ちがした。
ルージュは小憎らしい女だ。どこか冷めていて、客観的にも主観的にも物事を捉えられて、そうして自分が女であることも十二分に活用出来る器用な奴。
彼女に決して男の手など必要は無いというルージュに対するナックルズの概念は、今も降り続ける雨に綺麗さっぱり流されていってしまっていた。
思い返せば思い返すほどに、あの時分の彼女がナックルズには酷く小さくて、脆い存在に思えたのだ。


それが闇であると理解出来ぬ事こそが本当の闇なのだろうとルージュは悟った。
周りに見えるのは果てなく続く夜。永久(とこしえ)に陽の光は射さず、動くものは己ばかり。
一人取り残されてしまった静寂の世界に、ルージュはひたすら立ちつくすばかりで、身の降りようがなかった。
誰か、と助けを呼ぶことができたらまだ望みを持てたかもしれない。
しかし生憎、彼女は助けを呼べる名さえも持ち合わせてはおらず、彼女の精神を支える拠り所さえない、詰まるところ本当の孤独に取り憑かれてしまっているのだ。
そうした結論に落ち着いたが否や、ぽつりとルージュの頬を一滴の雫が打った。
自分が泣いたわけでもないその現象に面食らって、おもむろに首部を上げて漆黒の夜に眼を凝らしてみると、耳の奥を朧気な雨音が去来した。
次第次第に勢いを増す雨音と共に、上向いたルージュの面に何遍も何遍も雫が衝突していく。
空も見えない世界に雨などが降るのか、と胸の内で毒づきながら、決してその顔を背けずに真っ向から自らに降り注ぐ雨を甘受するその様は、この闇には酷く滑稽なものに見えているのだろう。
止めどなく降り注ぐ雨垂れが、鋭い切っ先のように肌を刺していった。
痛いのか冷たいのか分からぬまま、堪えきれず、一度瞼を強く閉じてみた。


開いた双眸は二目に見慣れぬ白い天井をその視界に迎え入れていた。
ジャングルの次は暗闇で終いには人様の家ときたか、ころころ二転三転と変わる状況にルージュは激しい頭痛を覚えた。
血を流して倒れていたと思ったら闇の中で雨に降られ、そうして今時分は寝心地の良いベッドに身を沈めて横たえている。
自分の置かれた現状を何一つ理解できないことが甚だ苛立たしくて、八つ当たりに右手に握り拳を作ってベッドに勢い良く沈み込ませると、反動で跳ねたスプリングの振動が左腕に障った。
「いたっ!?」
徐に左腕を抱え込むと、そのままルージュはベッドの上で蹲るような形を取った。
はあ、と何遍も息を吐き出しながら呼吸を整えようとするが、じりじりと苛むような腕の痛みと頭痛が意地悪をする。
状況を順序立てて整理しようにも、集中することもままならない。
自棄になりたくなるような気持ちを必死に抑えて、全ての苛立ちを吐き出すように大きく息を吐いた。
興奮して火照っていた頭は多少落ち着いたものの、それでも左腕の痛みが消えることはない。
憎らしげに左腕を睨め付けようとして、そこに真っ白な包帯が几帳面に巻かれていることに気が付いた。
よくよく見てみれば、雨でずぶ濡れだった体も今では綺麗に拭かれて、ベッドには染み一つなかった。
自分の与り知らぬところで事が進んでいくのは甚だ癪だし、自分の体を誰が弄ったのかと憤慨したいが、ここまで良くしてくれていると言うことは、そう悲観的な状況でもないようだ。
もう、どうにでもなれとでも言うように諦めたような溜息を一つして、再度仰向けに体を転がし天井を眺めやった。
少しでも痛みから気を逸らせようと白い天井に様々なことを思い描いていく内に、唐突にルージュの中をある記憶が過ぎった。
それはジャングルでの朦朧とした意識の中で、ルージュを強引と言える程なまでに揺さぶっていた。
死を間近にした幻聴であったのかもしれないが、少なくともそれはルージュに多少なりの意識を呼び起こさせ、今こうして生き長らえさせる契機となったのだ。
こんなところでくたばるな、と誰かが自分に必死に呼びかけるその声が、深く暗い海の底のようなまどろみに浸かっていた自身を引っ張り上げてくれた。
声の主が誰かさえも皆目見当も付かなかったが、酷く嬉しかったことだけはやけに覚えている。
何故に今それを思い出すのかも不可解だが、それ以上に不可解なのは思い出した自分が知らず知らずの内に唇を撓めて微笑んでいたことだ。
薄らぼんやりとした記憶に想いを馳せている内に、ふと遠方から靴音が近づくのを、自慢の大きな耳が捉えた。
ドアを見つめながら、しきりに訴えかけてくる心臓の高鳴りがうざったい。
躊躇いもなく近づく足音がやがて自分の部屋の前で立ち止まるような気配を感じて、ルージュは一層眦を広げて事の展開を見つめようとした。
しかし、壁一枚隔てて立ち止まってしまった気配は一向動く気色も無く、躊躇っているようにも感じられる。
幾許もなく、意を決したようにドアノブがかちゃりとか細く音を立てて回った。
ドアは短い間隔で一拍ずつ動き、極力音を立てまいと努めているのが見て取れた。
恐らく自分を起こすまいとしての気遣いだったのだろうが、生憎既に起きているルージュはその滑稽と言える気の配りようを一部始終見て、思いがけず失笑した。
「ふふっ!!」
「あ?」
驚きを含んだ声と連れだってドアの陰からひょっこりと男が顔を出した。
寝ているものだとばかり思いこんでいた割合、こちらを見つめる男は結構仰天したようだ。
その時の驚きに輝く紫色の双眸を、ルージュは自分の好きな色だと思った。


てっきり寝ているものとばかり思っていた。
様子を見に来たは良いが、無遠慮に入って起こしてしまうのは悪いからと細心の注意を払ってドアを開けたのに、途端吹き出したように笑ったあの女の声が聞こえてきて、自分でも素っ頓狂な声を上げてしまったと思う。
どうやら、自分は大概この女にからかわれる運命にあるらしい。
それでも、ベッドの上でこちらを見ていたルージュの顔は平生のそれよりも随分毒気がないから、拍子抜けて怒る気も起きなかった。
「よう・・・起きてたのか。」
そんなこと、見れば分かるでしょう、なんて毒づくルージュの姿を期待して言葉を投げかけてみた。
兎にも角にも、普通の状態でルージュと接するのは、ナックルズにとっては些か度胸のいる行為だったのだ。
「ええ。ついさっき。」
「あ・・・・・、ああ。そうか。」
意外にも素っ気ないルージュの言葉に予想を大きく裏切られ、ナックルズは覚えず当惑した。
しかし、簡素な言葉とは裏腹にルージュには何か思うところがあるのか、じいっと、その大きくぱっちりとした眦を少し広げて、しげしげと自分を見つめてくるので気恥ずかしさを覚える。
思えば、こうして互いに互いの顔を眺めるのはあの時分以来だと、ナックルズはぼんやりと考えた。
と言っても、あの時分はルージュがさっさと距離を取って喧嘩を売ってきたから、観察する余裕など毛ほども無かったのだが。
改めてルージュの顔を観察して見て言うなら、やはりこれが「女」の顔なのかと、変に納得してしまった。
エミーのようなあどけなさや、妙に女になりきろうと力瘤を作ることもなく、自然な艶やかさがあると思う。
そうして、こちらを見つめる翠玉の双眸が勝ち気さに彩られていて、酷く惹かれて止まなかった。
程なく観察を終えて、ふと今更ながらにこの恥ずかしい状況に気付いてナックルズははっとした。
年頃の男と女が互いに見つめ合う状況など、端から見れば恋人か何かの類にしか見えない。
しかも、自分を見上げてくるルージュの顔はやけに真摯なものだから、ナックルズの羞恥心はさらに拍車が掛かってしまった。
一度意識してしまうとどうにも落ち着かず、そわそわしてきたナックルズはとうとう堪(こら)えきれず、ルージュの視線からふいと顔を背けた。
自分でも随分不自然な行動だとは思う。恐る恐る首を元の位置に回してルージュの表情を伺ってみると、存外にもルージュはさほど気にした様子はないようだった。
むしろ、ナックルズの行動など眼中に無いように自分の手の甲にくっきりと残った痣を見つめて、眉を顰めていた。
その痣は手の甲に紫色の染みのように広がっていて、見ているナックルズも痛々しいと感じた。
「ああ、それ・・・・どこかにぶつけたんだな。腕のほうに気ぃ取られてたから気付かなかったけど・・・痛むのか?」
「・・・・・・・・・ねえ、」
「あ?」
「あんたが助けてくれたの?」
不意に上げられた視線はやはりどこか真摯なものを湛えていて、ナックルズは覚えず怯んでしまった。
「あ、・・・・ああ。まあな。」
「そう・・・・・・・・・・・・・ありがとう。」
素直に礼を言うその顔は、僅かに微笑を浮かべていて、ナックルズは不覚にもそれを綺麗だと心底思った。
そう思うと、自然、顔が赤らんでくる自分の性分が腹立たしい。
「え!!!!・・・い、いや、べ、別に偶然だったから・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・そう。」
慌てふためき答えるナックルズに、からかいの言葉も投げかけず、少し俯いたルージュを、ナックルズは当初から感じていた違和感を一層強めて見た。
よくよく考えてみれば、この女は自分の肌にそんな傷を認めようものなら、「アタシの玉の肌に痣が!」などと抜かして文句を垂れているだろうに、今も尚その痣を凝視したまま運とも寸とも言わない。
口やかましいこの女の寡黙な態度が至極不気味に思えはじめてきた。
「おい・・・ルージュ、お前・・・・・」
「あんたは、」
「ん?」
「あんたはアタシのことを知ってるの?」
「?・・・・・お前何言って・・・・・」
「アタシは誰なの?」
三度振り仰いだその強く真摯な表情を、疑う余地は無かった。
「お前・・・・・・記憶喪失!?」
やけに静かな空間に言葉が沈んでいく。
意識の端っこで、雨が止んでいるのに気が付いた。

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