啄木ロードの途中、南大通8丁目にある公園です。釧路の歴史に登場する建物などの跡地として見て頂きたい場所です。 |
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佐野碑の佐野とは江戸時代、釧路国を支配した佐賀藩のお墨付きで釧路の漁場開発経営に力を注いだ新潟県寺泊出身の「佐野孫右衛門」という人のことです。アイヌの人々を抱え、昆布の漁などで得た資金を基に道路の開発なども請け負っていたそうです。これは当時、場所請負人(漁場持)という名の職だっといいます。 |
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園の門から入って真っ直ぐ奥に、その碑が立っています。佐野氏については「釧路歴史散歩」というHPに詳しいことが書かれています。 |
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更に奥には東北海道電信創業記念碑があります。
明治17年10月に札幌・苫小牧・浦河・釧路・根室と電信線の架設が完了しこの辺りに分局が開設されたとの事です。 |
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佐野碑の隣には「久寿里(クスリ)」会所の跡もあります。江戸時代には釧路は「久寿里」と呼ばれていました。そして会所ではアイヌとの交易、宿泊所、漁業経営や行政機関のようなことを執り行なっていたといいます。この裏手には後で説明しますが「武富私道」と呼ばれる坂道があります。 |
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公園の中央には「丸太学校」の跡があります。
明治8年米町の寛永山聞名寺の住職「永福法髄」が寺の境内で児童教育を始めたそうですが、子弟が増えてきたために明治10年、この地に丸太で出来た学校を建てたとの事です。 |
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本当は門を入ってすぐにあるのがこの碑なのですが、石川啄木が通ったといわれている「喜望楼」という名の料亭跡があります。喜望楼は洋食が食べられ、ビリヤードもあり、2Fバルコニーから海が見渡せるといった三拍子揃った西洋料理屋だったそうです。
あはれかの国のはてにて
酒のみき
かなしみの滓(をり)を啜(すす)るごとくに
啄木の歌が刻まれています。
佐野碑園の中にはこのように釧路の歴史に深くかかわるものが凝縮されています。一度に色々なことが想像出来る貴重な場所だと私は思います。 |
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佐野孫右衛門は明治時代に入り開拓使が決めた漁場持制度の廃止からやがて没落していきます。その後孫右衛門の権利を買収したのが「武富善吉」という人です。佐野碑園の裏にはその名にちなんで武富私道(現在は武富小路)という坂があります。 |
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坂を上った左にはかつて栄華を誇った料亭「八浪(やつなみ)」の跡地があります。元々は武富家の建物でしたがその後八浪が買い、昭和14年から平成8年まで営業をしていました。 |
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釧路の3大料亭というと、喜水(きすい)、ちく半、そして八浪。
戦前から政財界はもとより漁業や炭鉱で勢いのあった会社の幹部が利用するなど、多くの方々の脳裏に焼きついていることでしょう。
「廊下と窓から見る景色が印象に残っている。」私の父が当時の思い出を語ってくれました。 |