釧路の街に来た方なら必ず1度は目にするでしょうこの仏舎利塔は、宗教建造物とあって釧路の公式観光案内には入ってません。しかしながら、釧路で生まれ育った私としては宗教宗派に関係なく、美しい建造物としてその素顔を皆さんに紹介したいと思います。 |
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現在は建物の高層化でいささか目立たなくなってはきてますが、まだまだ市内を走っていると目に入る建物です。 |
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材木町の旧国道から緑ヶ岡方面へ抜ける途中に日本山妙法寺入口の看板が見えてきます。 |
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駐車場からは史跡の御供山(モシリヤ砦跡)を見下ろすことが出来ます。その奥には市内中心部のビル群が一望できます。 |
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そしてこれが間近から見る荘厳な仏舎利塔の姿です。仏舎利塔建設の逸話はあまりに多くのことがありすぎ、ここでは紹介しきれませんが、今は無き「中村水産株式会社」社長の(故)中村小三治氏が私財を投げ打ち世界恒久平和のシンボルとして完成を目指したものでした。当時の公民館館長、丹葉節郎氏ほか多くの協力者と共に横浜国立大学寺院建築専門教授の大岡実博士に設計を依頼。最初はたった4人のお坊さんのみで工事を始めたそうです。
日本で3番目の仏舎利塔として1959年(昭和34年)8月22日に完成。建設費は約3千万。現在の1億2千万相当になるといいます。その殆どは全国から寄せられた浄財だったということを聞いています。「仏舎利」とは釈迦の骨の事を指し、まさしくこの塔の中にはインド・ミャンマー・スリランカより寄せられた2粒づつ、計6粒の仏舎利が基礎部と宝塔上部の九輪に収蔵されているそうです。直接それを見ることは出来ませんが、当時を知る尼僧の方の話によれば手の小指の第一関節よりもずっと小さな粒がとてもきれいにピカピカ光っていたそうです。 |
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この部分が九輪と呼ばれる部分です。昭和33年日本赤十字島津社長と共に来釧された秩父宮妃殿下が建立の様子をご視察され、後に津軽メノウ石7個に南・無・妙・法・蓮・華・経と浄書してくれたそうです。この基部にその石は収納されているということです。
最上部の蓮華の上には大宝冠と呼ばれる特殊鋳造の宝冠が大岡博士の要望で美術鋳造家高原四郎氏の手によって作られました。 |
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塔の東西南北には美しいレリーフが飾られています。仏像彫刻家の斉藤高徳氏の作品で鋳造は上記の高原四郎氏が手がけました。気に入らぬ仕事はお金を積んでもやらない高原氏がその時だけは小三治氏の想いに打たれ実費のみで引き受けたとも言われています。
写真左上は塔正面の「正道仏」、右上は塔南面「初転法輪仏」、左下は塔東面「誕生仏」、右下は塔北面「涅槃仏」です。 |
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仏舎利塔丘下には昭和天皇が昭和11年に来釧した際の記念碑「道民奉迎場記念碑」も立っています。 |
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上左右と左写真は城山仏舎利塔とは関係のない市内弥生町という場所なのですが、塔が建つ丘の上の土地は、もともと釧路市の所有地だったそうです。昭和27年頃この弥生町の谷に通学路として陸橋をかける市の計画が持ち上がり、小三治氏の所有するこの土地と換地をすることが決まったそうです。その後、はれて城山の丘で着工にこぎつけたとされています。写真左上に写る弥生中学校は私の母校でもありますが、今はすでに廃校になってます。当時ゆかりも何も知らずこの橋を歩き通学していました。
陸橋下をくぐり進んだ位置にかつて小三治氏が興した中村水産のミール工場や缶詰工場がありました。工場の出す魚臭は独特のものでした。昭和天皇が来釧の際臭いので工場を止めるよう政府筋が圧力をかけて来たようですが当時の市長はありのままの釧路を天皇にお見せし、後に拝謁した際「朕ハ鼻ガヨクナイノデワカラナカッタ」とわざと違う発言をなされ市長の立場を気遣ったそうです。
太平洋を見渡すこの場所に栄華を誇った工場の姿はもはやありません。今では「フィッシャマンズワーフMOO」の釧路川を挟んで対岸の「くしろ港町ビール」の建物こそがその中村水産冷蔵製氷工場だったことを留めるにすぎません。 |
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仏舎利塔の周りを含めた完全な完成は昭和49年8月31日でした。心待ちにしていただろう小三治氏は残念ながら10年ほどさかのぼる昭和38年6月12日、すでにこの世を去っていました。
豊漁や航海の安全祈願も託された仏舎利塔は幾度の大地震にも耐え、今でも変わることなく市内や遠く太平洋の海を見守るシンボルとなっています。観光の方はもちろんのこと、地元の皆さんも一度すぐそばでご覧になられてみてはいかがでしょうか。 |