史実の概要(ウィキペディアより) |
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条約締結以前
ロシア人のイワン・チョールヌイが1760年代、択捉島でアイヌの人々から毛皮税を取り立てたという記録が残っているそうです。最上徳内が最初に択捉島を訪れた1780年代には、アイヌの人々中にロシア正教を信仰する者がいたことが知られており、ロシアの決定的支配がされていたわけではないですが多少の影響力があった事がうかがえます。
ロシアの動きに対抗して当時の江戸幕府は樺太や千島を含む蝦夷地を幕府直轄地として統治することとし、支配勘定近藤重蔵や最上徳内らを派遣し、国後・択捉を調査させ、彼らも択捉島に「大日本恵登呂府」と書いた標柱を建てて帰国しました。 |
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最初の条約締結
1855年2月7日(安政元年12月21日)に伊豆の下田において日本とロシア帝国の間で日露和親条約結ばれました。これにより両国の国境を択捉島と得撫島(うるっぷとう)の間とされました。
(以後千島列島とは得撫島(うるっぷとう)以北を指すとしています。) |
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その後の条約締結
1875年5月7日に日本とロシア帝国との間で樺太・千島交換条約が結ばれ日本は樺太を放棄する変わりに択捉島以北の得撫島から占守島(しゅむしゅとう)を領土としました。
(この時交換の対象の千島列島は得撫島以北と確認されています。) |
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日露戦争後
1905年9月5日のポーツマス条約により再び南樺太が日本の領土となりました。 |
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太平洋戦争末期
1945年旧ソ連のヤルタで米・英・ソの3国が会談(ヤルタ会談)を行い、この中で日本の戦争降伏後南樺太と千島列島を旧ソ連に引き渡すことが決められました。この千島列島の国際的解釈が国によって異なり今日の領土問題となってしまいました。
(択捉島以南は日露和親条約・樺太、千島交換条約などに基づき千島列島ではないと日本は主張しています。また歯舞諸島・色丹島は元々千島列島ではありません。ヤルタ会談も連合国だけの密約であり日本との間には何の根拠もありません。)
1945年8月8日、旧ソ連は日ソ中立条約を一歩的に無視しこれらの島々を占領して今日に至っています。
占領直前、四島には一人もロシア人は住んでいませんでした。 |
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太平洋戦争後
旧ソ連は1949年までに全ての日本人を強制退去させました。
そして日本は1951年のサンフランシスコ平和条約で、北方四島以外の千島列島を放棄しました。
1956年12月12日「日ソ共同宣言」が両国の間で結ばれ平和条約締結後の歯舞諸島と色丹島の二島返還が明記されました。 |
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以上の流れにより日本は旧ソ連崩壊以前は四島一括返還を求めていました。
しかし現在の公式立場は北方四島の主権が認められるなら、返還の時期や条件及び態様については、柔軟に対応するとしています。また、北方領土に現在居住しているロシア人住民については、その人権、利益、希望は、領土返還後も尊重して行くとしています。
対してロシア政府は独自の解釈、見解に基づいて日ソ共同宣言以上の譲歩は発表していません。
ロシア政府の解釈、見解については上記ウィキペディアへリンクの「北方領土」の項目をご覧下さい。 |