ある宿での出来事


そう、それは秋雨前線の影響で空一面に黒い雲が立ち込め、少し強めの雨が町中を暗い雰囲気にしていたそんな日の夜だった。
彼は出張先から予約をしてあった宿にたどり着き宿主を探した。しかし、カウンターには誰も居らずそこには呼び鈴がひとつポツンとおいてあった。
”御用の方はこの呼び鈴を押してください”
そう書いてあったので彼はその呼び鈴を押し宿主が現れるのを少しの間待っていた。
1分ほど経ち宿の奥から宿主と思われる一人の中年男性が現れ、「いらっしゃいませ」と、彼に声をかけた。
「あのー、予約をしてあったものですが」
「はい、承っております。この用紙に名前と住所を記入してください」
そんな、どこの宿でもあるありきたりな会話をした後、彼は部屋の鍵を受け取り指定された二階の部屋へと向かった。彼はその時にはまだ今夜この宿で起きる惨劇に気づいてはいなかった。

彼は部屋の鍵を開け中に入り、入り口の横にある電気のスイッチを入れ部屋の様子をうかがった。そこはやけに狭苦しく、汚い部屋があった。
「まー安い宿だったから、仕方ないか……」
そんな独り言で自分を言い聞かせるようにして彼は部屋に入り荷物を置き、スーツを脱いだ。(やけに今日は蒸し暑いな)彼はそんなことを思いながら部屋を見回すと部屋の隅に大きな床置きのクーラーが目に入った。彼はクーラーでもかければ少しは涼しくなるかなと思い、クーラーのスイッチに手を伸ばそうとしたその時、彼の目に入ってきたのは体長4cmほどの大きな蜂だった。

その蜂は彼をあざ笑うかのようにクーラーのスイッチの上にじっと、たたずんでいた。
彼はゲッ!と、思いながらも何とかしなければと思い、クーラーの上の窓から蜂を追い出そうとカーテンを開け窓に目をやった。するとそのガラス窓はひび割れテープでガラスが落ちるのをかろうじて止めてあるような状況だった。(下手に開けると窓ガラスが落ちるかな?)そんな思いが彼の頭を一瞬駆け抜けたが、それでも蜂を何とかしなければという思いが勝ち彼は窓に手をかけ開けようとした。しかし、その窓は立て付けが悪いらしくなかなか開かずやっとの思いで窓を開け蜂の追い出しにかかった。
彼はさっきまで使っていた傘を右手に持ち蜂を突っつき窓の外に追いやろうとした。しかし、彼がいくら突っついても蜂は傘から逃げるようにクーラーのスイッチの上を歩き回るだけだった。
そんな状況の中、仕事の疲れもありいらだった彼は蜂を殺してしまおうと思い傘の先端で蜂をつぶしにかかった。

どのぐらいの時間がたったろう、相変わらず外は雨のやむ気配さえなく、蜂との格闘を終えた彼は汗びっしょりになっていた。(蜂を捨てなければ)そう思い彼は最初にトイレットペーパーに包み窓の外に捨てようと思ったが、(それはそれでまずいか)という思いから、そのままトイレに流そうとした。
トイレの電気をつけトイレットペーパーを幾重にも重ねて手に取りトイレットペーパー越しに蜂をつかみ蜂をトイレに流し、(はーやっと終わったか)そう思った矢先トイレを見回すとあまりのことに彼はびっくりしてしまった。
蜂を何とかすることでさっきはまったく気づかなかったが、彼の目に映ったトイレいや、ユニットバスにはあっちこっちに1〜2mmの小さな虫が這いずり回り、ユニットバスに必ずついている入浴時の水が外に出ないようにするビニールカーテンはカーテンレールのみを残し跡形もなく消え、トイレの脇にある鉄製のごみ箱はもう何年も動かした形跡がないかのようにごみ箱の回りに錆が広がっていた。

彼はあまりの事にめまいがし、少しでも気分転換をしようと思い、ベッドの脇にあるテレビの電源を入れチャンネルを変えようとした。
しかし、彼は部屋中を捜しても終にテレビのリモコンを見つけることができず仕方なく、テレビ本体のチャンネルで切り替えを行った。
彼はテレビを聞きながら明日の支度をしていると手から仕事の資料が落ちベッドの下に入ってしまった。彼はその資料を取る際にふと、ベッドの下に目をやるとそこはもう何年も掃除をしてないようにホコリだらけになっていた。
彼はもう一度部屋中を見回してみると壁のあちこちにひびが入り、穴が開き、角には蜘蛛の巣さえあった。
この部屋であった色々な出来事を忘れるために、とりあえずもう寝ようと思った彼は、服を脱ぎベッドに入ろうとすると、そこには擦り切れていてそこら中穴が開いているシーツが目に映った。

15分後彼はフロントに立ち先ほどの呼び鈴を押し宿主を呼び出した。
「すみません、急にたたなければいけなくなったので」
そういい、一泊分の宿代を渡し彼はホテルの外に消えていった。


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