ニュルンベルク: 消えざる犯罪


エルンスト・ツンデル

  ニュルンベルク裁判から50年になる。私はこの論文で、英語圏の読者にこの裁判に関する考察をいくつか提供していこうと思う。他でもないナフム・ゴールドマンの『ユダヤの逆説』の引用から、この論考を始めよう。この書物はさまざまな事実を提供してくれるばかりか、考えるヒントも与えてくれる。ゴールドマンは長年、世界ユダヤ会議 (WJC) の議長を務めた人物である。

「私は強制収容所の解放後、生存者と出会うためにドイツに戻った。しかしそれを除けば、公的にアデナウアー首相と会談した時のみ、私はドイツを訪れた。私がアデナウアー首相と会談したのは、賠償について交渉するためであった。この賠償は、国際法の観点から見れば大きな進歩であった。

  それ以前にも、ある国家が戦争に負けた場合、戦勝国に損害賠償を支払うケースはあった。しかしそれは国家間、あるいは政府間の話題であった。第二次世界大戦後、ドイツという国家は初めて、一般市民かイスラエルに賠償を支払うことに応じた。しかしイスラエルという国は、ヒトラーが犯罪を行っていた時代には存在していなかったのである。この賠償という画期的な考え方を思いついたのは、実は私ではない。

  戦争中、WJCはニューヨークに「ユダヤ問題研究所」を設立した (現在、その本部はロンドンにある)。当時の所長は二人の偉大なリトアニア在住ユダヤ人弁護士ヤコブ・ロビンソン、ネーミア・ロビンソンである。彼らの尽力により、ユダヤ問題研究所は二つの新しい考え方を打ち立てることができた。つまり、ニュルンベルク裁判とドイツによる賠償という二つである。」

  アメリカでは現在、新しい特別テレビ局「コート・テレビ」が、北米の人々に向けてニュルンベルク裁判に関する特別番組を放映している。これは、人々に誤った歴史を植え付ける番組で、トータルで15時間に及ぶ。同じようにカナダ放送会社・ラジオ局も最近、連続番組を放送した。それは古い短波録音によるニュルンベルク裁判 (1946年) 中継を放送する番組だった。いつものことだが、これらの番組では、コメンテーターは偽証や作り話だらけの証言を繰り返していた。そしてそれらの証言に、ドイツの軍事・政治指導者たちが行った悲しい「証言」 (それらはしばしば拷問された結果であった) が付け加えられていた。

  私は、これらの番組は人々に「憎悪をかき立てる」だけだと考えている。カナダでは特定の民族集団 (この場合はドイツ人) を批判することは法律で禁じられている。しかしこれが、歴史の名の下に行われている。現在のドイツ政府は、従属政府、売国政府である。この政府は戦後、連合国によって作り出された政府であり、連合国が復讐のために敗戦国ドイツに押し付けた政府である。現在のドイツ政府は、憎悪・虚偽の垂れ流しからドイツ人を守ってはいない。そこで私が、その防御の役割を買って出よう。心して読んでいただきたい。

 ニュルンベルク裁判についてこれまでと違った角度から考えることは、読者にとってはこれが最初かもしれない。私たちはドイツ人が貶められ、名誉を汚されることにあまりにも慣れているので、それをおかしいとも思わない。私たちはドイツが「ナチ犯罪」の罪を着せられ、非難されることにあまりにも慣れているので、この作り話について深く考えることもない。

  ナフム・ゴールドマンは書いている。

「ロンドンでの世界ユダヤ会議の間、ノア・バロンというロシア在住ユダヤ人、彼は素晴らしく偉大な理想主義者だったが、その人物が私に話しかけてきた。アデナウアーとの最初の会談で、私が指導的役割を果たすよう彼は説得してきたのである。私はこの説得に対し、心の中では非常に躊躇していた。なぜなら、再びドイツ人と話を交わすことは、私にとって非常に抵抗あることだったからである。しかし最終的には、心ではなく頭で、私は交渉の席に望むことを決断した。しかし私は前提条件を出した。アデナウアー首相が交渉前にドイツ議会で声明を出すべきだ、と私は主張したのである。彼はこう言わねばならない。『確かに現在のドイツ政府は、アウシュヴィッツを作り出したドイツ政府とは違います。しかし現在のドイツ政府は、ナチスの責任を引き継いでおり、賠償義務を負っています』と。彼はこうも付け加えねばならない。『物質的賠償を行っても、ドイツ人がユダヤ人になした悪業を消すことはできません』と。」

  このようにして戦後ドイツは始まり、現在に至っている! ニュルンベルク裁判の結果、罪の意識と莫大な賠償がドイツ人に押し付けられ、それが過去50年間搾取されたのである。

  私たちがニュルンベルク裁判を考える時、アウシュヴィッツ、ベルゲン・べルゼン、ダハウを思い出す。これらは連合国が「解放」した場所であり、ここで彼らは「多くの骸骨」を発見したのである。そうした骸骨は写真に撮られた後、多く利用され、その後に行われたさまざまな主張の裏付けとされた。

  罪の意識は、プロが使えば大きな武器となる。それは強力な武器であり、ゆすりの種になる。実際「ドイツに戦争犯罪を押し付ける」という政治計画は、ナチス・ドイツの「犯罪」が明らかになるずっと以前に、計画・実行されていたのである。それは、そうした「犯罪」がメディアのセンセーショナルな見出しで世界に伝えられ、世界が口もきけず、震え、恐れおののくずっと以前のことであった。

  ニュルンベルク裁判に関しては、ナチスの「犯罪」を告発すべく数百万の言葉が費やされ、あらゆる言語で何万冊もの本が書かれた。しかし、それらは全て連合国による戦後のプロパガンダを踏襲しており、それぞれの本が互いの脚注を交換し合っている有様である。連合国による嘘は数百万回繰り返されたが、しかし繰り返したからと言って、嘘が真実になるわけではない。私はこの論文で、こうした嘘の前提条件、そしてその理由について考察していこうと思う。この忌むべきニュルンベルク裁判こそ、ホロコーストというプロパガンダの源泉だからである。

  第二次世界大戦後に大人になった世代は、ニュルンベルク裁判を批判的に見ることなどほとんど許されなかった。例えば、議論されていない次のような事実がある。被告人は事実上無力であり、裁判全体が軍事占領下、連合国によって行われたという事実である。この欺瞞裁判について、当時の重要人物たちはどう考えていたのだろうか。

  ナフム・ゴールドマンによれば、既に戦争中、ニュルンベルク裁判は注意深く狡猾に計画され、嘘の下地が固められていたのである。第二次世界大戦は同族戦争であった。アメリカにしても、この戦争に参加したところで何ら国益を得ない筈であった。にもかかわらずアメリカは、多くの若者をこの戦争に投入した。それは外国人のため、そして当時まだ存在していなかった国家のためであった。そしてこのアメリカ参戦の遥か以前、ニューヨークのユダヤ問題研究所は悪魔的計画を立てていたのである。

  ゴールドマンは言う。

「ユダヤ問題研究所の考え方は、ナチス・ドイツが敗戦後、賠償金を支払わねばならないというものであった。この考え方は、ヨーロッパの戦争が連合国の敗北に終わると思われていた時期に出された。しかしチャーチル、ド・ゴールと同じく、私は勝利を信じていた。敗北など一度も考えなかった。なぜなら私は、ヒトラーが自分を抑えることなどできず、拡大主義を取り、その結果、アメリカが必ず参戦すると思っていたからである。ユダヤ問題研究所の結論としては、ドイツによる賠償はまず、ナチスによって財産を失った人々に支払われねばならない。さらに、もし私たちが望んでいるようなユダヤ国家を建設できるなら、ドイツ人は生存者がその国へ移住するための補償を行わねばならない。この考え方が最初に出て来たのは戦争中であり、ボルティモア会議でのことであった。」

  私たちが皆知っている通り、そして忘れてはならないことだが、予定通りヒトラーは敗北した。そして敗北したドイツの指導者にスターリン式見せしめ裁判を行い、世界に悪党の面々を曝す手順となった。これを「罰」と呼べるのだろうか? もう一度考られたい!

  ゴールドマンは続ける。

「ニュルンベルク裁判を裁いた判事たちの重要性は、あまり認識されていない。実は国際法では、命令に従っただけの兵士を罰することはできない。兵士を罰則対象にするという前例のない考え方を持ち出したのは、ヤコブ・ロビンソンだった。彼がこの考え方をアメリカ最高裁で述べた時、判事たちは彼を素人扱いにした。判事たちは言った。『あなたは前代未聞とおっしゃるが、ではこのナチス兵士たちが何をしたのですか?』彼らは続けた。『ヒトラーやゲーリングなら話は別です。しかしあなたが罰したがっている人々は単なる兵士だったのであり、命令を忠実に実行しただけではないですか。』私たちは連合国判事たちを説得するのに一苦労であった。兵士を罰則対象にすることに対し、イギリスは真っ向から反対、フランスはほとんど関心を示さず、彼らは後に議論には加わったが、積極的役割を果たさなかった。この考え方が最終的に通ったのは、ロビンソンが最高裁判事ロバート・ジャクソンを説得したからであった。」

  こうして何が行われたのか? 検閲により情報が完全に統制・操作されたのである。

  戦争が終結し、ドイツが降伏した後、連合国は実際、軍事政府を作り上げた。この政府は軍事独裁政府と呼べるものであり、多くの点でヒトラー政府より高圧的で、全ての通信を掌握した。この事実はどれほど強調してもしすぎることはない。

  郵便・電報・電話・ラジオ・本・新聞・雑誌、これらが全て統制・監視の対象となった。連合国は「許認可制度」という巧みな方法を用い、連合国のプロパガンダに与しない者については、罰として許認可を取り上げたり一時停止したりした。例えばジャーナリストは執筆を禁じられ、新聞社であれば紙・インクの配給を止められ、輸送割引を取り上げられた。それに加えドイツは、軍事的占領区域に分割された。その区域はミニ国家のようなもので、独自のパスポート、そして食料・燃料・衣服・文具の配給カード、クーポン券を発行していた。戦争直後の占領ドイツでは、ある区域から別な区域に行くためには、管轄の軍事当局に書式申請をしなければならなかった。その際、移動理由、会う人、滞在場所を書かねばならなかったのである。不在期間の配給クーポン券も申請しなければならなかった。他にも、ニュルンベルク裁判の弁護人にとって極度に不利な条件があった。それらのうち、あるものは意図的であり、あるものはミスによるものであった。当時、列車は石炭不足のため定刻通りに走っておらず、全く走っていない場合もあった。ほとんどの建物には暖房設備がなかった。人々は飢えており、国には男たちがいなかった。見渡す限りの廃墟で、悲惨が全てを覆っていた。それは困難な戦時中よりも、ひどい悲惨だった。


  私は多くの人と話を交わし、多くの人にインタビューを行った。あるいは私自身、裁判の場に現れたこともある。そこから分かったことだが、裁判官・検事・弁護士の誰一人として、1946〜49年のニュルンベルク裁判の最中、弁護団がどのような状況に置かれていたかを知っている人はいなかった。ましてや今日の世代は、ハイテクを駆使したお祭り騒ぎ、あるいはメディアの提供する精神錯乱によって洗脳されている。ドイツ弁護団がどのような状況下で弁護したのか、彼らはさっぱり知らされていない。全く知らされていないのである! 私は思うのだが、今日のシニカルな世代、つまり金が儲かり、自分さえよければいいという世代の裁判官・検事・弁護士たちは、当時の驚くべき真実・現実には全く目を向けていないのではないのだろうか。しかし当時のことについては、歴史のためにも記録しておかねばならない。

  想像してほしい。もしあなたがニュルンベルク裁判で弁護側に立って証言したいと言えばどうなったかを。つまりあなたは、ルドルフ・ヘス、ヨアヒム・フォン・リッベントロープ、カルテンブルナー、ゲーリング、シュトライヒャー、あるいはカイテル、ヨードル、ディーツ、レーダーらの軍事指導者の弁護側に立つわけである! そして証言許可を得ようして、あなたが軍事当局に出向いた時、あなたの前に立った人がロシア、フランス、アメリカ、イギリスの軍服を着たユダヤ人だったと想像してみよう。その軍人は何と返答してくるだろうか? 彼は、あなたが「ナチス的愛国者」であり、未だ「犯罪」を続行しようとしていると思わないだろうか? 多くの人々がこのような立場に身を置きたがらなかっただろうことは、何もロケット科学者の知性がなくとも分かることである。多くの人々は弁護側の証言者に立てなかった。彼らは残酷な戦争、恐ろしい空襲、そして「解放」という名の強姦・強奪をやっとの思いで生き抜いたのである。このような状況下、誰が自ら進んで逮捕・殴打・拷問などを受けたいと思うだろうか?

  しかし驚くべきことだが、自ら進み出て、ニュルンベルクの不運な罪人たちを弁護しようとする証言者もいたのである。しかし次のような例も1、2件ではなかった。ニュルンベルク裁判の弁護士たちが、弁護側にとっての重要証言者の居場所をつきとめ、割り出した。しかし、検事には実に都合のいい話だが、そうした証言者たちはニュルンベルクに来る途中「行方不明」になった。そして彼らの証言を必要とする審理が終わったずっと後で、彼らは姿を現したのである。

  弁護士たち自身、全く勝ち目のない裁判を戦わねばならなかった。彼らは寒く、湿った、空襲で焼け残った事務所、半ば崩れかかり、窓に板が張られた事務所で活動していた。彼らは寒さと忍び寄る湿気から身を守るために、オーバーコートを羽織り、帽子・スカーフ・手袋を着用して文章を書き、弁論を練ったのである。そして彼らが弁護しようとしている罪人たちは日々、報道機関・ラジオ・メディア・連合軍ラジオの中で、軽蔑すべき化け物、非人間的・犯罪者として誹謗されていた。彼ら弁護士は、まるで自分がカフカの小説に出て来る悪魔的裁判 (それがニュルンベルク裁判であったが) にいるような気がしたことだろう。

  ドイツ人にとってまさに絶望的な時代だった! 弁護活動は、人員、場所、タイプライター、リボン、カーボン紙の不足により遅々として進まなかった。そう、カーボン紙までなかったのである! コピー設備、紙の供給も不足していた。私たちは忘れてはならないが、1945年当時、コピーは写真で撮られていたのである。まず文書を特別カメラで撮影し、ネガを作り、それを乾かし、このネガを暗室で拡大し、写真用紙にプリントしなければならなかった。この写真用紙へのプリントのためには、当時入手しにくかった化学物質を使わねばならず、また写真用紙を乾かすためにも貴重な電力を消費しなければならなかった。当時、電気は厳しい配給制限下にあり、1日2時間 (1人当たり) の割り当て量しか配電されなかった。

  これらを踏まえた上で、あなたが弁護士であると仮定してみよう。弁護団は20数名で、弁護しなければならない被告は多数いた。そして検事から30ページ、50ページ、100ページ、200ページに及ぶ文書を数多く手渡される。裁判までの日数は限られており、その間に研究し、分析し、罪を計り、無実にできそうな被告を探さねばならないのである。当時のドイツは空襲に焼け出され、通りには何千万ものホームレスがさ迷い、凍え、飢えていた。電話帳も市民台帳も事実上使えなかった。なぜなら、電話はまだ多くの場所で復旧されておらず、民間人が管轄当局から電話・敷設許可を得ることなどほとんどできなかったからだ。あなたが医者のような「重要人物」でない限り、それは無理だったのである。

  弁護士を選択できるという被告人の権利について考えてみよう。これは、ほとんどの文明国で認められている神聖な権利である。しかし戦後ドイツ、つまりヒステリックで無法の戦後ドイツにおいて、この権利が守られたとあなたは思うだろうか? 「ナチスの化け物」の弁護を担当できる弁護士などいただろうか? これよりずっと後、平和な民主政治カナダでも、私の裁判中、私の担当弁護士が「被告人 (つまり私) とあまりに密接な関係を持ち過ぎている」と、メディアのコメンテイターに非難されたことがあった。現代社会ですら、弁護士、場合によっては裁判官が、私のような誹謗されている被告人に、攻撃的で不寛容な態度を見せる。しかし、被告人の運命を握っているのは彼らなのである。ニュルンベルク裁判で弁護を引き受けた弁護士には、どれほどの勇気が必要だったかを考えてみよう。彼らにも妻子があり、彼らとて戦争を生き延びたことを喜び、1946年の敗北し、荒廃し、分断されたドイツ、その廃墟の中で新しいキャリアを積もうとしていたのである。

  気力だけの問題ではない。秩序・公正さを本当に献身的に愛しているかどうかが問われたのである。そのような愛は、今日の社会ではほとんど誰一人として持ち合わせてはいない。

  このような英雄的な弁護士の立場に、あなたが立ったとしよう。あり得ることは、連合軍があなたに「ナチス」の烙印を押し、犯罪者扱いをすることである。なぜなら当時、ナチ党は連合国から犯罪組織と見なされていたからである。ドイツの精神的エリートの大半は国家社会主義党に入党し、彼らの大多数は戦争へ行った。そして死ぬか、重傷を負うかした。生き残った者たちの境遇は、文字通り「悲惨」であった。彼らは苛酷な戦争から帰還し、その結果、犯罪者扱いされ、市民権・人権を奪われたのである。これが残忍な連合国の所業であり、その連合国について、白人は皆「素晴らしい新秩序」というプロパガンダを絶えず喋り続けているのである。

  こうした状況全てを乗り切って、あなたが弁護士としてニュルンベルク裁判に登場し、訊問を受け、弁護士としての質を問われたとしよう。あなたは実際には何に直面するだろうか? この言わゆる国際軍事裁判を、冷静に厳密に分析してみよう。「国際軍事裁判」という呼び名は、正義で高潔な裁判というイメージを聞く人に与える! しかしこれは、多くの欺瞞を覆い隠してしまう。ニュルンベルク裁判の欺瞞は、今なお残っている。

  以下に、ニュルンベルク裁判とは何だったかを記してみよう。

  それは、国際軍事裁判でも何でもなかった。言葉の定義において、国際的ですらなかった。逆に、戦勝国が敗戦国を裁いたのである。ハーラン・フィスケ・ストーン判事(当時アメリカ最高裁・裁判長でジャクソン判事の上司)は、雑誌〈フォーチュン〉の記者とのインタビューで次のように答えている (ジャクソン判事はニュルンベルク裁判・アメリカ検事団長)。

「これはあなたに個人として申し上げます。アメリカ最高裁は、ニュルンベルク裁判とは直接的にも間接的にも関係がありません。あるいはニュルンベルク裁判を取り仕切った政治権力とも、関係がありません。私はジャクソン判事の参加について、新聞に出て初めて知りました。

  ニュルンベルク裁判は、戦勝国が敗戦国に正当性を押し付けた裁判でした。つまり、敗戦国が侵略戦争を行ったというわけです。しかし私は、今でも残念に思いますが、ニュルンベルク裁判は法的には全く根拠を欠いた裁判でした。それは裁判ではなく、戦勝国の政治行動だったというのが、最も正しい言い方でしょう。恐らく連合国は、道徳的には正しかったのであり、それは1815年のナポレオン追放が道徳的には正しかったのと同じことです。しかし連合国は当時、法的根拠のない裁判への釈明を行いませんでした。実際問題、近代戦争において、どの国が戦争を仕掛けたかを決める基準は、難しく曖昧なようです。それゆえ私たちは、ニュルンベルク裁判の手法を未来に受け継がせることに躊躇します。まずは戦勝国が、裁判の手法について釈明しなければなりません。

  実際には全ての戦争は侵略戦争です。そして今のところ、正当性の源泉は敗戦国に対する戦勝国の権力のみです。

  もし連合国が当時、ドイツの指導者をオープンかつ率直に悪者であると罰していたなら、私はあまり悩むことはなかったでしょう。しかしニュルンベルク裁判はコモン・ロー〔不文法〕、あるいは憲法の装いの下で罪人を裁いたのであり、これが私を考え込ませています。私たちはある命題を支持してしまったようです。つまり、いかなる戦争においても、敗戦国の指導者は戦勝国によって処刑されねばならない、という命題です。」

  真実はこうだったのだ。ジャクソン判事はニュルンベルク裁判中、最重要の審理で検事を担当した。彼は大統領になる野望を持っており、そのため高い経歴を必要としていた。ニュルンベルク裁判は言ってみれば、彼の大統領選出馬への下地だったのである。ニュルンベルクの裁判官は、中立国スイス、スェーデン、あるいはアフリカ、アジア、南米諸国から選ばれていたわけではなかった。連合国裁判官の中心を占めていたのは、大部分アメリカの文民裁判官であり、軍人将校ではなかった。軍人将校であれば、戦争という極限状況での軍事指導者、その政府が行ったことについて、いくらかは理解と同情を寄せていただろう。軍人将校なら必ず、ドイツが絶望的な戦争状況において取った戦時政策のいくつかについて理解できたはずである。しかし自由主義国アメリカの田舎裁判官では、いくら経験を積んでいても、こうしたことは理解できなかったのである。

  さらに厚かましいことに、連合国は戦闘終了後も、他の手段を使ってドイツに対する戦争を継続した。それは爆弾・弾丸を使った戦争ではなく、心理を悪用した戦争、さらにひどい場合には拷問による戦争であった。冷たく残忍な調査官が揃えられ、彼らは容疑者を拷問にかけ、殴り、鞭打ち、飢えさせ、首を絞め、手足を切断したのである。そして容疑者に告白や陳述を行わせたのである。そうした告白・陳述がこの暗い時代、ニュルンベルク裁判という魔女裁判の証拠資料として提出されたのである。

  ニュルンベルク裁判の不当性は、アメリカ最高裁・裁判長ハーラン・フィスケ・ストーンだけでなく、アイオワ州立裁判所のチャールズ・F・ウェナーストラムによっても述べられている。ウェナーストラムはアメリカ中西部出身の判事で、ニュルンベルクでは比較的罪の軽い容疑者を裁く裁判を担当した。

  ウェナーストラムは〈シカゴ・デイリー・トリビューン〉紙・記者とのインタビューに応じた。これはその後有名になり、議論を醸すことになったインタビューである。彼はその中で、調査官、検事の中にすらユダヤ人が多くいたことを伝えている。彼らユダヤ人はナチス・ドイツから逃げ去り、連合国の軍服を着てドイツへ戻って来た人々であった。彼らが戻って来たのは国家社会主義者を拷問し、復讐を遂げるためであった。なぜなら国家社会主義者は、ユダヤ人を戦争遂行・西欧文明にとって有害と見なし、ヨーロッパから追い出そうとしたからである。

  以下の抜粋から、戦後ドイツに私的な目的で戻って来た人々についての理解が得られるだろう。これはウェナーストラムがニュルンベルク裁判での仕事に嫌気がさし、帰国を決めてからの話である。

  ウェナーストラムはアメリカへの荷造りをしながら、友人に言った。

「もし私が七か月前にこうした状況を知っていたら、決してここへは来なかったでしょう。ニュルンベルクの主要裁判は、アメリカ、ロシア、イギリス、フランスの検事・裁判官によって裁かれています。しかし、彼らが時間・努力・出費をかけて今行っていることは、連合国の責任を払拭し、第二次世界大戦の罪をドイツのみに押し付けようとする試みです。

  この裁判には国益が絡んでおり、それは判決にも表れています。この裁判の開廷の際に崇高な動機が述べられましたが、それは全く現実には反映されていません。

  判決は、復讐・個人的野心とは関係のない客観的立場から下されねばなりませんが、それが全く守られていません。世界が今後の戦争を避けるために役立つ前例を、ニュルンベルク裁判は提示できませんでした。

  ここの雰囲気は全体的に気が滅入るものです。通訳者が必要です。アメリカ人は外国語ができないことで有名です。たしかに法律家・事務員・通訳者・研究者が雇われましたが、彼らはつい最近アメリカ人になったばかりで、それ以前はヨーロッパで憎悪・偏見の対象となっていた人々でした。」 (〈シカゴ・デイリー・トリビューン〉1948年2月23日)

  つまり、連合国が雇っていた調査官の多くはユダヤ人だったのである。これについては、そうした調査官の犠牲となった人々の証言がある。彼ら犠牲者は、生涯のいずれかの時期にユダヤ人の周囲にいたことがあり、それゆえユダヤ人を見分けることができた。ドイツ人であれば、あるいはドイツ語を話す人であれば、調査官の人種について容易に見分けることができただろう。それは調査官の訛り・話し方からだけでも分かるのであり、ラジオ放送やメディア放送ですら見分けることができる。

  ニュルンベルク裁判で提出された証拠のほとんどは、「文書」であった。それは、連合国が膨大な容疑者記録から選び出したものであった。文書選択は悉く検事団に委託された。弁護団が利用できたのは、検事団が「裁判に関係があり、弁護団に手渡してもよい」と判断した文書のみであった。つまり連合国は、文書の公表・隠匿を選択できたのであり、戦後戦略・戦後計画に都合の悪い文書に関しては破棄することもできたのである。連合国はまた、戦争中、宣伝部・諜報機関を使ってナチスの印章・通行許可証・パスポート・指令書・身分証明書を偽造したことについても認めている。そうした偽造は完璧であり、ナチスの目を何度もごまかすことができた。これについて連合国の諜報機関は、現在も自慢しているほどである。こうした官僚・諜報要員が戦後に何を行ったかについては、別に豊かな想像力がなくとも容易に推測がつくだろう。今や彼らは文書を手に入れ、タイプライターを没収し、印章を手にし、国家社会主義党に関するあらゆる記述が書かれた手紙を集めたのである。

  そうした文書が証拠として「疑わしい」ことは置くとしても、被告人の証言がいかに作られ、実際には何を意味したかについては、見ていく必要があるだろう。

  ニュルンベルク裁判については、おなじみの感嘆符と共に「大量殺戮」、「ガス室」、「600万人の死者」という言葉が述べられる。こうした言葉、それらが醸し出す意味は大部分、ある人物の告白・陳述書に基づいている。その人物とはルドルフ・ホェスであり、彼は戦時、アウシュヴィッツ司令官であった。

  ルドルフ・ホェスは、連合国が「ホロコースト」を持ち出す上で最重要の証言者であった。彼の証言はニュルベルク裁判の審理・判決で大きく引用されただけでなく、報道機関によっても喧伝された。「アウシュヴィッツのガス室で何百万人が大量殺戮された」という主張の根拠・有効性は、ひとえに彼の証言から来ている。ホェスの「告白」は、ラウル・ヒルバークらの歴史家によって、今日に至るまで重要証言として引用されている。

  戦慄すべき「残虐行為」を、ホェスがニュルンベルクで証言したことは事実である。自ら署名した陳述書の真偽について、彼が宣誓したことも事実である。彼はこの中で、何百万人をガスで殺す指令書を受け取ったことを認めている。しかし、この陳述書は英語で書かれており、家族の話では、ホェスは英語を話すことも聞くこともできなかったのである。

  私たちには今、『死の軍団』という本がある。この本の中では、ルドルフ・ホェスが拘留中、死ぬほど殴打されたことが記されている。彼を殴打したのはイギリス警察に属するユダヤ人であった。彼らは殴打後も、ホェスが悲しい「証言」、「陳述書」を書くまで拷問を続けた。そしてこの証言が、連合国宣伝部によってその後ずっと用いられたのである。以下にルパート・バトラーによる『死の軍団』からの抜粋を示そう。判断するのはあなたである。

「1946年3月11日午後5時、ホェス夫人は玄関のドアを開けて6人のイギリス軍服を着た諜報員を中へ入れた。彼らは皆、背が高く、高圧的で、容赦ない訊問を行う技術を身に付けていた。

  家族には身体的暴力はほとんど加えられなかった。必要なかったのだ。夫人と子供は引き離され、それぞれに護衛が付いた。クラークの声音は意図的に低く、くだけた調子を響かせていた。

  彼は穏やかに話し始めた。『ご主人は昨晩あなたに会いに戻られましたね。』

  ホェス夫人はすぐに答えた。『私はこの数か月主人に会ってはおりません。』

  クラークはなおも穏やかながら、非難の調子を込めてもう一度言った。『そうではないでしょう。』それから彼の態度は豹変し、彼は叫び始めた。『もし言わないのなら、お前をロシア人に引き渡すぞ。ロシア人はお前に一斉射撃を浴びせるだろう。お前の息子もシベリア行きだ。』

  これは効き目があった。とうとうホェス夫人は力尽き、夫の所在を明かした。元アウシュヴィッツ司令官ルドルフ・ホェスは、フランツ・ランクと名乗っていた。同じ脅迫が息子・娘にも行われ、夫人と一致する証言が得られた。

  ホェスを捜し出した時の模様について、クラークは鮮明に回想している。

  『ホェスは新しい絹のパジャマを着て、三段ベッドの一番上に寝ていた。後に分かったことだが、彼はナチス指導者の大半が持っていた毒薬を失くしていた。また彼はそれを使うチャンスもなかった。なぜなら私たちが、彼の口に懐中電灯を突っ込んだからである。』

  ホェスはイギリス軍服を見ただけで、恐怖のあまり叫んだ。

  クラークは言った。

  『お前の名前は何だ?』

  ホェスが『フランツ・ランク』と答える度に、彼はその顔を殴りつけた。それが4度続いた後、ホェスは自分の正体を認めた。

  その場にはユダヤ人外科医もいたが、ホェスが正体を明かすやいなや、彼は嫌悪感を抑えられなかった。彼の両親は、ホェスが署名した指令によってアウシュヴィッツで殺されていたからである。

  ホェスは三段ベッドから引きずり降ろされた。パジャマは引きはがされ、彼は裸のまま取り調べ机へ引きずって行かれた。殴打と叫びが長く続いた。

  とうとう医療班長が訊問リーダーに言った。『殺したくなければ、もうやめさせて下さい。』

  ホェスには毛布がかけられ、クラークの車まで引きずられた。そこで外科医は彼の喉に大量のウィスキーを流し込んだ。その後ホェスは眠ろうとした。

  クラークはホェスの目を棒でつつき、ドイツ語で命令した。『起きていろ、豚め。』

  彼らはハイデに午前3時頃に戻った。雪はまだ吹雪いていたが、ホェスは毛布をはぎ取られ、真っ裸で独房まで歩かされた。彼から一貫した証言を得るまでに3日かかった。」

  このように拷問と脅迫で得られた証言が、私たちがよく知っている「ユダヤ人をガス室で殺した」事件の証拠となっているのである。

  歴史家も今日ではやっと、ホェスの証言があてにならないことを認めている。しかしこれも不思議ではない。ホェスは「ヴォルツェク」という実際には存在しなかった強制収容所についてまで証言しているのである。彼は「250万人がガス室で殺され、焼かれた」と証言した。「50万人の病死者を加えて死者総数は300万人である」とも述べた。ところが1990年7月18日の〈トロント・サン〉紙は、150万人説を挙げている。同じ日の〈ワシントン・ポスト〉紙も、150万人説を掲げている。クルジスロフ・レスキの記事から引用してみよう。

「ポーランド政府は、アウシュヴィッツの強制収容所で殺害された推定人数を400万人から100万人強へと改定した。

  死者の多数はユダヤ人だったことが、今では確かめられている。もっとも前ポーランド共産主義政府は、ユダヤ人とポーランド人は同数死んだと主張していた。

  新しい研究結果により、ヒトラーの絶滅計画の規模について議論が巻き起こりそうである。

  強制収容所の生存者で、イスラエル議会・労働党議員シェバク・ヴァイスは、この改定を虚偽と見做し『奇妙でショッキング』と受け止めている。

  イスラエルのホロコースト記念館、『ヤド・ヴァシェム・メモリアル』の館長シュムエル・クラコウスキは、この改定は正しいと述べた。

  『司令官ルドルフ・ホェスによって400万人という数字が述べられました。これを真実と見る人もいますが、誇張されています。』

  ポーランド政府は、ソ連が没収したドイツ文書を調べない限り、死者総数の正確な推定はできないと語っている。しかしソ連政府は、この文書の返還を拒絶している。」

  何と都合のいい言い訳だろう! 私は1989年、当時のソ連指導者ゴルバチョフに対し署名運動を起こした。それは、赤軍が1945年にアウシュヴィッツ強制収容所を占領した際、持ち去った死亡リストを公表させる署名運動だった。数か月経ち、この要求は認められた。ゴルバチョフはこの重要リストを赤十字に公表したのである。これには、アウシュヴィッツで死んだ人々の出生地・住所・死亡時刻・死亡原因などが細かく記載されていた。

  このリストに掲載されていたのは7万4000人であった。そのうち、ユダヤ人は約3万人で、ポーランド人がほぼ同数、それに他国籍の人々がいた。

  驚くほど少ないホロコーストである! 私たちは半世紀の間、「何百万人」という話をずっと聞かされ続け、今もこの話は出回っている。しかしこの話は全て、哀れなホェスの証言に基づいている。彼はドイツ敗北後の凍てつく夜、殴打されてこの証言を述べたのである。

  歴史家のクリストファー・ブラウニングも、最近の〈バニティー・フェア〉紙の記事で、ホェスの証言があてにならないことを最終的に認めた。彼は言う。

「ホェスの証言は常に根拠がなく、混乱している。それ故、見直し論者たちは常にホェスを持ち出しながら、アウシュヴィッツの記憶全体を疑問視しようとしている。」

  彼がこう言ったからと言って、見直し論者の主張・手法が無意味になるわけではない。全くそうではなく、むしろ逆である。結局、ホェスの証言は道具として使われたのであり、それは「ガス室、大量殺人」というホロコースト神話を打ち立てるためだった。見直し論者がこれまでホェスに注目してきたのも、まさにこの理由からである。つまりホェスこそ、ホロコーストに関する歴史家の主張・誇張を誘発してきた源泉だからである。『在欧ユダヤ人の絶滅』の著者ラウル・ヒルバーク (この本はホロコーストの聖書となっている) は、ホェス証言に大きく依拠している。ニュルンベルク裁判でも、ユダヤ人絶滅に関してホェスは主要な証言者であった。彼は裁判で「自分はひどい拷問を受けた」と述べたにもかかわらず、である。

  さらに言えば、連合国によるホェスの処遇、そして彼の証言の信憑性のなさは、実は驚くに値しない。ニュルンベルク裁判の被告人のどれほど多くが拷問を受けたかについて知ることは、私たちにはできない。なぜなら、彼らの拷問に関する裁判記録が抹消されているからである。そう、連合国にとって不利な情報は、ニュルンベルク裁判の記録から抹消されているのである!

  そのよい例が、シュトライヒャーの場合である。〈ロンドン・タイムズ〉紙によれば、シュトライヒャーは拷問を受け、鞭で打たれ、唾を吐きかけられ、便所の汚水を飲まされたと証言した。しかしこの証言は、後に裁判記録から抹消された。それは検事側の積極的工作によるものであり、当然、検事団長の指示によるものだった。シュトライヒャーの弁護士すら、この抹消には一役買ったのである!

  しかし、ニュルンベルク裁判の拷問記録の中で、残っているものもある。その一つは大管区指導者〔ガウライター〕ザウケルの証言で、彼は自分の家族が脅されたことを述べている。1946年5月の証言で、ザウケルは「私は10人の子供がロシアに送られると脅されたため、内容を確かめずに署名しました」と述べている。

  究極的に言えば、私たちは忘れてはならないが、こうした拷問・証拠隠匿こそが、文明国の名の下に行われた裁判手続きだったのである。この言わゆる国際軍事裁判、つまりニュルンベルク裁判の手続き・判決に不服申し立てを行おうと思っても、そのための機関は何一つ存在しなかった。連合国は、ドイツというヨーロッパ最大人口を抱える国に、残虐で大量殺戮に近い戦争を行った。そのドイツの指導者に対する判決は一度きりで、それは死刑であった。

  最近のテレビ・ラジオにおける感情的な誇張を読んだり、見たり、聞いたりする時、これらのこと全てを心に止めていてほしい。その理由はこうである。

  ユダヤ人指導者ナフム・ゴールドマンは『ユダヤの逆説』の中で、あらゆる嘘の源泉について述べている。ドイツには戦後、連合国の傀儡国家ができ、その最初の首相にアデナウアーが選ばれた。ゴールドマンは彼と合意に達した後、次のように述べている。

「ドイツは総額8000億ドル支払うことになった。イスラエルが国家としてスタートした最初の十年間、ドイツからの賠償金がなければ、現在のインフラの半分も整備されていなかっただろう。イスラエルの全ての鉄道・船・電力設備・産業基盤はドイツ製である。その上、生存者に支払われる個人賠償があった。イスラエルは現在、ドイツから毎年何億ドルの賠償金をドイツ通貨で受け取っている。もう数年経てば、イスラエルがドイツから受け取った賠償金の総額は、宝石売却による資金の2倍、もしくは3倍になるだろう。この賠償に現在、不服を言う者は誰もいない」

  これなのである!

  ニュルンベルク裁判から誇張と嘘を剥ぎ取ればこうなる。

  全ては連合国の仕業である。連合国は外国の海岸で戦った。その戦いの目的の一つはイスラエル建国であった。連合国は、当時シオニストの間に広がっていた政治野心を助長したのである。連合国はニュルンベルク裁判という舞台を使って、イスラエルの建国、そしてその財政基盤確立を援助した。連合国の要員たちはイスラエルを守るために、刑事・調査官・訊問者・検事・裁判官・死刑執行人となった。彼らは全て一つである。連合国は「専門家」を派遣し、彼ら専門家がドイツの文書を検閲した。それらの文書は全て連合国の支配下に置かれていた。彼らは罪を立証する文書を最大限誇張し、無実を立証する文書は破棄した。連合国の調査官は、「被告人」に不利な文書のみを拾い出すよう命じられていた。私はこの話を、アメリカ人学者チャールズ・ウィーバー博士から聞いた。彼は当時の連合国・調査官の一人であり、私の判決で証言したこともある人物である。彼ら調査官は、被告人であるドイツ人指導者たちの罪を軽くする文書は無視するよう命じられた。ニュルンベルク裁判では、この方針で全ての言葉・行為が実行され、それに不服申し立て一つ出なかった。

  アメリカ最高裁・裁判長ハーラン・フィスケ・ストーンは、アメリカ検事団長ジャクソンについて次のように述べている。

「ジャクソンはニュルンベルクで高級なリンチを行っている。私は彼がナチスに何をしようと気にはしない。しかし、彼がコモン・ローに基づいた手続き・判決を行っているふりをしていることには、私は嫌悪の念を感じる。

  これは私のような古い考え方の者にとっては、少々聖人ぶった嘘に映る。」

  全く聖人ぶった嘘である!

  連合国には誇らしげな記録が残っている。それは、病的で倒錯したマルクシスト/シオニストの法律・茶番劇をお膳立てしたことを誇る記録である。この茶番劇により、ドイツ人指導者たちに死刑が言い渡された。しかし、彼らドイツ人指導者の努力こそ、「悪の帝国」による「嫌悪のイデオロギー」を防ごうとする歴史上唯一の軍事行動だったのである。

  彼らドイツ人指導者は報いられなかった。ヨーロッパ、そして西洋文明の防衛者である彼らに対し、アメリカや「自由世界」は忘恩で報いた。この勇敢で正直な男たちは校首刑に処せられた。退廃・偽善を食い止めようとして、彼らは獅子奮迅の努力を見せたにもかかわらずである (この退廃・偽善を私たちは現在、恐ろしいことに「新世界秩序」と呼んでいる。)

  私は、彼らへの敬意に頭を垂れる。彼らはニュルンベルクで法的に殺害されたのである。彼らは世界の殉教者であり、悪党などではない。公正な裁判で裁かれていたなら、彼らの誰一人として死刑にはならなかっただろう。そう、一人として! 忘れてはならない。彼らが西洋文明を救うためにドイツ国家全体、そして最後には自分自身を犠牲にしたことを。彼らは、着飾った殺し屋、軍服を着たギャング、いかさま師に雇われた陰謀者たちに敗れたのである。東欧ゲットーあがりの殺し屋、ギャング、陰謀者たちに。

 


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