チャリバカ

作.乗峯栄一

 師走。通天閣がそびえる浪速の下町。
 JRの高架下には間口の狭い一杯飲み屋、作業服店、お好み焼き屋などが雑然と軒を連ねる。
 木枯らしが紙屑を巻き上げる街を中立勝太郎(高1)はTシャツ一枚で口笛吹きながらチャリンコを流している。チャリンコはママチャリだがサドルを目一杯高くし、短い脚を最大限伸ばして前傾姿勢で駆ける。学生服を腰に巻いて、この寒空にTシャツ1枚である。一見するだけで普通でないと分かる。
 ガード下の狭い歩道に仕事を終えた労務者のおっちゃんがあふれ、行く手をはばまれても別に頓着しない。ひょいと車道との区切りの縁石に乗って走り続ける。すぐ脇を車が走り抜けても相変わらず口笛。それだけでも有り余る運動神経を持て余した、しかしあまりものを考えない男であることが分かる。
 黒い顔に太い眉。髪は短髪、メッシュを入れようとして失敗したらしく所々に豹の模様ののように赤毛が残って異様だが、カツにはまったく頓着するところが見られない。しかも剛毛でチャリンコのスピードを上げると総毛立ちになる。
 作業着にタオル巻いて寒そうに首をすくめるオッチャンたちはカツのその異様ないでたちを驚いて見る。
「石屋のカツや」と知り合いの労務者から呆れた声が上がる。
「ああ、チャリバカの・・・」
 歯の抜けた皺くちゃの労務者からも躊躇なく「ああ、あの・・・」という声が上がる。
 キキーッと音を立ててカツはチャリンコを止める。「チャリバカ」という言葉を聞きとがめたのかとオッチャンらはややギクッ。
「オッチャン、ここの縁石から道の真ん中の分離帯まで飛べたら千円や。どうや」
 カツはオッチャンの悪口など全然気にしていない。
「ほんまにアホなガキやな、飛べる訳あらへんやろ」
 オッチャンは呆れる。川村サイクルのじいさんも「またか」と顔をしかめる。
「よっしゃ、そんならオッチャンの千円まる儲けや。こんなうまい話、オッチャンの好きな岸和田競輪場で聞いたことあるか?」」
 学校の勉強にはまるっきり興味がないが、カツは16歳ながらカネの絡む話になると、世長けた金融業者のように冗舌になる。
 オッチャンが「それもそうやなあ」という表情をしたとたん、カツはずっと後ろに下がって跳躍の準備に入る。普通のママチャリがカツがこぐと唸りを上げる。手前の縁石を跳躍台にして見事に飛び上がり、天性のハンドルさばきで着地の瞬間、グッと前輪をねじって細い分離帯の上でピタリと止まる。

 ベルトに挟んだ千円札を風にはためかせながら、カツは国道26号線に入る。幹線の広い国道だが、両側には下町特有の開けっぴろげの八百屋や魚屋、パチンコ屋に居酒屋などがぎっしり軒を連ねる。
 右手にドギツいストリップ小屋の看板。スタンディング(ペダルに足を置いたまま平衡を保ってじっとしている姿勢)の体勢でじっと見上げるカツ。
 みるみる太股が硬直し、膨れ上がってくる。カツは興奮すると、太股が膨れる体質である。ここへ来ると毎日決まってこの症状が起こる。
 Tシャツの裾を伸ばして隠そうとする。恥ずかしいのである。興味は人一倍強いが、カツは異性に関してだけは極端に臆病で、その臆病さの反動で時として訳の分からない突飛な行動に出る。
 道の向こうに行くために猛然と地下鉄入口の階段をチャリンコで下り、それから地下通路を抜けてまた階段をこぎ上がる。猛然とこぎ上がって、通行人を驚かす。
 その中に「川村サイクル」の孫娘、ちはるがいる。
 小さい頃からの幼なじみだが、ちはるは勉強が出来、優等生学校に通っている。
 今も単語帳片手に階段を上がっていたのをカツの無謀自転車に突き飛ばされたのである。
「無礼者」
 ちはるが喚く。ちはるは優等生だが、下町の子らしく気も強い。それに剣豪小説が好きで、女子高生なのに武家用語をよく使う。
「カッちゃん・・・」
 ちはるはカツと気づいて呆然とする。
 オカッパ頭のちはるはいつの間にかブレザーの制服の上からも分かるようなプリプリした体つきになっている。特にエンブレムを膨らませている胸の盛り上がりを見て、カツはさっきのストリップの看板とイメージがダブッて、ますます太股が膨らんでくる。
「女が触るとヤケドするぜ」
「は?」
 ちはるはカツが何を言ったのか聞き取れない。
「おれのチャリは男の炎や」
 カツは愛用ママチャリの錆びかけたハンドルのあたりを払う。
「待てーっ。ぶつかってきたのはそっちだろうが」
 その言葉は聞こえないふり。実は俯いているカツの顔は真っ赤、太股は膨れ放題。
 カツはまた猛然と階段を駆け上がっていく。
「待てー、狼藉者」
 後ろから手を出して叫ぶちはる。叫んではいるが、オカッパ頭に黒い瞳が愛らしい。

 また猛然とこぎ始めたカツはチンチン電車の軌道まで行く。通天閣の下まで走っている電車である。100bほど後ろにチンチンとカネの音を響かせてレトロな電車が走ってきている。
 前の家のブロック塀を利用して軌道に入る。なぜ入るのか分からない。いつもふくらはぎが勝手にここへ連れてくる。
 気づいたチンチン電車の運転手が「また、あいつや」と舌打ちし、狂ったようにチンチンチンチンと警鐘を叩く。
「やっとオレの敵が現れた」
 前方のカツは不自然にママチャリに取り付けられたバックミラーでチンチン電車を確認してニヤッと笑う。
「平坦な道路じゃ、悲しいことにもう敵がおらん。このガタガタのオフロードに図体のでかい敵、待ちわびとったぞー」
「くそー、何がオフロードじゃ。ここは電車の走る道じゃ。クソーッ、いつもいつも・・・。今日こそひき殺したる」
 カツのチャリの背後に迫る本気を出したチンチン電車。狂った形相の運転手と何事かと顔をひきつらせ、シートから転げ落ちた乗客が見える。

                 (場面転換)

 ニッカポッカに地下足袋、両手の紙袋に所帯道具一式を詰め込んだオッチャンたちは絶好の障害物である。
「スラローム」
 カツはそう言いながら、そのオッチャンたちを巧みなハンドルさばきで交わしていく。口笛も自然に出てくる。
 道端に寝ているオッチャンたちがいると、飛石をわたるように飛び越えていく。単なる改造ママ・チャリが勝太郎にかかると羽が生えたように見える。
 勝太郎はチラッと腕時計を見る。
「まだ10分ある。普通のヤツらは間に合わへんが、オレには“角丸公園越え”という秘技があるから大丈夫や。フフフ」
 筆記用具を入れたショルダーバッグの紐をまるでハチ巻きのようにひたいに掛け、カツはニヒルに笑う。改造ママ・チャリ“カッタロー号”は目指す千成高校に向かって快調に立ちん坊のオッチャンどもを掻き分けていく。
 その時、ふいに“カッタロー号”がガギッと鈍い音を立てた。
「ワアーッ」
 勝太郎は奇声を発して、道路脇のゴミ袋の山に頭から突っ込む。カツが残飯を頭に付け、ゴミだらけになって立ち上がると、ゴミの山がモゾモゾ動く。
「ふえー」
 空気の抜けるような声とともにゴミの山から黒い固まりが出てくる。
 ゴミ袋を慣れた手つきでどけると、黒い固まりは目を閉じたまま「朝起きたらまず何するんや?」と自問自答する。
「そうや、目を開けるんや」
「きたねえー」
 勝太郎は顔をしかめる。路上生活者には見慣れている勝太郎だが、その黒袋のオッサンの仕草には驚く。
「普通やないな・・・、このオッサン」
 勝太郎は黒袋のオッサンを見て独り言を言い、首を振る。
「しもた。遅なった」
 勝太郎はわれに返って入学試験のことを思い出した。
 チェーンを覗き込むと、外れただけと思っていたのが搓れてギアケースの中に巻き込まれている。
「アカンがな」
 勝太郎は小さく呟いてうなだれる。
「わしは朝は日本酒から入ることに決めとる」
 黒袋はまた訳の分からないことを言っている。
 勝太郎は学生服を捲りあげて、巻き込まれているチェーンを引っ張り出した。すぐに手は真っ黒になるが、そんなことは気にしていられない。3月の肌寒い朝だというのに額からは汗が落ちてきた。
「酒なら何でもいいという浮浪者もおるが、ああいうのは浮浪者として甘い。わしのようにビシッと筋の通った浮浪者がこれからは期待される。ビシッとしたな」
 男は「ビシッと、ビシッと」とひきつったように繰り返す。勝太郎はチラッと見て顔をしかめるが、今はそんなヨイヨイのおっさんに構っているときではない。
「おい、にいちゃん」
 黒袋が「ウーイ」と酒のゲップを挟みながら声を掛けてくる。勝太郎もだてにこの街で生まれ育ったわけではない。浮浪者の扱いには慣れている。こういう時は無視するに限る。
「わしはなぜゴミ袋をかぶってゴミ収集場所に寝ていたと思う?おい、にいちゃん」
「クソーッ、このチェーンのガキ、しぶといヤッちゃなあ」
 勝太郎は黒袋は無視してチェーンの修理にかかるが、うまくいかない。チラッチラッと腕時計を見て、さすがに焦ってくる。
 黒袋のオッサンはそう言って袋をまた頭までかぶり直したかと思うと、ドテッとゴミの山の中に倒れ込み、モゾモゾ中に潜り込む。
「・・・・・・こうしとるとな」
 声がゴミの山にこもってうまく聞こえない。黒袋もそれを見越して大声を出しているようだ。
「こうしとるとな、オッチャンどこにいるか分からんやろ。んで、みんな知らん顔でゴミ捨てるがな。そやから、そん中にはオジチャンの罠にはまって日本酒捨てる奴もおるがな。これはガチャンで瓶の当たる音がするから分かりやすい。フフフ、罠にはまったなってな・・ウグッ、ありゃ?うまく声が出えへん。あっ、キャベツの切れ端が口に入った」
「ガタガタやかましいんじゃ」
 突如、学生服の袖口から指先にかけて真っ黒にした勝太郎が立ち上がった。
「人がいま苦労してるのが分からへんのんか。人のマシンの危機が分からへんのか」
 その突然の激しいけんまくに黒袋はゴミの下からモゾモゾ這い出して来て、また袋から薄汚い首だけ出してキョトンと見ている。
「ほんま、人が苦労してんのに・・・・・・」
 勝太郎は憤然とチェーンの搓れたチャリンコを押して行こうとする。でもギギーッと音を立てて進まない。
「にいちゃん、チャリンコ調子悪いんか?」
「・・・・・・」
 勝太郎は意外な言葉に、怪訝な顔で振り向く。
「見たら分かるやろ」
 勝太郎はぶっきらぼうに言う。
 黒袋はゴミの山に潜って日本酒拾いの実演をしてみせたので、肩や胸のあたりに何やらウネウネしたものが引っ付いている。その姿のまま、体をゴミの山の上に投げ出して勝太郎の方に近づいてくる。
「わ、オッサン、何すんねん、オレのチャリンコさわんな」
 勝太郎の叫びを無視して黒袋はチェーンの状態を見る。
「にいちゃん、こら、ピンリングプレートが一本ローラーとブッシュの間に食い込んどるがな。こら、アカンわ。・・・・・・にいちゃん、急いどるんか?」
 勝太郎は黒袋の意外な専門用語に驚いてすぐに返事が出来ない。
「ああ・・・・・・」
「どうしても素人は異常ないリンクプレートの方はそのままにして修理しようとするから外圧と内圧にギャップが出来てすぐまた切れんねん・・・・・・。アカン・・・・・・、ニイチャン、悪いけど、そこの一升瓶持ってきてくれ。おう、それそれ。それ、底にまだ残っとるやろ」
「チャリンコの修理に酒使うんか?」
 勝太郎は不思議そうに一升瓶を差し出す。
 黒袋はその瓶に残った一合ほどの酒をグビグビ飲み干す。「フー」と息を吐いたと思うと、それまで小刻みにぶれていた指先が、まるで双眼鏡のピントが合うようにピタリと静止する。
「よっしゃ、震えが止まった。チェーンブッシュとチェーンローラーをハリガネで固定してと・・・・・・、ほら、出来た。これで急場はしのげるわ」
 酒のせいで浅黒くなった顔が上を向いた。所々地肌の見える寂しい髪は油ぎってギトギトしているし、伸び放題の髭にも何やらゴミだらけである。しかし黒袋から出た手が魔法のようにチャリンコを修理するのを手品でも見るように勝太郎は見ていた。
 勝太郎を見上げてニタッと薄気味悪く笑う黒袋の手は再び震え出している。
 半信半疑に愛車にまたがってみると、何とかペダルが回る。ギギーッというさっきまでの音もしなくなっている。
 勝太郎は狐につままれたように走りだした。
「ニイちゃん、アンクリング、やってみ」
「・・・・・・」
「ニイちゃん、脚力は凄いもんがあるけど、残念なことにペダルにうまく力が伝わっとらん。かかと中心の円運動がええんや。踏み下ろすときも踏み上げるときも足先よりかかとを先に動かす、これアンクリング言うんや、やってみ」
 黒袋の方を振り向いて何か言おうとしたがうまく言葉にならない。
「急いどるんやろ。はよ、行かんかい」
 黒袋は手で合図する。

 目指す千成高校の校舎は見えている。しかしその前にはチンチン電車の通天閣線があり、線路が金網の垣根で仕切られている。踏み切りははるか向こうで、そこを通っていてはとても間に合わない。
 線路の垣根の手前の角丸公園には、“公園好きの人たち”が大勢暮らしている。彼らは公園の縁に沿ってトタンとベニヤ板で“家”を作っている。その手前にはお誂え向きに子供が遊ぶためのコンクリートの山がある。
 その坂を助走つけてカッタロー号が全速で駆け上がる。
「オリャーッ」
 勝太郎は奇声を発してスロープを下る。その惰力を利して“公園好き”の家のトタン屋根に飛び移る。トタン屋根はちょうど踏切台の役割をしてカッタロー号を跳ね上げ、垣根と線路を越えさせてくれる。
 横断大成功。トタン屋根の住民が勝太郎の奇声とドスンという衝撃にビックリしてモゾモゾ出て来る。何やら怒鳴っているが、勝太郎は自らのウルトラCに、サドルの上で両手離しの拍手(これは勝太郎の得意芸)である。
 そのまま猛スピードで校内に入ると、ちょうど入試開始のベルが鳴っていた。

 黒袋のオッチャンはビニール袋をかぶったまま、その勝太郎の妙技の後ろ姿を腕を組んで眺めていた。
「いや、そんなことより」
 正造はわれに返る。
「今日の酒や。あんなガキが酒のタネになるとでも言うんかいな。ヘヘ、わしもモウロクしてきたがな・・・・・・。酒や、酒。今日の酒やがな。ゴミ収集車来たら終わりやないか」
 正造は黒袋をかぶったまま、いつもの日課であるゴミ袋の山の下へのダイビングを開始した。
「アカン・・・・・・、今日は残り酒がほんまないわ・・・・・・」
 ゴミの山の下からくぐもった声が聞こえてきた。

 大阪市天下茶屋を南北に縦断する国道26号線。通天閣は目と鼻の先にそびえている。
 JR環状線の高架下の信号から花園町のストリップ小屋「花園ミュージック」を越えて400bが中立勝太郎の練習コースである。
 その隣り、南霞町のガード下、労務者相手のニッカポッカ屋や立ち飲み屋と軒を並べて小さな自転車屋「川村サイクル」がくすんだ看板を上げている。
 中では夢破れ、人生に疲れた川村甚兵衛72歳がボンヤリ火鉢にあたっている。
 昭和20年代、本格的マシーン・ビルダーを夢見てイタリア・ミラノの名門ビスコンティ社に単身研修生となって研鑽を積んだ。しかしまだ競輪すら創生期の日本バイシクル界にあっては誰も本格的ビルダーの重要性を分からず、青年川村は夢破れ、故郷大阪西成のドヤ街に帰る。以来すでに30数年、無為に年を経た。
 今も店の奥には優秀研修生のイタリア語表彰状や新人ビルトアップ・コンテスト優勝のカップなどがホコリにまみれて見え隠れしている。しかし柱は傾き、ガードの上をJR環状線が通るたびに店全体がガタガタ揺れる。
 しかし今はパンク修理をときどきやるだけ。家計は老妻の経営する隣りの美容室(こちらも傾きかけているが、くすんだ自転車修理店に比べればややましか)が一手に担っている。
「じいさん、またパンクや。ええ加減に直してるんちゃうか。先週直したばかりやで」
 店のガラス戸の外で壊れたチャリンコを止めて、勝太郎が怒鳴る。
「空しい・・・・・・」
 頭部の周囲だけ申し訳程度に白髪の残る川村甚兵衛は何かにつかれたように無精髭をさすり、目を虚ろにして人生をはかなむ。勝太郎の声など耳に入らない。
「じいさん、パンクや言うてるやろ」
 勝太郎は怒鳴る。
「競輪で儲けてカネが入ったからといって、それが何だ、空しい」
 じいさんは「競輪研究」片手に、最近全エネルギーの99%を注いでいる競輪検討に入る。
「あんた、そんな寝言は儲けてから言うてや、いつもいつも美容室のレジからカネ持ち出しといて、ほんまに。ホレ、カッちゃんがまたパンクや言うてるで」
「カツやったら、いつでも空気抜けとる。生まれつきのパンクや」
 甚兵衛じいさんは競輪新聞から目を離さない。
「おっちゃん、言うとくけど、ワシ、これでも千成(せんなり)高校の一年やで」
 カツはパンクのチャリンコを押してじいさんの横まで来る。
 その大声にやっとじいさんも顔を上げる。
「千成高校って、あのアホで有名な千成高校か」
 勝太郎のコブシがワナワナ震える。
「カツ、お前、ええふくらはぎしとる。ツラもええ。チャリンコのチェーンにからまれたようなツラや」
 勝太郎は「どんなツラや」と食いつくが、オヤジは気にせず続ける。
「お前はもうチャリンコ踏むしか生きる道のない男や。女には縁がない。な、それでもええやないか。お前には女は寄りつかんでもチャリンコが寄りつく。世の中には何にも寄りついてもらへんやつか一杯おるんやから、な」

 甚兵衛じいさんがパンクを修理していると薄暗い外から「キェーッ」という奇妙な悲鳴が聞こえる。
「最近浮浪者いじめる悪ガキどもがふえとるらしい」
 立ち上がった甚兵衛じいさんが溜息まじりに通りの向こうを眺める。
 道の向こう側でゲンチャの集団が縁石をジャンプ台にして障害物を飛び越えるゲームをやっている。「キャハーッ」「クッハッハッハ」という奇声が飛び交う。
 障害物たちがモゾッと動く。どうやら寝ていた路上生活者たちのようだ。彼らはゲンチャに気づいて動転する。悪ガキたちはそれを見て余計に喜び、ジャンプゲームをエスカレートさせる。
 目を凝らして見ると、その浮浪者の中には朝チャリンコ直してくれたあの黒袋のオヤジがいる。酒でスローモーな動きしかできず、「アワワワ」と奇妙な声を出して飛び越えていくゲンチャに怯えている。朝の状態よりずいぶん酩酊状態がひどいようだ。
 ゲンチャのジャンプのタイミングがずれ、「グキッ」という鈍い音と共に黒袋オヤジの脚の上にのっかかった。
「ギェッ」という呻きがチャリンコ浮浪者から漏れる。
「ガキども、ええかげんにせんか」
 甚兵衛じいさんがいままでのノホホンが嘘のようにまじな顔で怒鳴る。
 悪ガキたちはチラッと道の手前のこっちを見るが知らんふりで“バイク浮浪者飛び”を続ける。
 じいさんは通りの車を制して道を渡る。
 カツもパンクのチャリンコ押しながらついていく。
「お前ら、弱い者いじめはヤメんか」
 悪ガキどもは無視して走り回る。路上生活者たちは怯える。
「やめろ!!つまらんテクニックしか持ってへんくせに、弱い者いじめしくさって」
「ウッ?」
 悪ガキたちは聞き捨てならない言葉を聞いた気がして振り向く。
「チンケな運転技術でカッコつけやがって」
「つまらんテクニック?」
 その聞き捨てならない言葉に悪ガキたちも寄ってくる。
「ああ、つまらんテクニックや。お前らのゲンチャぐらいやったらチャリンコでも抜けるわ」
「チャリンコで抜ける?」
 悪ガキの集団がざわつく。
「おい、じいさん、ええ加減にせえよ、じいさんがチャリンコでオレたちに勝負しよう言うんか」
「いや、ワシやない。勝負するのはこいつや」
 悪ガキたちが凄みながら寄ってくると、じいさんはクルリと後ろのカツと入れ替わる。
 鼻くそほじくっていたカツは驚いて指が鼻の中に突き刺さる。
「コイツは並のチャリンコ乗りとちゃうぞ」
 じいさんはカツの後ろに隠れるようにしながら大声を出す。
「イタリア・ミラノのチーム・ルキアーノで英才教育されたミゲール・インデュライン(世界最高のツール・ド・フランスで5連覇したロードレースの天才)の再来と呼ばれている天才少年や」
「うーん、こいつがか」
 鼻に指を突っ込んだまま呆然としているカツの顔を見て、とても信じられんというふうに覗き込む。
「もしや、これはもしもの話やけど」
 もう一つ食いついて来ない悪ガキらを見て、じいさんはジレて次の提案を出す。
「コイツのチャリがお前らのゲンチャに負けることがあったら、思う存分ヤキ入れてくれたらええ」
 じいさんはカツの横に出て胸を張る。
 じいさんの言葉に驚いたカツは抜けかけた指がまた鼻の中まで入り込む。
「そのかわり、コイツが勝ったら、お前らこの街では二度とバイク乗り回すな、ええか」
「えー!!カツやないか、こいつ」
 悪ガキ集団の後ろからカツを知っている男が皆を掻き分けて出てくる。
「南町の石屋のマル源のガキやで、コイツ」
 周りを見て得意気にカツのことをしゃべる。
「アホで有名で、チンチン電車・阪堺線の前をチャリで走って警察つかまったり、通天閣の展望台の手摺りにチャリ持ち込んで空中散歩とか言うて大騒ぎになったり、いっつも笑い者になってるやつやで。・・・何がイタリアの英才教育や」
 ギャハハハハと悪ガキたちは一斉に笑う。
「まあ、とにかくや」
 形勢の悪くなった甚兵衛じいさんは早口に言う。
「今週、土曜日、お前らのいつもやっとるドラッグレースにこいつを出場させる」
「おっさん、阪南一のドラゴンチームがチャリに勝ったって自慢にも何にもならへん。おっさんもそんなに自信があるんやったら、何か出して貰おか、おっさん、チャリンコ屋なんやろ、エア・コンプレッサーぐらいあるやろ?バイクと共用のやつ。あれ、賭けようや。その代わり、もしおれらが負けたら、オヤジに言うて50万出したるがな」
「聞いて驚くな、ヘッドのオヤジは阪南一のパチンコ屋“南海センター”の社長やぞ」
 脇から子分が自慢気に言う。
 フフフと得意気に笑うヘッド。
「その上あんたの言う通り、ドラッグレースも浮浪者狩りもやめたるわ、どうや?それだけ自信があるんやったら受けられるやろ。チャリで俺らのゲンチャ抜けるって言われたら、俺らも引っ込んどる訳にいかん」
「うちのコンプレッサーはこの前買い換えたばっかりや。150万して、手形振り出したばっかりや」
 じいさんは急に弱気になって小声でブツブツ言い始める。
「どうやねん、おっさん、うん?急に怖じ気づいたか?」
 悪ガキが覗き込む。
「何でお前らごときに怖じ気づくねん、やったろやないか、エアコンプレッサーとゲンチャの賭け、受けたろやないか、なあカツ」
 じいさんはヤケクソでカツの頭を叩く。それから向き直って胸を張る。
「とにかく首洗って待っとけ」
 空ぶかしの爆音を響かせ始めるゲンチャの集団に対してじいさんは憎々しげに怒鳴る。
「そっちこそ、存分にヤキ入れてええいう約束忘れたらアカンぞ」
「ヤキ・・・・・・」
 鼻の穴から指を抜くのを忘れたカツは、指に鼻水を垂らしながら呆然と呟く。
「ヤキが怖おてこの街で商売できるか」じいさんはカツの心配などよそに胸を張って悪ガキたちに近づく。「チャリンコの根性見せたる。なあカツ」とこのときだけチラッちカツを振り向く。しかしカツの反応は全く気にせず「こいつもヤツザキにされてもかまわんと言うとる。チャリンコ屋はそれぐらいの根性は生まれつき持っとるんや」
「ヤツザキ・・・・・・」
 カツはまた魂を抜かれた霊媒のように力無く復唱する。
「おっさんもコンプレッサー、忘れんなよ」
 悪ガキたちがまた怒鳴る。
「コンプレッサー・・・・・・」
 じいさんも我に返って呟く。
「カツ、まあ、そういうことや。成り行き上シャーナイ、今週土曜、お前はドラッグレースでゲンチャと対戦することになった」
「じいさん、ゲンチャいうても、あのレースに出るのはただのゲンチャちゃうで。リミッター切って、スピード天井知らずにしてるし、足周りはバリバリにしてるし、そんなチャリンコで勝てる訳ないやないか。なんでオレがこんなアル中の浮浪者助けるために体張らなアカンねん」
 じいさんはそれには答えず、ゴミ箱から漁ったクズ酒で朦朧としている浮浪者の前に立つ。
「そういうことやから、黒木さん」
 悪ガキの集団が去ったあと、じいさんは、ヨイヨイのまま、ことの成り行きをボンヤリ見ていた黒袋の浮浪者に声を掛ける。
「黒木さん・・・・・・」
 カツはまた復唱して、浮浪者の方を見る。
「後楽園競輪場で行われた第15回競輪日本選手権で最後方9番手から怒濤まくりして醍醐のイナズマと言われた、黒木正造や」
 じいさんの口調が急にシリアスになる。
「選手権勝ったあと、次の年連覇のかかった決勝戦で先頭走っとった同期の明石恭治を外壁まで飛ばして、明石は頸椎やって死んだ。それ以来、黒木は姿くらましたんやけど、こんなとこで暮らしとったんか」
「こんな、酒でヨレヨレのオッサンが・・・」
 カツはしげしげと黒袋を見る。
「ワシはその頃、ビルダーとして食べていけずに後楽園競輪場の検車場で整備士やっとった。ヤケクソの仕事やった。でも選手権に出る超一流の人間の乗るピスト(バンク用競走自転車)いじくるのは楽しみやった。いつかこの大手メーカーの作ったピストを越えるピストを作ったると望みは捨ててなかった。特に当時日の出の勢いやった黒木正造のピストは凄かった。フレームのひし形がぐっと前へ突き出て、それで立パイプだけがぐっと太うて、突進していくっていう雰囲気があふれとった。あれ以後いろんなフレーム見てきたけど、あのゴツいフレーム乗りこなしてたのは黒木だけやった。・・・・・・カツ、水持って来い。コイツを正気に戻す」
 水をかぶった黒木は「何するねん」と喚いてやっと正気に戻る。
「久しぶりやな、黒木さん」
「はあー?」と覗き込む黒木。
「じいさん、オレこんなやつ助けるためにゲンチャとチャリで勝負するんけ。ヤツザキなるかもしれへんのに」
 カツの頭の中にトリがぶつ切りにされるようなヤツザキのイメージが浮かんでくる。

 カツとじいさんは「川村サイクル」のガラクタ部品に囲まれた火鉢に無気力にあたりながら溜息をつく。じいさんの目線の先には天井からツルされたエアコンプレッサー。店内で唯一ピカピカ光る新品の設備である。
 ふたりで侘びしくカツの改造ママチャリを見る。錆び付いたスポーク、剥げたサドル、しかしどういう訳かハンドルからはピンクのバックミラーが角のように2本突きだしている。自作の“カッタロー号”というステッカーが一層みすぼらしく見える。
「カツ、心配せんでええ。ワシが飛びきりのマシーン、ビルドアップしたる」
 じいさんはそう言って薄い胸を叩くが、カツは電車が通るたびにほこりを巻き上げる店全体を見回して、心配になる。
「ビルドアップ・・・・・・」
 じいさんから初めて聞くその言葉に目を上げる。
「ビルドアップ」と再び大きく言って、じいさんは立ち上がり、周りのガラクタをはねのけて額を指し示す。「1955年イタリア・ビスコンティ社、世界選手権、ビルダー部門総合優勝記念」と書かれている。川村甚兵衛、若き日のカゲロウのごとき一瞬の栄光である。
「カネ・・・・・・」と言ってカツはじいさんを見上げる。「ある?」
「まかせとけ」とじいさんはまた胸を叩く。じいさんはテーブルの下から競輪新聞を取り出してニッと笑う。
「・・・・・・」
 カツは呆然とする。
「任せとけ、ワシの競輪歴30年のすべてを賭けて勝負したる。大船に乗った気でおれ」
「じいちゃん、競輪か・・・・・・、ああ、ドロ船に乗ったも同然や。ああ、ヤツザキや」
 カツは頭を抱える。
「あんたー、うちの美容室のレジから競輪代ばっかりかすめ取って、ええかげんにしいや。ちっとは“パンク修理ありまへんか”って商店街でも回ってきたらどうやねんな。せっかく無理してこんな新品の設備入れたいうのに」
 ばあさんは恨めしげに新品のエア・コンプレッサーを見る。
 美容室経営で家計をまかなうばあさんが怒鳴り込んでくる。
「2万円返しなはれ」
 ばあさんは年に似合わないピンクのユニフォームのまま、腰に手を当てて仁王立ち。
「あ、これはカツの体がかかっとるカネなんや」
「何わけの分からんこと言うてんねん。この書き込みだらけの競輪新聞は何やねんな。ええかげんにしいや」
 体力的に圧倒的優位にあるばあさんは、じいさんの手から無慈悲な山賊のごとくじいさんの手から2万円をむしり取る。
 カツはまた大きく溜息をつく。じいさんも小さく溜息をつく。
「ヤツザキや・・・・・・」
 カツの頭にまた“トリのぶつ切り”のイメージが浮かんでくる。
「ビルドアップはどうなるんや」とカツが呟く。
「わしのコンプレッサーはどうなるんやろ」とじいさんも呟く。
 二人並んで椅子に座って溜息をつく。

「川村さん、わしのフレーム、何とかチューニングできるやろか」
「う?」
 じいさんとカツが外を見ると、大きな荷物を抱えた浮浪者・黒木が立っている。
「実は・・・・・・」と言いよどんだあと、黒木はじいさんの顔を見て「フフ」と自嘲の笑いを浮かべる。
「川村さん、ワシも往生際が悪いなあ」
 黒木は店のガラクタを掻き分けて新聞紙に包まれた塊を置く。
「どうしてこんなものまだ持っとるんやろ」
「フレームって・・・・・・、まさかあの七つ星の」
 じいさんが呟く。
「七つ星って」
 カツがじいさんの顔を見る。
「15年前、競輪界に彗星のごとく現れた明石恭治が本場イタリアのビスコンティ社に特注出した。明石の実家は和歌山の資産家でな、とにかくトレーニング方法もマシーンもアカ抜けとった。そのビスコンティ社でビルトアップさせた3基のフレームの中の一つや。イタリアでも幻の一品と言われとる。カツ、ちよっとこのフレームを一つの手の平で支えて見ろ」
 カツの手の上にフレームを置く。その大きな菱形がピタリと静止する。
「これはクロム・モリブデン合金という超軽量の金属で作られとるんやが、それでも5キロはある。その5キロの菱形がこうやって手の上でピタッと止まる。これが凄いんや。この芯出しの技術が盗みたくて、世界のビルダーが苦心しとるんやが、どうしても出来ないんや。・・・・・・見てみろ、このしなやかさ、気品、これがビスコンティ社のハンドメイド、世界のサイクリストの憧れ、七つ星のフレームや」
「川村さん、とんだお笑い草やな。あの明石が取り寄せたフレーム、そして若き日の川村さんが東荻窪のガレージでビルトアップした試作品を、何の因果か、こんなヨレヨレの姿になってもまだ捨てられずに持っとったとはな」
 黒木は自嘲の笑いを浮かべる。
「よおこんなピカピカのまま・・・・・・。ずいぶん手入れしとるはずや」
 じいさんはフレームを撫でながら感心する。カツも撫で回して見とれる。

 じいさんと二人、しゃがみ込み、ビルトアップされたピカピカ光るニューマシンを眺めている。
「競輪はスッテンテンやったが、やっぱり競輪場には足運ぶもんやなあ。検車場に新品のホイールとハンドルが捨ててあるとはなあ・・・」
「じいさん、あれはどう見ても捨ててあったんやなくて、置いてあったんやと思うけど・・・・・・」
「そうやなあ、世の中っちゅうのは見方一つでゴロッと変わるからなあ」
 訳の分からない会話をしているが、二人とも顔はニコニコしている。
 ダッフルコートを着たちはるが入ってくる。
「はい」
 ちはるが包みをドサッと仕事台の上に置く。
「何じゃ?」
 カツが怪訝な顔で立ち上がって受け取る。
 バリバリ包みを破って明けると、黒に黄色のレーシングスーツ。
「レーシングスーツ・・・・・・」
 テーブルの上に広がった鮮やかな胸に斜めにブルーのイタリック体で「CHARIBAKA」。 
 ちはるの両親はちはるが生まれてすぐ交通事故で死んだと言われている。(実は明石の娘を川村が引き取っている)
「ツール・ド・フランスはいま白熱の時を迎えようとしています」
 ちはるはレーシングスーツを胸に当てているカツを前に実況中継に入る。
「ラルブドゥエスの渓谷はピレネーに沈む夕陽に赤々と照らされております。この紅の山さえ越えれば、この切り立った屏風岩さえ越えれば日本の若き英雄・中立勝太郎は前人未踏ツール・ド・フランス10連覇を達成するのであります。茶褐色の岩肌に一際鮮やかにイエローのマイヨジョーネが映えております。汗のしたたる胸に紺碧の文字、ああ、あれこそ全世界サイクリスト憧れのチャリバカの文字・・・・・・」
 ピンクの“七つ星”フレームにまたがってレースフォームをとりながらカツは涙している。
「この喜びはパンク屋の川村のじいさんとその孫娘のちはる、この貧しい庶民二人に伝えます。いつも泣いている彼らに白いゴハン腹一杯食べさせてやります」
 ちはるからバシッと後ろ頭をはたかれる。
「誰が貧しい庶民や」

 ど派手な黄色のレーシングが全く街の雰囲気から浮いている。しかしそんなことはカツには全く関係ない。すでに国道のいつもの位置についてストリート・トレーニングの準備に入っている。
 腰の下にはビルトアップされた伝説の名マシン“七つ星”。カツの意気込みも違う。意気込みは違うがトレーニングコースはいつものガード下からストリップ小屋、ストリップ小屋から地下鉄駅の通路、そして最後はチンチン電車と追い駆けっこのようだ。
 気合いを入れてこぎ出そうとするが、アレ?動かない。さらに力を入れるとよろける。派手なレーシングスーツがよろけて格好悪い。
「カツ、今日からお前の専属コーチをすることになった」
 カツが後ろを見るとボサボサ頭、無精髭、ヨレヨレの服を着た黒木が無表情に立って、カツのチャリを押さえている。
「何するねん、オッサン」
「今日からワシがお前のコーチや」
「はあ?おっさんが」
「おっさんと違う。コーチと呼べ、コーチと。最初はその気にならんでも何度も呼んどったら、そのうちこの人コーチかなって、そんな気になる」
「アホくさ・・・・・・」
「カツ、とにかくトレーニングや。通天閣の下の三津屋酒店に行ってカップ酒三つ持ってきてくれ。あそこならツケが聞く。どうも手が震えてどうしようもない」
「オレはいまからトレーニングやるんや」
 顔を横に向けて気合いを見せるカツ。
「アホ。そんなことやから、お前はただのチャリバカやって言われるんや。ええか、チャリンコは魂入れへんかったらただの金属の塊や。お前のように、ただチンチン電車の前走ったり、通天閣の手摺り走ったりしてたら何の魂も入らへん。目的を持たんか、目的を。さあ酒屋に向かって突進や」
 不承不承、派手なイエローのマイヨジョーネ着て、酒屋に向かって走り出す。
 一緒にハーハー言いながら走り出すヨレヨレの“コーチ”。
「カツ、ただ走るな。獲物を見つけろ」
「え」
 走り出そうとしたカツが怪訝な表情で“七つ星”を止める。
「獲物や。最初は車、それも軽トラックのような大きな車で感覚をつかめ。とにかくエアポケットを体で体感するんや。そんでここから300メートル行ったらチンチン電車の軌道がある。車はそこでどうしても減速する。そこが勝負や。お前のジャンプ力の見せどころや」
 それから一週間、車やバイクの後ろについてチンチン電車の軌道のところでジャンプして追い越し、酒屋に突進する奇妙なトレーニングを続ける。

 木枯らしが紙屑を巻き上げる殺伐とした深夜の国道。道路沿いに点々とある商店もシャッターを下ろして所々に街灯が光るだけ。
 すでに“ゲンチャのドラ”(ゲンチャのカオルにドラゴンの字と絵が仰々しく描いてあることちから、カツは“ドラ”とあだ名している)は大きな空ぶかしをしてデモンストレーションしている。
 カツは栄光の“七つ星”のまたがる。闇夜にもキラッと光る。さすがに幻の名マシーンの風格。
 黒木(今日は酒を断っているようで、心なしか顔が青ざめ、手が震えている)が後ろからサドルを支え、カツはゆっくりペダルのトー・クリップに足を入れ、ストラップを締める。ビアンキ社の蛍光色レーシングスーツに身を固めて、今日は見違えるよう。顔以外はどこにも“アホ・カツ”のイメージはない。
「カツ、勝負は最後の20メートルや。それまではとにかくエアポケットに入ってスタミナ温存、相手に油断させる。カツ、ドミフォンレースいうのを知ってるか。あれはオートバイが自転車レースを誘導してバンクの中を走る。平均で時速80キロ出しとる。エアポケットがあるからその後ろをチャリで追走できるんや。あのガキどものゲンチャがいくらリミッター切ってるいうたって、ゼロヨンレースなら時速60キロがせいぜいや。・・・ええか、カツ。エアポケットを使うんや。エアポケット使うしかチャリでオートバイに勝つ方法はない。カツ、お前のダッシュ力は今でも全日本級や、ゲンチャ相手でも負けん。しかし勝負はそこまでのスタミナの温存や。ガソリン相手にいかに静かにするか。ええか、挑発に乗ったら負けや。絶対エアポケットやぞ」
 しかし残念なことにカツは人から作戦をさずけられるのが大の苦手。ほとんど聞いてない。
 ハヤシ立てる“ドラ”の連中に鼻息を荒くするばかりである。
「分かった、分かった、エアポケットやろ、もう耳タコや。いっぺん聞いたら分かるっちゅうねん」

 ゲン・ドラは特別チューンナップを施していた。そのエンジン音はどうもゲンチャのものではない。
「今日は女連れで勝負や」
「なにー」
 スタートダッシュで飛び出したカツをあっと言う間に交わしていく。
「くそー、この音、どうもゲンチャのエンジンやないぞ。中型エンジン据え付けたな」
「ハハハ、今頃分かったか、チャリンコ好きのガキはただチンタラ街でお買い物てりゃええんや。マシーンにケンカ売るのなんか10年早いんや」
 ブワァーと排気音と共にさらにスピードアップするゲン・ドラ。
「カツー、うしろに付け、エアポケットや」
 ゴール前にいるじいさんがハンドマイクで指示する。
「じいさん、そんな簡単に言うけどな、ペダル踏んでるモンの身になってみいー」
 フーフー言いながら、それでも背後で粘る。
 後ろを振り返って、それを知るとゲン・ドラは一瞬あせり、さらにフルスロットル。
 置いていかれそうになるカツ。
「カツー、見てみー、前のカップル」
 ゴール前にいるじいさんがアゴをしゃくる。カツが何気なく目をやるとそこには男のうしろにピッタリしがみつく茶髪の女。男の腰にしっかり抱きついて、顔を押しつけている。
「ムムムムム・・・・・・」
 カツは俄然鼻息が荒くなり、目を皿のように凝視し始める。
 よく見ると、女は男の耳を噛んでいる。
「噛んでるやないけ」素っ頓狂なカツの大声。「何で噛むねん、何で」
 カツの太股がモコモコ盛り上がってくる。こうなるともう収拾がつかない。
「男の方は先月ゼロヨンで優勝したやつや」
「うぅ・・・・・・」
「ホレ、カツ、ストリートレース言うたって優勝したらあの通りや。女なんてアホやからな、あんなブ男でもアホな女はオッパイまでほり出してイチャつかせとる。そのあとで弱い路上生活者をいたぶって遊んどるんや。悔しくないんか、カツ、あんなヤツらのさばらせて」
「オッパイ・・・・・・」
 また復唱が出る。カツは復唱が得意である。
「やったる。チャリで勝負したる」
 カツはまだフーフー鼻息が荒い。悪ガキどもを追いかけていってカツは宣言する。
「お前らの相手はこのオレや。オレのチャリンコでお前らペシャンコにしたる。ちゃんと首洗っとけ」
 そのとき、見せつけるように轟音を立ててカツの周りを旋回し、「ヤツザキ、楽しみにしてるで」と叫んで、猛スピードで走っていく。とても原付のスピードとは思えない。改造車の威力は凄い。
 カツの太股はヘナヘナとしぼみ、俯く。
「えらいこと言うてしもた」
 カツは小さく呟く。

「チャリは自分の力だけや。オレの筋肉との勝負や。この股が破裂しても、ヘラヘラ笑いながら走るヤツには負けへん。負ける訳にはいかんや。オーリャーッ!!」
 ラスト10メートル、カツ渾身のモガキにより、ゲンチャの先にチャリンコの先、二分の一が飛び出す。

「黒木さん、あんた、カツの面倒見てやってくれんか」
 じいさんは七つ星のフレームをみたまま呟く。
「・・・・・・」
 黒木は何を言われたのか了解できず返事ができない。
「カツはアホなガキやけど、チャリンコの才能だけは飛び抜けとる。これは50年チャリンコに関わってきたモンの勘や。柔軟な筋力と俊敏な判断力といばらに飛び込む勇気を持っとる。ワシはな、黒木さん」
 そこまで言ってじいさんは立ち上がり、黒木に振り返る。
「はじめてコイツ見たとき、あの15年前の夏、カゲロウ立ち上る後楽園競輪場を思い出した。アラクレの競輪選手たちがデスバレーと呼んで恐れた35度の急傾斜カント、その最上段で競り合った若き二人の天才レーサー、明石恭治と黒木正造、あんたらのことを思い出した。カツには明石のひたむきさと黒木の勇気があると、そう思うた。明石の俊敏さと黒木の粘りを併せ持った、そんな才能に出会った気がした」
「・・・・・・」
 手を震わせながら黙って聞いている黒木。
「黒木さん、これは、たぶん死んだ明石の遺志でもあるはずや」
 黒木は黙って外の地響きするJRのガードを見上げる。無精髭とヨレヨレのあちこちほころんだ上着が天下茶屋の夜風になびく。




 補足(回想シーン)


 ○通天閣の手すり渡り
 ○串カツ屋の母ちゃん


 カツの幼少時代。
 通天閣下「新世界」の串カツ屋。季節は冬。すきま風の入る引き戸のガラスから見える通天閣にも雪が残る。
 スタンドだけ10席ほどの小さな店内だが、ボロジャンパーを着てコップ酒をあおる労務者たちで繁盛している。
 忙しく立ち働く四十前の女主人。ボテッとした体型、生活疲れも見えるが、見ようによってはどことなく品もうかがえる。若い頃は美人だったかもしれない。
 戸の隙間から侵入してきた近所の悪ガキ三人(小学校高学年)が、あげ皿に盛られた串カツを、労務者の間から手を伸ばしてかすめ取っていく。
 振り返ってそれを見つけた女主人は「おーっと」と声を出す。
 その声と同時に脱兎のごとき素早さでカウンターを飛び出し、マイケルジョンソンのような胸を張った見事な疾走で路地の奥でガキ共を捕まえる。その体型からは想像も出来ない素早さである。
 まるでビーグル犬が野うさぎを捕まえるように、何事もないように三人の首根っこを持って凱旋してくる。
「この串カツ“花”さんの獲物を狙うとはいい度胸のガキたちだな」
 しかしガキたちも大したものだ。すでに串カツは口の中に強引に押し込まれ、ウグググと喘いでいる。
「クソーッ、やりおるな、こいつら」
 花もその様子を見て悔しげに吐き捨てる。

 一転神妙になった悪ガキたちがカウンターの奥で皿洗いさせられている。
「串カツ一本、皿三十枚やからな」
 花の号令がかかる。悪ガキたちも「チェッ」とか言いながら、不承不承皿を洗う。
 そこへ小学校に上がったばかりのカツが、不似合いに大きな大人用の自転車を引きずってやってくる。
「母ちゃん、腹へった」
 戸を少し開けて訴える。顔はすすだらけ、膝小僧は擦りむけている。
 花は気がつかない。下を向いたまま串を揚げている。
「お、カツや」と年上のガキたちが皿を持ったまま振り向く。
「串カツ屋のカツや」と言ってクックックと笑い合う。
「母ちゃん、ぼの名前って、やっぱり串カツのカツなんか?」
 悪ガキの嘲笑をポカンと聞いていたカツが、呑気な口調で花に聞く。
「うん?」と花が顔を上げる。
「そうや、あんたは串カツ“花”の子やからカツや。どうや、ええ名前やろ、どんどん自慢したらええで」
 串揚げのサイ箸を持って、母親“花”は胸を張る。対照的にカツは大人用の大きな自転車を支えたまま、うなだれる。
「そうか、この子、花ちゃんのガキかいな。・・・それにしても、えらい大きな自転車やな、どないしたんや」
「父ちゃんの自転車や」
「父ちゃんて・・・」と客は花を見上げる。
「死んだ亭主やがな」と花は早口に言って、棚に置いてある写真立てを見上げる。レーシングスーツを着た選手と自転車のセピア色の写真は、串カツの天ぷら油を浴びてギトギトしている。
「でも坊主、そんな大きな自転車、乗られへんやろ」
 コップ酒の労務者が笑いながら聞く。
「乗れる」
「嘘つけ」
 労務者はまだ笑っている。
「乗れるいうたら乗れる。乗ったら串カツ十本くれるか」
 カツは無気になる。「何々したら何々くれるか」というのはこの頃からカツの常套句である。
「う?おお、やる、やる、十本でも二十本でもやるがな。でも言うとくけど、チャリに乗るいうのは、サドルの上に乗って脚を地面に着かずに安定しとるいうことやぞ、出来るんやな、それ」
 客の言葉が終わらないうちにカツは「できる」と吐き捨て、それと同時に自転車を押し、どこかに消えてしまった。
「はっはっは、やっぱり子供やな、難しいと分かって逃げ出しよったがな」
「でもかわいいもんやがな、無気になって反抗したのに出来へんて分かって逃げるなんか。今ごろ、路地裏で泣いとるんやろ」
 客同士、酒飲みながら、顔見合わせて笑う。
「あほカツ、逃げだしよったで、あんなバカでかい自転車持ってウロウロして、ほんまアホやで、あいつ、ククククク」
 悪ガキも顔を見合わせて笑う。
「おばちゃん、もう四十枚洗うたで。串カツもう一本ちょうだいや、おばちゃん、おばちゃーん」
 悪ガキを自分らの洗った皿を押し出して花にアピールする。
 でも花はさい箸をフライヤーにつけたまま、心配そうにぼんやり外を見ていて聞こえない。

「おっちゃーん、おっちゃーん」
 遠くで声がする。
「うーん?」と気づいて、客はコップ酒片手にキョロキョロする。
「おっちゃーん、ここや、ここやー」
 声は外から聞こえる。客はコップ酒を持ったまま、戸をガタピシ言わせて開け、チラチラと粉雪の舞う外に出る。木枯らしにジャンパーがはためき、薄い髪が逆立つ。
「おっちゃーん、ここや、ここや」
 客がその声の方を見上げて驚く。
 通天閣の見張り台の欄干の上に自転車に乗って静止(スタンディング)しているカツがいる。地上20メーターはある。
 客も皿を洗っていたガキも花もみな店の外に出て、ポカーンと口を開けて見上げる。
「おっちゃーん、串カツ20本やで、ええか」
 カツがスタンディングの自転車の上から怒鳴る。調子に乗って両手離しまでしている。
「やっぱりあほや。串カツ屋のあほカツや・・・」
 ガキたちが呆れる。
「カツタロー・・・」
 母親の花も放心して見上げる。