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日本キリスト教団 西荻教会は、プロテスタントのキリスト教会です。

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説教

6月24日 オープンチャーチ

聖書のことば
「わたしの名によって願うものは、何でも与えられるようにと、わたしがあなた方を任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
(聖書 ヨハネによる福音書15章16、17節)


 1979年に、ある難民キャンプの野外病院に一人の子がいた。親・兄弟は死んだか、殺されたか、はぐれたのか。一語も口にせず空をみつめたまま。いくつもの病気に蝕まれていたが、その子は薬も流動食も受けつけなかった。幼な心に「これ以上生きて何になる」と絶望を深く感じていたのだろう。「衰弱して死んでゆくだけしか残っていない。可哀想に」。国際赤十字の医師団が匙を投げた。その時から、ピーターというボランティアの青年がその子を抱いて座った。子の頬を撫で、接吻し、耳もとで子守歌を歌い、二日二晩、ピーターは用に立つ間も惜しみ、全身を蚊に刺されても動かず、その子を抱き続けた。三日目に反応が出た。ピーターの眼をじっと見て、その子が笑った!「自分を愛してくれる人がいた」、この意識が石のごとくに閉ざされていたその子の顔と心を開かせた。ピーターは喜びと感謝のあまりに、泣きつつ食と薬をその子の口に持って行った。その子は食べた!薬も飲んだ。そしてその子は生きたのである。「愛は食に優る。愛は薬に優る。愛こそは最上の薬なのだ、食なのだ」。主任の医師が深い声で言った。(犬養道子「人間の大地」)
 今日はお祈りについてお話しします。皆さんはお祈りについてどんな印象をもっておられるでしょうか。日本人の多くにとって、祈ることは神社への御参りや初詣であったり、あるいは念仏を思い浮かべるかもしれません。「苦しい時の神頼み」とか「イワシの頭も信心」といった祈りに関わる言葉も多くあります。しかし私たちが当然としてきた祈りは、今風に言うと「プレゼンテーション」と言うのが一番近いのではないかと思います。自分の願いを挙げて、それがどれだけ自分にとって真剣な願いであるかをアピールし、何とかして神さまの関心を得て、自分の人生への投資を引き出そうとすること。そのために願いが大きいほどお賽銭や献金が多額になったり(袖の下?)、何度も何度も祈りを繰り返します(投票日直前の選挙カー?)。当然ながら、差し迫った願いのない時、神さまとはできるだけ関わりたくないわけです。
 認知症の奥様を介護された牧師は、本当に辛い介護の中でしょっちゅう神様に文句を言っていたそうです。でも一方でそうしている中でだんだん神様と仲良くなっていったと言われました。いつも神様の方を向いて、文句を言ったり、感謝をしたりする。いつも神様を相手にし、神様に話しかけていること、それがキリスト教の祈りなのです。それは神さまへのプレゼンテーションとは全く違います。
 「互いに愛し合う」というと私たち人間同士のこととばかり思ってしまいますが、私たちが一番最初にいただくのは、神様と「互いに愛し合う」ようになれるということです。まず最初に神様がイエス様を送ってくださり、罪の中で祈りを失い、神様の愛を信じられなかった私たちを、イエス様は愛して愛し抜いてご自分の命まで与えてくださいました。この神様の愛を信じ、見つめ返すこと、笑い返すこと、文句を言ってみること。難民キャンプの死にかかっていた子が、じっと抱きしめ続けてくれたピーターを信頼したことから「生きる」ことを得ていったように、神様を見つめ返すこと、それがそのまま祈りになります。失いたくない一心で抱きしめ続けた子が、笑った!自分を信じて笑った!そうしたら、その子のために最善のことをすること、最上のものを与えることを躊躇うでしょうか?
 「わたしの名によって願うものは、何でも与えられる」という約束は、私たちを失わなかったことを喜ぶ、神様の溢れる愛によるものです。そこから本当の祈りが与えられていきます。生きてきます。