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日本キリスト教団 西荻教会は、プロテスタントのキリスト教会です。

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説教

3月25日 オープンチャーチ
聖書のことば
父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。          (ルカによる福音書23章34節)

 キリスト教会と言いますと、多くの人は屋根に十字架をつけた建物を思い浮かべるのではないでしょうか。アクセサリーのデザインにも頻繁に使われる十字架ですが、教会の掲げている十字架は、イエス・キリストが十字架に磔にされて殺されたという事実を伝えるシンボルです。何故、神の子であるイエス・キリストは十字架にかけられたのでしょうか。
 イエスさまは何も悪いことはなさいませんでした。神さまを愛し私たち自身を愛すること、それと同じように隣人を愛することを教えられました。ご自身が本気で愛に生き抜いた方でした。しかし、そのお方への私たちの世が与えた報いは、罵りと侮りと死でした。こんな絶望的な死に方をする人のどこに神の救いがあるのでしょうか。
 私たちは私たちなりの「神さまらしさ」を考えます。その自分の神さまをはかる物差しにあわないと、「それは神さまらしくない」、「それはイエスさまらしくない」と感じます。そして神さまを罵るのです。嘲るのです。イエスよ、あなたの言うように愛に生きるならば損をするばかりではないか。この世の中を見てみるがいい。悪人ばかりが栄えているではないか。奪われ、争いに苦しむ者、貧しさに苦しむ者ばかりではないか。どうしてこの世の中をこのままにしておくのか。私たちの神さまへ向ける不信と罵りは際限がありません。この罵りの声を浴びながら、イエスさまは十字架にかかられました。
 もう一度考えましょう。何でイエスさまは十字架にかけられたのでしょうか。それは神がそれを求めたからです。私たちを一人も滅ぼさない、と決意された神さまが求めたからです。先ほど私たちは私たちなりの「神さまらしさ」を考えると言いました。罪を目の当たりにしたときにあなたの「神さま」はそれをどうされますか。滅ぼされるのではないですか。やっつけるのではないですか。それが神さまの正義ではないでしょうか。
 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
 私たちは、本当に罪を知りませんでした。少なくとも自分が神さまに捨てられて当然の罪人だということを知らないでいるのです。滅びて当然であることを知りませんでした。絶望だなんだと言いながら、どこかで自分を甘やかしています。自分はこの罪の世で、自分だけはまだ神さまに文句が言える資格があると思い込んでいます。みんなが本当に深いところではそう思っている。
 しかし、ここに本当の罪の恐ろしさを知っておられる方が、私たちに代わって本気で罪人とされることを引き受け、神さまの正義の裁きを一身に引き受けてくださいました。私たちの身代わりに、正しい神さまの裁きを一身に引き受けてくださいました。私たちの一人も神さまから捨てられないために、滅びないためにです。そのために私たちを愛し抜いてくださった救い主イエスは十字架にかかってくださったのです。