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日本キリスト教団 西荻教会は、プロテスタントのキリスト教会です。

説教access

説教から(週報より転載)

10月15日 マタイによる福音書5章6節
 イエス様は「義に飢え渇く人は幸いだ」と言われました。この言葉を「正しいことを求める人は…」と読み替えると分かるように感じます。誰でも、間違うよりは正しい方がいいでしょう。しかし、ここでイエス様は「義」と言われているのです。この「義」は神さまの「義」です。しかも、「飢え渇く」ように求めているのです。それが無ければ死んでしまうというほどの逼迫した求め方です。「義に飢え渇く」ということで思い起こしたいのは詩編42編です。「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める」(2節)。まさにこれがここで言われていることです。神さまの義なる裁きを飢え渇くほどに求めている人です。世の支配に苦しめられ、世の不正に嘆き、世の争いに苦しむとき、「一体、神はどこにおられるのか、神の正しさはこの世のどこにあるのか」と、嘆く人々です。神を知らない人々から、「お前の神はどこにいる」とののしられながら、なお神を求める人々です。その人々に、主イエスは幸いを約束されます。あなたがたは満たされる。神御自身によって満たしていただけるのだ、と。主イエス御自身が「義に飢え渇く人」として、十字架の上で「わが神、どうして私をお見捨てになったのか」、と叫ばれました。そして私たちに神さまとの関りを取り戻してくださいました。復活され、天に昇られて後、弟子たちが受けたのは、神御自身である「聖霊」でした。今も聖霊なる神が、私たちの中を満たしてくださいます。

10月8日 マタイによる福音書5章5節
 「柔和な人々は、幸いである」という主イエスの言葉は、「心の貧しい人々」とか「悲しむ人々」と違いネガティブなものでないし、「柔和」というのを「やさしい」と解釈すれば、素直に受け止められる教えのように思います。柔和というのは、心の柔らかさがあり、他者を受け入れることができる人。さらに他者だけでなく、自分自身を柔らかく受け止めている人です。良い自分だけでなく、ダメな自分、弱い自分、貧しい自分を受け止められる柔らかさを持っている人です。マタイ福音書は11章28節以下に主イエスの言葉を記しています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」主イエスこそまことに柔和な人です。全ての人を受け入れるために十字架にかかってくださるほどに柔和な方でした。そこから、柔和というのは「やさしい」だけではないことが分かります。激しい愛の闘いをするものなのです。ここで主イエスが「幸い」と言って呼びかけておられるのは、「自分を愛するように隣人を愛する」ことを願い、自分と他者を受け入れる愛の闘いをしている人です。その戦いに苦しみ悩む人々です。その人たちは、主イエスに愛の軛をいただいて、それを一緒に担っていただき、共に「地を受け継ぐ」のです。

10月1日 マタイによる福音書5章4節
 「悲しむ人」とは「無くして悲しむ人」です。それは究極的には「死」によって愛する者を失った悲しみを指しています。愛する者を死によって失った人を慰めてくださった主イエスの物語が福音書にいくつも記されています。娘を失った会堂長ヤイロの物語、一人息子を失ったやもめの物語、そしてラザロを失ったマルタとマリアの姉妹の物語などです。いずれの場合も主イエスは死の喪失の悲しみの中にいる人々に憤りを覚えるほどの深い憐れみを覚えられ、「死」を打ち破って人々を死から取り戻してくださいました。これらの人々の他にも、主イエスによって死から復活させられた人々が多くいたことが福音書を読むと推測できます。死によってもたらされる悲しみは、死に対する勝利しかありません。すなわち、ここで語られている悲しむ人の幸いとなる慰めとは、「復活」のことです。ここで「慰められる」というのは、「傍らに呼ばれる」という意味の言葉です。救い主のもたらされる福音とは、十字架であり復活の傍らに招かれることが慰めなのです。十字架が私たちの罪を贖う救いの御業であり、復活は罪の故にもたらされた「死」への勝利です。悲しんでいる者たちは主イエスの傍らに呼ばれ、主イエスのなさって下さったことを知らされ、信仰を与えられ、罪赦され、復活の希望に生きることができるのです。そこで「悲しむ人々は幸い」なのです。