公務員試験お役立ちメモ
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2002年05月25日(土) 行政学メモ3

L.V.シュタイン=行政の法則。W.ウィルソン=政治行政二分論。M.ウェーバー=官僚制。H.ファイナー=外在的責任論。D.ワルドー=規範的能率。


POSDCORB=L.H.ギューリック。行政責任論=L.H.ギューリック。科学的管理法=F.テイラー。政治行政分離論=W.ウィルソン。政治行政融合論=D.ワルドー。


行政責任論争
1930年代にファイナーとフリードリッヒとの間で行われた論争。時期的には近いが能率増進運動とは関係無い。行政と社会の関係が問題とされた。


M.ウェーバーは、近代官僚制とそれ以前の官僚制を区別し、後者を家産官僚制と呼んだ。古代エジプトやオスマン・トルコ帝国の時代には官僚制が奴隷によって、また中世では主君と主従関係にある封建家臣団によって構成されていたのに対し、近代では自由な身分の官吏で構成されていることを指摘した。


テイラー=科学的管理法。ギューリック=古典的組織論。メイヨー=新古典的組織論(人間関係論)。バーナード=現代組織論。
ギューリック=POSDCORB。メイヨー=ホーソン実験。バーナード=協働システム。


能率的行政のあり方を構想しようとしたウィルソンは、行政の領域を政治の固有の領域外にある「ビジネス」の分野とし、行政研究の1つは、最大限可能な能率および、金銭と労力の最小コストを発見することにあるとした。
草創期の行政学は行政の第一目標を能率の追及であると考え、それを達成するための諸原理を追求しようとした。


W.F.ウィロビー=五権分立論
ウィロビーは三権分立論は現実と離れているとして、五権分立論を提唱した。五権とは、司法・立法・行政に加えて、国民の政治参加を保障する選挙権と、執行権から独立した行政権のことである。


L.H.ギューリックは、1937年に設置された行政管理に関する大統領委員会(ブラウンロー委員会)に参画し、行政管理の最高責任者たる執行長官の職務を構成する7つの機能を、「POSDCORB」なる略号を用いて提示した。この提言に基づき、予算局等の諸機関を包括する大統領府が創設された。


J.ユスティ
18世紀のドイツにおいては、諸大学に官房学の講座が開設され、経済政策学・財政学・警察学に分解していったが、この時期の警察学を代表する学者である彼は、物質的財貨とともに国民の労働力や才能をも含む「国家資材」を継続的に創設・増殖し、これを合理的に運用することによって国内制度を維持することを警察活動の本質とした。


L.V.シュタイン
官房学を集大成し、独自の立場から行政学の体系的展開を試みた彼は、国家をそれ自身が自我と意思と行為を持つ人格にまで高められた共同体として理解し、この国家の原理を憲政と行政に分け、行政が全ての個人の向上を促進するための国家の活動手段であることを主張した。


C.フリードリッヒ
イギリスの行政学者H.ファイナーが、議会に対する行政府の答責性(accountability)を確保することの重要性を強調したのに対して、現代の行政機構・行政官に対しては制度上の答責性を要求するだけでは足りず、そのときどきの行動において、コミュニティの民衆感情に直接対応する責任(responsibility)を自覚することと、客観的に確立された科学的な基準に対応する責任を自覚することの必要性を説いた。


D.ワルドー
政治と行政の分離論を前提にしてひたすら探求されてきた、価値中立的な原理の政治的イデオロギー性を暴露し、「行政国家」を著したアメリカの行政学者である。彼はまた、能率に「規範的側面」と「客観的側面」があることを指摘し、能率の評価はこの規範的側面についての合意が成立するかぎりにおいて、その客観性を主張できることを唱えた。


20世紀初頭のアメリカでは、F.W.テイラーによる科学的管理法が急速に普及していったが、ハーバード・ビジネス・スクールのG.E.メイヨーらは、1927年から1932年にかけて、ホーソン工場において科学的管理法における労働条件と生産能率の関係をテストしようとした。その結果、生産水準は社会規範によって決まることや、組織にはインフォーマルなものがありそれが作業能率とも関係している、との結論が得られ、人間関係論(新古典的組織論)が提唱されるにいたった。


アメリカにおいて、行政固有の領域の活動を律すべき科学的な技法を探究する推進機関の一つが、1906年設立のニューヨーク市政調査会であった。同調査会は、アメリカの私企業経営(Business Administration)で流行していた科学的管理法に学び、ここから採取したものを公的経営(Public Administration)に応用しようとしていた。


猟官制の改革が政治の課題となった19世紀後半、上院議員のG.H.ペンドルトンは資格任用制と政治的中立性を柱とする連邦公務員法の審議過程で推進役を務め、同法は彼の名前をとってペンドルトン法と通称された。
ペンドルトン法の成立以後も、猟官制の伝統は色濃く残り、その弊害が行政学成立の一因になった。