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「みずほ流」点訳入門教室

9.複合語概観・接頭語等



複合語について概観(『てびき』p41〜)

ここまで、文節で切る――「分かち書き」についてやってきました。
いかがでしたか?
大雑把に見ればだいたいこんな感じだな、ということをつかんでいただければいいと思います。
細かい話もしましたが、それを一度に全部覚えてくださいなんて、とても言えません。
私自身、まだまだ迷ったり、間違ったり、混乱したり、始終ドタバタしています。
実際に打っているときに、ああそう言えばこんなことに関するルールが何かあったな、と思い出して、『てびき』の該当するページを探せれば、それで充分です。
あとは、ゆっくり落ち着いて読めばいいわけですから。
ついでに、この「入門教室」の説明や練習問題の解説(と言えるかどうか?)も参考にしていただければ幸いです。
迷ったとき、手元にあって参考にできる用例は多ければ多いほどいいと思います。

さてここからは、複合語の「切れ続き」に入っていきます。
複合語というのは、複数の言葉がくっついてひとつの言葉になっているものですね。
品詞で言えばひとつの言葉なのだけれど、意味的には複数の要素でできていて、分割してもわかりにくくない言葉は、短く区切られていた方が読み取りに便利、というわけで、マスをあけます。
前にも書きましたが、指で読む場合、一度に読み取れる範囲が狭いので、まして漢字なしで書かれるので、「ニッチョーコッコーセイジョーカコーショー」とか「ジュードシンシンショーガイシャイリョーヒジュキューシャショー」などは一度に読むには長すぎるのです。

複合語にはいくつか種類があります。
何かと名詞がくっついて複合名詞になり、何かと動詞がくっついて複合動詞になり、何かと形容詞がくっついて複合形容詞になる、というふうです。
たとえば、看板(名)+娘(名)=看板娘、覗く(動)+窓(名)=覗き窓、嬉しい(形)+涙(名)=嬉し涙、これらは複合名詞です。
苔(名)+むす(動)=苔むす、掻く(動)+集める(動)=掻き集める、若い(形)+過ぎる(動)=若すぎる、これらは複合動詞。
息(名)+苦しい(形)=息苦しい、動く(動)+やすい(形)=動きやすい、甘い(形)+酸っぱい(形)=甘酸っぱい、これらは複合形容詞。
他にもありますが、種類が多いのは何といっても複合名詞・複合動詞でしょうか。

『てびき』の記述とはちょっと順序が入れ替わりますが、まず簡単なところから大雑把に言ってしまいます。

「複合形容詞は続けて書く」(『てびき』p49)
これは、ほとんど例外なしと思っていただいていいでしょう。
酒臭い、心やさしい、力強い、忘れ難い、暮らしやすい、歩き回りにくい・・・。

「複合動詞は原則として続けて書く」(『てびき』p47)
鞭打つ、夢見る、振り向く、繰り返す、作り出す、掘り進む、行き当たる、読み通す、眠りこける、話し終わる、わきあがり始める、さまよい歩き続ける・・・。
これには例外があります。
「する」という動詞があとにつく場合です。
これについてはあとで触れます。

そして、複合名詞です。
これが一番厄介かもしれません。
さっきの、「ニッチョーコッコーセイジョーカコーショー」や「ジュードシンシンショーガイシャイリョーヒジュキューシャショー」はこの仲間です。
これを「ニッチョー■コッコー■セイジョーカ■コーショー」と打つ、というのはなんとなくおわかりになると思いますが、もう少しわかりにくい例もありますので、おいおい詳しく見ていきたいと思います。

複合語と言っていいのかどうかよくわからないのですが、接頭語・接尾語・造語要素などが付いた言葉(『てびき』p41〜43)は原則として続けます。

接続詞句・副詞句(同p49)、それに、短い語からなる慣用句(同p49〜50)などは、切るものもあれば続けるものもあります。

すごく大雑把に複合語についての目次みたいなことを言いましたが、ついでですから、今までに触れた範囲のことで、練習問題をやってみませんか?

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  練習問題 15
 1.パソコンというものが世間にほどほど行き渡って、パソコンでの点訳が広く行われ始めてまだ10年くらいにしかならないが、今や多くの点訳者が点訳はこうやってやるものだと思い込んでしまっている。確かにパソコンはこのうえなく便利で使いやすい。

 2.どういうところがどのくらい便利かというと、点訳者側から申し上げれば、まず修正が非常にしやすい。手打ちの頃は、一度打ってしまった点を読者の指に触れないように消そうと思うと、ちょっと熟練が必要だった。

 3.それでも1点や2点なら、水で7倍くらいに薄めた糊をほんの少し塗り付けて、紙が柔らかくなったところで点を押しつぶし、平らな状態で糊が固まるようにすればどうにかなった。

 4.が、たとえば一字抜かしてしまったとか、マスをあけるのを忘れたとか、この言葉は濁るのかと思ったら濁らないんだって、というようなとき、マスをずらすのは非常にやりにくい。結局、その一文字のために1枚打ち直すことはしばしばだった。

 5.紙の裏表を間違いなく打ち終えるのはなかなか難しい。打ち直したつもりでまた別のところを間違える。悪魔に魅入られたように必ず同じところで間違えを繰り返し、その連鎖から抜け出られなくなったりもする。

 6.マスがずれることによって行がずれこむことがある。そうすると、あとは段落があろうが章が変わろうが、ページ替えの箇所があるまではずっとずれが吸収できない。そのうえ下手をすると48ページにおさまっていた前の章が49ページの1行目まで入り込んでしまうかもしれない。こうなったらページ替えの区切りがあっても何の役にも立たない。紙の表と裏がどこまでもずれ続けていく。

 7.手打ちのときには、読みのわからない言葉やちょっと自信のない言葉に出くわしたら、そのあとを打ち続けるわけにはいかなかった。その言葉に何マス使うかわからないうちは、次を打ち始められないのである。

 8.手近な辞書には出ていないような専門的な言葉や地名、人名その他、図書館に通ってすっかり調べきるまで何日もそのまま置いておかなければならなかった。だからまずその本を最後まで読み通し、調べるべきことは下調べをして、その上で打ち始めるようにと言われていた。

 9.その点パソコンならいくらでもどうにでもなる。プリンターにかける前ならどんなに大幅に書き換えてもOKだ。そう思うと気持ちもとても楽だから、どんどん打ち進める。堅苦しい気分が吹き飛んでしまった。おまけに検索もできるから、この言葉、前に出てきたときなんて打ったっけ、というのも簡単に探し出せる。

 10.そのかわり、点訳に臨む姿勢というか心構えがどうしても安易に流れやすい。緊張感がなくなる。とりあえずこういうふうに打っておこう、そのうちちゃんと調べよう、この次図書館に行ったときに、と思いながら、すっかり忘れてしまうこともままある。他人のことだと、どうしてそんなこと、と思うかもしれないが、パソコンに慣れ親しんでくるほどそういうのがとても危ない。
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<練習問題15>について

練習問題15の複合形容詞、複合動詞を抜き出してみます。

複合形容詞
 1.「使いやすい」
 2.「しやすい」
 4.「やりにくい」
 9.「堅苦しい」
 10.「流れやすい」
複合動詞
 1.「行き渡って」「行われ初めて」「思い込んで」
 2.「申し上げれば」
 3.「塗り付けて」「押しつぶし」
 4.「打ち直す」
 5.「打ち終える」「打ち直した」「くり返し」「抜け出られ」
 6.「ずれこむ」「入り込んで」「ずれ続けて」
 7.「出くわしたら」「打ち続ける」「打ち始められ」
 8.「調べきる」「読み通し」「打ち始める」
 9.「書き換えて」「打ち進める」「吹き飛んで」「探し出せる」
 10.「なくなる」「慣れ親しんで」
というわけで、以上は続けます。

ついでに、「こそあど」についてもちょっと見ておきます。
 1.「こうやって」――「コー■ヤッテ」
 2.「どういう」――「ドー■イウ」
   「どのくらい」――「ドノクライ」 この場合の「くらい」が自立語ではないので続けます。
 3.「それでも」――「ソレデモ」 「で」「も」もこの場合助詞です。
   「どうにか」――「ドーニカ」 この「に」「か」も助詞です。
 4.「この言葉は」――「コノ■コトバワ」
   「その一文字のために」――「ソノ■ヒトモジノ■タメニ」 「こそあど」のことではありませんが、「一文字」を何と読むかも、あるいは人によるでしょうか?  「いちもじ」と読むなら「数1モジ」と打つのですが、私は「二文字」までは和語読みかなあと思っています。「三文字」になると悩むところです。
 5.「その連鎖から」――「ソノ■レンサカラ」
 6.「そうすると」――「ソー■スルト」
   「そのうえ」――「ソノウエ」 「うえ」は自立語ですが、この場合は全体で「さらに」という意味の副詞あるいは接続詞なので、続けます。
   「こうなったら」――「コー■ナッタラ」
   「どこまでも」――「ドコマデモ」
 7.「そのあとを」――「ソノ■アトヲ」
   「その言葉に」――「ソノ■コトバニ」
 8.「その他」――「ソノタ」もしくは「ソノ■ホカ」
   「そのまま」――「ソノママ」
   「そのうえで」――「ソノ■ウエデ」
 9.「その点」――「ソノ■テン」
   「どうにでも」――「「ドーニデモ」
   「どんなに」――「ドンナニ」
   「そう思うと」――「ソー■オモウト」
   「この言葉」――「コノ■コトバ」
 10.「そのかわり」――「ソノ■カワリ」
   「どうしても」――「ドー■シテモ」
   「こういうふうに」――「コー■イウ■フーニ」
   「そのうち」――「ソノウチ」 「うち」は本来自立語ですが、この場合は「近日中に」とか「しばらくしたら」という意味の副詞なので続けます。
   「この次」――「コノ■ツギ」
   「どうして」――「ドーシテ」 「なぜ」という意味の副詞なので続けます。
   「そんなこと」――「ソンナ■コト」
   「そういうのが」――「ソー■イウノガ」
落としたものがあるかもしれませんが、だいたいこんなところです。
要は、次にくるのが自立語なら切るし、付属語なら続けるというのが原則で、一部例外として、1語として認知されているものは続ける、ということです。

いろいろややこしいことはありますが、あまり神経質にならずに、どんどん打っていかれるのがいいと思います。


Q. どれが複合動詞かは、辞書を見ればわかりますか?

ずれ続ける、打ち進む、調べきる、読み通す、打ち始める
これらは、まさに複合動詞です。
但し、辞書には見出し語としては出ていないと思います。
それは、辞書の規模の問題ではなくて、多分どの辞書にも出ていないでしょう。
〜続ける、〜進む、〜きる、〜通す、〜抜く、〜あう、〜始める、〜終わる・・・などは、非常に多くの動詞にくっついて複合動詞を作ります。
「続ける」にしても、愛し続ける、遊び続ける、歩き続ける、生き続ける、居直り続ける、祈り続ける、歌い続ける、打ち続ける、恨み続ける、描き続ける、選び続ける、演じ続ける、追い続ける、遅れ続ける、踊り続ける・・・きりもありませんね。
これらを全部収録したら、辞書はパンクしてしまいます。
ですから、辞書は複合する前の基本的な形(愛す、遊ぶ・・・)で載せています。
そういうわけで、複合動詞については、辞書にあるかどうかでは判断できないのです。
もちろん、全然載せていないわけではなく、たとえば「流れ」だと、大辞林(初版 1988)は「流れ歩く」「流れ込む」「流れ出す」「流れ着く」「流れ出る」「流れ渡る」を見出し語にしています。 広辞苑(初版 昭和30)は「流れ込む」「流れ行く」「流れ寄る」、名詞形で「流れ歩き」「流れ落とし」「流れ渡り」を載せています。
三省堂国語辞典(第4版 1992)、これは小さい辞書ですが、「流れ歩く」「流れ込む」「流れ着く」を載せています。
私の手元にあるのはこの3冊です。
まあ、この例で見る限り、大きい辞書の方が多いと言えますが、他の言葉では必ずしもそうとも言えません。
辞書にも個性があるし、もちろん時代にもよって、収録される言葉は相当違うようですね。
どの辞書がいいか、というのはすごく難しいですね。
品詞がちゃんと書いてある辞書は便利です。
用例が多い辞書もとても助かります。
新潮国語辞典は和語を平仮名で、漢語をカタカナで表記してくれているそうです。
何を点訳するかによっても、どの辞書が便利かが違います。
やや古い時代のものを点訳しているときには、広辞苑初版はとても役立ちましたが、現代の若い作家の文章には、不向きかもしれません。
といって、個人で何冊もの辞書を持つのは大変です。
7冊の辞書を駆使して点訳なさっていらっしゃる方の話もありましたが、みんながそうする必要はないと思います。
私の場合も、点訳のために用意した辞書ではありません。
ひとつもないと不便かもしれませんが、大きい辞書や複数の辞書が是非必要、ということもないでしょう。
みなさん、辞書はどうしていらっしゃいますか?


接頭語・接尾語・造語要素(p41〜)

さまざまな複合語の形と、その切れ続きについて書いていきたいと思います。
まず、接頭語・接尾語・造語要素を含む複合語の切れ続きです。
では、接尾語・接頭語・造語要素とは何か?という疑問は当然出てきますよね。
ふだん、あんまりこういったことについて、考えて生活していませんから。
でも、私たち、これらの言葉には本当にお世話になっているんです。接尾語も接頭語も使わない日本語の話し言葉なんて考えられません。
「おみかんとおりんご、お隣のご実家から送っていらしたのを、ご主人が届けて下さったから、あなた、お礼かたがたご挨拶に行ってきてくださいね。子どもたちは、食べ放題だなんて言ってるけど、お返しは何がいいかしらねえ」
「おみかん」「おりんご」「お隣」「お礼」「お返し」の「お」は代表的な接頭語ですね。大辞林によると、「お(御)」は敬意を表す接頭語となっています。
「ご実家」「ご主人」「ご挨拶」も同じく、漢字では「御」と書く接頭語です。
「子どもたち」の「たち」は接尾語。
「かたがた」「放題」は造語要素と言われるもの(らしい)です。

接頭語・接尾語は、まとめて接辞と呼ばれるもので、大辞林によると、「それだけでは単独に用いられることはなく、常に他の語に添加して用い、これになんらかの意味を付加する働きをもつもの」となっています。

「菓子」だけでは素っ気無いと思ったときには「お菓子」、
「真面目」だけでは、その真面目さが伝わらないと考えて「生真面目」、
味も香りもないまじりっけ無しの「水」だよ、という意味で「真水」、
泥酔しているわけではない、と言いたくて「ほろ酔い」、
ただの蛙じゃないぞ、というわけで「ど根性がえる」・・・あ、脱線しちゃった。
これらの、「お菓子」の「お」、「真水」の「真」、「生真面目」の「生」、「ほろ酔い」の「ほろ」、「ど根性」の「ど」が接頭語と言われるものです。

接尾語の方も、非常によく出てきます。
まだ書き終わっていないのは「書きかけ」、
完全に遅れているわけではないけれど「遅れがち」、
毎日じゃなくて「一日おき」、
お金だけではなく「財布ごと」、
汗びっしょりというほどではないけれど「汗ばむ」、
これらの「かけ」「がち」「おき」「ごと」「ばむ」が接尾語にあたるところです。

以上にあげた例は、いずれも続けて書きます。
接辞とその前後の語が不可分で、切るとかえってわかりづらくなる例です。

造語要素というのもまた、つかみどころのない言葉です。
私の感じでは、接尾語・接頭語とほとんど同じに考えていいと思うのですが(だから『てびき』で同じ扱いにしているんでしょうね)、ちょっとニュアンスが違います。
「ご挨拶かたがた」の「かたがた」
「千円ぽっきり」の「ぽっきり」
「一回こっきり」の「こっきり」
などが、造語要素と呼ばれるものらしいのですが、辞書にもよるのかもしれませんが、接尾語の中に含めてしまっている場合が多いようです。
はっきり分類できないのだけれど、語の意味にふくらみを持たせるためにくっつけて使われるものをひっくるめて造語要素と呼んでいるのではないか、と私は勝手に考えています。
接尾語と造語要素って、あんまり遠くない距離にありそうなんですが、どうでしょう?
あまり難しく考えずに、基本的には接辞・造語要素は続けると覚えていいと思います。
もっとも、ここにあげた「かたがた」「ぽっきり」「こっきり」は切る例なんですけど。

なんにでも例外がある、というのは、ここまで『てびき』を読んでこられた方は、すでにお気づきですね。
『てびき』によると、意味の理解を助ける場合は、接辞・造語要素を切って書いてよい、となっています。
私は、実際に発音してみて、一定の切れ目があれば、切って良いのではないか、と思っています。
「超現実的」の「超」、「元社長」の「元」、「満3周年」の「満」、「非人道的」の「非」等々、たいてい半拍か一拍くらい切って発音しますよね。
そういうときは、点訳でも、マスをあけたほうが、わかってもらいやすい、ということです。
でも、ときどき、続けるのも切るのも、どちらもありかな、っていう言葉も出てきます。
「非科学的」、みなさんは、どう発音されますか?
私は「ヒ■カガクテキ」だと思っていたんですが、一続きに「ヒカガクテキ」でも、ちっともおかしくないんですよね。
そういう語は、どちらかに決めて、ひとつの点訳物の中では、切ったり続けたりのまちまちな表記にしない、ということが大切だと思います。

外来語の接辞も、考え方は同じなのですが、実際には、それが接辞であるのか、独立した単語であるのか、普通の日本語以上にわかりづらいことが多いのです。
この点については、私は理解不足ではっきりしたことが書けません。
『てびき』では、理解の助けになる場合は切ってよい、となっています。
つまり、英語のもともとの意味にまで遡ってしまうと切れない語であっても、日本語的に考えて(拍数とか、語のリズムとか)、切れそうなときは切ってよい、ということだと思います。
『てびき』では、外来語も日本語である、という考え方をとっていますので、英語の辞書に一語として載っていたとか、逆に見出し語として扱われていなかった、ということを根拠に、続けたり切ったりするのは、少し点訳表記から離れてしまうことになるかもしれません。
外来語には、和製英語も、いったいどこの国の言葉かわからないものもたくさんありますから、もし、辞書を切れ続きの根拠にすると、カバーしきれないことが多々出てくるのではないか、と思います。
ですから、「ウルトラセブン」の「ウルトラ」は、英語では接頭語ですけれど、日本語的に考えると、拍数も4拍ですし、そのあとの「セブン」が3拍ですから、切って良さそうかな、と、そういうふうに考えなさい、ということだと思います。
拍数による複合名詞の切り方は後で出てきます。
ここでは、外来語と言えど、日本語として考える、と覚えておけば良いと思います。

では、練習問題16です。
どれが接尾語で、どれが造語要素かといった分類より、語と語のくっつき具合、拍数、連濁などで切れ続きを考えたほうが良いかもしれません。

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  練習問題 16
 1.前々からいけ好かない素浪人だと思っていた。日がな一日おんぼろ長屋の薄暗い部屋に閉じこもっているものだから、隣の金棒引きのばあさんが、「薄っ気味悪いったら、ありゃしない、あれは、凶状持ちにちがいないよ」などと、聞こえよがしに、近所の女房たちと目引き袖引きやっていたのも無理はない。

 2.なにしろ、このあたりは、市中のどんづまり、小汚い長屋が、そこに住んでいる人間たち同様、今にもぶっ倒れそうになりながら、ひん曲がって立っているようなところだ。つまりは、世間様の吹き溜まり。親切ごかしの似非人情家も、こんな貧乏たらしいところまでは来やしない。

 3.ところがその素浪人、身なりは、どこぞの御大家の御曹司かというほどご立派で、見た目も歌舞伎役者張りの男前ときている。長屋のうら若い女どもがひっきりなしに、奴の長屋前あたりで、噂しあっているのだけれど、奴ときたら、昼間はめったに顔を出さず、たまに出てきたかと思えば、「迷惑千万なことだ」と一言、いけぞんざいに言い捨てて、愛想なんぞこれっぽっちもありゃしない。ところが、そんな素っ気なさがまた、奴の色悪ぶりに似合って、なまめかしくさえあるのだ、と娘たちは浮かれ気味である。

 4.いつの晩だったか、寝入り端、外でなにやら大騒ぎをしている様子に目が覚めた。この長屋に住んで、うどんの屋台を引いている年寄りが、ここへ帰る道すがら、辻斬りにやられたという。じいさん、血みどろで転げまわったあげくに、どうやら自分を切った相手に、手当たり次第にどんぶりをぶん投げたらしい。あたりはどんぶりの破片だらけだったそうだ。結局、喉を掻き切られてあの世行きとなってしまったというのも、惨めたらしい最期である。

 5.「ほんとにお気の毒様なことだねえ。素っかたぎの年寄りだってのに」と、裏長屋の女房が言うのへ、「金目当てじゃあねえな。わしらのような貧乏人を殺したところで、一銭にもなりゃしない」と、三軒先のなまぐさ坊主が、わけ知り顔に答えている。身寄りのないじいさんだから、行きがかり上、長屋ぐるみでの葬式と相なった。弔いかたがた集まった長屋の連中の中には、涙ぐんでいる者もいる。

 6.そのとき、ふと浪人者の家の戸口の前に、鈍く光るものを見つけた。いぶかしく思って拾い上げてみると、小さな瀬戸物の破片である。・・・どんぶりの破片? うそ寒いものが背筋を這った。気がつくと、殺気だった目つきの浪人が、開きかけの戸の向うからこちらを見つめ返していた。
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<練習問題16>について

練習問題の中から接辞を書き出してみます。
接辞の中に、造語要素といわれるものも含めてあります(私にはあまり区別がつかないので)。
「切る」と書いていないものは、とくに断っていなくても、続けてよいと思われるものです。

1.いけ好かない  素浪人  薄暗い  薄っ気味悪い・・・「いけ」「素」「薄」が接頭語です。
「いけしゃあしゃあ」「いけずうずうしい」「素顔」「素肌」「薄汚い」「薄明かり」等々、といった形で使いますね。
聞こえよがし・・・「がし」の部分が接尾語です。「これ見よがし」なんていいますね。
女房たち・・・「たち」が接尾語。
金棒引き・凶状持ち・・・この「引き」や「持ち」を接辞の中に入れていいかどうかわかりません。
造語要素的なものなのかもしれませんが、いずれにしてもおおむね続けていいと思います。

2.どんづまり  小汚い  ぶっ倒れそう  ひん曲がって  似非人情家・・・いずれも接頭語がついた語です。
「どんづまり」の「どん」はもとは意味を強めるときに用いる「ど」であったものが、話し言葉の中で、「どん」になってしまったのかもしれません。「ぶっ倒れ」の「ぶっ」や「ひん曲がる」の「ひん」なども、口語のなかで変化してきたものなのでしょうね。
「小汚い」は「小」が接頭語ですが、「小汚い」の読みは、最近は「コキタナイ」と言うみたいですね。でも、この文章の書き手としては、「コギタナイ」と読んでいただきたいと思っています。
「コキタナイ」ってほんとに「小汚い」感じがして、好きになれない言い方です。余談。
「似非(えせ)」も和語の接頭語で、似ているけどにせものだ、とか、それらしい雰囲気だがどこかうさんくさい、といったような意味ですね。
 「似非紳士」「似非文化人」など。
 世間様  親切ごかし  貧乏たらしい・・・「様」「ごかし」「たらしい」が接尾語。
「様」は「お父様」「小母様」などのほか、「お得意様」「ご苦労様」などのようにも使われますね。
「様」や「さん」「君」「殿」「氏」などは、人名等につく接尾語ですが、個人名につく場合とその他の場合とで、切り方が異なります。
個人名のときは、「人名を浮き立たせるために区切って書く」と『てびき』にあります(p54)。
「ハトヤマ■ユキオ■サン」「ベッカム■サマ」「ハリー■ポッター■クン」「マエダ■トシイエ■ドノ」「ブッシュ■シ」という具合ですね。
「熊のプーさん」や「サザエさん」も個人名とみなし(確かに個人名には違いありません)、「プー■サン」「サザエ■サン」と書くことになっています。童話や漫画のタイトルと考えると、切るのにいささか抵抗がありますが、そこまで考えていると収拾がつかなくなるので、個人名につく接尾語は切る、ということでまとまったのでしょう。
しかし「ちゃん」は、「ちゃん」も含めて愛称と考え、名前に続けます。
「マッチャン、ハマチャン」「ケイコチャン」「マユミチャン」など。
これらの語が普通名詞や氏族名につく場合は続けることになっています。
「ハイシャサン」「シャチョーサン」「オツボネサマ」「「オワリノ■オダシ(尾張の織田氏)」など。

「ごかし」は「おためごかし」なんていう言い方があります。
「たらしい」は大辞林によると、形容詞を派生する接尾語となっています。
「憎たらしい」「未練たらしい」等々。

3.御大家  御曹司  ご立派  うら若い  いけぞんざい・・・「御(ご・おん)」「うら」「いけ」が接頭語。
歌舞伎役者張り  男前  女ども  迷惑千万  これっぽっち  色悪ぶり  なまめかしく  浮かれ気味・・・「張り」「前」「ども」「千万」「ぽっち」「ぶり」「めかしい」「気味」が接尾語です。
「イチロー張りの好打者」「一人前」「笑止千万」「百円ぽっち」「二枚目ぶり」「古めかしい」「風邪気味」等々といった使い方をすると思います。
このなかで、「千万」は漢語2字の接尾語なので、「メイワク■センバン」「ショーシ■センバン」と切って書きます。
しかし、同じ漢語2字の語であっても「気味」は「ウカレギミ」「カゼギミ」と連濁していますので、続けて書くことになります。

4.大騒ぎ  ぶん投げた・・・「大」「ぶん」が接頭語です。
「大」は良く使いますね。「大雨」「大いばり」「大御所」等々。
「ぶん」は「ぶんどる」「ぶんなぐる」など。
寝入り端  道すがら  血みどろ  手当たり次第  破片だらけ  あの世行き  惨めたらしい・・・「端」「すがら」「みどろ」「次第」「だらけ」「行き」「たらしい」が接尾語です。
「代わり端」「旅すがら」「汗みどろ」「本人次第」「ごみだらけ」「東京行き列車」「長ったらしい」など。
この中で、「次第」は漢語2字の接尾語ですので、「テアタリ■シダイ」「ホンニン■シダイ」と切ります。

5.素っかたぎ  相なった・・・「素」は前出。「相」もよく使われる接頭語です。
「相すまない」「相部屋」「相争う」など。
お気の毒様  わしら  わけ知り顔  行きがかり上  長屋ぐるみ・・・「様」は前出。
「ら」「顔」「上」「ぐるみ」が接尾語。
「おまえら」「得意顔」「一身上」「家族ぐるみ」など。
 弔いかたがた・・・「トムライ■カタガタ」と切って書きます。
 涙ぐんで・・・「ぐむ」が接尾語。
「ぐむ」を使う語の例、何かありませんかねえ・・・「涙ぐむ」意外にはちょっと思いつきません。

6.うそ寒い・・・うそが接頭語。「うそ甘い」(最近はあまり使わない言葉でしょうか?)など。
殺気だった 開きかけ・・・「だった(立つ)」、「かけ」が接尾語。
「浮き足立つ」「食べかけ」など。

以上のように接辞はとてもたくさんの形があるし、別の語についていろいろな品詞を形成するので、非常につかみどころがありません。
ある点訳関係の資料では、「接辞は品詞でも単語でもない」、と書いてあります。
それじゃなんなんだ?と思いますけど、用例を見て、だいたいこんな感じの言葉かな、とおよその雰囲気がつかめていただけたでしょうか?
いろいろ点訳してみて、さまざまな接辞に出会うといいと思います。


〜ぐむ

余談です。
「涙ぐむ」の他に接尾語「〜ぐむ」の例はないものかと考えていたら、「早春譜」の歌詞の中の「角ぐむ」という言葉を思い出しました。
植物の芽が角のように突き出してくる気配を言うのでしょう。
でも、何が角ぐむんだったか、思い出せません。
葦かなんかでしたっけ?

そういえば、「芽ぐむ」という言葉もありますね。
「角ぐむ」と同じような意味で、もう少し直接的、あるいはもう少し広範に使うのでしょうか。

それと、もうひとつ思い出したのが、カール・ブッセの詩、「山のあなた」(上田敏訳)に出てくる「涙さしぐみ帰りきぬ」というのでした。
昔々、言葉の意味など知りもせずに読みましたが、今あらためて辞書をひいてみると、「さしぐむ」(広辞苑では「さしくむ」)は「涙が湧いてくること」で、要するに「涙ぐむ」と同じことのようです。
そしたら、「涙さしぐみ」というのは、「馬から落馬する」ようなもので、ちょっと余分のような気もしますね。
漢字で「差し含む」と書くというのも初めて知りました。

いずれにしても、若い人たちにとっては「死語」の世界ですね。
こういう情緒のある言葉がだんだん消えていきます。
必要でなくなったから消えていくのでしょうか?






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