めだぬき村アクセス回復軍軍旗の説明



紀元前108年、漢の武帝が、古朝鮮の「王険城」を陥落させ、古朝鮮は滅亡した。「王険城」には古朝鮮の歴史書が集められていたため、古朝鮮の歴史はほとんど残っていない。

まもなく、朝鮮では、解慕漱(ヘモス)将軍率いる多勿(タムル/失地回復)軍が結成された。そして多勿軍を引き継いだ朱蒙(チュモン)は、高句麗国を建国する(というのは韓ドラの話で、ほんとはどうだか分かったものじゃないけど)。そのときの旗が三本足のカラス、三足烏(さんじょこ)である。

日本各地に散在する「熊野神社」にも八咫烏(ヤタガラス)という3本足の烏が祭られており、「熊野神社」の「熊」は、朝鮮の壇君神話(熊が神の試練に耐えて人間の女になり、「神壇樹」のもとに神のファヌンが男になって降り立ち、その間に壇君が生まれる)を思わせる。

「卑弥呼」(3世紀前半)も、古朝鮮の「神女」と類似する点が多々あり、今上天皇も、「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫である・・」という『続日本紀』の記述を引用して、日本と朝鮮の深い関係について発言している。日本人も遠き昔より、アサダル(朝鮮)と同じ「神壇樹の民」の血を引いている可能性が強い。


そこでわが「めだぬき村」も、1日2000アクセスを維持したかつての栄光を取り戻すために、リラックマ大将軍がこの三足烏旗のもとに、アクセス回復軍を結成した次第である。


朝鮮インチキ歴史の歴女さなこによる「さなこ城の歴史」


現在「日本人」と呼ばれているのは、朝鮮とその北方民族(突厥、つまりトルコ系モンゴル系などの民族)がほとんどである。その前の日本の先住民はアイヌなどの南方部族だったが、優れた鉄器文化を持つ朝鮮のために、僻地に追いやられてしまったと思われる。

前述のように古朝鮮は滅亡したが、これは主として古朝鮮の内部分裂によるもので、古朝鮮が完全に滅亡したわけではない。漢に対抗する勢力としては、扶余(プヨ)があり、その西南(朝鮮読みで「さな」)には、西南夷族がいた。この西南夷族が、現さなこ城(東京都練馬区)の祖先と思われる。西南夷族は漢の侵略に対抗して戦い、やがて敗退することになるが、その間に扶余の第三王子、朱蒙が扶余から離れた地で戦いの準備を整え、漢を撃退し、高句麗の初代大王となる。

その後、西南夷族な百済に南下し、西南海と称する地に、南西海港を開いた。もともと百済は、第26代聖王が6世紀半ばに日本に仏教を伝え、日本との交流を盛んにした地であり、日本の武将に百済系が多いのには、この南西海港が大きな役割を果たしたと思われる。西南夷族も日本に渡り、姓を日本風に改めた。

そして南北朝時代、後醍醐天皇に与し、楠木正成の湊川の戦いに先んじて、足利尊氏と一戦を交えた(これは日本の記述でかなり信ぴょう性がある。ただし惨敗してしまったらしい。ここで勝利していれば、靖国神社前には大楠公の銅像ではなく、私のご先祖様の銅像が立っていたはずである)。

私の調べた限り、さなこ城の歴史はここでプツンと途切れている。その名は各所にあるが、読み方からすると石川県の地名が、本来のさなこ城の先祖の地と推定される。












戻る