絶対君主制と立憲君主制
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 日本の天皇制は戦後左翼の言うような天皇絶対といったものではなかった。もし彼らがいうように日本の天皇制が絶対君主制であったならば、対米戦争は逆に起こらなかったであろう。

 そもそも明治憲法からして天皇を絶対君主とはしていなかった。(だから本当は「大日本帝国憲法」という名前自体、矛盾しているのだ。帝国というのはどこの国でも君主は絶対君主であったのだから) 確かにあらゆる権限が天皇に集中し、天皇が右向け右!といえば日本国民全体が右を向かなければならないようにはなっていた。しかし天皇の命令には国務大臣の輔弼が必要であった。

 輔弼というのは単なる補佐ではない。政治的意味合いのある強い権限であった。したがって天皇がいくら「右向け右!」と言おうとしたところで輔弼する国務大臣が「陛下、ここは左ですぞ」と言ったら基本的に天皇は「左向け左!」と命令を言い直した。

 そもそも明治時代、伊藤博文ら元老は天皇なんかたいして重きをおいていなかった。日本の天皇制そのものを自分たちが作り上げたという自負があるから、天皇なんて国民統合の象徴(つまり戦後の日本国憲法と同じか、むしろそれ以下だ)くらいにしか見ていなかっただろう。

 だから憲法には「輔弼」という言葉をしっかり入れて天皇を自分たちで自在にコントロールできるようにしておいた。伊藤ら元老は天皇を恣意的な絶対君主とはせず、自分たちの政治的判断のための錦の御旗としての存在に押しとどめておいたのである。(天皇を本当に必要としたのは明治初期のまだ新政府が不安定であった時だけである)

 短い大正時代が終って昭和天皇の時代になると、この傾向はますます拍車がかかった。天皇は英国流の立憲君主として教育されたために基本的には自分の意見は言わなくなり、戦後の象徴天皇のような存在となっていた。

 但し、国家非常時には普段おとなしい天皇が大活躍をした。有名なのがかの二・二六事件の時の天皇の態度である。昭和天皇は、天皇の意思として起こされた青年将校たちの行動をただちに国家への反乱軍と断定した。非常時で国務大臣の輔弼を受ける間もない即断即決であった。天皇が明快な態度を示したことによりこの事件は早期に解決を見た。もしも天皇が迷ったり、青年将校の肩を持つような発言をしたら(事実、陸軍大臣は当初は青年将校らの決起を支持するような”陸軍大臣告諭”を出している。天皇が陸軍大臣の輔弼を受けることなく自身の判断をしたことは非常に賢明であった)日本は未曾有の大混乱に陥っていたであろう。

 このように戦前の天皇制というのは立憲君主制として実はかなりうまく機能していたのである。天皇は平時には立憲君主として、国家非常時には絶対君主的に振る舞い、それなりの存在感を示していた。
 
しかしながら対米戦争阻止、という観点からはこの立憲君主制がむしろアダになった。

 歴史にifはないといわれるが、もしも戦前の天皇制が絶対君主制であったのならば、すなわち天皇自身の意思が国家意思となったのであれば対米戦争は起こるべくもなかった。天皇は対米戦争に反対であったからである。(戦後左翼はよく大東亜戦争中の天皇の発言を取り上げて天皇が戦争遂行を煽ったように言っているが、戦争の最中と戦争をするか否か、という時期ではその判断の基準はまったく異なってくるのは当然である。またいったん戦争を始めてしまったからには権力者はそれに勝つためにあらゆる手段を用いて国民を鼓吹する。これは古今東西共通のことである。戦争を始める前の反戦運動はよいが、戦争中の反戦運動は国賊である)

 立憲君主制というワクの中では昭和天皇は有名な「四方の海・・・」の明治天皇御製の和歌を詠んで戦争反対の意思を示すのがせいいっぱいであったろう。五味川純平などはこの時歌なんぞ詠まずにはっきり昭和天皇が戦争反対と言えば対米戦争は避けられた、と言っているが、それは絶対君主としての天皇でなければ不可能だったのである。

 この和歌が詠まれた時点では日本はまだ平時であった。そこが二・二六事件の時とは異なる。平時にあっては立憲君主はそれがいくら平和主義に根ざしたものであっても自らの意思を表明してはならぬのである。それは政府への君主からの不当な干渉になってしまうから。そのために昭和天皇は対米戦争という内閣の決定した政治決断を意に沿わぬまま裁可せざるを得なかったのだ。

 それでは終戦のときはどうか。周知の如く、大東亜戦争は昭和天皇自身の意思による”御聖断”によって日本の敗北により終結した。この時日本はまさに非常時であり、天皇が絶対君主として振舞うことにより、やっと戦争を終わらすことができたのだった。(無論それは内閣により演出されたものではあったが) 


 立憲君主制は成熟した民主主義があって初めて有効な運用が可能なのである。戦前の日本が手本とした英国の立憲君主制は何百年もの長い歴史を経て民主主義が成熟していたからこその賜物であったのだ。日本は維新後、それを性急に取り入れようとはしたが、付け焼刃の感はまぬかれなかった。

 明治時代、維新の元勲が生きていた頃はそれでも日本の立憲君主制はうまく機能していた。それは内閣がどうあろうと、背後の元勲らがうまく国家の調整を行っていたからである。たとえば日露戦争は桂太郎内閣の責任において始まり、その内閣の責任において終結した。戦争の終結のための天皇の御聖断など無論なかった。元勲伊藤博文らが陰に陽に桂を助け、内閣がしっかりと軍部と協力して戦争指導を行ったために天皇の意思表明などは必要なかったのである。(乃木将軍の更迭問題では少し口をはさんだが)

 36年後に起こった大東亜戦争では内閣は東条英機→小磯国昭→鈴木貫太郎と代わり、結局戦争全般に最終的権限を持つ人間がいなかった。(ルーズベルト、スターリン、チャーチルにより一貫して戦争指導されていた米ソ英とは対照的。ドイツでさえヒトラーが一貫して戦争指導をしている)だから戦争を終らすことができるのは絶対君主としての天皇しかいなくなってしまった。立憲君主制の前提となる憲法にもとずく内閣制度が機能しなくなっていたためである。


 大東亜戦争終結まで、日本では特に大正以降、国家の非常時には天皇が絶対君主に豹変することにより国難に対処してきた。立憲君主制を運用するには民主主義の底が浅く、国家を運用する際にはどうしても超法規的な何物かが日本には必要だったのである。

 前述のごとく、明治時代は維新の元勲がその役割を果たした。しかし、元勲亡き後、それを天皇が一手に引き受けざるを得なくなった。(西園寺公望が元老として残ってはいたが、その業績、政治力から伊藤博文ほどの重みはなく、しかも一人では如何ともしがたかった)ところがなまじっか憲法などもあり、中途半端な民主主義が発達していたために天皇は立憲君主として振舞わざるを得ず、元勲の代わりをするには手足をしばられすぎた状態であった。

 無論天皇は血統の人だから政治的資質から見れば元勲の代わりは無理だったであろう。しかし昭和天皇は聡明な人であったし、何よりも平和主義者であった。もし制度として絶対君主制が根付いていたならば、適切な閣僚からの助言(輔弼ではない)を受けて、「アメリカなどと戦争をしてはいけない、帝国陸海軍の総司令官として朕は対米戦争は絶対に認めない、責任はすべて朕がとる」と発言されただろう。

 絶対君主ならばその意思は絶対である。平時であろうとその命令はきちんと実行されるはずである。いろいろしこりは残ったかもしれないが、とにかく日本が対米戦争を行う愚は避けられただろう。

 結局中途半端な立憲君主制であったのがいけなかった。もしも立憲君主として天皇が「戦争はいけない」 云々の発言をしていたならば、日本は内乱状態となったであろう。軍は天皇の発言を絶対命令とは受け取らず、「君側の奸」が天皇にそう言わしめたと取り、二・二六事件を大規模にしたような反乱が起こったであろうことはまちがいない。

 また英国のように首相の権限が制度として強かったならば対米戦争は避けられたかもしれない。後世、首相としての近衛文麿の優柔不断が批判されているが、当時の日本の首相の制度的権限では田中角栄や吉田茂のような人が首相であっても対米戦争は阻止できなかったであろう。

 絶対君主制は19世紀の遺物であり、遅れたよくない制度である、と歴史の授業では習った。しかし、20世紀における数多くの”民主主義の失敗”による膨大な戦争被害者数などを見るとあながちそうも言えないように思う。

 よい絶対君主を得られた国の国民は民主主義の国に住むよりはしあわせであろう。

補遺;しかしながら戦前の日本人の多くは天皇を絶対君主として見ていたのではないか。つまり国家の制度やその運用が立憲君主制であったのに学校や特に軍隊では統帥権の独立という観点からか、天皇を絶対君主として教えており、したがって多くの国民は天皇が実は立憲君主であったことが理解できなかった。

 軍隊などでは”天皇陛下”のために死ね、と教育されていた。(特に兵や下士官などにその傾向が強い)そうでなければ強い軍隊が作れなかったから。そのためには天皇陛下はどのような機関からも独立した偉大なる絶対君主であらねばならなかった。(天皇を一つの機関にすぎないという”天皇機関説”が特に軍関係者から非難を浴びたのはしたがって当然である。本当は天皇機関説が実態を表していたのであるが、それを認めたら軍人は天皇の名のもとでは死ねなくなり、したがって軍は弱体化してしまうのである。それは戦前は国家の弱体化を意味していた)

 
その天皇陛下が実は戦後の象徴天皇制とあまり変わらないような存在であったと知ったら兵や下士官は天皇陛下のために死ねたか。あるいは軍幹部はそのように教育できたか。

 本当は天皇は立憲君主であったのに、一般国民からは絶対君主のように思われてしまっていたというのが、好むと好まざるとに関わらず戦前の社会の必然だったのであろう。それは明治政府が同時に進めた富国強兵政策と立憲政治との間の矛盾をまさに示しているように思う。

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