教会旋法のページでご覧頂いたように、現代の長調、短調はもともと教会旋法より抽出されてきたものだった。その中で長調が比較的早く音階として固定したのに対し、短調はなかなか一つの音階に定着しなかった。今でも楽典には短調には自然短音階、和声的短音階、旋律的短音階の三種類が書かれている。つまり短音階というのは今日でもかなりあいまいなままなのだ。これはなぜだろうか。
最大の理由は導音の問題であると思う。長音階の場合は音階の7音と8音の間が半音となるので、導音を作るにあたって問題はなかった。ところが短音階の場合、それは全音となるのである。そのために短調の楽曲の場合、導音を作るためにはどうしても第7音を半音上げざるを得なくなるのである。これすなわちこれは和声的短音階である。
しかしこの和声的短音階をピアノで弾いてみるとどうも流れが不自然なのである。それは第7音を半音上げてしまったために、第6音と第7音の間が結果的に短3度と同じになってしまったからである。そのためにそれなら第6音も半音上げてしまおう、というわけで旋律的短音階ができた。これは旋律的といわれるだけあってさすがになめらかに聞こえるが、音階の後半は結局長音階と同じである。長音階との違いは第3音が半音高いか低いかだけとなる。但し、この旋律的短音階は下りは自然短音階と同じになる。下りの場合、導音を作る必要はないからである。



このように現代でもあいまいさが残る短音階であるため、バッハの時代には短音階はまだまだ鬼っ子的存在であった。ピカルディ終止などというものがあったのもこうした理由からである。短調で楽曲を終わらせることに対し、バッハの時代の人たちはまだまだ抵抗があったのである。
こうした短調の不安定さはマタイ(に限らないが) の短調の曲の変位記号の数に現れている。前ページで書かれているように、現代の記譜法にくらべ、♭記号が一つ足りないのである。この現代とちがう慣習もまた短音階の不安定さに由来している。
短音階では第6音と第7音が鬼門であることはさきほど述べた。この2音が曲の状況に応じて半音あがったり下がったりするのである。これは短音階の宿命ともいえる。
たとえばDmollの曲を考えてみる。この調の場合、シが♭になる訳だが、短調のこととて、つねにフラットされるとは限らない。ナチュラルのシの場合も多いのである。もしこのシがナチュラルであるとすればこれは結局Amollの曲と変わらなくなる。ならば調号の♭は必要なく、ト音記号のとなりに書く必要はないではないか、ということになる。つまり短調の曲の場合、短音階の第6音がナチュラルになるのを前提として記譜がされていたわけである。第6音をナチュラルさせると和声学の法則により、フラットはひとつ減ることになるからである。
この記譜法はおそらくバッハまでだったのであろう。古典派に入ると次第に短調も認知されるようになり(それでもモーツァルトなどは短調の曲はほとんど書いていない)♭をひとつ減らして記譜する慣習もなくなっていった。
さて、最後に実際の譜例を見てみたい。下譜はマタイの26番の通奏低音からとったものである。下譜からわかるように、この曲の通奏低音は第2小節では自然短音階、第2小節から第3小節は旋律的短音階、第10小節では和声的短音階になっていることがわかる。


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