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歌詞
- Lacrimosa dies illa, 涙の日、その日は
- qua resurget ex favilla 罪ある者が裁きを受けるために
- judicandus homo reus: 灰の中からよみがえる日です。
- Huic ergo parce Deus. 神よ、この者をお許しください。
- pie Jesu Domine, 慈悲深き主、イエスよ、
- Dona eis requiem. Amen 彼らに安息をお与えください。アーメン。
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この曲は「モツレク」の中でもおそらくもっとも膾炙されたものであろう。「モツレク」を知らなくてもこの曲は知っているという人も多いと思う。また「モツレク」の中でも屈指の名曲であることも誰も否定し得ないであろう。
昭和53年頃であったろうか、田宮二郎主演の「白い虚塔」の最終回、その最後にこの曲がBGMで流れたのがとても印象的であった。最後のアーメンでドラマがちょうど終了となった。その後に田宮二郎が自殺したから、まさにこの曲は田宮へのレクイエムとなったのであった。
周知の如く、モーツァルトはまさにこの曲を書きかけて絶命したわけで、前奏のヴァイオリン、ヴィオラパート、第8小節までの合唱パートとチェロバスパートまでがモーツァルトの筆による。絶筆の部分がちょうどクレッシェンドを進んでフォルテの最高潮になっており、これがまた何となくドラマチックなものを感じる。
モーツァルトが本当にここまでしか書かなかったのであればドラマとしては完璧なのであるが、実はDomine
Jesu以降もかなり書き残している。つまりこのLacrimosaがモーツァルトの絶筆であることはまちがいないが、実は前から順番に作曲していった訳ではなく、offertoriumまである程度作曲しておいて最後にLacrimosaに手をつけた、ということである。(但し本当にこの曲が最後に書かれたかどうかの確証はない)
モーツァルトが書き残した最初の2小節の1stヴァイオリンのスラー付き8分音符はおそらくこの曲の主題である”涙”の垂れる様子を模したものであることはまちがいない。チェロバスがない、いわゆるバセットヒェンの形式で、2ndヴァイオリンとヴィオラが不安そうに寄り添うだけである。
この2小節の1stヴァイオリンは、まさにlacrimosaの涙滴を現している。また、当時の作品としては異例とも言える、長7度のやや不自然な飛躍も、その効果に一役買っている。(下譜)

そしてモーツァルトはその後は6小節にわたる合唱パートと「Amen」の部分のフーガのスケッチしか書き残していない。したがって改訂者が第9小節以降をどのように補筆していくか、その自由度はきわめて大きい。また残された「Amen」のスケッチをどういかすか、も問題である。
なおモーツァルトはこの曲においても、合唱冒頭において、イントロイトで使われた音型を使っている。

<ジュスマイヤーの場合> すでに定番になっているジュスマイヤー版は残されたモーツァルトの遺稿との整合性もよく、「モーツァルトのレクイエム」として十分に通用する立派な補筆である。おそらくはモーツァルトの何らかの示唆があったのであろうが、この補筆を見るとあながちジュスマイヤーは三流であったとも言い難くなる。
この版での疑問点はジュスマイヤーがなぜモーツァルトの遺した「Amen」フーガのスケッチをまったく使用しなかったのか、ということである。ジュスマイヤーはこのスケッチの存在を知っていたことはまちがいないので、あえて利用しなかったとしか考えられない。
結局のところ、ジュスマイヤーにこのスケッチを使うだけの自信がなかったのだろう、ということになっている。(Christoph
Wolff著MOZART'S REQUIEM
p31参照)そのためにジュスマイヤーは最後は簡単な文字通りアーメン終止でこの曲を終わらせてしまった。
このジュスマイヤーのたった2小節のAmenが古来批判の的になっていることは周知のことであるが、私は個人的にはこのAmenは好きである。第28小節で最後の盛り上がりが起こり、第29〜30小節のAmenでティンパニーのトレモロとトランペットとを伴い、あたかも構築された建造物が崩れ落ちるようにして終止する、これは快感である。1stヴァイオリンの重音も気持ちがよい。
<バイヤー版の場合>
せっかくのジュスマイヤー版の感動をぶちこわしにしたのがバイヤー版である。学者が理論などにこだわっていじくると名曲もこんな悲惨なものになります、という見本のようなものである。
バイヤー版の最大の欠点は何といっても第24〜5小節のところであろう。私が最初にバイヤー版を聴いておかしいな、と思ったのもここだったし、全曲を通じての欠点もここである。(下譜参照)
 ↑バイヤー版のLacrimosa第23〜5小節ここをクリック
 ↑ジュスマイヤー版のLacrimosa第23〜5小節ここをクリック
この部分のジュスマイヤー版の魅力は何といっても第24小節後半でテノールがdo-na-とD→F♯と駆け上がっていくところである。そして次の小節でGまで上り詰める。このテノールは見事である。 ところが上譜を見ていただければおわかりのように、バイヤー版ではここが殺されてしまっている。これはきわめて残念な改訂であり、むしろ改悪といえる。まさにマイケル・ジャクソンの整形である。バイヤー版が出版されて30年以上経つのにいまだにジュスマイヤー版にとってかわる気配がないのはここの改悪のせいではないかと私は思っている。
さらにバイヤーもまたジュスマイヤー同様、Amenフーガのスケッチは使用していない。バイヤーの改訂の目的はあくまでもジュスマイヤーの和声学上の誤りを正すということであり、あまりジュスマイヤー版をいじくりたくはなかったためではなかったかと思われる。
<モンダー版>
ジュスマイヤー版「モツレク」からジュスマイヤーの補筆部分という侠雑物を取り除くという趣意で作られたモンダー版であるので、当然第9小節以降はジュスマイヤー版とはまったく異なった音楽になっている。最大の特徴はモーツァルトが残したAmenフーガのスケッチを使用して最後のAmenを長大なものとしたことであるが、さらにもう一つの特徴として第11小節からIntoroitで使われた9th Psalm
Toneが使用されていることがあげられる。
このように伝統のジュスマイヤー版を遠慮会釈なくいじくってしまった結果、モンダーはことにこのLacrimosaに関しては別の曲を”作曲”してしまった訳で、その是非に関してはさまざまな意見があるであろう。私は無論個人的には賛成しない。また今後の「モツレク」の主流になるとも思えない。(ジュスマイヤーとて”作曲”したことには変わりはないのであるが、何といっても200年にわたって彼の版が演奏され続けてきた歴史は重い)
<ランドン版> この版ではほとんどジュスマイヤー版と同じ扱いである。したがってAmenフーガのスケッチは使用していない。
<レヴィン版>
モンダー版同様、Amen Fugaを用い、自由に作曲されている。モンダー版との違いは、比較的ジュスマイヤー版の部分を残していることである。ジュスマイヤー版のAmen部分のみを新たに作曲しなおした、という感じである。
この版で面白いのは、第16小節より、バスがオクターブで半音づつ上がっていく部分である。すなわち、ジュスマイヤー版では以下のようになっている。(下譜)

ところがレヴィン版では逆に以下の如くなっている。(下譜)

なぜ比較的ジュスマイヤー版を残したレヴィンがわざわざこのような余計なお世話をしたのかは不明である。
<ドゥルーズ版> http://www.ne.jp/asahi/jurassic/page/sound/mozart/lacri_dr.htm
とにかく第9小節以降はモンダー版以上に作曲されてしまっている。当然Amenスケッチは使用。こうなるともはや「モツレク」の名には値しない。まあ、あたらしモノ好きにはおもしろいと感じるであろうが・・・。
<各版総評> 結論を先にいえばLacrimosaはジュスマイヤー版が標準であり、これからもそうあり続けると思う。これはジュスマイヤー版が抜群に優れているとまではいえないが、「モーツァルトのレクイエム」としては恥ずかしくない内容であり(その基準は仮にジュスマイヤーの補筆が後世知られなくとも十分モーツァルト作曲として通用するかどうかということである)、200年の演奏の伝統があるからである。
Amenスケッチに関してはもしもジュスマイヤーがこれを使用していれば、それが「モーツァルトのレクイエム」としての標準となったであろう。しかしジュスマイヤーがそうしなかった以上、これを使わないのが「モーツァルトのレクイエム」であると思うべきである。(運命の女神は補筆者としてジュスマイヤーを選んだのであるから)たった2小節のAmenは確かにモーツァルト的とはいえないかもしれない。しかし私はこのたったの2小節のAmenこそがすばらしいと思う。モーツァルト+ジュスマイヤーによるレクイエムを「モーツァルトのレクイエム」であると評価するのならば、モーツァルト的とは思えない部分が多少はあってもよいのではないか。
これまでに現れた改訂版ではAmenスケッチを使用したものの方が多い(使わないのがバイヤー版、ランドン版、使っているのがモンダー版、ドゥルーズ版、レヴィン版)ので、そうした版を標準とすべきという意見もあるかもしれないが、そうした改訂版は「モーツァルトのレクイエム」としてのこれまでの200年の伝統をまったく無視するものであり、もはやあらたに作曲された別の曲と見なすべきである。
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