ハンセン病私的検証

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 2001年の国賠訴訟判決により、隔離を主体としてきたこれまでの国家政策が断罪されたわけであるが、私は30年以上ハンセン病療養所に関わった人間として、また一医師として、主として医学的見地や、新聞などでは報道されなかったことを含めて、私なりの意見を書きたいと思う。

 ハンセン病は、第二次大戦後にプロミンが出現するまでは不治の病であった。したがってこの疾病は、プロミン出現以前と以後で分けて考えねばならない。

<プロミン出現前のハンセン病(治療法のない時代)>
 ハンセン病対策は、プロミン出現以前、すなわちその治療法がなかった時代には、現代からいかなる批判があろうと、やはり基本的には隔離しかなかったと言わざるを得ない。

 ハンセン病の病原菌である”らい菌”は結核の仲間であるが、その感染力は、結核と比較して格段に弱い。たとえば結核菌のように、飛沫感染(患者の咳、痰などから感染すること)や空気感染はしない。

 しかしながら、一応感染症である以上は、治療法がないのであれば、その対策としては患者を隔離して一般人との直接接触を絶つ以外に方法はなかったのである。日本の”救らいの母”と呼ばれたハンナ・リデル女史も隔離を勧めたし、諸外国でもそうであった。(※注1)

 治療法がない時代のハンセン病の患者さんの生活は、それはそれは悲惨そのものであった。この病気の原因のらい菌は熱に弱い。そのために、体温の低い身体の表面の症状が主体となるために、外見の問題となりやすく、それが世間の差別感覚へとつながっていった。(現在では国家の隔離政策がハンセン病への偏見を作り出したような論があるが、それは正しくない。差別があったからこそ隔離をせざるを得なかったという面の方が強い)

 ハンセン病の親戚である結核も、「肺病」などと言われて偏見がないではなかったが、こちらは外見的な症状はないために、どちらかというとむしろ世間の同情を買う存在だった。文学の題材にもかつてはよく結核患者が登場した。

 しかしハンセン病の場合、これにかかると親類縁者と縁を切り、療養所に入り、ひっそりと子どもも作らずに一生を送る、というのが、強いられたあたりまえのパターンであったのである。

 結局、この時期には、むしろハンセン病患者のための施設を作り隔離をすることは、社会政策であり、救済であったといえる。当時の政府は患者隔離をしていなかったがゆえに諸外国からその無策を糾弾されたのであり、積極的に隔離政策を行っていくことこそが社会正義であったのである。(※注2)

 ハンセン病国賠訴訟も、「遅くとも1960年以降の〜」という表現があり、ハンセン病が不治の病であった時期の隔離政策までは断罪していないことに注意したい。


<プロミン出現後のハンセン病−二つの選択肢>
 第二次大戦後、もともとは抗結核剤として開発されたプロミンがハンセン病に著効することがわかり、ハンセン病治療に光明がもたらされた。ハンセン病は治癒しうる病気となったのである。実際、療養所入園者は菌が次々と陰性化し、新たな患者も基本的には外来治療のみで治癒できるようになった。

 プロミン出現以前より、医学界はハンセン病の今後の療養のあり方について光田健輔派と小笠原登派の二つの考えが対立していた。光田派の考えは「ハンセン病は伝染病である。幼い子供が患者と濃厚に接触することにより感染する。感染力が弱いとはいえ、患者さんが市中にいれば感染し、患者が増える可能性がある。また現在のような状況では、今後患者さんの社会復帰を勧めていっても、いわれなき差別に合い、苦労するのは目に見えている。それよりは療養所で一生を過ごすことを第一と考え、療養所における生活の改善に努めていく方がベターである」というもの。

 これに対して小笠原登博士らの考えは以下のようであった。「ハンセン病の感染力はきわめて弱く、さらにまた発病した患者から直接感染する根拠はない。したがって幼い子供が発症者との濃厚な接触により感染する可能性は考えにくい。詳細は不明だが、特殊な免疫体質の者だけが感染・発病し、主として発症する以前の患者から感染する。(ハンセン病患者が同一家族に発生しやすいのはこのことで説明がつく)したがって隔離政策は無意味である」

 この両派の対立は結局光田健輔氏側の勝利に終わった。おそらくは光田氏の方が政治力があったこと、社会政策的意味合いをそこに含んでいたこと、などがその理由であろう。小笠原説は結果的には正しかったが、あまりにも純医学的すぎたのである。


<光田健輔博士のおもわく>
 さてだがその後の歴史は、光田氏の隔離説を断罪した結果となり、現在光田氏の評価はさんざんである。

 しかしながら光田氏とて、あえて非人道的ふるまいをしたわけではあるまい。ハンセン病患者のためを思えばこその隔離説であったと思う。いくらハンセン病が治癒しうる病気になったとはいえ、社会に染みついた偏見の眼は急にはなくならないから、当時としてはやはり療養所政策が当面は必要であっただろう。

 もしも国家が小笠原説を採用し、いきなりハンセン病患者の開放政策を取っていたらどうなっていたであろうか。仮に国家がどんなに周到な啓蒙運動を行っていたとしても、おそらくは世間からは猛烈な患者開放反対運動が起こったのではないか。

 ハンセン病がほぼ治癒するようになった昭和29年に、当地恵楓園で、龍田寮事件というものが起こっている。これは”未感染児童”と呼ばれるハンセン病患者の子供たちが一般の小学校への入学を拒否された(拒否したのは行政ではなく、小学校の父母である。行政は未感染児童たちの保護に回っていたことに注目)事件で、ハンセン病への世間の偏見がいかに根強いかをまざまざと示したものである。

 うがった見方かもしれないが、私は光田氏はこうした事態を見通していたのではないか、と思う。だからこそ隔離政策に固執したのである。無理に患者の社会復帰にこだわるよりは(実際、当時行われた療養所患者の社会復帰は社会の厚い偏見の壁に阻まれて、ことごとく失敗している)、療養所内での生活を前提とし、そこでの生活改善を図っていく方が無難だ、という考えである。

 確かに堕胎の問題、特に人工流産のみならず早産までさせられた例、あるいは療養所に入るのに親類縁者から絶縁された、などという話を聞くにつけ、隔離政策の大きなマイナスを見せつけられる思いは強い。しかしそれも今だからこそ言える、という面も否定はできない。もし当時開放政策が行われていれば、ヒステリックになった国民にはこうした事情などまったく通じなかっただろうと思う。

 実際、私は昭和50年代から療養所を訪問させてもらって、こうした悲惨な話はたくさん聞かされた。また宿泊拒否を始め、さまざまなハンセン病への差別があったと聞いていた。しかしそれらがマスコミに取り上げられることもなかったし、世間の話題に上ることもなかった。そうした状況では、ハンセン病療養所を一気に廃止へと持っていくことはおそらく不可能であったと思う。

<参考>光田健輔氏は、昭和26年に文化勲章を受賞している。また朝日新聞は、昭和39年の「天声人語」において、光田氏を「日本のシュバイツァー」などと持ち上げており、さらにだいぶ後のことであるが、昭和50年には「救らい事業への貢献」を理由に朝日賞なるものまで贈っている。人権で鳴らし、今でこそ光田説をさんざんに非難している朝日新聞も、当時は隔離説を間接的にであれ、肯定していたのである。(当時ハンセン病患者団体である「全患協」は、すでにらい予防法改正要求闘争を行っていたが、これがマスコミなどで積極的に取り上げられた気配はない)


<既得権保護目的のみで存在していた”らい予防法”>
 現代の眼で見れば、医学的見地からは、昭和28年に施行されたらい予防法は不要であったわけであるが、実質的にはざる法として運用されていた。

 たとえば、らい予防法第15条には入所者の外出制限があったが、療養所の出入りは入園者、外部からの訪問者を問わずまったくフリーであったし、また第8、9条にあった、汚染場所や物件の消毒など、ナンセンスとして誰も行っていなかった。らい予防法は、療養所職員が特別手当をもらうため、あるいは療養所の処遇改善のためだけに存在していたようなものなのである。

 誰も守らない道路の時速40km制限が延々と続いているように、誰も守らないらい予防法も1996年まで延々と続いた。あってもなくてもいいような法律なら別にそのままでもかまわないじゃないか、それに一応職員の既得権保護や療養所の処遇改善の根拠にもなってるんだし、という感覚だったのである。個人的には、近代国家がこんなにいいかげんなことでいいんかな、といつも思っていた。だから、らい予防法が廃止された時はついにやったか、という何か頭の上の重しが取れたようなすがすがしい気分だった。

 私事であるが、結婚を前提につきあっていた女性から、私がハンセン病療養所に出入りをしていることを理由に交際を断られたことがあった。詳しく聞いてみたら彼女の父親が「らい予防法という法律がある以上はやはり感染の可能性があるのだろう。そんなところに出入りをしている男に娘を嫁がせるわけにはいかない」ということであった。がちがちの公務員上がりの人だったが、法律が人の心におよぼす影響の大きさをまざまざと見せつけられた感じだった。

 戦後しばらくして、もしも隔離政策から開放政策へとかじ取りが行われていれば、ハンセン病患者の人権自体は、その後は相当に守られたものとなったであろうことはまちがいない。但し、そのためには相当な社会的軋轢があったはずであり、ひょっとしたら、開放政策は頓挫していた可能性もある。


<今後のハンセン病への取り組み>
 画期的な判決が出たとはいえ、無論これで世間の偏見と差別が一気になくなったわけではない。2003年に起きた黒川温泉ホテルの宿泊拒否事件はいまだにハンセン病に対する世間の偏見・差別が根強いことを証明してしまった。さらに療養所自治会へ多数寄せられた心ない非難は人の心が基本的には変わっていないことをさらけだした。

 偏見や差別は人間の本能とでもいうべき感情である。これがなくなることはない。しかし、らい予防法が廃止され、国家の隔離政策を始め、各界のこれまでのハンセン病への取り組みがハンセン病問題検証会議の最終報告書できっぱりと断罪された今、少なくとも「ハンセン病への偏見・差別」はもう許されなくなってきている。今後その人数がどんどん減っていくであろうハンセン病回復者の方々が余生を充実して生きられるよう、できるだけの手助けをしていくことがせめて私たちにできる罪ほろぼしではないか。

※注1
世界的には隔離方式には大きく分けて@ノルウェー、スウェーデンなどで行われた相対隔離方式とAハワイのモロカイ島で行われていたような絶対隔離方式とがあった。

 @のケースでは、ハンセン病患者を療養所のような大きな施設に押し込めるのではなく、主として在宅で隔離を行おうという考えだった。このケースでは隔離はするけれどもハンセン病患者の人権を最大限に尊重し、一般人と患者とができるだけ共存しようという姿勢が見られる。

 Aのケースはハワイのモロカイ島南部のように三方を山に囲まれ、正面は海という、いわば天然の要害にハンセン氏病患者を押し込め、一般社会とは100%隔絶された場所で生活してもらい、感染を防ぐ、というものである。患者の人権よりは社会防衛を主に考えられたものといえる。

 @とAではどちらが人権に配慮されたすぐれたものか、と問われれば誰だってそれは@と答えるだろう。隔離されているとはいえ、確実に一般社会とのつながりを重視する@と比べ、Aのケースは患者を社会から排除し、いわば終身無期刑のような状況においてしまうわけだから。@は人間的温か味を感じる政策であり、Aは非人間的な冷たい政策なのである、と。

 しかし、はたしてそう簡単に言い切れるものだろうか。私は必ずしも@の政策がよく、Aが悪いとはいえないと思う。日本でも座敷牢などといって、隔離政策が行われる以前にはハンセン病患者を在宅で見ていたケースはあったわけで、彼らの場合、いくら社会から隔絶はされていなかったとはいえ、実質的には差別を受けていたわけである。

 もしもこうした人たちが施設に収容され、空間的・物理的に社会から隔絶されてしまったとしても、そこで同じ病気の人同士の交流が生まれたり、職員などが差別などせずに人間的に接したりすれば、かえって座敷牢になっていた頃よりもその生活の質は上がったことだろう。

 要は制度の運用のしかたであり、隔離の方式よりは周りの人間がこの病気の人たちとどのように接していたかが大切なのである。


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※注2
この点に関しても、現在の価値判断から当時の(ハンセン病が不治の病であった頃)国家の政策を一方的に非難するのは当たらないと思う。結果論からすれば確かに隔離政策は感染予防にはほとんど効果はなく、無意味だった。しかし、タイムマシンであの当時に身を置いたとしたら、はたして現代人は同世代人を批判できるか。

 絶対にできまい。同世代人から袋叩きにあうのがオチだ。「お前は”らい患者”を世間に放置しようとするのか」と。何事もそうだけれども、歴史をあとから振り返って、結果がわかった段階で「あの頃の人たちはひどい」と非難するのは簡単であるが、その時代の人の気持ちを理解するのは難しいものである。


 また最近では「小島の春」の著者小川正子や精神科医神谷美恵子といったかつてはハンセン病関係者から畏敬の念で見られていた人たちさえもが国家の隔離政策に加担したなどとして批判されるようになってきている。たとえば以下の新聞記事を参照。

ハンセン病患者隔離、政策美化の映画を観賞 合志町
 菊池郡合志町の町総合センター「ヴィーブル」で二十二日、ハンセン病患者の収容の様子を描いた映画「小島の春」の上映会があり、町民ら約六百人が観賞した。

 映画は一九四〇(昭和十五)年の作品で、国立ハンセン病療養所・長島愛生園の小川正子医師の手記が原作。在宅患者の家を訪ねて検診・収容に当たった医師の姿が描かれてヒットしたが、現在では国の隔離政策を美化する宣伝映画だったと批判されている。

(中略)

 会場には町外から訪れた人も目立ち、ハンセン病の啓発活動に取り組んでいる宇土市の住職、藤井慶峰さん(48)は「隔離政策を正当化したひどい映画だと思った」と感想を語っていた。 (熊本日日新聞2002年6月23日朝刊)


 「小島の春」が出版されたのが1939年、神谷美恵子が活躍したのが大体1950年代以降で、この時期はちょうどハンセン病が不治から治癒しうる病気となった微妙な時期だった。彼女らは隔離政策こそが正しいハンセン病対策であると信じ、その活動はあくまでもこのワクの範囲内でのみ行われてきた。そして人々もそんな彼女らの行いを支持していた。映画「小島の春」は名作とされ、「キネマ旬報」で第一位になったこともあるらしい。

 それがどうであろう、今や彼女らの行為には国家政策の片棒をかついだような批判が浴びせられている。

 確かに時代は変わり、彼女らが当然のワク組みと考えていた隔離政策そのものが不必要どころか有害なものと断定されてしまった。

 しかしだからといって彼女らの功績そのものまでもが切り捨てられてしまうのはどうか。かつて光田健輔氏を絶賛したマスコミが今や同氏をケチョンケチョンにけなす。あれほど高い評価を受けた小川正子や神谷美恵子が国策に協力した、と露骨に非難される。逆にかつては歯牙にもかけなかった小笠原登氏の学説を今になってほめそやす・・・。まるでかつての日本人は人権意識のないどうしようもない劣った人種で、現在のわれわれこそが人権に配慮したすばらしい人間である、といったような言い方・・・。

 過去は過去でその反省は大事であるが、自分達もまたその時代を生きたら同じ過ちを犯したであろう、といった謙虚さを忘れてはなるまい。また上記の新聞記事のように、前提条件がくずれたから昔の著作や功績はすべてダメだ、という切捨てをしてしまうのはあまりにも視野が狭い、と言わざるを得ない。



・2012年補遺
<龍田寮事件と放射性ガレキ広域処理問題>

 なお、龍田寮事件で提起された問題点は、現在問題になっている、放射性ガレキ処理問題とあまりにも重なる要素が多いことに驚かされる


 龍田寮事件では、未感染児童の”安全性”を証明するために、繰り返し繰り返し、検診がなされた。本来彼らは”未感染”なわけだから、このような検診など不要なはずであった。しかし、強硬派な反対派を納得させるために、このような無駄な行為が行われたのであった。


 放射性ガレキに関しても、福島第一原発からははるかに離れた地域のものであり、本来、放射線量の測定は不要であった。しかし、反対派を納得させるために、繰り返し繰り返し、その測定がなされている。


 ここまでのことを行なえば、さしもの反対派もその主張を引っ込めざるを得ないはずであるが、硬化したPTA代表(県会議員でもあった)は、「確かにそうした科学的事実は”今は”正しいかもしれないが、将来を保証するものではない。だから科学も信頼はできない」という論理を持って反対したのである。


 これまた、ガレキ受け入れ派の主張とそっくりである。彼らもまた、科学的事実を受け付けず、”将来への不安”を口実にして、その受け入れに反対し続けるのである。


 両者に共通のことがある。それは、子どもに対する愛である。龍田寮事件の当事者たる保護者たち、広域ガレキ処理に反対する人たちは共に、科学を否定し、人を傷つけても痛み感じなくなっていた。だがそれは共に、我が子を愛するがゆえ、なのである。


 愛は盲目という。それは時には我が子への美しき無償の愛となるが、時には人を原始人以下にする。人は、愛する対象があるがゆえに、偏見と差別から逃れられないのであろう。



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