千石の豆の木
  
  先妻の娘がいる所に後妻がきました。自分の子に生の豆をもたせて先妻の子に煎った豆を持たせて畑に植えにいかせました。煎った豆は芽が出るはずがないのに、中に生の豆があったのか芽を出しずんずん大きくなっていきました。胴回りが何メートルもある大木になり、北千石側に五百石、南千石側に五百石、合わせて千石もの豆が実りました。そこで、俵原の村で豆の俵を作り、倶利伽羅近くの舟尾の村に庄川が流れており、豆を売るため運び出しました。
  そして、この豆の胴で太鼓を作りました。

 北千石町、南千谷町、俵原町はこの千石の豆の木から生まれた町名といわれています。また、金沢市薬師町の本興寺にある「豆殻太鼓」は、地元では、千石の豆の木で造られた太鼓ではないかといわれています。
  
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知っとっけ?旭日

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       朝日山城址
 

 朝日山城は、前田利家が越中の佐々成政の攻撃に備えるため、家臣の村井長頼に築城させたものという。上杉謙信が天正元年(1573)に加賀の一向一揆を朝日山に攻めたという伝え(「加能郷土辞集」)もありますが、朝日山城として登場するのは同12年です。朝日山城の南東にある松根城とともに、越中からの進攻や小田原越えの山道を抑える要衝でありました。
 「石川県史」によると、「その本丸は42mに幅30m、二の丸は22mに16m、三の丸は33mに幅13m乃至33m、横曲輪は42mに幅9mとし、これに続きて13mに9mの一区あり」とあります。
 
昭和50年頃から本丸の西側で土砂の採掘が行われ、朝日山城址の破壊が心配されましたが、市教育委員会による行政指導もあって危うく難を逃れました。
 
かたりべ
歴 史