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くまのまさひろ 最近、少々白髪が目立ってはきましたが、 いたって健康です。 すでに他界しましたが、健康な体を与えて くれた両親に感謝しています。 モットーは、「常に青春の心意気」。 そして、青少年の健全育成のために・・ |
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自分史(未完・・・徐々に充実していきます)[▲]
●小学校時代
●昭和20年(原爆投下)
●昭和20年(1945)8月6日 ピカドン(原子爆弾)投下
朝、食事をしていた時、「ピカッ!」と薄暗い田舎の部屋に閃光が走り、続いて「ドーン」と大きな音が地を揺るがした。
爆心地広島から、20qあまり離れた田舎でさえ、それは異常な光と音だった。
慌てて外に飛び出した。西の山の尾根越しに、黒い雲が時間とともに大きく、大きく広がっていった。
祖母に背負われて見た、原爆の「きのこ雲」だった。
焼けただれた人たちが、歩いて村に帰ってきた。異臭が鼻をつき犬が吠えたてた。
小学校は、被災者を収容し、手当するための病院と化した。
被爆場所―安芸郡瀬野村立 瀬野国民学校 (現在の広島市安芸区瀬野小学校)
被爆の状況―当日(昭和20年8月6日)午後、被爆兵隊及び一般被爆者は、被爆地から、病院代わりとして、使用される近郷の学校に、続々と運び込まれ収容された。
瀬野国民学校も例外ではなく、収容された被爆者は、おおよそ、180人程であったと言われている。
当該申請者等は、国民学校6年生の子供とは言え、当時の習いと
して、傷口のガーゼ の交換、水差し等による被爆者への水の供与等、子供等の出来る範囲で、相当な期間、懸命な介護に当たったと言う。
当該申請者等は、被爆部への直接的或いは、間接的な接触介護のなかで、間接被爆を余儀なくされたと判断される。
しかしながら、終戦時の混乱時期であった為か、そうした被爆者の収容、介護などの記録は、残念なことに、瀬野国民学校(現、瀬野小学校)には勿論のこと、区役所にも、また、公文書館にも保存が無く、当該申請者等の認定を著しく困難にしていると言う。
記録らしきものは唯一、「広報安芸」/(広島市安芸区発行)に、宮城氏(当時の学校事務員)が、当時の状況を書かれた絵と文による掲載記事のみとのことである。(被爆者健康手帳申請書に添付した資料から)[▲]
● 昭和20年9月17日 「枕崎台風」上陸
終戦の虚脱感に追い打ちをかけるように、豪雨が村を襲った。枕崎台風の上陸である。伐採で保水力を失った山々に耐えきれる力は無く、すぐに川は氾濫した。
家族、鶏共々避難した二階の窓から、道路を走る濁流を眺めていた。一階の部屋の壁には濁流の傷跡が、その後いつまでも残っていた。
家族は当時、祖母、父母、兄夫婦、姉、そして私の7人。それに、同居している叔父の家族10人合計17人だった。
その後、父の戦友一家7人が引き揚げてきて、一時は、24人が一つ屋根の下で暮らしていた。当時は、それが当たり前のことだったのだろう。
● 昭和20年10月 進駐軍(占領軍)進入
最初に村に入ってきたときのことは、よく覚えている。100b程離れたところにある友達のO君の家の裏庭で遊んでいた。進駐軍進入の報を聞き、怯えて転がるように河原を逃げ帰った。
慣れるにしたがいジープを追いかけて、投げてくれたチューインガムの甘さに歓喜した。そんなほろ苦い思い出もある。
●昭和21年(1946)〜昭和27年(1952) 小学校時代[▲]
●瀬野村立国民学校入学。(1946)
何故か正規の教科書がなく、7歳年上の姉が他人の教科書を書き写してくれたものを使用した。
登校は、風呂敷包みを脇に抱え、藁草履(わらぞうり)履きだった。
教員不足で、午前、午後の二部式授業が行われた。私達は午後からの通学だったから、「ひるから学校」と称していた。
●教育基本法、学校教育法公布。6・3・3・4制。(1947)
国民学校から、「瀬野小学校」となる。
●毎年、担任の先生が替わった。坂先生、虎岡先生、渡辺先生、山本先生、それぞれに思い出深いが、私にとっては、とりわけ忘れられない先生がいる。 小学校4年の担任であった、四反田先生である。
(前略)
彼らにとって、絆のように、忘れられないものがある。
クラス会のたびに、話題にのぼる学芸会の練習である。
三学期を控えたある日、私は急に関節炎になり、思うように歩けなくなった。
三学期には学芸会がある。足がよくならないうちに三学期は始まってしまった。
気が気でない私は、思い切って、私の家で劇の稽古をすることにした。
台本は小学校用の以前から用意してあった『勧進帳』である。
各自の台詞を抜き書きしたものを、生徒に渡してもらい、ついでに、日曜日に私の家に集まるようにと、言づても頼んだ。
その朝、落ち着けない私は、早々と下の国道を見下ろしていた。
やがて一団が見えだした。
その中に、時代劇の駕籠かきよろしく、棒きれにふろ敷包みをぶらさげ、それを前後でかついでいるのが見えた。
おどけながら歩いているのか、包みが揺れているように見える。その包みは、私への見舞いのみかんだった。
表側の三部屋の襖をはずし、広間にして劇の練習を始めた。
椅子に腰をおろして指図するのもいい気分なのだが、足が悪くて監督気分どころではない。
それでも、みんな台詞はおぼえてくれていて、抑揚のつけ方や動作の注意だけですんだ。
そんな私の後ろで、小さなつぶやきがきこえた。
「どうして先生、病気になんかなったんじゃろか? 早うようなって、学校にきたらええのに!」
背中で聞くその声には、細いながらも待ち焦がれている思いが窺える。目立たない子だった。
勉強など、退屈なだけかもしれない。それなのに私を待ってくれている。
とにかく早くよくならなければ!熱い思いが広がっていった。
やっと学校に出られるようになり、劇の仕上げもすんだ。
学芸会の評判はよくて、私の喜びのほとぼりは、しばらく消えなかった。
弁慶役の熊野君は、存分な素質を持っていた。
『勧進帳』を読みあげる所作が板についていて、会場は静まり返っていた。
娯楽のないころである。学芸会や運動会は、村の人にとっても待ち遠しい日であった。
遠い道のりを大勢で出かけてゆき、教室と違う場所で練習した。
そのことが、忘れられない思い出として、消えないでいるようだ。(後略)
<「それからの日々」四反田みつ著/日本随筆家協会刊>

「つらつらおもんみればしゃかにょらい、かくれましてよりいでそうろう・・・・・・」
勧進帳は、こんな文句だったろうか?
袴は、祖父の物か?父の物だったのか?
紋付きは、あかぎれで荒れた指が引っかかって、すぐに破れるような代物だった。[▲]
● 映画 「きけわだつみの声」 は、級友数名とともに渡辺先生に連れられて、汽車に乗って観に行った。帰り道、誰も口をきかなかった。(1950)
● 同じ小学校5年生の時、ボーイスカウト安芸第1隊に入隊した。同級生の松尾(現・津田)君は、今でも話をするたびに、こちらの幼稚さを思い知らされる一人だが、この頃からはるかに大人の感性の持ち主だった。
生活は豊かではなかったが、友人にも先生にも恵まれた良き小学校時代だった。[▲]
(未完)
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