
kousaikai


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青の世界
むかし、画学生となってまもない頃。初対面の隣人と交わした 挨拶の中で、「東北や北海道出身の方は、青の表現に特異な感覚 を持っているのかも知れませんね」と、何の前触れもなく言わ れたことがありました。そのときは「或いはそうなのかな」と、 特別気にもしないできたのですが、しかし、以来その言葉は何 かにつけて頭をもたげ、「青」には唯ならぬ意味があったと思う ようになりました。 先ずは幼少の時分、澄み渡った空を見上げるたび「なんて綺麗 なんだろう」と、しばらくは吸い込まれたままでいたものです。 そこはまた果てしもなく遠く、「明るい青」「やさしい青」「深い 青」といった幾重もの広がりが、遥か彼方の宇宙を望ませても おりました。 更にもう一つ、小学生になって初めて汽車の旅行を体験したとき、 何よりも矢のように走る窓外の風景に、夢中になって心を躍らせ たものです。それに青一色とばかり思ってきた遠い山々が、どん どんと迫ってくるにつれて複雑な姿となり、やがて緑の鬱蒼とし た樹林に変わっていくのが、実に不思議でなりませんでした。 ところで後年、「すべてのものは青から生れて青に帰っていく」と 考えるようになったのは、多分そのときの驚きか胸に焼きついて いたためかも知れません。また,わたしの画業にとって師父とも 仰いできたセザンヌは、知人のベルナール宛に次のような書簡を 残していました。「われわれ人間にとって自然は表面としてよりも、 むしろ深さとしてあります。それには赤と黄て表わされる光の中 に、十分な量の青を導き入れる必要があるでしょう」と。 つまり青とは、自然の深さのことでもあったのです。そう云えば セザンヌのデッサンは境界を複線によって表わし、それに添った 淡色のコバルトブルーの重なりが、無限空間の階調を生み出して いたのです。 しかし、青固有の感性に鋭く染まり「青の時代」の名で呼ばれて きたバルセロナの画家、若き日のピカソのことも忘れることが出 来ません。彼自身、世紀末の貧しい階層に身を置いた一人として、 青い色は人間に深く根差した、愛と悲しみそのものの色だったよ うに思われます。(親友に早逝されるということもありました)。 ふと、静寂な青にむかって祈ってみたくなることがあります。 太陽も、月も、星々も、すべてはあなたの内から生れてきた んですものね。青いあなたは、何処まで不思議なんでしょうね。 まもなくの春が、幸せのメロディーを奏でています。 |

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際立つ(きわだつ) 一般的な意味で、幸せとは平穏無事であることに尽きると考えら
れています。いつの時代にも安心立命は、人々の暮らしにとって
切なる祈りでありました。
これまでの半世紀、少なくとも身辺を見る限りでは、戦争という
罪科を知らずに過ぎて来れました。しかしながら、いったん視野
を世界にめぐらしたとき、過ぎた日の悲しみは人々の生きざまに、
武力依存の痕跡を疼かせ、利害に扇動された悔恨が共存への希望
を曇らせてもいます。
現に中東では無目的に戦乱が続行し、それと併せて確実に進行し
ているのは、環境汚染による自然破壊と云うべきかも知れません。
化石燃料の膨大な消費を当然としてきた現代社会は、その無制限
な排出ガスの拡散によって、地球規模の異変(温暖化)を引き起こそ
うとしています。すでに有識者からは憂慮にみちた表明がなされ、
それについての国際的な関心も高まってまいりました。しかし、
残念といえば、アメリカを代表するブッシュ氏の選択です。つい
には単独の利権を固執して譲らず、排ガス規制の統一歩調(京都議
定書)に背を向け、不同意のまま離脱していきました。
断るまでもなく、人類もまた自然生態系の一環であることに変わ
りありません。太古に原初の生命は有機質の海洋に育まれ、単細
胞の姿で誕生したのだそうです。やがて、それは複合体への変化
に伴って自立を獲得、新たな環境への適応と相互関係を介しなが
ら、多種多様な個体の進化を遂げてまいりました。しかも、地球
という惑星が太陽系唯一の「生命の星」であるとは、そこに想像
を超えた深遠な物語を考えさせられてしまいます。
わたしたちの誕生もまた、細胞の次元で胎児となり、出生を経て
人間の個体に成長、五感の意識と理性に目覚めながら、大自然の
彼方へ「明日に架ける橋」を求めてまいりました。この長途の旅
について、古人は次のような言葉を残しています。「個体の発生
は系統発生を繰り返す」。そして「汝、自身を知れ」と。
前段を長々と書き過ぎましたが、芸術としての表現は存在の奥を
見つめ、その本質を際立たせることにありました。譬えばダヴィ
ンチの描いたモナリザの「内なる微笑」、ミケランジェロの若き日
の「ピエタ」、レンブラントの「光と影」、セザンヌの「自然洞察」、
モネが睡蓮の池に見た「宇宙の一隅」/音響の世界では「シンフォ
ニックな調和の展開」、シューベルトの「魂の歌」、ショパンの華
麗な「ピアノ曲」、オペラやドラマの演出の「悲劇的な高揚」など、
感動とは生きている者の胸を突きあげてくる、五感と心音のリズム
のことかも知れません。
それにしても、美しいものは何故に儚かったりするのでしょうか。
際立ってこそ美しさというものなのに、どうもわたしには「歌劇」
を初めて見たときの感涙が、いまだに付きまとって離れないでい
るのです。でも、もう春なのですね。バス停のそばの「まんさく」
が、ほころび始めていました。
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麗し(うるわし)きかな 4月ともなれば桜前線のきららかなプレリュードが、日本列島の 南端から北辺にまで到達します。これこそは待ちわびた蘭春の訪 れであり、さて、今年は花との出会いにどんな物語が待たれてい るのでしょうか。 一昨年は宙に舞う花吹雪の小道を一人で彷徨い、去年は花冷えの 堤に立って、ひたすら古木たちとの対話に心を寄せてきました。 そのとき、花々の風情はただ綺麗なだけでなく、わたしに厳かな 何かを告げてもいたのです。でも、満開時の桜は樹木の全容を艶 やかな花に変え、目にも眩しく咲き誇ります。それはまた、なんと 美しい限りでもあるのでしょうか。 いまとなっては随分とむかし(戦後まもなく)の話になりましたが、 或る日のこと、人気のない丘に向って散策していたとき、突然刈り 込まれた生け垣の中に、綺麗な芝生の空き地が現れました。まさか そこが教会所有の墓地であるとは知る由もなかったので、わたしは 静まり返った不思議な敷地内に、誘われるがまま足を踏み入れてお りました。 ふと見回すと、周囲には草花に飾られた十字架の珍しい墓標が立ち 並び、更に手入れの行き届いた庭の中央には、いまを盛りと染井吉 野の桜が満開の枝を広げてもいたのです。一瞬、わたしはパラダイ スの国にいるような錯覚に陥っていました。 それにしても、桜の花の物語りって儚すぎる気がします。これから 先も、美しいって悲しさを伴っているしかないのでしょうか。 |

| ベランダのある店 街なかのオアシス(二十一世紀公園) むかし、そこは大きな製糸工場に占有されていた処ですが、 近年に至って芝生の庭園に生まれ変わり、いまでは誰もが 散策を楽しめる、市民のための自由な広場となりました。 更に、その一隅には噴水のある水辺にベランダを張り出し た、赤い三角屋根の「休息の家」も用意されていて、わた しはそこの「オレンジ・ペコ」という名のレストランに、 いつからともなくひとときの憩いを求めています。 五月の微風と噴水のしぶきを肌に感じながら、ベランダで くつろぐコーヒーには格別の爽やかさがあります。また、 ランチタイムのメニューにも、卵のふんわりとしたアレン ジがカレーその他の盛り付けに生かされ、、美味しさを楽し く引き立てておりました。それもこれも五月という新生の、 すてきなハーモニーに恵まれてのことでしょうか。 それに、わたしにとっても今年の新しい<物語りは、この 「オレンジ・ぺコ」から生れようとしている気がします。 先ずは不思議なご縁というか、図らずもここのオーナーを 任じているYさんを始め、女性ばかりのスタッフの皆さん とも、わたしの絵が仲立ちとなってお近づきになれたのです。 仕事はお昼どきをピークにして、休む間もなく夕方までつ づくそうですが、その一人一人の働きぶりに、生きがいの ようなものが感じとれました。おそらくはオーナー共々、 環境への愛と調理への熱意が、それぞれの心を一つのもの に結びあってきたからでしょうか。或いは「オレンジ・ペ コ」とは、人々の自然の中での和合を夢に見て、この世に お目見えしたのかも知れません。 そう云えば周囲のガーデンからも、かのシューベルトの歌 「菩提樹」が、聞こえてきそうではありませんか。 |

| 年一回のお祭り われわれの合同展はことしも盛会でした 初日から秋晴れの好天に恵まれ、それだけでも日頃の希望と 願いが叶えられたように思われました。また、今回の開幕祭 には、初めて詩吟による「勧進帳」の朗々とした熱唱や、更 には江戸下町の祝い唄「やっこさん」の踊りなどが、きりり っとした着物の姿で本格的に登場し、普通ならこうした和風 な演目は洋風の場にそぐわないとされてきたのですが、しか し、何故か人々はその場に、赤裸々となった人間の発露を見 ていた気がします。つまり、お祭りというマグマの噴出が、 それまでの仕分けされた関係を塗り変えていたのかも知れま せん。 生命が単細胞のうごめきであった遥か以前から、その空域は 混沌のまま宇宙の彼方(カオス)へ渦となって広がっていま した。そして、原始に意識が目覚めたとき、人々はこの無限 界への驚きを「神」の名で呼んだのだと思います。しかも、 その祈りからは「美」という憧れも生まれることになりまし た。いまとなって文明の曙光は、余りにも遠い昔話ですが、 しかし、地層に記された化石の物語や古代史跡の痕跡などを 介して、人類発祥の夜明けを想像することは 不可能でなく なっています。 さて、ことしも合同展はそれぞれの作品に、わだかまりのな い夢と喜びが感じられ、展示スペース全体を自由な解放感で 飾ってくれました。それに会期中は友人知人の方々にも大勢 足を運んで頂き、それこそ「絵の好きな仲間たち」の交流を、 ハッピーなものにしてくれました。それでは「美」について の想いを次のように記して、今月の言葉の結びとします。 *美は生きとし生けるものとの出会いです。 *美は大自然を母としていますい *美はこの世界の憧れを求めつづけます 熱い寒いも彼岸までの節目となりました。みなさん、くれぐ れもお身体を大切になさってください。。 |

秋のしずけさ 自分に向き合って語るとき、声はいりません。ただ万感の思いが つのるばかりです。それは時空を超えて、何と静かな移ろいで あるのでしょうか。秋です。この秋の沈黙の中で、人は言葉本来 の意味を、生命(いのち)の原始に立ち帰って訪ねているのかも 知れません。それは何処から、そして何処へと。ふと、色づいた 落葉が宙を舞いながら、目の前をよぎっていきました。 前回紹介した「街中のオアシス/二十一世紀公園」の、あの大 きな三角屋根の憩いの家も、周りの木立の秋色を背景にして、 静かな落ち着きを見せるようになりました。私はそこでの温かな コーヒーと、ランチメニューのぬくもりに充たされながら、昨日か ら明日への小刻みな時の流れに、あてもなく浸ったりしています。 「この道や 行く人もなし 秋の暮」とは小学生の頃、国語の教 科書で覚えた芭蕉の俳句です。往時の私には、なんて寂しい 風景なんだろうといった想いしか残りませんでしたが、しかし、 その五七五に記された字句のことは、何故か大人になってから も、繰り返し思い出されているのです。 少年時代を病弱で過ごし、人並みの遊びから遠ざかっていた 私には、優しさだけが唯一の救いに思われてきました。先ず、 好きな絵を勧めていてくれた母がいたこと/世間の苦渋に苛ま れても理想を捨てなかった父のこと/私の絵の理解者になっ てくれた姉弟たちや知人のこと/そして、私を支えつづけてく れた妻と家族のこと/など。思い起こせば胸の熱くなることばか りが浮かんできます。 あなたも秋の清涼な空気を感じながら、ほんの少しだけ目を 閉じてみては如何ですか。それまでは余り気にも留めなてい なかった心の走馬灯が、静かに回転し始めているのを知るで しょう。 |

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晩秋のメロディー
されます。天空には青白い星々が妖しく煌めき、すべて のものはこの深い闇のしじまから生まれてきたと、告げ ているかのようです。 しかし、誰一人この世に、自分の出生の産声を記憶して いる人はおりません。また、誰一人現世との別れの瞬間 を、言葉にできた人もいないと思います。 セザンヌはそのことを、次のように語っていたそうです。 「たとえば百年、千年と休みなく描いたにしても、けれ ども私には、何も分からないのだろうと思える(中略)。 私は画布を50センチばかり塗るのに、疲れ果て、死ぬ ほどの思いをする。しかし、そんなことは大したことで はない。それが人生だよ。私は描きながら死にたい」と。 やはり、同時代を生きた印象派の巨匠モネは、最晩年の 大作「ジベルニーの庭/睡蓮」(オランジェリー美術館 所蔵)の制作に、精魂のすべてを燃やして果てました。 それはモネの生涯にとって、自然との一体化を目指した 色彩感覚の昇華であったろうし、深遠な宇宙との交響を 生むに至った偉業でもありました。 絵画。音楽、詩、その他、人間の自己表現を課題として きた芸術は、その発端から無限の彼方を見つめることに 運命づけられてきたのかも知れません。たとえば、昨今 何かと話題を呼んでいるフェルメールの作品についてで すが、私はそこに17世紀オランダの市民社会の誕生と、 個人の自由をもとに芽生えた鮮烈な光と影(色彩)とを 感じさせられています。ところで、あの有と無の狭間を 思わせる静寂な時空は、何を見つめてのものだったので しょうか。これはあくまでも私の推測ですが、フェルメ ールはルネッサンス以降の、そして、クールベ以前の、 啓蒙期の理性を踏まえた厳しいレアリストでもあったの です。それにしても人間としての女性の、その奥に秘め られた自然の呼びかけを、彼はどのような眼差しで表現 し得たのでしょうか。 「青いターバンの少女」「ミルクメード」「レースを編む 娘」「画家のアトリエ」など。それぞれの描かれた画面に は、敬虔な愛と気品とが溢れています。彼は彼女たちの 実際の姿の内に、遠からず人間解放の主役となる日のこ とを、直観していたのかも知れません。 ことしも枯れ枝となった並木道に、落ち葉が積もり始め ました。そして、遠からずその上には白い冬が、やって くるのでしょう。私たちはこの一年にあった物語の数々 を、改めて見つめることにしたいと思います。 |
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記/橋本 貢 *************************************************************
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