
kousaikai

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早春の微笑み
実を明かすとわたしは一昨年以来、左目の視力の衰えに悩みつづけて
おりました。それでも当初は薄もやのかかった程度だったので、なんとか
右目の焦点をたよりに、遠景や細部との関連をおぎなってこられたので
すが、しかし、それも昨年の春の頃からは、次第に厚い曇りガラスを透か
して見るような状態に阻まれていたのです。
さっそく病院の門を訪ねたところ、まぎれもなく「白内障」が相当進行して
いるとの診断でした。目の瞳孔は水晶体と呼ぶ透明なレンズによっ光を
透しているのてすが、その白濁からの失明を逃れるには、手術によって
水晶体を入れ換える以外に方法はないとのことです。
もちろん、事前に覚悟はしていたつもりでしたが、いよいよその選択に迫
られてみると、仮にも絵に心を傾けてきた人間としては、決しておだやか
な話でありませんでした。でも、そうしたわたしの心境をいちはやく察した
かのように、お医者さんは次のような説明を懇切にしてくださいました。
「ご安心ください。超音波による最新の医療技術には、殆ど心配がありま
せん。手術の所要時間も10分〜15分で無事終了することが出来るでし
ょう。但し、術後は2時間ほど安静にしていなければなりません。そして、
何ごともなければ今日中に帰宅して頂けます」。
当然のことながら、気がついたとき左の目は分厚い眼帯で塞がれており
ました。それにわたしは終了後の安静時間を、呼び起こされるまで熟睡
していたらしいのです。しかし、翌日の診察では、その眼帯も外されるこ
とになりました。しかも、その一瞬、わたしの視界は眩し過ぎる新しい彩
りに輝いていたのです・・・。「橋本さん、手術は綺麗に成功してますよ」と、
検眼鏡の向こうからお医者さんの弾んだ声が、もう一つの光となって届い
てきました。
そういえば、印象派の時代を画した大画家クロード・モネも、70代を数え
た頃から両眼に白内障の悩みを抱えていたのだそうです。自然万象の光
と色に自己表現のすべてを見つめてきた彼にとって、この悲痛な運命との
対面は、絶望以外の何ものでもなかったことでしょう。しかしながら、実に
幸運というか、まもなく闇に取り込まれようとしていた寸前、奇しくも真実の
理解者、つまり得難い友人の一人から、再三にわたって復活への要望が
もたらされました。その人とは、他ならぬフランスのときの首相を務めてい
たクレマンソーだったのです。
先ず、提案の一つは、オランジュリー美術館の「睡蓮の大作」を完成させる
こと。更にもう一つは、その制作のためにも白内障の手術から、これまでの
ように逃げ延びようとしないこと・・・。
わたしはこのエピソードを知って、思わず胸が熱くなりました。しかもクレマ
ンソーはモネとの永遠の別離の際にも、葬送の柩を担う人として参列してい
ました。彼は被っていた黒い布を柩から取り除くと、手近にあったカーテンの
明るい生地にかけ直したのだそうです。
ことしの春を、わたしは新しい光に染まって迎えようとしています。まだ少々
風は冷たいのですが、人が自分を見忘れない限り、自然は何と美しい世界
であってくれるのでしょうか。
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ベル・エポック/美しき時代
まるで歴史は海辺の朝凪のように、一瞬おだやかな和みに包
まれたりもするようです。その中で人々は生成する自然の美し
さに気づき、また、自分自身の夢にうち浸ってもこれたのでしょ
うか。まさに19世紀末から20世紀初頭(第一次世界大戦前)
にかけての西欧は、そうした束の間の平安を迎えていた時期
だったのかも知れません。
パリをはじめとする都市空間では、ひととき文化と経済の繁栄
を謳歌し、人々はその場の安楽に酔いしれているかのようでし
た。歌劇の舞台には名女優サラ・ベルナールが人生の悲哀に
花を咲かせ、また、絵画においても、史上初の女流画家ベルト・
モリゾーが印象派のメンバーに名まえを連ねておりました。彼女
の優れた資質は、師のマネーも称賛を惜しまなかった程の技量
だったそうです。(おそまきながら、わたしもモリゾーの繊細な表
現に驚嘆している一人です。)
『ベル・エポック』とは、自由な女たちの魅惑によって呼び起こさ
れた、新たな人間解放へのステップだったと云えなくもありませ
ん。誰はばかることなくパスチーユへの行進に参加し、コルセット
の束縛を脱ぎ捨てた彼女たちこそは、やがてアールヌーボーを
自由に体現したパリジェンヌであり、生涯ルノアールの視線を引
きつけてやまなかったモデルたちでもありました。その中の一人
にシュザンヌ・バラドンという小柄で評判のモデルがいたことを、
ぜひとも記しておきたいと思います。彼女は18歳で私生児の
ユトリロを出産、以後ロートレックの愛人となったり、ドガのもとで
は本格的なデッサンに打ち込むなど、モンマルトルの花というか、
73歳まで恋多き女を失わずに生き抜きました。
パリの北西に立つモンマルトルの丘は19世紀前半、旧市街地
の強制的な都市化に伴い、庶民の暮らしがその麓に押し寄せて
くるまでは、ぶどぅ畑や水車小屋のある多分に田園の風情を残
していたのだそうです。そこに建てられた安い家賃のアパート群
は、ピサロ、マネ、ドガ、モネ、ルノワール、コ゜ッホ、ロートレック、
ユトリロ、モジリアニ、ピカソといった画家たちに結構なアトリエを
提供することになりました。おそらくその界隈には日常をかけ離
れた魂の高揚が、創造への渦となって溢れていたことでしょう。
丘の頂には白亜の寺院サクレクール(パリコンミューンの戦士を
鎮魂)が聳え立ち、その近辺にはロートレックがこよなく愛し、入
り浸っていたという「ムーラン・ルージュ」の灯が、歓楽の賑わい
をきらめかせていました。ベル・エボック、そして、モンマルトルの
丘。そこを足場とした人間と芸術の物語りは、その限りにおいて
何と美し過ぎる時間をもたらしてくれたのでしょうか。
けれども戦争の時代への暗雲は、すでに行く手にたなびいており
ました。1914年(大正3年 )、第一次世界大戦勃発。それはかつ
てなかった暴力原理の一人歩きというか、地球規模の武力抗争の
発端(集団殺戮)を意味していたのです。やがて、資本市場の暴落
が経済恐慌となって吹き荒れ、利権に飲み込まれていた人々の期
待は、もろくも根底から揺さぶられていきました。
こうして眺めて見ると人間の生きがいや、本当の豊かさとは、何を
求めて得られるものだったのでしょうか。
わたしにとってそれはモンマルトルの丘に咲いた花々であり、ベル・
エポックを生きた物語りでありつづけると思っています。
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パラダイス ひとときの花園
パラダイスの夢は広大な銀河の内に起源した太陽系と、その惑星
の一つである地球に宿された、生命体の誕生にまつわることなので
しょうか。
「わたしは何故、いま此処にいるの」。「それは何処から来て何処へ
行くことなの・・・」。この混沌とした気の遠くなるような問いかけは、
風景の広がりが初めて人の意識に「彼方」を開いたときからの、一途
なつぶやきだったのかも知れません。
そういえば幼児だった頃は、辺り構わず「何故」、「どうしてなの」と、
頻繁に口にしてきたものですが、しかし、いつのまにか成長を刻む歳
月の中で本来の驚きが薄れ、「彼方」への道の不思議さを訪ねること
からも、次第に遠ざかってきた気がします。だからと云って、その足も
との道が、今なお遥かなものであることには少しも変りがありません。
どちらかと云えば今年の近辺の桜は、花冷えのまま打ち沈んで終わ
りを告げました。春の宴のうららかさを招くこともなく、落花もまた静け
さのうちに、はらはらと舞い散っていったのです。でも、とき折の風が
木々の根方を溜まり場にして、そこだけは桜色の「花びらのしとね」と
なっておりました。
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五月は世界の歓喜
新緑の五月は、地上の喜びの象徴です。林の梢から、田畑の細道か
ら、街路樹の並木から、薫風と若葉のそよぎが青空いっぱいに光の
ハーモニーを奏でています。もうすぐ、郭公のワルツも聞かれること
でしょう。そんな晴々とした一日、「絵の好きな仲間たち」各サークル
代表の皆さんは、郊外に建つ新しい集合場所ポプラ・ギャラリー(*)
の一室に顔を揃え、恒例となった「裸婦写生会」と、第10回を迎える
「合同展」開催についての話し合いを持ちました。
「絵が好き」という唯それだけのことのために、人はなんと美しくもな
れるのでしょうか。それぞれの自己表現には、自然及び他者との関
係を介して、もう一人の自分を捜し当てるという旅が控えているよう
です。つまり、人は美しい風景や、心ひかれる仲間との出会いを求
めながら、それぞれの芸術性を胸に秘めて、自分自身を生きている
のかも知れません。
ここでもわたしに浮んでくるのは、ミレーの絵です。そこには装飾過多
の教会もなければ、王侯貴族のモニュメントが描かれてもおりません。
あるのは耕された大地と牧草の田園、そして仕事着のままの農夫の
立ち姿です。こんなにも温もりのある自然の恩恵に充たされ、しかも、
人間の愛と尊厳を見つめて描いた画家は、彼を除いた他に誰がいた
でしょうか。例えば、あの「種蒔く人」「落ち穂拾い」「晩鐘」などの作品
を思い起こしてみてください。そこには農民というまっとうな人間が立っ
ているだけです。
わたしの住んでいる大槻地区を南北に走る高速道の傍らで、手狭な
野菜畑を丹念に耕していた老夫婦がおりました。綺麗な畝の仕切に
は季節に応じた作物が、いつも青々と賑わっていたものて゜す。それが
或るとき以来、お二人の姿がぷつんと見られなくなってからは、瑞々し
かったあの畑も、急速に寂れ果てていきました。
わたしは毎朝、犬の散歩の途中、お二人には欠かさず声をかけてき
たのですが、その柔和な笑顔に会いなくなってからというもの、しばら
くは埋め合わせのつかない空白に、捕らわれつづけてきました。更に、
もう一つの忘れ難いことといえば、かの老夫婦は黙々とした営みによ
って、道路際と作物の間の僅かばかりの地面を、花畑につくり変えて
いたのです。「どう、可愛いでしょう。綺麗でしょう」。おばあちゃんの呼
ぶ声に思わず顔を向けると、その手には一束の「ヒナゲシ」が握られて
おりました。譬え一瞬のことにしても、わたしは不思議な感動の虜とな
って立ちすくんでいたのです。
この記憶はわたしに刻まれた、五月ならではの宝物というべきでしょうか。
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「かれんちゃん」 マリアの歌を胸に・・・
かつて、わたしの街の裏筋に「カトレア」という名の古びたコーヒー店
がありました。毎朝、自家焙煎の香ばしい匂いがドアの隙間から流れ
出し、その前を通る人々をも、仄かな気分に誘っていたものです。
「カトレア」は、本格的なコーヒーの専門店でした。豆の選別と紹介、
焙煎の工夫、好みに応じた独自のブレンド、それに木造仕立ての店
内は、壁や天井などの隅々に懐かしい時間の痕跡をとどめ、その汚れ
や滲みがアンティークな飾りともマッチして、癒しの香りと豊かな味わい
を提供しておりました。
ところが、ある日のこと、何も知らずに訪れた入り口に「閉店することに
なりました」との文字が、ひっそりと貼り出されていたのです。ガラス戸
越しに見える店内は、薄暗がりの中に静まりかえっているだけでした。
それまでのわたしは、特に入り浸ってきたという客でもなかったのです
が、しかし、このような突然の去就に立ち会うとは、思ってもみないこと
だったのです。いったい、あの「カトレア」の名で愛されてきたコーヒー
店とは何であったのでしょう。実は、その界隈の風景と物語りをを担っ
てきた、大切なオアシスではなかったのでしょうか。
それからというもの、その路地にはなんとなく疎遠を重ねておりました。
それが去年の秋の終わりに近い頃、あの「カトレア」の跡に「かれん」
という店が新しくオープンしていると聞いて、誘われるともなくそこに足
を運んでいたのです。「かれん」はランチタイムを主とする、レストランと
喫茶を営業しておりました。もちろん、「カトレア」の面影をそこに求めた
訳ではありませんが、でも、嬉しかったのは出されたコーヒーが並みで
ないどころか、上等と呼ぶにふさわしい味わいだったことです。丁度腹
も空いていたので、食事はメニューの中のハヤシライスを注文してみま
した。しかも、わたしはそのいずれにも、申し分のない満足を得ることが
出来たのです。
この願ってもない「カトレア」から「かれん」へのバトンタッチは、わたしに
とって路地裏復活のバラードということになりました。更にもう一つ、そこ
には「愛くるしい少女との出会い」というセレナードまでも用意されてお
りました。その女の子はきりっとしたエプロンを身につけ、テーブルでの
応対から洗い場の仕事まで、実に甲斐甲斐しく爽やかな風のように振
る舞っていたのです。わたしはレジを済ませる間際になって、漸く彼女
への讃歌を言葉にすることが出来ました。「ぱっちりしたあなたの目の明
るさと笑顔を、今日からわたしは「かれんちゃん」と呼ぶことにします」と。
果たして、「かれんちゃん」は現世に降り立ったミューズの化身でもあるの
でしょうか。いいえ、彼女はまぎれもなく一人の女の子です。その可愛ら
しさは、むしろ人間の自由と尊厳の象徴なのでしょう。それよりも彼女は
歴代のマリアの歌を胸に宿した、一輪の花になろうとしているのかも知れ
ません。
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夏空の彼方
ある夜のこと、いつものように電話のベルを手にすると、予期しな
い、まさかの人の声が伝わってきました。「みっちゃん、元気でいる
の。ぼくはこの頃、歩くのにも足が弱ってしまってね。ふと君のこと
が思い出されたので、声を聞いてみたくなったんだよ・・・」と。それ
は常日頃、ご無沙汰を重ねていた高木東六先生からの呼びかけで
した。それにしても話の中身が余りに突然だったのと、何も知らずに
いた自分の不明が悔やまれ、わたしは返す言葉もなく唯呆然として
おりました。
東六先生については音楽を言葉でも話せる人として,常々その感性
の豊かさに敬服をいだいてまいりました。あれはいつのことだったで
しょうか。シベリュースの「フインランディア」の主題について語られた
とき、そのたぎるような熱気の激しさに驚いたことがありました。
「みっちゃん、フインランドというくにではね、この交響詩が演奏される
とき、国民はいっせいに起立し、感涙を滲ませながら聞き入るんだそう
だよ。あの悠々とした主題は、オーロラの輝く北辺の大地に生まれた
魂の歌なんだろうね・・・」と。
この白夜の世界については、かって川内村での天山祭を再三訪ねた
折に、もう一人の敬愛する詩人、草野心平さんからも聞かされたこと
がありました。
「君、そこは天と地が幽明と化し、いつ暮れるとも、いつ明けるともなく、
果てしのない時が流れているだけなんだよ。そこでの酒は何処で酔うよ
りも、無心となっていられる酒に違いない。さあ、これがその酒だ。この
「どぶろく」こそが白夜という名の酒なんだ」と。当然のことながら、わたし
は心身のすべてを委ねて白夜に酩酊してしまいました。
上記のお二人は、わたしにとって眩し過ぎる7月の巨星と云わねばなり
ません。東六先生は、七夕の日に生まれた星の王子さま。かたや心平
先生の天山祭は、7月14日のパリ祭にあやかっていたのです。ある日、
あるとき、ふと気がついたら上機嫌の酒に浮かれた心平先生の傍らで、
わたしもフランス革命の行進歌ラ・マルセーズに声を張り上げておりまし
た。いずれにしても、ご両名ほど現世を超えた自由人はいなかったと思
っています。
すでに故人となられたいまとなって、その在所は銀河星雲の彼方なので
しょうか。果たして、そこはミューズのしなやかな群舞が奏でられている所
かも知れません。今年もまた、無数の星々の明滅だけが夏空を飾ってい
ます。
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わたしの青春前期
終戦(1945年)の8月15日以降、わたしは全身虚脱状態となって
自分の少年の日に別れを告げていました。
そのときのわたしには、祖国(自然風土)と国家(権力支配)の区別
を見定める知識もなく、唯ひたすら母国への愛だけを頼りにしてい
たのです。
やがて、真っ先に心に訪れた感慨がありました。「国破れて山河在
り」という歴史と自然についての簡潔な一節です。わたしはその大河
の縁に立っている自分に気づいたとき、同時に人間の運命(人類史)
ということについても目を開くことになったと思っています。
幼少の頃は病弱に取りつかれ、床に伏していることの多かった枕も
とには、いつも母の手でクレヨンや束ねた画用紙などか、そっと置か
れてありました。そもそもわたしが絵に心ひかれるようになったのは、
そうした寝床で過ごす自分一人の境遇に端を発していたといえそう
です。
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小学生時代の後半、筆を使って描く水彩画が新たな夢をもたらしてく
れました。そのときの興奮は少々大げさにしても、天に昇る喜びだっ
た気がしています。それは半ば遊びの混じった図画に別れて、本格
的な絵画へ足入れする節目だったのかも知れません。
あの戦中の暗澹とした緊張の最中にあって、チューブ入りの絵の具
やパレットを使っての鮮やかな調色は、理屈抜きにわたしを自然の
ただ中へと連れ出し、そこで目にした四季折々の光の変化は余りに
も美しくて、ひとときは世上の運命のことなど忘れていた気がします。
やがて、終戦時(軍国主義権力の敗退)の虚しさも薄れ、平和という
人間解放への晴れ間が、自由の覚醒となって急速に広がり始めまし
た。しかし、わたしの美意識が芸術を目指すものとなるには、もうしば
らくの時を必要としていたのです。
丁度そんなとき、絵画芸術を熱心に語る先達出会いました。末尾とな
った失礼を詫び、ぜひともその人の名を、ここに記すことにしたいと思
います。
『故田辺彦太郎氏』/ありがとうございます。セザンヌに傾倒していた
あなたは、巷の汚れに染まることを知らない人だったのです。
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愛と信頼の絆
合同展の10年
●自然を母として
あるときから、わたしは地上の植物界に美の極致を感じてまいりました。
地球循環の一年という周期の、四季折々の移ろいの中で、とりわけ山野
の風景は何と可憐な花々に彩られてきたのでしょうか。しかも、そうした
出現のすべては、植生の沈黙のいとなみから生み出されてきたものばか
りです。それにしても、何故こんな片隅の隠れたところにと、思わず声をか
けてしまいそうな、ひっそりとした花に足止めされたこともありました。
どちらかと云えば、私は一面花野といったパラダイスに憧れをもってきた
のですが、しかし、毅然とした生命(いのち)の気高さを教えてくれたのは、
むしろ、そそと野に咲いている一輪の花の方であったかも知れません。
そうした自然の事物との様々な出会いは、あの、子ども時代の無心な遊
びの中でのものだったと、いまさらのように思われてきます。人々がそこ
で心に宿したものとは、おそらく生涯にわたっての生きる意味、つまりは、
有り余るほどに豊かな原風景ではなかったでしょうか。
●共生の歳月
もし、こう云ってよければわたしたちの合同展は、一人一人の夢に結ば
れた「お花畑」となりました。そこでは誰もが競うことなく、先ずは個別の
意味を理解し(自分らしさを訪ね)、また、そうした自分が隣人の支えとも
なっていることを知って、相互に連携の喜びを交わし合うことが出来たの
です。
それに今回は第10回展を記念して、郡山マンドリンクラブのみなさんが、
開幕祭に素晴らしいアンサンブルを奏してくださいました。いってみれば、
芸術とは、五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、温感)の統合された世界です。
そして、人間とは何と素敵な存在でもあるのでしょうか、その感性は生命
循環の遠い流れを経て覚醒し、理性の誕生を待って内なる鼓動と外界と
の一体化を織りなしてきたのです。
ありがとうございます。今年もわたしたちの花園(合同展)は゛現世を超え
た美しさに飾られておりました。
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明るい水色の自転車
かれんちゃんへの応援歌
朝と夕べの街を
明るい水色の自転車が走る
「おはよう」、「おつかれさん」と、
女の子の挨拶から微笑みがこぼれる
女の子はスカーフを肩になびかせ
ペダルを軽やかに踏んで通り過ぎる
但し、その行く先のことは誰も知っていない
でも、明るい水色の自転車は
進路いっぱいに花びらをまき散らしながら
ひたすら明日の夜明けに向かって
今日も走りつづけている
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幾星霜 追想の額縁
この言葉は寒気の訪れと共に、人の心を一様に過(よぎ)る思いと
云っていいのかも知れません。今年もまた一年は、何と儚く足早に
移り変わろうとしているのでしょう。
冬枯れの夜空は森閑として深く、その静寂の果まで星の光が降る
如くにきらめいています。「寄る辺なき想い」とは、この果てしなさの
ことなのでしょうか。そういえば「ゴッホ」の描いた何枚かの夜景にも、
星々が凍りついたかのように光の渦を見せていました。それは孤愁
に耐える運命を生きた画家の、魂の発露だったのかも知れません。
更には、光の画家と称されてきたモネにしても、あの晩年になって
とりつかれた睡蓮の池は、静まり返った時の中での、無限に変容す
る光と影のきらめきでもありました
。
すでに此処大槻の沼地「かまくら池」にも、北国からの使者白鳥が
飛来してきました。まもなく木枯らしが地上に吹き荒れ、それと一緒
に風花の舞い飛ぶのも、そう先のことではないでしょう。
そして、この節目の季節は、次に控えている新しいものの芽生えのた
めに、数多のものが枯れ葉となって、いっせいに削がれていく季節で
もあります。
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「フェルメール」への旅
わたしとしては、しばらくぶりの上京でありました。でも、フェルメールの絵
を訪ねるという目的がなかったら、おそらく腰を上げていなかったかも知れ
ません。それ程まで都会はわたしを離れて、ますます縁の薄い存在となり
つつあったからです。
フェルメールについての意識は、かつて「真珠の耳飾りをした少女」という
作品に、お目にかかって以来のことでした。そのとき水晶のように透明な瞳
に見つめられ、わたしはその魅惑に吸い寄せられてしまったのです。多分
その美しさとは、画家自身の内に宿されていた「愛そのもの」ではなかった
でしょうか。
今回は「牛乳を注ぐ女」という、下働きの女性を描いた油彩との対面でした
が、ふと、気がついたときには大勢の観客をすり抜けるようにして、わたしは
作品のすぐ傍にまで近寄っていたのです。画面には左上部の窓の光を受
けた台所の諸々と、両手でミルク壺を傾けている一人の女性とが描かれて
おりました。その情景は実に素朴な日常普段の一隅に過ぎないのですが、
しかし画家の感性は、その場に染みついている生活の厳粛さと、人の仕事
にまつわる尊厳な姿とを、余すところなく受けとめていたのです。
イタリヤのルネサンスに端を発した人間主義への覚醒が、17世紀オランダ
社会の交易拡大と繁栄に引き継がれ、美術史の上でもそれまでは見られ
なかった風俗画、風景画、静物画といった新しいジャンルに道を開いてき
ました。また、同時代に自画像を数多く残し、悲運を超えて光に生きたレン
ブラントという巨星の出現も、そうした自由への流れがあったればこそと考
えられます。
「フェルメール」への旅はそれぞれの胸に、改めて「芸術と人間」について
の感慨を深めることになりました。この企画は、美術館を訪ねるという目的の
もとに、われわれ「絵の好きな仲間たち」多数の参加を得て実行されたので
すが、譬えその場の感動がすぐ言葉にならなくとも、終始和気あいあいとした
「貸し切りバス」での行路は、共生という「もう一つの夢」への大切な旅ともなっ
たと、少なからぬ満足によって充たされています。更にひとこと、付け加えて
云えば、相互理解と相互信頼こそが豊かな芸術性の土壌であるという確信で
しょうか。
それではみなさん、良いお年を迎えてくださいますよう。
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記/橋本 貢 ![]() |
