貢 彩 会
kousaikai
橋本 貢

橋本 貢

橋本 貢

橋本 貢

北極振動
 
暮れから年初にかけて、日本海に面した一帯は3メートルを超す大雪に
見舞われたそうです。これは観測史上かってない記録であったばかり
なく、その強烈な風雪は幹線鉄道の列車を横倒しにするという、前例の
ない事故をも引き起しました。更に連日の除雪を上まわる積雪は、人々
を疲労の極限にまで追いつめ、住み慣れた家の崩壊、屋根からの転落
死といった痛ましい犠牲を生むに至りました。
 
一旦自然が猛威を振るったときの凄まじさを、人間は忘れてならないのだ
と思います。1昨年以降を振り返っただけでも、スマトラ沖に発生したインド
洋の大津波/アメリカ南部を襲ったハリケーン「カトリーヌ」による大洪水/
新潟県中越地方、及び遠隔地パキスタンの地底を揺るがせた大地震/、
まるでそれらは、怒れる自然の形相と云うべきかも知れません。
 
今回の寒波について「北極振動」という言葉が、耳新しく伝えられました。
つまり北極にため込まれた寒気が蛇行して流れ、丁度日本列島の真上を
通る線に南下しているのだそうです。
或る気象関係者の話によれば、「最近の寒気流の傾向と地球温暖化とは
一見逆現象のように思われがちだが、問題の本質は地球環境のバランス
に破綻が生じているためのようだ」とのことでした。
 
すでに大気圏と汚染された海洋、砂漠化の危機については、地球環境の
由々しき変調として、各方面の識者から繰り返し警告が出されてきました。
にもかかわらず、その元凶(浪費/戦争の拡大)をなしてきた人間社会の
自責のなさは、一体どうしたことなのでしょうか。
 
1997年、地球に温暖化をもたらしている排出ガス規制のための国際会議
が京都で開かれ、「京都議定書」として採択されました。しかし、アメリカの
ブッシュ大統領は、この人類史的な良識に基づく合意事項に背を向け、国
家利害の優先を固持して議決からの離脱を表明しました。
 
果たして、このような「母なる大地」の窮状に際して、世界との共存を否認す
るような不遜を、心あるアメリカの人々は容認しているのでしょうか。それとも
ブッシュ氏よ、あなた自身ひとりの人間である意味を、つまり大地の子として
育まれてきたことを、この際、真面目にお考えになってみては如何なもので
しょう・・・。
 
「冬きなば、春遠からじ」にしては、連日の寒さが厳し過ぎるようです。ややも
すると、この灰色の風景に花の咲く日があるんだろうかなどと、半信半疑の
思いがしなくもありません。しかし、太陽は間違いなく日脚を北半球に伸ばし
始めているのを感じます。
 
街へ出かけるバスの中で、窓越しの光から温室のような温もりが伝わってきま
した。そして、ふと目をやると、明るいオレンジ色のショールをまとった女の子
が、遠くを眺めやってもいました。云わば唯それだけの、行きずりの話ですが、
しかし、わたしは今年初めての春を、そのとき目の当たりにしたのだと思ってい
ます。
 
ありがとう・・・、「母なる大地」よ。やがてあなたは胸いっぱいに花々を溢れさせ、
この地上の春を麗しく飾ってくれることでしょう。それはまた、なんと優しい「愛の
調べ」でもあるのでしょうか。やはり、冬きなば春は遠くなかったのですね。

橋本 貢

奢るなかれ   
 
 「奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し」とは平家物語冒頭の
 一節ですが、その淀みのない口調から、人の世の栄枯盛衰、現世の儚
 さというものが、語り尽くせない哀歌となって伝わってきます。
 
 往時、藤原氏から平家へと君臨した王朝文化の栄華は、権力の座の奢
 りを当然とし、来世にまで安楽の夢を願って止みませんでした。しかし、
 一旦歴史が渦となって変動を始めるや否や、それまでを安泰としてきた
 人々の優雅さなど、脆くも足もとから崩れる運命を迎えることになったの
 です。
 
 武士集団の勃興、鎌倉幕府の新たな成立は、文化創出の面でも運慶に
 見られるようなリアルな仏像表現を登場させるに至りました。私にとって
 宗教は、余り身近な関係にあったといえませんが、当時に芽生えた変革
 への気運は、貴族にのみ偏した来世至福の祈願を良しとせず、万人の
 現世利益(りやく)にこそ往生があるといった、救済への情熱をつのらせ
 てもいたのでしょう。また、そうした時流と対決する中からは、優れた仏者
 たちも数多く排出さました。例えば/「道元」/「法然」/「親鸞」/「一遍」
 /「蓮如」/「日蓮」といった開祖ともいえる人々の名を、闇に支配された
 動乱の時代の明星として、見定めることが出来そうです。
 
 私は以前、鎌倉美術の「運慶」とイタリールネッサンスの「ミケランジェロ」
 に、共通する何かを追い求めたことがありました。第一に、私が魅せられ
 たのは、いずれ劣らぬ人間への確かな眼差しだったと思っています。同時
 に、その尊厳性に立ち向かうデッサンの目の力強さにも心打たれました。
 東大寺南大門の仁王像/フィレンツェの広場に建つダビデ/あの両者の
 毅然とした姿は、人体を畏敬の念で直視したときの自然美以外の何もの
 でもなかったと知らさたのです。そして、いかめしさだけでも、力が誇示さ
 れているからでもない、魂が奢りの殻を突き抜けたときにのみ出会える、
 そこには本来の感動が慈愛としてありました。
 
 もう一つ奢りのなさといえば、私にとってそれはミレーの諸作品です。あの
 農民たちの仕事の風景の何処を捜しても、一片の「奢り」だって見つかり
 はしないでしょう。自然の刻む時の中で朝な夕な大地と息づかいを共にし
 ている農民の生きざま、ミレーが敢えて求めた定住の地「バルビゾン」とは、
 まさにそうした世界だったと思われます。
 
 いまでは何年前のことになるでしょうか。私は一途な思いに駆られ予想外
 に小じんまりとした、ミレーの石積みのアトリエを訪ねました。主のいない
 壁際のイーゼルには、古びた「落ち穂拾い」の下絵がひっそりとかかって
 いたのです。私はその前で我を忘れ、言葉を失ったまま、しばらく立ちつく
 しておりました。
 
 それからも私の履歴の中で、敬愛するミレーは少しも絶えることなく生きつ
 づけています。更に、ここまでを記してみて仏教変革期に対応した「運慶」
 /中世と近世の間(はざま)を人間主義に徹した「ミケランジェロ」/自然に
 対する畏敬と感動をいまに伝えている「ミレー」/この三者を一つの関連で
 結ぶ感慨は、やはり激動の時代に遭遇してきた私の内部自然の覚醒であ
 ったのかも知れません。
 
 いよいよ3月、この開花の季節の愛しいものたちの中に、私は自分のすべ
 てを同化したいと夢みています。

橋本 貢

一隅の春
 
近年と云ったらいいのか、それとも最近になってと云うべきか、この私にも
ふらっと立ち寄っては腰を落ち着かせたくなる、馴染みのような店が二、三
生まれました。かといって行きつけと呼ぶには月に何度か、それも気が向
いたときに立ち寄らせてもらうだけの、独りよがりな自分だけの話ともいえ
そうですが、しかし、いよいよ高齢の域に達した私としてみれば、やっとの
思いでたどり着けた「オアシス」という気がしなくもありません。
先ず、その一つは「美術堂」という名の画材屋さんです。当然のことながら
絵の具/画筆/溶き油/カンバス/その他/必要に応じた購入はもっぱ
らそこで調達することにしてきました。更にそればかりでなく作品の持ち運
び(搬入/搬出)から展示場の飾りつけのことまで、何かとお世話にもなっ
てきたのです。そうしたサービスは、画材屋さんという商いに付随している
のかも知れませんが、しかし、ご当主のこの仕事に対する熱意には、本人
の画業への夢が先行していたと知るに及び、以後の私は内々目を見はる
ものをいだいてきました。
店内には談話のための丸テーブルや、初心者と愛好者のためのミニギャ
ラリー(無償)なども用意されています。これは店主ご夫妻の生きがいが、
そうさせてきたと理解すべきなのでしょう。私にとってそこが何よりも憩いの
場所であるのは、マダムの見せる自然なスマイルと、入れたてのコーヒー
にありつけるという幸せもあるからです。
★★
次に足を向けるのは、市内某デパート地下の食品売場にある、2ヶ所の店
を訪ねることです。片方は三崎漁港直送を看板にしている「まぐろ専門」の
寿司屋さん/もう一方は目の前でコーヒーをドリップしてくれる喫茶専門の
コーナーです。いずれもカウンターサービスをたてまえとしているのですが、
最初に私の目が引きつけられたのは、どちらの仕事運びにも無駄がなく、
その快い振る舞いに美しさを感じたからでした。
 
馴染みとは不思議なものです。寿司屋での私の注文は、きまって赤身の
鉄火丼ということにしてるのですが、それが、あるときから「いつものです
よね」と、先に声がかかるようになりました。しかも、嬉しいことにはカミさ
んからも「センセ、まいと゛」とか、「いつもいつも、ごひいきに」といった、弾
みのいい挨拶(多分、魚河岸風の)を頂けるようになったのです。それっ
て、私を有頂天にして余りあるものでした。まぐろには大とろ、中とろ、中
おち、といろいろあるようですが、私が赤身にこだわってきたのは、味が
淡白なのと、あの職人技の包丁から生まれてくる、何ともいいない美肌に
尽きるのかも知れません。
 
美肌といえば、コーヒー店で立ち働いている娘さんたちも、揃って美肌の
持ち主といえそうです。私は彼女たちが引き立てのコーヒーに熱湯をそそ
ぐときの、一瞬無心となる眼差しを見つめながら、その伏目がちな横顔に
いつも魅惑されてきました。「なんて綺麗なんだろう。まるでボッテチェリー
のプリマベーラ(春の美神)ではないか・・・」と。私は心の赴くままに、少々
強引でしたが、2枚ほどスケッチを描かせて貰いました。そして、ここでも
「お元気で」とか、「もうすぐ桜が見られますよ」とか、自然な表情の言葉を
交わし合えるようになったのです。
以上は、つまり私の流離(さすらい)物語りといったところですが、無意識
のうちにも最良の自分を果たそうとしている姿って、人間はときに応じて
なんと素敵なのでしょうか。
 
此処東北南部にも桜前線の便りが、もうすぐ届こうとしています。そしたら、
私は満開の花の下もいいですが、降りしきる落花の舞につつまれていた
いなどと願ってもいるのです

橋本 貢

田園幻想、そして人間とは・・・
 
留まることを知らない花の季節、桜前線の旅はいま時分、日本列島の
北辺にまで達していることでしょうか。そして、こんどは柔らかな新緑の
彩りが、その後を追うように山野を被い始めています。春から初夏にか
けてのたゆみない自然の生成、そこには無数のいとなみが生命の讃歌
となって歓喜を奏でています。
 
おそらく人は、この余りに美し過ぎる自然の姿を初めて意識したとき、
前触れもなく溢れてくるもの(内からの嗚咽と涙)にとらわれ、ただ呆然
と立ち尽くしているしかなかったのかも知れません。いったい感動とは、
存在との如何なる出会いのことなのでしょうか。同時にそれは受け手に
とって、如何なる魂の軋みでもあるのでしょうか。
 
晴れやかな五月の空の下では、目前に広がる風景が永遠であってくれ
たらと、祈りたくなることもしばしばです。わたしが未だ夢みがちでいた
少年の頃、町外れの田畑や丘の上に足を運ぶと、いつも天上から嬉々
とした雲雀の囀りが休みなく降りそそいでおりました。また、その下界に
は小川が空の青を映して流れ、遠い山並の彼方へと心を誘ってくれたも
のです。ああ、それにしても当時の田園は、何と優しく豊かな風景であっ
たのでしょうか。
 
しかし、五月の素晴らしさはそればかりでありません。第二次世界大戦
の絶望的な悲劇に終止符が打たれた翌年(一九四六年)の五月/わた
し達は世界中の選択に先駆けて、平和憲法の起草と公布に立ち会うこ
とが出来ました。そこには反戦への意志が、そして、人間の共生と自己
実現への希望が、人類史の課題を担って銘記されたのです。つまり、現
憲法における戦力を否認した第九条の存在とは、一国家の利権優先
や暴力是認を超えた、誇りある人間の「不戦宣言」であったと知るべきで
しょう。
更に五月には、「子どもの日」と「母の日」が定められております。そのい
ずれの生きる幸せも、憲法に約束された基本的人権と無縁でなく、これ
ほど人間の未来を望ませてくれる喜びを、他に知ることはありません。
 
ありがとう五月よ、美しい薫りの園よ、わたしの誕生は素敵なあなたの懐
の中で目覚めました。

橋本 貢

わたしの「自由への選択」(オルタナティブ)
 
 わたしがこの世に生を受けた1929年は、当時の年号で昭和4年と
 付されてきました。
 
 丁度そのとき、突如として経済大恐慌の嵐が世界中に吹き荒れ、人
 々はそれまでの平穏無事な暮らしを根底から失い、一挙に奈落へ転
 落するといった驚愕にさらされたのです。
 その際の衝撃と暗雲は、20世紀の歴史全体に後遺症となって拡大
 されました。ところでこのような深刻な挫折は、いったい何を元凶とし
 て引き起こされたのでしょうか。
 
 どうやらそうした破綻の予兆は、前世紀の産業革命(技術革新)と同
 時に発足を遂げた、資本制生産システムのうちにあったようです。
 つまり発端から自然に背を向けた利潤本位の経済システムは、人々
 の生活や労働を利己目的の単なる手段と見なし、更に資源の獲得及
 び交易といった面でも、剥き出しの暴力(植民地政策)を国策として、
 なんら恥じることがありませんでした。
 
 いまにして思いば、わたしの親たちは当時の世相をどのように耐えて
 きたのでしょう。一時は表通りに店を張ってもいたそうですが、運命の
 悪戯というか、銀行の閉鎖その他で、零落はすぐにもやってきたので
 す。そして、わたしが幼少だった頃の、その時分の話になると両親の
 口は、いつも重く閉ざされていました。
 
 父は一介の小商人でしたが、こと扱い品目の判定についてはなかな
 かの経験を積んだ人で、また、それを誇りにもしていました。しかし、
 そんな父も経済不況という変動には抗しきれず、後日聞いた話では、
 不本意な露店の叩き売りに身をやつしたこともあったとの由。本人の
 生きがいとは裏腹な、それはどんなに切なくて辛い日々だったろうか
 と、いまさらのように偲ばれてなりません。母もまた、知り合いの店に
 雇われ、昼間はほとんど家にいないという暮らしがつづきました。
 
 そんな境遇をまがりなりにも切り抜けてこれたのは、これから娘盛りを
 迎えようとしていた年長の姉が、わたしたちの世話をしてくれていたお
 陰です。彼女は貧乏暮らしにもめげず、家事の合間をみてはソプラノ
 の美声で、大正、昭和の童謡をわたしたちに聞かせてくれました。
 
 「雨降りお月さん」「あの町この町」「夕やけこやけ」「きつねの提灯行
 列」「この道はいつかきた道」「からたちの花」などなど・・・。
 
 わたしたちの心にとって、それは彼方への夢の誘いでもあったのです。
 そして、この世には「もう一つの美しい世界がある」と、教えていてくれ
 た気がしてなりません。
 
 しかし、日中戦争の火蓋が切られたのは、それからまもなくのことでし
 た。そもそも他国への侵略を、不況脱出の糸口にしてはならなかった
 のに、或るときから女性や子どもにも日の丸の小旗が手渡され、出征
 兵士を見送るためと称して駅前までの軍歌の列に駆り出されました。
 かくて数多の青年と働き盛りの男たちは、真実の事態を知らされない
 まま、殺戮の待っている不毛の戦場へ出発していったのです。
 
 それにしても国家を占める権力とは、自らの犯罪を隠蔽してはばから
 ない存在のことなのでしょうか。果たして、聖戦を名目とした国家総動
 員令には、神格化された天皇制と軍国主義を絶対化する以外の何も
 のも見当たりませんでした。
 
 まもなく日本政府はヒットラーのドイツ、ムッソリーニのイタリアと結託し、
 国際連盟を脱退するといった孤立化に走ります。その瞬間、第二次世
 界大戦と太平洋戦争への運命が、決定づけられることになりました。
 何という愚行を犯したのでしょう。所詮、資本主義の目指す産業社会の
 繁栄とは、魂を利権に売り渡した暴力の是認に過ぎなかったのです。
 
 激浪にさらされたわたしの幼少年時代は、病弱の悩みもいっしょに抱えて
 おりましたが、それでもなんらかの希望を失わずに来れたのは、唯一家族
 の中でこそわたしは「一人の人間として承認」され、それ以上に愛されてき
 たからに他なりません。

橋本 貢

わたしの「自由への選択」/その2
(銭湯は路地住まいのサロンだった・・・)
 
昭和6年、今で云う中国の東北区(旧満州)を対象として意図された
日本陸軍の軍事行動は、他国の領土を犯してまで利権を追うしかな
かった、資本主義体制の危機の現れだったと考えられます。つまり、
世界大恐慌のもたらした破綻は、不況からの脱出を対外侵略に向か
わせるほど、深刻なものだったということでしょうか。そこには、利潤を
目当とした過剰生産と失業の問題が常時控えていたし、また、それを
上まわる捌け口の確保にも切実に迫られていたのです。
 
すでに近代化を踏んだ膨大な生産諸力(人間による労働の成果)は、
利権者のための私的所有の枠を遥かに超えた、社会的な富としての
実現を孕むようになっていました。にも関わらず旧体制の支配関系を
温存する政治と経済のレベルからは、万人及び個人に即した人間解
放の可能性など、何一つ生まれてくる筈もありませんでした。しかも、
皮肉なことに、工業生産のコンベアがフル操業の日を迎えたのは、
「日独伊三国同盟」というファシズムのブロック化を発端とした、第二
次世界大戦への突入(無制限な破壊と消費)を前にしてのことだった
のです。
 
確かにわたしが小学校に入学した昭和11年頃は、俗にいう戦争景
気の活況が漂い始め、中国大陸での戦勝ムードとあいまって盛り場
の映画館やレコード店などからは、軍歌、浪曲、はやり歌といった音
声が、休みなく人々の心を捉えていました。しかし、それらは不毛な
虚構による演出というか、その後、華々しく迎えた紀元二千六百年の
の大がかりな祝典行事にしても、またたくまに消え去った「風前の灯」
に過ぎませんでした。
 
しかしながら、わたしは子どもなりに、住みなれた路地の朝夕が日毎
に寂れていくのを感じていました。赤紙の招集を受けて働き手をなくし
た家/衣食の配給で食べるのにも事欠くようになった暮らし/徴用に
駆り出され家業をたたんで去った職人さんなど、路地の溜め息は少々
離れていても身近に伝わってくるものです。どう眺めても、落ちぶれた
通りとしか云えようのない界隈でしたか゛、でも、そこには長屋なれば
こそ血も涙も通うといった、隣近所の人情がありました。また、貧乏暮
らしの子沢山とはよく云ったもので、道いっぱいに駆け回る子ども達の
元気な声は、せめてもの大人への励ましだったのかも知れません。
 
日暮れが近づくと銭湯の両開きの扉が、錆びついた音を軋ませながら、
近所に準備が出来たことを知らせます。すでに古びた建物は何処とな
く見すぼらしい感じに褪せていましたが、しかし、入り口の「文明館」と
いう表示(筆太の文字)だけは、何故かわたしに、誇らしいものを感じさ
せてくれました。或いは、その意味を親に教わっていたのかも知れませ
んが、いずれにしても、わたしは一足早く空いている風呂に行き、気兼
ねなく自分の夢にひたっているのが大好きな少年だったのです。
 
正月の三日までは、未だ暗いうちに起き上がり、朝風呂の開始を待ち
詫びて飛んでいくのを楽しみにしていました。湯気で真っ白にかすんだ
湯船につかり、隣近所の大人たちの元旦の挨拶を聞いているだけで、
新年の清々しい気分を味わいたのです。更に、新緑の五月には、男の
節句に因んで菖蒲の束が浮かべられ/冬至に至れば、爽やかな柚子
の薫りが身体中を内からも温めてくれました。
 
銭湯とは庶民にとって一日の疲れをほぐし、誰彼となく素裸をさらして
くつろげる「サロン」だったと思います。また、そこには実に多様な人々
の生きざまが交差し、まるで人生劇場の舞台を眺めているような、一皮
剥いだ相互理解の生まれる所でもありました。
 
戦争と平和、そして、人間とは何か・・・。そうしたわたしを駆り立ててき
た一連の主要な設問は、いまやますます銭湯文化との関わりを省いて
は考えられなくなっています。仮にもそれがあったればこそ、わたしは
後にギリシャ彫刻の一群と初めて遭遇したときも、そして、ルネサンスと
いう人間自然の開花を目の当たりにしたときにも、親近感の方が先立っ
ていて、何一つ違和感を覚えることなどありませんでした。つまり、あの
戦中の閉鎖された抑圧の中ですら、路地の銭湯にはくったくのない人間
の物語りが生きつづけていたのです。
 
ありがとう、銭湯と懐かしの路地よ・・・。あなたとわたしとは、お互いを
起点としてグローバルな世界を見つめてまいりました。

橋本 貢

わたしの「自由への選択」/その3 
(美しかった一輪の花・・・)
 
忘れもしない1945年4月12日の白昼、警報が出るとまもなく突如北東
の空に、金属音を響かせながら直進してくるB29の編隊が見えました。
 
その日は学校の授業も変更され、屋外の丘の斜面を掘り起こす食料自
給の開墾に従事していたのですが、うららかな春の日差しを受けた林と
起伏の向こうには、阿武隈台地を背にした郡山の市街地が、いつものよ
うに穏やかな眺望を広げていました。
 
しかし、そのときです。空気を引き裂くような異常な摩擦音が、飛行編隊
の腹部から降りかかってきたのは(後で知った話ですが、それは弾倉が
開かれたときに発する音なのだそうです)。
 
一瞬、林立する巨大な煙突で知られた保土ヶ谷化学工場は、爆弾炸裂
のすさまじい閃光と轟音とに覆われ、舞い上がる噴煙の中にたちまち、
その全容をかき消されていきました。わたし達の立っている地点からは約
4キロほどの距離でしたが、この突然の光景を前にして、唯茫然自失の状
態でいるしかありませんでした・・・。
 
「全員帰宅」の通達が出たのは、それからしばらく経ってのことです。駅
周辺の市街地も類焼しているらしいとの噂が流れたりして、混乱した状況
はますます不安を広げるばかりでした。
 
わたしの家は丁度その方角に当たっていたので、家族のことや近所のこ
となどがいっぺんに思い出され、半ば絶望と不安に駆られながら、無我
夢中で家路へと走ったものです。しかし幸いにも、火災は反対の方向へ
火の手を上げていました。それでも住みなれた路地にたどりつくまでは、
身体中が緊張で張り裂けそうだったのです。
 
やっと安堵感を覚えたのは、駆け寄ってくる母の元気な姿と対面したとき
でした。しかも、その首に双眼鏡をぶら下げていたではありませんか。ま
さかあのとき、頭上の編隊を見上げていたとでもいうのでしょうか。しかも、
わが家には3月10日の東京大空襲で焼け出され、それこそ着の身着の
まま、立ち上がれそうもない姿で転がり込んできた叔父夫婦がいたので
す。その叔父とは、世が世であれば浅草の芸人たちを、顎(あご)で仕切
っていたほどの顔役だったらしいですが、しかし、それまでの何もかもを
戦災で焼失してからは、まるで地獄の恐怖を彷徨ってきたかのような、見
すぼらしい風貌に変わり果てていました。
 
空襲の最中、母は叔父の叫びを耳にすると、とっさに押し入れの布団
を積みなおし、取り敢えずその中へカミサンと力を合わせてかくまうこと
にしたのだそうです。その間も爆弾は、休みなく地響きを続けておりまし
た。やっと平穏に戻り、わたし達家族が顔を揃えたとき、すでに叔父は
気力を使い果たしていたのでしょうか、それから数日も経ずして、この世
に別れて逝きました。
 
まさかの空襲、戦場となった「わたしのまち」。そして、一人留守をあずか
っていた母の奮闘は、想像を絶するものであったと思われます。真実の
女性(母)とは、或る瞬間、個人の運命を超えて、愛の結晶に化身できる
人のことかも知れません。
 
根こそぎ破壊された保土ヶ谷工場の購買部には、かいがいしく立ち働
いていた白河の女子学生たちがおりました。わたしは週二回の化学実
習の日には、必ずそこに立ち寄るのを楽しみにしていたのですが、何か
のとき、ふと交わし合った微笑が、唯それだけのことなのに、わたしには
忘れ難いものとして思い返されるようになっていました。
 
あの日も、無事に避難してくれたかどうかが気がかりで、終始祈るような
思いに囚われていたのです。しかし、彼女たちの持ち場は工場の中枢
部に近かったため、集中攻撃の対象にされていたと聞きました。以後の
消息も、ほぼ壊滅に近いという話だけが伝わってきたのです。
 
あの戦中の殺伐とした記憶の中で、それは一少年のか細い夢に過ぎな
かったのかも知れません。でも、わたしの胸は余りの悲しみと、美しかっ
た一輪の花のことで、しばらくは閉ざされたままでいたのです。
 
まもなく、8月15日がやってきます。そして、戦争にまつわる勝敗とは、
所詮人間の人間に対する最大の犯罪でしかありませんでした。今年、
その悔恨を改めて肝に銘じ、わたしは新しい夜明けの訪れを、世界中
の母と子の幸せのために祈りたいと考えています。

橋本 貢

わたしの自由への選択/その4
(星空が澄んできました・・・)
 
そういえば、少々風もひんやりとしてきたようですね。それといっしょに
思わぬところで、虫のトレモロが聞かれるようになりました。
 
わが家の庭の夏草に被われていた片隅にも、矢羽根模様の葉をした
ススキが、月の出に向かって穂をのばし始めています。
 
””お月さん空の一人旅、お腹が空いたら歩けまい
  お月さん空のいわし雲、お腹が空いたら召し上がれ”” 
 
前にも記しましたが、これは幼かったわたし達のために、年長の姉が
よく口ずさんでくれていた愛唱歌の一節です。当時のわが家にはちょ
っとした縁側があって、そこを月見のための舞台ともしてきました。
 
十五夜の日は暮れ馴染む前から空を見上げ、月の出をいまかいまか
と待ち詫びたものですが、そこにはススキの飾りを中心に、手製のだん
ご、枝豆と里芋、梨とりんごなどのお供えが、小奇麗に並べられてあり
ました。
 
どちらかといえば侘しかった暮らしの中での、これは一重に母の心尽く
しによるものでした。生前の母は口にこそしませんでしたが、なにかと
自然の恵みを生活の喜びとし、そこに生きるための文化を見え出して
いた人だったと、いまさらのように偲ばれてまいります。
 
それにしても青白く澄んだ満月の光は、あの路地裏の人通りの絶えた
隅々にまで、とどこおりなく降りそそいでおりました。かつて、ベートーベ
ンの「月光」ソナタを初めて聞いたとき、わたしの胸中を駆けめぐったも
のは、この森閑とした内部風景の静けさでもあったのです。
 
それとは別の意味で、1945年8月15日夜の静寂が思い出されてきま
す。その日の昼頃、玉音放送があるというのでわが家のラジオの前に
は、ご近所の皆さんが多数詰めかけていました。しかし、初めて聞かさ
れた天皇の声は、余りにも神格化された(人間であろうとすることを不可
能にしてきた)無理が祟ってか、正直な話、庶民の耳には奇異な抑揚の
響きでしかなかったのです。また、その言葉使いにしても、国民に対して
戦争終結の重大な運命を語るのに、通常をかけ離れた皇室用語は余計
不自然でもありました。つまり、既に架空となった高所に依存した発言は、
その場での選択の余地が他になかったということなのでしょうか。国民と
の関係では殆ど隔絶されてきた存在の天皇、それでも、戦争にまつわる
自己の責任についてだけは、「もう一つの言葉」があってしかるべきだっ
た筈です。いっときラジオを囲んでいた人々は一様にかしこまっていまし
たが、半信半疑の顔のまま散会していきました。その後ニュースは日本
政府がポツダム条項を受理し、無条件降伏をしたとの解説を繰り返して
いたのです。
 
わたしは時計の針が一瞬止まり、急に周りのものに静寂の幕が降りてい
くのを感じていました。今夜からは警報のサイレンもなければ、艦載機や
B29の飛来してくる心配もなくなるのです。しかし、戦争は破壊のための
破壊、殺生のための殺生以外のものを、何一つ残そうとしませんでした。
この焼き払われた不毛の原野に立って、人は更に生きるための未来を、
どのように望めばいいのでしょうか。
 
その夜の空は全天に星がきらめき、打ち沈んだ地上の廃墟と闇を、深々
と抱擁しているかのようでした。

橋本 貢

わたしの自由への選択/その5
(相互信頼と相互依存)
 
絵を描いていていると、最初は朧気でも部分と全体の関連に心引かれ、
やがてはそこに、分かち難い絆があるのを気づくようになります。つまり、
この世の事物は相互に依存し合っていて、単独のままでは何一つ成り立
っていないことの現れと知るべきなのでしょう。
 
芸術における美の存在とは、そうした依存関係の緊張と調和の内にある
と考えていいのかも知れません。彼の印象派の画家モネが、晩年に至っ
て没頭した「睡蓮」の連作には、まさにそうした「色彩の交響」と呼ぶに相
応しい、宇宙への共感と共振に充たされていました。
 
それはまた、モネだけに限られたことではなく、優れた芸術作品のすべて
に共通していると考えられます。例えば、セザンヌはそのことを、次のよう
な言葉で残しました。「色彩は、われわれの頭脳と宇宙が出会う場である」
と。更に「われわれ人間にとって自然は表面としてよりも、むしろ深さとして
ある。だから、赤や黄といった光の振動は、大気を感じさせるための十分
な青を必要としている」と。上記の紹介は、ほんの一端のことに過ぎません
が、人間は自然生成との出会いや、その過程での様々な変遷に触発され
ながら、芸術的な感性を耕してきたのだと思われます。
 
ミレーによって描かれた風景と農民の姿にも、太陽の恵みに染まる大地を
基調色とした、人と自然の同化への敬虔な祈りが籠もっています。
また、それとは別の意味で、わたしは巨匠レンブラントの作品群にも、少な
からぬ感銘を受けてきました。そこにある輝きは現世を超えた彼方の光源
を啓示し、同時に深遠な闇との対比は人間存在の根本を浮上させてもいま
す。事実、最後の余生を絶対の孤独に耐えるしかなかったレンブラントは、
自らのフィナーレを偉大な自画像で飾りました。
 
もし、世界史を人間解放の過程であると云ってよければ、その可能性と現実
の間(はざま)を生きるとは、自然の本質(魂)に導かれた自己実現への旅と
考えていいのかも知れません。しかし、省みて原始洞窟の壁画/神々と文明
の曙光/古代遺跡の数々/権力の支配と抗争の時代/功利的自然破壊と
人類の危機/など、以上は概括したまでの話ですが、果たしてこの道程の行
く手に平安はあるのかどうか。そして、芸術に課せられた調和とは、如何なる
役割のことなのでしょう。
 
ところで、わたしども「絵の好きな仲間たち」は、ことしも合同展を開催すること
にしました。まるで海辺に潮が満ちてくるように、会場にはそれぞれの夢が、
白波となって寄せてくるものと期待しています。美を求めるって、何と素敵なこ
とではありませんか。それに「人と人は、もっともっと愛さなくてはなりません」。
わたしは今回のテーマを「相互信頼と相互依存」にしたいと、内々願っている
のですが、さて皆さんは、如何なものでしょうか・・・。

橋本 貢

わたしの自由への選択/その6
真っ青な冬空の彼方・・・
 
 
初冬という言葉に気づいて、はっとしています。すでに、いつ霜が降りても
不思議でない季節となりました。もし早ければ風花の舞姿を北風といっし
ょに見られるのも、そう遠いことではないでしょう。そして、まもなく自然は、
冬枯れの無彩色の世界に一変していきます。
 
ことし一年も、様々なことがありました。いろんな出会と別れ、焦燥と惑い、
高揚と落胆。いまそれらのすべてが渦となって、追想の彼方へ遠ざかろう
としています。また、この一年という歳月の足早さは、人々に自己の存在
への思いを一層深めることにもなるでしょう。
 
丁度ここまで書き進み、ふと、「ゴッホ」のことで索引していたら突然往年
の舞台名優、滝沢修氏(生前「炎の人」/ヴァン・ゴッホの小伝/に精根
を尽くされた)に行き当たりました。それというのも未だ少年期を脱しきれ
ずにいたわたしを、仮にも芸術というものに向かわせてくれたのは、他な
らぬヴァン・ゴッホの伝記(式場龍三郎著)であったし、そのとき見た何枚
かの作品に、わたしは初めて絵画に対する戦慄のようなものを覚えたの
です。
 
残念ながら往時のわたしに、滝沢修氏の舞台を直接観る機会はありませ
んでした。しかし、ポスターに表示された彼のメーキャップの迫真的な素晴
らしさを、いまだに忘れることが出来ないでいます。その後まもなく、当時
の雑誌「群像」に、三好十郎氏の脚本が掲載されました。勿論、わたしは
貪るようにして全編を読んだのですが、それにしては半世紀を経たいまと
なって、文面の記憶のほとんどが薄れてしまっています。しかし、そのシナ
リオの冒頭であったか、或いは末尾であったかに(もし、わたしの錯覚でな
ければ)、作者三好氏の次のような訴えが附記してありました。
 
「世の女性たちよ、こんなにも純粋だった一人の男の傍らに、何故もっと連
れ添っていてやれなかったのでしょう。その志の内に秘めた孤独を、何故
もっと聞き届けてくれなかったのですか。彼の一途な芸術への魂は、余り
にも癒されることがなさ過ぎました。もしも、あなたたちの愛が癒していてく
れたなら、彼は自殺なんかでなく、もっともっと生きるためにこそ絵を残して
いたと思います・・・」。
 
但し、再度お断りしなくてならないのは上記の意味はともかくとして、言葉の
方は多分にわたし一存の書き起こしであることです。
 
すでに紅葉の色も褪せて、樹上の木の葉が吹き払われていきました。この
寒々とした冬空を見上げていると、南仏アルルの太陽に憧れたゴッホとは
違和感がなくもありません。でも、彼の精神性はミレーの描いた収穫の大地
や、自然美への憧れを対象として求められてきました。それは近代化に伴う
都市生活の華美や、消費と社交に耽る人間達とは相容れることのない世界
でもあったのです。しかし、そうしたことは周辺からの彼の孤独を、逆に際立
ててもいきました。
 
やがてゴッホは、忍びくる異常な興奮に苛まれるようになり、遂にはピストル
での自殺を図るに至ります。だからといって彼の最後の選択を、狂気の刻印
で終わらせてはならないと思っています。その場に立たされた彼は、まさに
人間であろうとしての、人間の呻きを放っていたと知るべきでしょう。そのとき
の涙とは、分身を任じてきた弟のテオですら共に出来なかったのです。
 
それにしても真っ青な冬空の彼方へ、何枚となく鮮明な落葉が飛び立って行
きました・・・

橋本 貢

遠い街の灯
さようなら、2006年
 
 
画学生をめざして上京したての頃、東京はまだ方々に戦災の無残を
とどめておりました。とりわけ下町一帯はどこもかしこも燻されたよう
に黒ずんでいて、あの往年の「東京ラプソデー」に歌われていた華や
かさなど、見る影もない有様でした。
 
それでも、わたしの通っていた文化学院のあるお茶の水駅界隈は、
学生の街と呼ばれてきただけあって、駿河台から駿河台下につづく
坂道には、見事に成長したプラタナスの並木が繁り、その右手には
古風な明治大学の校舎がそそり立ち、それと向かい合うようにして、
洒落た外壁の「主婦の友社」の社屋が建っていたのです。さらに下っ
て神保町の通りに出ると、こんどは「神田の古本屋」の名で親しまれ
てきた書籍専門の店が、延々と軒を連ねておりました。
 
大舞台の劇場や殿堂を模した美術館もさることながら、戦後を起点
としてきたわたしとしては、むしろ、日常普段の活況が伝わってくる
市井の場が、自由な文化を目指すためのステージだったと云えるか
も知れません。その意味でもお茶の水という街との出会いは、たい
へん幸運であったと思っています。しかも、その一隅には戦災を無傷
でまぬがれた「文房堂」という有名な画材店が、素敵な間口を開いて
おりました。でも、僅かな仕送りからの購入では、なかなか店内を覗く
ことすらままなりませんでしたが、しかし、かねてよりの憧れであった
「芸術の都パリ」への夢が、ついに強引に奥の飾り棚まで、このわたし
を誘い入れた気がしなくもありません。
 
そこに足を運ぶようになって、年の瀬も近づいたある日のこと、つやや
かなアルトの美声で「何をお求めですか」と、突然問いかけられました。
思わず顔を向けると、いつもは目線でだけ挨拶を交わしてきた売場の
お姉さんが、目の前に立って微笑んでいるではありませんか。
 
「いまどんな制作をなさっていらっしゃるんですの」。「もしラベルの油染
みを気にしなければ、とてもお安くできる絵の具を在庫の中に見つけて
おきました。よろしかったら、お使いになってみませんか」。
 
そのときのわたしは、お姉さんの余りの美しさと、予期しない優しさに、
一瞬返すべき言葉を失い、たじろいでしまいました。こんなことって想
像は山ほどしてきた筈なのに、一度として自分に当てはめてみたこと
はなかったのです。つまり、一人前というには程遠く、わたしは少年の
域を一歩も抜け出ていなかったと云うことでしょうか。途端に云え知れ
ぬ熱いものが、わたしの内を走り過ぎました。そして、唯ひとこと「有難
うございます」とだけ、やっとの思いで言い残すことが出来たのです。
 
外は夕暮れが迫り、忙しい人の流れとクリスマスのメロディーで賑わっ
ておりました。しかし、その夜の街の灯はいつまでも、いつまでも、わた
し一人の帰路を滲ませたまま、離れようとしませんでした。