貢 彩 会
kousaikai
橋本 貢

橋本 貢
橋本 貢
                   元旦の酒


  元朝をささやかな松飾りで迎え、雑煮鍋の煮立つ香りが台所から伝わ
  ってくると、いよいよ切り餅を焼く番が廻ってきます。

  テーブルには数の子、煮豆、蒲鉾、昆布巻きといった正月のご馳走が
  色好くならべられ、そして、こざっぱりとした子どもたちがその周りに揃
  うのを待って、このときばかりは少々改まった家族の、新年の挨拶など
  が交わされたものです。

  歴史には本来、こうした温もりのある暮らしの伝承が、連綿と脈々と受
  け継がれてきたのだと思います。そもそも食の文化は、食を産出する
  中で育まれてまいりました。

  その昔、自然の推移に依存するだけの採集から、農業という自立への
  転換は、人間自身の飛躍的な誕生であったと考えられます。そして、人
  は生きるための切実さと、豊穣への祈りとに立たされながら、自然に対
  する深い畏敬の念を、身につけてきたとも云えるでしょう。それはまた、
  見つめる者としての美意識を、芽生えさせてもきた筈です。

  大晦日は、遅くまで商いの仕事に追われていた私の親たち。それにも
  めげず、母だけは夜明けを待たずに起きて、凍りつくような水の冷たさ
  を耐えながら、子どもと家族たちのために正月を用意してくれました。
  その当時の喜びと悲しみは、いまや取り戻せない思い出となってしまい
  ましたが、しかし、「正月」とか「ふるさと」といった言葉が無くならない限
  り、いつまでもそこに、こびりついてあるだろうと思っています。

  もう一つ、欠かしてならないのは元朝のお酒です。
  いまなお道連れでいてくれる伴侶のために/私にとってかけがえのない
  友人知人(男女を問わず)のために/歴史に芸術の遺産を残してくれた
  諸先輩のために/世界観を人類の行く手に切り開いてくれた諸思想家
  の魂のために/そして、「愛と生命の星」地球の平和実現のために/
  2005年のスクラムとスタートを心から祝って、乾杯しようではありませ
  んか。先ずは、良い年でありますように・・・。

橋本 貢
        早春の星空
 
  毎年節分の頃、厳寒の地シベリアからの冷気が、繰り返し春を遮る強風と
  なって、日本列島の上に張り出してきます。しかし、深々としたこの時期の
  夜空は、見わたす限り冴え冴えとした星の点滅によっても飾られます。
 
  昔、わたしの前に不思議な一人の青年が彗星のように現れ、もっぱら寒中
  の澄みきった星空に没入しておりました。聞くと彼は、昨夜も小型車に望遠
  鏡とカメラを乗せ、街の灯を遠く離れた山間で野宿してきたというのです。
  バックの中の写真には、一定の露出時間をかけて撮られた磐梯山頂の星の
  軌跡などが、見事な弧を描いて映し出されておりました。
 
  いまでは彼の消息について知る由もありませんが、所詮地上の世間に馴染
  みの薄い顔をしていた彼は、今頃、天空の何処かに自分の居場所を構えて
  いるやも知れません。その彼は私の天文の知識に寄与するどころか、まるで
  意に介さないといった面持ちで、こと宇宙の話になると、いつも無我の境地に
  変身していたものです。
 
  「宇宙は実にダイナミックなんです。絶えざる古い星の消滅と新星の誕生
  を、この瞬間も孕みながら、休みなく膨張しつづけているんですよ・・・」と。
  私は唖然としたまま、もしかしたら彼は宇宙人かもと、夢中で語る口もとに
  目を奪われながら聞いておりました。
 
  ふとしたことで、私がサンテグジュペリ(星の王子さま)の存在に出会ったの
  は、それから何年も経てのことになります。そして、「いま立っている此処が
  宇宙であり」、しかも「宇宙って生命のことなんだ」という実感を、仮にも身に
  つけることが出来たとしたら、それはいうまでもなく、上記の二人の王子さま
  との出会いから得た恩恵と云わねばなりません。
 
  そうした声は、きっとあなたの胸中にも、あの森閑とした星座の明滅から届
  いているに違いないと思います。但し、多分に繊細なその旋律は心の深部
  での、「魂との共振」に気づかなければ伝わってこないかも知れません。
  体内に循環を続けている生命のいとなみ。それは満天の星のきらめきを表
  に映し、地球創世の物語を潜在意識にひそませてきた「河の流れ」を想わせ
  ます。夜明けを前に、なおも静寂な地平線。その安らかなシルエットの運行は、
  行く手にどんな朝の目覚めを迎えようとしているのでしょうか・・・。
 
  いま、地球は新たな春と再会するための公転に、ようやく一歩を踏み出した
  ばかりです。

橋本 貢
人と自然と・・・
 
 
  自然を直接の対象として描かれた17世紀オランダの風景画、及びその流れを
  経て開かれたバルビゾン派の諸作品は、人間自身の覚醒をともなった直感的
  な洞察、つまり自然との新たな出会いの所産であったと云えるでしょう。
  とりわけミレーの「耕された大地」への感性は、偏在する地母神への帰依という
  か、「羊飼いの少女」/「種をまく人」/「落ち穂拾い」/「晩鐘」といった数々の
  作品を介して、今なお見る人の心をその慈愛と安らぎに深く誘っています。
 
  ところで17世紀のオランダには、「トウルフ博士の解剖学講義」や「夜警」などの
  優れた作品で知られる、もう一人の偉大な画家レンブラントがおりました。往時
  のオランダは海外に交易を広げ、商工業の繁栄を謳歌していた時代でしたが、
  しかし、彼の天才的な資質は周辺への依存を断たれ、過酷な運命と対面する中
  でこそ、自分本来の輝きをきわめることになりました。
 
  いまや「レンブラントの光」といえば余りにも有名ですが、私はむしろ「レンブラ
  ントの影」と云った方が本当ではないかと、真面目にそう思った時期がありまし
  た(いまもそうです)。青年初期に描かれた自画像のひたむきさにも底無しの闇
  (内部自然)が、すでにただよっています。いったいあの奥深い影は、何処から
  やってきたものなのでしょう・・・。おそらく光と闇とは一つの相関であり、この世の
  原点であると、実感されていたに違いありません。
 
  レンブラントの人生には、愛する妻や子に先立たれるという悲痛が、重なって訪
  れました。そのたびごとに名声や栄光は脆くも崩れ去り、最晩年には天涯の孤独
  だけが残されていました。しかし、そのとき、すべてのものが闇に覆い尽くされてい
  くとき、彼は最後の最後まで「自分自身の光」に眼を投じていたのだと思います。
 
  レンブラント、1669年(63歳)他界/彼の数ある「自画像」の最後の年の作品が、
  静かな眼をこちらに向けています。
 
  今回はオランダの絵画とバルビゾン派の一端に触れることで、自然と人間の夢を
  のぞいて見ました。まもなく新しい春のステージが、始まろうとしています。
橋本 貢
青春の季節
 
  やっと寒気を抜け出し、南からの風が風景と心をいっしょになごませてくれます。
  そして、待たれるのは野山を彩る華麗な花々の出現です。
 
  わたしの人生にも、かつてそんなひとときがありました。若さには自立への道が
  すぐにも控えていて、当初の目覚めの中では希望よりも戸惑いの方が、行く手
  に貼りついていた気がします。
 
  しかし、仮にも今日まで自分の夢を手放さず、美を求める旅に一途でいられたの
  は、若さだけの持ち得る世界への憧れ、自分を生きることへの純なこだわり(惑い
  を孕んだ)があったからと云えなくもありません。
 
  今朝の散歩でのこと、田んぼや畦の土が柔らかにふくらみ出して、気のせいか、
  こちらを向いて微笑んでいるように感じられました。それとも「いつ耕してもいいよ」
  という合図を送っていたのでしょうか。いずれにしても一年の周期は、新生の嬉々
  としたリズムで幕を開けるようです。
 
  かつて、上京してまもなくの頃のわたしは、おずおずとした一介の画学生でした。
  その時分(S20年代前半)の東京は、まだ至る所に焼け跡の残骸を残していまし
  たが、にもかわらずバラック仕立ての闇市や、ガード下での外食屋などは、した
  たかに生きる人々の雑踏で活況を呈しておりました。
 
  わたしは幸い、先ず身を寄せる場所(姉という理解者の家)に恵まれ、それは画業
  の初期の段階(デッサンその他)を習得する上で、また集中し、専念していく上で、
  最良の境遇を与えられたことになります。でも、毎日の教室(アトリエ)での時間は、
  実に緊張の連続でした。約一年ほどの間は教授の鋭い指摘に打たれ、誰ともくつ
  ろがず、終始無口の状態で、イーゼルとだけ向かい合って過ごしました。
 
  更にもう一つ、最近のようなメディアや高速交通の普及した時代では、あり得ない話
  と思われるでしょうが、昔の田舎の自然に育まれたわたしにとって、都会との出会い
  は、のっけから自分を異邦人と見定めることでもあったのです。しかし、それを起点と
  して上野の美術館、博物館、銀座界隈の画廊、神田の古本屋と、ことあるごとに通い
  つめました。そして、見るもの聞くものが、なんとも新鮮で、驚くことばかりだったのを
  思い出します。わたしは自分の内に、それまでになかった波紋が徐々に広がって行
  くのを覚えました。例えば芸術について、人間について、そうした項目をめくるだけで
  も、閃光が身体の芯をを走り過ぎて行ったのです。
 
  これは余談ですが、アトリエにはいつも自画像と取り組んでいたUさんという、長髪の
  女の子がおりました。画面の色彩はブラウン系統を基調とし、その全体は透明な発色
  と繊細な階調で輝いていたのです。いったい彼女の放つ感性の魅力は、どこからきた
  ものだったのでしょう。細おもての、ものしずかな顔は、いつも柔和な表情を浮かべて
  おりました。
 
  わたしはアトリエを離れる最後の日、もう一度だけ彼女の作品に対面、「美しさに魅せ
  られました/ありがとう/さようなら」と、一人だけの言葉を交わしてきました。
 
  これは、あのときのわたしの青春の挨拶なのです・・・。

橋本 貢

交響詩「五月」
 
  桜前線が通過するにつれ、それまでは唯の地面と思っていた所が、
  突然タンポポの丘に変容していました。また、それといっしょに土筆
  のとがった頭が、踏む場もないほど一面に背伸びを始めていたので
  す。この時期、もはや残雪は遠く那須連山の彼方に見られるだけと
  なりました。
 
  「ありがとう」、まぎれもなく今年の五月が開幕したのです。そして、
  わたしは隣家に咲く白木蓮の美しさに、思わず吸い寄せられており
  ました。今年また、あなたの無垢で艶やかな舞い姿は、このわたし
  に何を物語ってくれるのでしょうか・・・。
 
  脈動する大地の隅々までを装う花々の出現は、まさに新生の歓喜を
  奏でる自然(混声)のコーラスを思わせます。しかし、それにつけても
  残念なのは、以前なら庭先まで訪れていた鶯の美声が、いつのまに
  か途絶えるようになったことです。そういえば、空いっぱいに喜びの
  光を振りまいていた天使たち、眩しく見上げた彼の雲雀の姿も、すで
  に去ってから久しくなりました。
 
  「帰りこよ、吾を捨つるな・・・」とは、カンツォーネの切々とした愛の調
  べですが、いまを生きるわたしたちは、もっと切ない田園喪失の悲しみ
  に迫られているのかも知れません。若葉に映える五月の風が、快く頬
  を吹き抜けていきます。この美しい自然のかいなに抱かれ、無心の喜
  びを得るのには、先ずもってどんな応えを、自分の内に気づけばいい
  のでしょうか。
 
  利害、抗争にうつつを抜かしている政治と経済/繁栄という名の環境
  破壊/自他の死に無感動な戦争への傾斜/子どもたちを一律に競争
  社会へ追い立てる教育の衰亡/限定された女性の自己実現と、性の
  商品化/など、以上に列記した内容は支配の構図(人間の限界)以外
  のなにものでもなく、そこには自然と人間の共生の未来が、寸断されて
  しまっています。
 
  しかし、わたしたちはそれらとまったく異なる「もう一つの世界」、つまり
  人類史的な英知の世界をも受け継いでまいりました。
  そもそも古代及び中世まで、芸術は下僕的な下働きの境遇に耐えきた
  のですが、そのときの苦渋の底から見上げた自由への憧れは、いまも
  って芸術と人間の自己解放を一対のものとしつづけています。
 
  芸術はルネッサンスの解放を経て、すばらしい開花を遂げてきました。
  いま、わたしたちが仮にも一輪の花に感動を寄せることがあるとしたら、
  それは個人としての内部自然の豊かさと、決して無縁でありません。
 
  薫風の五月よ・・・、本当にありがとう。あなたの風景が、わたしの内にも
  広がっています。そして、あなたはわたしの誕生月でもあるのです。

橋本 貢
人生の送迎
 
しばらくぶりに那須連峰を見上げ、その山麓の広さに心を奪われてまいり
ました。この時期、そこは見わたす限り新緑の世界に変じ、ホトトギスの囀
りが木漏れ日の森の奥から、絶え間なく伝わってきます。
 
わたしたちは娘からの提案、「門出をより自然の中で」という申し出に従い、
高原の牧場内にある「ホテル・フロラシオン那須」という所へ、一泊の予定
で急遽出向いてきました。
 
家族の成長と変遷、ましてや娘の結婚の場に立ち合うともなると、やはり
感無量な思いを否めません。でも、一昔前までの”蝶よ花よ”と歌い継がれ
てきた花嫁行列を、想起することはありませんでした。
 
ややもすると「玉の輿」という言葉が、いまもって家柄とか、格式とか、資産
の多寡などを当て込んで囁かれていたりします。しかし、封建時代そのまま
を現世としたこのような期待から、男女双方の人間として生き方が浮かんで
くることはないでしょう。
 
その昔、人間が樹上での生活(自然のまま)に別れ、直立と二足歩行を身に
つけたとき、初めて地平の行く手に彼方を望み、そこはまた天界(宇宙)との
無限の境でもあると気づきました。なんと、あのアダムとイブの物語は、人類
としての目覚めを、すでに遥かな孤独によって示していた気がします。それと
も愛に伴う切なさ(その喜びと悲しみ)は、そうした根源からの湧き水でもある
と告げていたのでしょうか。
まもなく梅雨が終わると、夏の星座が満天にきらめき始めます。いつのまにか
わたしたちは、門出を見送る側に立ちつくしておりました。少なくともこの瞬間、
遥かな時の流れを無心に受けとめ、唯々同化していたいと祈るばかりです。

橋本 貢

第8回/合同展 
共同の成果
 
ことし第8回の合同展は、期待以上の成功を収めることが出来ました。
そもそもこの祭典は、一人ひとりの美に対する憧れに結ばれて産声を
上げたのですが、以後はそれぞれの参加する喜びを、何よりも大切な
成果として考えてまいりました。ちなみに、「人はパンのみにて生きる
にあらず」とは昔からのいい伝えですが、まさにその言葉どおりの賑わ
いを呈することが出来たと思っています。
 
しかも、創立当時の姿に復元されてまもない公会堂は、ギャラリーとし
て多少の不備が見られたにしても、天井の高さ、木地を活かした内装
と白い壁面、改善された照明の配置など、会場の雰囲気及び建築と
しては申し分のない気品をただよわせておりました。
 
会期は6月13日〜16日までの、あっという間の4日間でしたが、そこ
では作者と観客といった隔たりが消え、お互いを「絵の好きな仲間」と
して認め合う、自然な了解によって充たされていました。
 
しかし、わたしはふと思いました。通常の生活の中で、余り口にしない
でいる言葉が「芸術」ではないかと。以前から気になってもいたのです
が、どうも気恥ずかしさや戸惑いだけではない何かが、そこにはありそ
うな気がしてなりません。
 
遠い昔、芸術は自然と人間の本質から芽生え、その途中には数知れな
い人々の、自由への渇望や魂の軋みが時代と共に刻まれてきました。
古代、中世は神々の支配に準じ、ルネサンス以降も近代革命が訪れる
までは、王侯貴族の庇護のもとに置かれていたのです。
 
ところで今日の事情は、どうなっているのでしょう。人と芸術とは未来に
開かれているのでしょうか。しかし、巨大資本の新たな権力は、世界中
を利益のための市場と見なし、すべてのものを功利的な手段(商品)に
還元してはばかろうとしていません。いまや、金銭が王侯貴族の権力に
取って代わる時代となったのでしょうか。そして、芸術はもちろん、人間と
して生きることまでも、打算の足下に従属させられてしまうのでしょうか。
 
わたしは、はっと我に返り、会場にならぶ個々の作品と、その前で眺め
入ってる人々の姿に、改めて感動を覚えました。「人には眼差しがある」
こんな当り前のことが、突然たいへんな驚きとなって迫ってきたりするもの
です。また、この会場は幼児から年配者まで、参加者全員が菓子やお茶
を楽しめる、会話のサロンにもなっていました。
 
今回の合同展は「人と自然の共生を見つめて」を、スローガンとして掲げ
ました。人間自身(内部自然)の解放と、芸術における自由な表現とは、
一対の関係にあるとの認識からです。
 
いよいよ盛夏の季節が訪れました。コローの描いたような森の水辺を探し
出し、そんな時間の中にしばらくは溶け入ってみたいですね

橋本 貢

文明の行方
 
 いうまでもなく8月は前大戦の終幕において、広島と長崎に原爆が投下され
 た月です。いまから丁度60年前の8月6日/9日、戦争は自然の摂理と生命
 の存続に背を向けたまま、遂に終末的な人間破壊の手段を実行するに至りま
 した。その残虐性と犯罪性とは、いまなお筆舌に尽くせないものをとどめてい
 ます。
 
 あの時代、すでに戦争は「人類の人類に対する最大の犯罪」と化しておりまし
 た。また,そうした危機を自覚した良識の発言も皆無ではなかった筈ですが、
 しかし、二十世紀はそうした認識の有無に関わりなく、全体として力への依存
 を一段と深めた時代でもありました。
 
 あのときの科学者たちにとって、ガリレオやコペルニクスの理性はどのように
 思い返されていたのでしょう。それに加えて人々は、ミケランジェロの「ピエタ」
 やベートーベンの「運命」を、自らの本質にどう重ね併せていたのでしょう。
 
 核分裂のエネルギーとは、宇宙に連なる物質循環のバランスを崩壊して引き
 出された、想像を絶する放射線/熱線の衝撃波です。それは一瞬の閃光と
 なって拡散し、突如として地上の様相を焦熱地獄に変えてしまいました。
 
 それにしても生命史の遠い時間を介して、自然の深みから開かれてきた人間
 の英知とは、このような死の風景を出現させることにあったのでしょうか。
 2005年の広島/長崎は、各国間の暴力是認を改めて非難し、核廃絶への
 明確な「平和宣言」、つまり人間解放の宣言を再び全世界に向かって発信しま
 した。
 
 わたしは、この時点で「もう一つ」、文明全体への自分なりの感想を自由に書き
 添えてみたいと思います。先ず人間はいつ頃から自然のままの状態を抜け出 
 し、自立した意識世界へ踏み出したのでしょうか。有史以前については発掘に
 よる推測を頼りとするしかありませんが、それでも約2万年前、石器時代後期
 に描かれたアルタミラ洞窟の壁画は、黎明期を生きたの人々の生き生きとした
 感覚を、野牛やカモシカの優れたデッサンによって如実に伝えています。それ
 にしても、あのベンガラ色の生と死を滲ませた壁画は、何を意味してきたので
 しょう。
 
 現世とは避け難い別離の場でもあると、その測り知れない不条理に気づいた
 とき以来、人々はおもむろに彼方の天(神々)を仰ぎ、そこに万感の祈りを込め
 るようになったのかも知れません。ピラミッドが象徴する古代アフリカの文明/
 壮大な白亜のパルテノンとエーゲ海文明/シルクロードに道を開いたインド及
 び中国の文明/。人類の歴史はそれぞれの地勢と環境とに隔てられながら、
 大昔の神話を曙光として開幕を遂げてきたものと考えられます。
 
 しかし、その日から現在に至る変遷の中で、かつては自然の緑野を故郷として
 きた筈の人間に、利権獲得といった抗争の暗雲が容赦なく垂れこめるようにな
 りました。更に、民族や宗教間の対立、国権の拡張といった戦争への進展は、
 そのための殺傷手段をもますます冷酷なものに変貌させていったのです。
 
 人間にとって欠かせない自然美との出会いや、自己実現を求めての旅には、
 いつも現世を超えた「彼方」が控えてきました。ところで戦争のためその「彼方」
 を失った数多の悲しみには、何を持って応えればいいのでしょう。もし、僅かで
 も叶える術が残されているとしたら、自分の「人間であるすべて」をもって対面
 するしかないと思います。
 
 もう、かれこれ数年以上も前の話になりますか゛、「絵の好きな仲間たち」の皆
 さんと、信州上田の丘にある『無言館』を訪ねてまいりました。ご存知と思いま
 すが、そこは戦没画学生の遺作を収集して建てられた美術館です。石積みの
 無彩色の外観には何の飾りもなく、西欧の小さな古寺といった印象がいまでも
 ありありと浮かんできます。
 
 室内には在りし日の青春の画像が整然と飾られ、ときおり見ている人から溢れ
 でる嗚咽以外は、無限の静寂であたりが占められておりました。
 
 その中でのわたしは無心となって、唯一人荘厳の光に打たれ、目を奪われてい
 たのかも知れません。

橋本 貢


わたしが子どもであった頃
 
 一昔前の郡山は、東北鉄道の幹線及び支線の交差する駅となって以来、
 急速に新しい装いを身につけてきた街です。その名残というか、駅前周辺
 には大規模な工場や、幾つもの旅館が軒を連ねるようになりました。
 
 しかし、終戦の年の四月、B29の編隊による突然の空爆は、近隣の商店や
 農家共々、それらを一挙に破壊し、焼き尽くしてしまったのです。戦争の加
 害と被害の当然の帰結といえばそれまでのことですが、あの日、黒こげとな
 った一帯の風景は、それまで想像することもなかった地上の崩壊を、わたし
 の深部にまでもたらしました。
 
 その容赦なく引き裂かれた「存在」の闇は、わたしに一瞬、奈落というものを
 覗かせたのではと思います。同時にそれは、わたしが自分の「少年の日」に、
 別れるときであったのかも知れません。
 
 当時は目抜き通りといっても名ばかりの道幅で、そこから横丁に一歩踏み入
 ると、途端に古びた木造平屋の低い庇が、路地の殆どを埋めつくしておりまし
 た。また、黄昏どきには豆腐売りのラッパが、遠くから徐々に近づいてきたりし
 て、その夕暮れの響きは、遊びに夢中でいた子どもにも、なんとなく侘しさを
 覚えさせたものです。
 
 昭和初期の不況が、まもなく戦争に傾こうとしていた時代、表通りに店を張っ
 ていたわたしの家も、ついに倒産の憂き目を見ることになりました。一転して場
 末の暮らしに身を移した親たちは、どんな辛い思いに耐えていたことでしょうか。
 寝たきりの姑と6人の子どもを抱え、しかも外での共働きを余儀なくされていた
 母の奮闘は、並大抵のものでなかった筈です。
 しかし、「子どもには節のものを口に入れさせたい」、「どんなに困っても垢貧乏
 だけはさせない」と、それを口癖のようにしていた母は、女性として人後に落ち
 ない格式の持ち主だったと思っています。
 
 云わば昭和の前半を、暗澹として育ったわたしの幼少年時代は、巷の底辺に
 いてこそ実感される物憂い空気を、身に沁みて味わってきました。すぐ近くの
 盛り場からは哀調この上ない流行歌が伝わってもきたし、夜道をさまよいなが
 ら遠ざかる酔っぱらいの嬌声を、何べん耳にしてきたことでしょう。
 
 でも、その界隈の住人は、一様に善良な人々だった気がします。虐げられては
 いても、誰かを虐げるような顔つきは見当たりませんでした。もし、そこが悲喜劇
 のステージであったら、何と名優ばかりが顔を揃えていたのて゜しょうか。例えば、
 自転車の修理屋/間口のせまい駄菓子屋/足の不自由な飾り職人/日暮れ
 を待って出かける屋台引きのそば屋/桶屋/目を悪くしていた石屋/昼は子ど
 もを相手にしていたおでん屋/文明館という名前負けの銭湯など、舞台装置
 は過不足なく出揃っておりました・・・。
 
 わたしの人生の中で大八車は、いまもって零落と挫折の象徴を意味しています。
 引っ越しのときの荷物といえば、寝具と小物を詰めた茶箱が幾つかあったぐらい
 で、まだ五歳未満だったわたしと弟は、その荷物の間に押し込まれガタゴトときし
 む車に揺られながら、場末への道をたどったのです。
 
 そして、政治・経済ともに不安定な昭和期は、まもなく激震となる不気味な予兆を、
 すでにかもし始めておりました。
 
  1929/(昭和 4年)    ニューヨーク株式市場大暴落(わたしが生まれる)
  1931/(昭和 6年)    満州事変おこる
  1936/(昭和11年)    2.26事件、軍のクーデター未遂
  1937/(昭和12年)    慮溝橋事件、日中両軍衝突
  1937/(昭和12年)    南京占領、日中戦争拡大へ
  1938/(昭和13年)    国家総動員法公布、翼賛体制の強化
  1939/(昭和14年)    ノモンハンでソ連と交戦
  1941/(昭和16年)    真珠湾急襲、太平洋戦争開始
  1945/(昭和20年)    広島、長崎に原子爆弾の投下、日本は降伏に調印

橋本 貢


 秋の静けさ
 
 デッサンするって、この世界と自分が一対一で見つめ会うことをいうので
 しょうか。でも、そのときの無心な状態は、自分が一人でいることをも忘れ
 させてしまいそうです。
 
 わたしは秋の風情の、何ともいえない静けさが好きです。十五夜の月明 
 りもその一つですが、世上の喧騒を遠ざかり、生まれたてのような自分の
 時間に、再度立ち返って見たくなるのかも知れません。
 
 そういえば子どもの頃は、母と近くの里山へ、キノコ取りとか栗拾ひろい
 の遊びによく出かけました。小高い丘には雑木林がうっそうと繁り、木の
 間隠れに散らばる栗のいがや、名前を知らないキノコの群生を根方に見
 つけては歓声を上げたものです。また、何処までも分け入ってみたくなる
 ような、あの木漏れ日の不思議な世界は、そこにどんな誘惑を隠していた
 のでしょうか。
 
 それよりも嬉しかったのは、母が用意してくれたおにぎりにありついたとき
 の喜びです。里山の奥まった所は沼地になっていて、その水辺の穏やか
 な砂地を休息の場所ときめておりました。傍らのススキにはトンボが羽を休
 め、ときおり小波が風の光となって打ち寄せてくると、そこに菱の実も一緒
 に運ばれてきていました。
 
 この母と子の水入らずで過ごしたひとときは、なんと豊かな秋を心に刻んで
 くれたのでしょうか。それ以後のわたしの生き方は、慈愛を至福とする感性
 によって導かれてきたと思っています。
 
 仮にもデッサンを介して見つめるとき、自然はくまなく相互依存の世界であ
 ることに気づきます。太陽を光源とした四季の循環、朝夕の訪れ、気圧気
 流の変化、生態系の諸活動など、いま手にしているたわわな一房のブドウ
 にしても、その一粒、一粒には壮大な自然生命のシナリオが、とどこおりな
 く貫徹していると知るべきなのでしょう。
 
 秋のしずけさは万象を包摂して流れつづける、遥かな生命の大河に由来
 しているのかも知れません。それは人間に意識が目覚めたときの、空漠と
 した黎明の名残とでもいうべきでしょうか。発見というと少々大げさですが、
 自然の中では一つ一つが新たに気づかれていくことばかりです。もちまえ
 の経験を超えて忽然と何かが開かれていく、芸術における直感(無垢な感
 覚と意識の誕生)とは、そのようなことの訪れであると思います。
 
 毎年のことでありながら自然は華麗な錦絵の衣装をまとって、まもなく晩秋
 のアリアを奏でようとしています。その瞬間の美は静寂に向かって、弾ける
 ように激しくあったりするのかも知れません。

橋本 貢

「わたしの平和宣言」

戦争の文化から平和の文化へ、21世紀への国連・ユネスコ提言。
 
 過日、国連・ユネスコが提唱する「平和の文化国際年/2001年〜2010年」の呼びか
 けに記されていた『わたしの平和宣言』の趣旨に接して、強く心を動かされました。
 今回はその内容を、ぜひ、みなさんとも共有したいと願い、私なりの要約を加えた上で、
 ここに紹介させて頂くことにしました。
 
 今日、世界に目を転じたとき戦争と暴力は、少しも途絶えようとしていません。果たして
 人間は利害と抗争、破壊と殺戮のため、この世に送り出されてきたとでも云うのでしょう
 か。否、たとえ絶望と悲劇が先立ってあったにしても、人間は自然の生成に対する驚き
 と、畏敬の念に導かれて誕生してきたのだと考えます。また、その無限の変化に満ちた
 美しさに対する感動は、自己実現への覚醒をもたらすことになりました。かくて歴史は、
 人間にとって豊かな文化を創出するための舞台ともなってきたのです。
 
  しかし、現に残存しいる文化史跡のほとんどは、抗争のたびごとに傷つき、廃墟の影を
 むきだしにしています。でも、人間に訪れた覚醒は、決してこのような暴力の虚しさを目
 の当たりにすることではなかった筈です。暴力の支配と、暴力への依存からは、人間に
 背を向けた不毛な悪循環だけが排出されていくことでしょう。
 
 いま大切なのは自然生成の呼びかけを、心に深く刻むことにあると思います。その美し
 さの中には、自分も一人の人間として立っているのです。それにつけても、あのヒロシマ
 の原爆ドームのシルエットは、何を語りつづけているのでしょうか。あの痛ましい「慟哭の
 墓標」を、どうしたら美しく荘厳の花々で飾ることが出来るのでしょうか。
 
 世界中が、そして、美しい自然が、あなた自身の「平和宣言」を待っています。(M,H)
 
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  「わたしの平和宣言」 平和の
文化をきずく会
                       本会は2000年1月16日に結成され、日本ユネスコ
                           連盟と正式にパートナーシップを結びながら、「わたし
                           の平和宣言」の署名などを、積極的に推進しておりま
                           す。(問い合わせは下記の連絡先まで・・・)
 
 私は人類の未来、とりわけ子どもたちの今日と未来に責任があることを自覚して、私の
 日常生活、家族、学校や職場、仲間や地域、日本さらにアジアのなかで、次のことを心
 がけ、実行することを誓います。
 
 1 私は、いのちを尊敬します。
 
 2 私は、いのちを否定する戦争を、人類最大の犯罪と見なします。
 
 3 私は、世界のすべての暴力支配に反対します。
 
 4 私は、対話にもとずく相互理解を、共生のための根本とします。
 
 5 私は、民主主義の公正な実現(再発見)を、次世代への課題とします。
 
 6 私は、地球環境の生態系と自然美の調和を、至高のものと考えます。
 
 7 私は、上記の各項を、「わたしの平和宣言」とすることに同意します。
 
                                           以上。
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                      ●連絡先
                               〒332−0015
                               川口市川口2−15−1−1004
                               (事務局・滝口 優)
                               TEL/FAX 048−254−5074 

橋本 貢

さようなら/2005年
 
人は人に 寄り添って生きる
人はその温もりの内に
見果てぬ夢と悲しみを見てきた
 
いま心音となって聞こえるのは
新生のための喜びだろうか
 
それとも遠い自然循環の
愛の奏でるリズムだろうか・・・