ケンケンパ的プロフィール。

発生時期

1963年1月14日産。栃木県で発生する。
現在は婿入りして茨城県つくば市在住。

生家が養蜂家であったので、ご幼少のころから?
栃木県内のほか千葉、福島などを季節に合わせて
ミツバチと戯れる。
(何しろ矢鱈とミツバチの針にはお世話になった。痛かった。)
スズメ蜂、熊にも、その頃から縁が深かった。

職業:さらりーまん。営業職。
家族構成:本人、妻、娘2名、息子1名
趣味:クワガタいじり、釣りなど。
好きなもの:酒!!、蕎麦、ミスチル、スピッツ

クワガタとの関わりと今昔話。

両親の養蜂の仕事の都合で
夏場は必ず山間部に出かけるので、ミツバチを置いている場所の近隣には必ず自然の遊び場
があった。と云うか、ほかに何も無かった!が正解だった。

実家の近所にもあちこちに雑木林があって
小学生の頃には、夏場は夜明けを待って自転車で
雑木林を回って山ほどコクワやノコギリ、たまにアカアシ、そしてカブトを捕まえた。
近くには公園に続くポプラ並木があり、ひと蹴りで10匹くらい採れることもあった。
公園内のシラカバではノコギリクワガタが大量発生しており、間もなく株ごと食い尽くされて
公園から姿を消した。
現在の湯津上温泉(栃木)付近には御神木があって、牧場の隣に一本で50匹近く採れた
クヌギがあった。

当時の実家の風呂は五右衛門タイプで
鋳物の風呂釜の上部がタイル張りになっていて
鋳物の下が釜戸になっていた。
記憶を辿ると、マキを炊いていた時代があった。
冬のある時、父と斧でマキを割っていると中からコクワガタが出てきた事があった。
越冬する事など知りもしないので当時はとても不思議に思えた。
穴の空いたコナラか何かだったように記憶している。
その風呂もやがて石油バーナーで鋳物を加熱するようになり
そのうちにボイラーとか云うヘンテコナ箱に取って代わった。

養蜂の仕事も時代と共に変貌しつつあった時期だった。
昭和5年生まれの父は労働監督署を辞めて養蜂家となったが
当時は多少儲かったらしい??

見渡す限りの田園は何処でも春になるとレンゲが咲き乱れた。
蓮華(レンゲ)は大気中の窒素を同化して土を豊かにしていたのだが
化学肥料が持て囃されるようにって農家も蓮華の種を蒔く事を止めてしまい
レンゲの蜂蜜も採れなくなった。

には千葉では内房の海岸沿いで菜種(アブラナ)を越冬期間明けの蜜源としていた。
栃木から当時6時間を掛けて移動していた。
続いて栃木県内でアカシア(ニセアカシア)の蜜を追って
初夏6月には栃木県北で山桜、トチノキの開花を追いかけた。

夏、檜枝岐はその当時、秘境と呼ぶに相応しく学問的には高所限界集落と呼ばれて久しい。
川治、鬼怒川温泉を経由して山王峠をグルグルと回り
中山峠も現在殆んど通る事が無くなった旧道を通過して
延々と砂利道が続き、栃木県北から5時間程度を要した。
長丁場の唯一の楽しみは、峠のヘツリに染み出た水に訪れるカラスアゲハやルリタテハだった。
今では嘘のようだ。

谷合にはトチノキが多数存在して、現在ではキャンプ場ができてしまった某林道
の山小屋の回りには、僅かばかりの蕎麦が栽培されていた。
燃料のマキにはルリボシカミキリが群がって、信じられないほど美しかった。
何度か寝泊りした山小屋には、野鼠やらマムシやらムカデが出没して
ミツバチを狙ってツキノワグマもよく出てきた。


某有名自動販売機のある大○屋のある集落では
馬や牛などが家の片隅に同居していた事が思い出される。
養蜂の仕事でお世話になっていた知人宅では
お手製の栃餅やマムシの蒲焼、季節のキノコ
中でも天然の舞茸、独特の香りのシシタケが印象深い。
手打ち蕎麦、そば粉をはんぺんのような形にして茹でた
ハットウは素朴で蕎麦の風味が豊かで美味しかった。

時折立ち寄った温泉も今では灯火採集で有名な場所になったが
当時は鄙びた雰囲気で、僅かにハイカーが利用していたのではないだろうか。
ある日、両親と弟と私で蜂の仕事を終えてその温泉に立ち寄った時に
温泉の男の子が見たことも無い大きな鍬形を持っていた。
オオクワガタだった。
喉から手が出るくらい欲しかったが、なすすべもなく
採ったことが無いクワガタの姿を脳裏に刻んで
家に戻って夜中まで昆虫図鑑を食い入るように眺めた。
何処でどうすれば採れるのか知る由も無かった。

虫捕り網を持って歩き回った福島県も、千葉県も
今では自分で車を運転して通う事ができるようになった。
その気になりさえすれば何処にでも行けるのだ。