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キッド兄弟商会
東京キッドブラザースは、1970年代以降のもっともメジャーなミュージカル劇団のひとつとして、また、俳優の柴田恭兵を輩出した劇団として、あまりにも有名である。しかしこの劇団にも、かつてアンダーグラウンドな時代があった。
東京キッドブラザースの母体は、寺山修司の劇団・天井桟敷を脱退した東由多加が1968年に仲間たちと立ち上げた、わずか10人にも満たないロック・ミュージカル劇団である。彼らが「キッド兄弟商会」と名乗っていた時代、細野晴臣が在籍していたエイプリル・フールは東や下田逸郎らの手による劇中歌をレコード化するプロジェクトに参加し、舞台での演奏も行っている。細野は「エイプリル・フールに舞台音楽の依頼があって、キッドのプロジェクトに参加してバッキングもやった。」(※1)と多くを語らない。しかし、そもそものきっかけはなんだったのか。
1969年、第一作の『交響曲第八番は未完成だった』の上演を終えたキッド兄弟商会は、渋谷にステージショップ「HAIR」を開き、ここを活動の拠点にしていた。この場所がキッドとエイプリル・フールの最初の接点だったらしいことを示す、松本隆の次のような発言がある。「渋谷のマックスロード(喫茶店)の奥をずっと入っていったあたりの左側にあって、そこにはけっこう通ってたんだよ。ちょっとしたたまり場みたいになって。(小坂)忠がそこに呼ばれて、チョコチョコッと出てたんだよね。」(※2)
ディスコでのハコバン、しかも自作のオリジナルより洋楽のコピー(カヴァーではない)を中心に演奏していたエイプリル・フールの活動は、当時はっきりとメンバーを疲弊させていた。細野は既に柳田ヒロとの方向性の違いを認識し、69年の夏ごろには松本隆と次なるバンドの結成を模索していた。小坂忠もまた細野、松本と同調していたが、「演劇の世界も魅力的に映ってた」(※3)との告白もあるように、一方では同時期にロック・ミュージカル『HAIR』日本語版のオーディションを受けている(※4)。どうやらキッド兄弟商会からの依頼は、小坂を経由して持ち込まれたと考えるのが自然なようだ。
エイプリル・フールはまず、キッド兄弟商会の第二作『東京キッド』の劇中歌を集めた自主制作盤『LOVE & BANANA』の録音に参加する。レコーディングは69年9月15、19、22日の3日間、まさに解散直前の時期にアオイスタジオとテイチクスタジオで行われた。
続いて10月15日には虎ノ門の日消ホールで、この自主制作盤の発売記念を兼ねた『続・東京キッド』が上演され、エイプリル・フールはライヴで劇中歌のバッキングを行った。松本隆によれば、「オケ・ピットに入って演奏した」(※5)らしい。この公演から劇団に参加したのちの作家・永倉萬治は、亡くなる数年前に『黄金バット』という自伝小説を著し、キッド兄弟商会の黎明期を当事者の視点から活写している。そこには『続・東京キッド』の様子が次のように書かれている。(※6)
「"東京キッド"は、出てくる男女のごくごく日常的な不満、怒り、憧れが、あるいは何でもない話が、歌とともに進行するのだ。」
「大きな舞台でも、そこはアングラだから、何が起きるかわからない。舞台から男が猛烈な勢いで飛び下りて「どうして!どうして!どうしてなの!」と客に向かって喚いたり、あるいは客席から人を舞台に乗せたりして、観客の度胆を抜くのだ。そして、暴力的なシーンを繰り広げたかと思うと、急に音楽が入り、デザイナーの佐藤憲吉(ペーター・佐藤)が優しく歌いだしたり、また背の小さな女の子がジャングルジムの上で澄んだ声で悲しい歌を歌ったりするから、観客は何がなんだかわからなくなり、どこか脅かされたような気持ちになるのだ。」
「最後に演奏がいちだんと大きくなって、暴力的な音に変わり、耳がキーンとなってきた。」
「客は舞台に次々にあがっていく。」それぞれが次の方向性を探っていた中でのこれらのプロジェクトに、演劇への関心を抱いていた小坂を除くエイプリル・フールのメンバーが積極的だったとは考えにくい。しかし細野には、偶然にもこの「仕事」を通して、ひとつの新たな才能との出会いがもたらされた。『続・東京キッド』に、当時10代の少女だった吉田美奈子が出演していたのである。
永倉萬治の『黄金バット』での述懐によると「当時、彼女は17歳で、時々稽古を見に来たりしていた」らしいが、細野は「劇団に16歳の吉田美奈子がフルートを持って入ってきた」(※7)と振り返る。「入ってきた」という、劇団側の視点に立った物言いに即して推理するならば、吉田が参加した時点でエイプリル・フールとキッドのコラボレーションは始まっていたと見るのが筋である。それは具体的には、『LOVE&BANANA』レコーディング中のことだったかもしれない。細野や松本隆はこれに先立ち、エイプリル・フールでハコバンを務めていた新宿のパニックで、客としてステージを観に来ていた吉田と知り合ってはいたが、恐らくパフォーマーとしての彼女に接するのは初めてだっただろう。
吉田は『続・東京キッド』の劇中、美術スタッフ兼出演者だったペーター佐藤と、エイプリル・フールの演奏をバックに1曲デュエットした。佐藤曰く「過激に暗い歌」(※8)だったこの曲を特定することは今となっては不可能だが、そこにシンガー・吉田美奈子の可能性を見い出したのは、他ならぬ細野であった。吉田はこう回想する。(※9)「たまたま、私が1曲歌ったんですが、声がいいって言われてね、それから、彼が私にいろいろ教えてくれたんです。『こんなLPを聴け』とか、『歌を歌うんだったら、作曲もしてみなさい』とか。」
「私の音楽の先生は細野くんで、彼がローラニーロのアルバムで『イーライと13番の懺悔』の入ってるのがあるでしょ?あれを耳にタコができるくらい聴いて、そして分析してね…」
「初めてオリジナルを作った時、細野くんに見てもらったんです。」
「詩を書いて曲もつけて彼に見せたら、彼、すごく誉めてくれてうれしかったわ。」吉田が野地義行とのデュオ・ぱふを経て『扉の冬』でアルバム・デビューを果たすのは4年後のこと。しかし、シンガーとしての吉田の歴史は、恐らくこの時から始まったのだ。
『続・東京キッド』公演から約2週間後の1969年10月28日、細野、松本、大瀧栄一(当時)、鈴木茂の4人で結成された新バンド=ばれんたいん・ぶるうがステージ・デビューを飾った。キッド兄弟商会は明けて1970年、東京キッドブラザースと改称し、海外公演を成功させて人気劇団への道を歩み始める。そして、プレス数の少なさから入手が困難を極めた『LOVE & BANANA』は、その後、細野の活動の中でも最も検証の難しい音源のひとつとなった。
封印が解かれたのは、それからおよそ30年を経た2001年の暮れだった。『LOVE & BANANA』が、BOXセット『東京キッドブラザース全漂流記』の一部として、とうとうCD化されたのだ。「下田逸郎の曲を演奏した」と伝えられていた本作のクレジットを見ると、数曲に作曲者名がない。実際の音を聴く限り、これらはエイプリル・フールによるインプロヴィゼーションではないかと思われる。特に「This is Fool Rock」は、アルバム『APRYL FOOL』での演奏を彷佛させて面白い。また、当時劇団に参加していた大野真澄(のちにGAROを結成)が作詞・作曲で1曲提供しているのも興味深い発見であった。
東由多加。永倉萬治。ペーター佐藤。当時を知る者たちがひとり、またひとりとこの世を去っていく中で、キッド兄弟商会の生きた姿を知り得る手掛かりは、今や、ほとんど『LOVE & BANANA』だけと言ってよい。(文中敬称略)
※1 松本隆オフィシャルHP『風待茶房』での細野と松本の対談より。
※2 同上。
※3 小坂忠& Friends『Concert 2001』パンフレットでのインタビューより。
※4 細野がこのオーディションに同行してギターの伴奏をしたことは有名。
※5 『ロック画報』1号(ブルース・インターアクションズ/2000年)でのインタビューより。
※6 以下、『続・東京キッド』についての叙述は、永倉萬治『黄金バット』(講談社/1995年)より。
※7 レコード・コレクターズ増刊『はっぴいな日々』(ミュージック・マガジン/2000年)でのインタビューより。
※8 『an an』1982年6月25日号(マガジンハウス)での吉田美奈子とペーター佐藤の対談より。
※9 吉田美奈子の発言は『ヤングギター』1973年10月号でのインタビューより。