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ザ・ジャム・セッション

 細野晴臣の立教大学の友人に、野上眞宏という人物がいる。現在写真家として活躍中の野上は、学生時代から細野とその周辺の人々に最も近い場所で写真を撮り続けており、細野のアマチュア時代からエイプリル・フール、はっぴいえんどに至る過程でいくつもの重要な場面に立ち会っている。(細野と野上との出会いや当時撮影された貴重な写真の数々は、レコードコレクターズ増刊『はっぴいな日々』- ミュージックマガジン/2000年 - を参照されたい。)
 1968年秋、野上は仲の良かった細野をはじめとする音楽仲間を文京区音羽の自宅に招き、セッション・パーティーを催した。68年と言えば、細野が立教大学で最初に入ったバンド・ドクターズも既になく、ドクターズを中心に行われていたイベントPEEPもその役割を終えていた頃。細野がPEEPで知り合った林立夫、鈴木茂らとセッション・バンドを結成し、野上らのブッキングで様々なパーティーに出演していた時代であり、野上の自宅でのセッション・パーティーというコンセプトもそうした流れの中で自然発生的に生まれたものと思われる。
 野上は『はっぴいな日々』の中でこのパーティーをこう振り返っている。

「細野晴臣、鈴木茂、林立夫が練習がてらに、モビー・グレイプ風の曲をジャムしたり、マザーズ・オブ・インヴェンションの『トラブル・カミン・エヴリ・デイ』にバッファロー・スプリングフィールドの『ミスター・ソウル』が入る信じられないようなジャムをして遊んでいるところに、浜口茂外也が加わってホセ・フェリシアーノ風『ライト・マイ・ファイア』などをやった。ほかに数人程度の友達が聴衆であった。」

 こうしたパーティーの2回目が開かれたのは、同年12月31日のことだった。参加メンバーは増えて、細野、鈴木、林の他、同時期に細野が参加していたバーンズから松本隆と小山高志が、そして既にプロデビューを果たしていたフローラルの柳田ヒロと小坂忠が加わった。細野によれば、「状況としては、ミュージシャンの方が多くて、そこで見ている人がほとんどいないという感じ(笑)」(※1)だったらしい。以下は野上による『はっぴいな日々』での述懐である。

「初めは細野晴臣、鈴木茂、林立夫でバッファローのコピーを何曲かやって、フローラルのレパートリーであるジミ・ヘンドリクスの『レッド・ハウス』を小坂忠のヴォーカルと柳田ヒロのピアノに、鈴木茂のギター、林立夫のドラム、細野晴臣のベースが即席で入った最強のメンバーで演奏した。」
「細野晴臣、鈴木茂、林立夫、柳田ヒロの組合わせで、ヒロが才気あふれるリズム・セクションをバックにピアノの鍵盤を足まで使って熱演し、延々と即興演奏を繰り広げた。細野晴臣、鈴木茂、林立夫、小山高志(vo)で「ブルー・バード」を演奏した。」

 この2回目のパーティーで特筆すべきなのは、のちにエイプリル・フールのアルバムに収録される「暗い日曜日」が、細野、鈴木、松本、柳田、小坂というメンバーで演奏されていることである(※2)。まさにエイプリル・フールの原型とも言うべきこの演奏は野上の印象にも強く残っていたようで、『はっぴいな日々』では「特に茂のギター・ソロの部分が良くて、僕の耳の中に長く残っていた。」と述べている。
 野上も指摘しているが、「暗い日曜日」を含むこの日のセッションに参加したことは、フローラルの演奏技術を物足りなく感じていた柳田ヒロに大きなインパクトを与えたはずである。ある意味ではこのセッションがなければ、エイプリル・フールは誕生しなかったとさえ言えるかもしれない。それを証明するかのように、明けて1969年、柳田は小坂とともに5万円の入った給料袋をチラつかせ、細野をフローラルに誘うことになる。
 細野と松本隆を加えたフローラルがエイプリル・フールと改称し活動を開始した69年4月、野上は3回目のセッション・パーティーを、第11森ビル地下の虎ノ門スタジオで開催した。4月20日日曜日の午後1時から5時まで行われた『ザ・ジャム・セッション3』がそれである。『はっぴいな日々』から野上の回想を引こう。

「出演は、LPの録音を終えたばかりのエイプリル・フール(菊池英二g、柳田ヒロkbd&g、小坂忠vo、松本隆ds、細野晴臣b)を中心に鈴木茂(g)、林立夫(ds)、小原礼(b)、高橋幸宏(ds)、東郷昌和(vo)、村松かつみ(※3)、吾妻ジョージ、伊藤剛光(以上g)、中田佳彦(vo)、小宮としゆき(g&b)、浜口茂外也(fl)、飛び入りでブルース・クリエイション(竹田和夫g、布谷文夫vo、田代信一ds、野地義行b)の連中が参加してくれた。」
「このメンバーで11通りの組合わせを作った。休憩を2回挟んだ3部構成で、1〜2部がジャム・セッション、3部のはじめがブルース・クリエイション、トリにエイプリル・フールという具合だった。見学には中田佳彦の友人でブルース・クリエイションを連れてきた大滝詠一、景山民夫をはじめ風林火山の連中、そのガールフレンドなどなど18名くらい。総勢40人ほどだった。」

 野上の発言にあるように、このパーティーには前年の夏に軽井沢で細野と知り合った高橋幸宏も、自身のバンド、ブッダズ・ナルシーシィとして参加していた。高橋はこう回想する(※4)。

「当時アル・クーパーとマイク・ブルームフィールドがスーパー・セッションのレコードを出したりしてそういうのがはやってたんですよ。」
「主催者の野上サンが適当にメンバーをピックアップして、勝手な名前のついたグループを組んでいるワケ。それで、セッションをする。(中略)僕がやったのは覚えてます。『サンシャイン・オブ・ユア・ラブ』と『ダンス・トゥ・ザ・ミュージック』、それと、あとはブルースをごちゃごちゃと………。」

 『ザ・ジャム・セッション3』を最後に野上が主催するセッション・パーティーは幕を閉じた。だが、そこに集ったメンバーたちからその後いくつものバンドが生まれ、歴史に名を残していったことを考えると、野上が身内感覚で始めたこの試みは、日本のロックの黎明期において予想以上の大きな起爆剤になったと言えるのではないだろうか。
 ところで、3回のパーティーでの演奏は、いずれも野上自身の手で録音されていた。うまく録音できなかったという『3』以外の2回分はオープンリールから約1時間分の長さに編集され、今も野上が所有している(※5)。2000年3月23日に発売された『HOSONO BOX 1969-2000』には、この「野上テープ」から、細野、鈴木、林による2回目のパーティーでの「ミスター・ソウル」が、フルサイズではないものの収録された(※6)。
 「野上テープ」はその後、2000年8月25日に渋谷で行われた『はっぴいな日々』発売記念トークショーで、その一部が公開された。野上と鈴木惣一朗との対話の合間に流された曲は「ミスター・ソウル」「トラブル・カミン・エブリデイ」「ブルーバード」「ライト・マイ・ファイア」「暗い日曜日」「レッド・ハウス」。もちろん正式なライブ・レコーディングではないから音質は悪く、ほとんどが途中フェードアウトという形ではあったが、それでもセッションの熱気は充分に伝わって来た。
 フルサイズは10分ほどあるらしい「ミスター・ソウル」は『HOSONO BOX』収録時よりも長い時間流され、鈴木茂のギター・ソロも存分に聴くことができた。「ライト・マイ・ファイア」は先の野上の発言でも触れられていた浜口茂外也参加のテイク。この日は残念ながら浜口がギターを奏でるイントロのみの紹介に終わった。「暗い日曜日」は、前述のとおり非常に重要な意味を持つセッション。『HOSONO BOX』の選曲者でもある鈴木惣一朗によれば、収録するかどうか迷ったあげくに外した音源らしい。
 これらの唯一にして貴重な記録が、いずれ完全な形で公式にリリースされることを願わずにはいられない。

(文中敬称略)

※1 CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット「SONG-BY-SONG NOTES」より。
※2 小坂忠は最近のインタビューでたびたびこの日を振り返り、松本隆に当日初めて歌詞を渡されたという主旨の発言をしているが、曲自体は1968年秋にイイノホールで行われた風林火山(慶應義塾大学のイベント企画サークル)主催のコンサート用に作られたもので、バーンズの変名バンド=アンティック・マジシャンズ・アンノウン・バンドによって初演されている。
※3 松村克己と思われる。
※4 高橋幸宏の発言はYMO写真集『OMIYAGE』(小学館/1981年)でのインタビューより。
※5 野上眞宏は2000年4月2日に福岡で行われたトークライブで、当時オープンリールの状態の音源を細野に渡すつもりだったが細野が「いらない」と言ったというエピソードを明かした。
※6 このころ細野、鈴木、林はパーティーごとにバンド名を使い分けていたが、この日は「スージー・クリームチーズ」名義だったことが『HOSONO BOX』のクレジットで判明した。

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