まつだいの山城
                       上杉謙信公 関東行軍宿営地 犬伏城
                                                                    犬伏城案内図

                   ここ新潟県、(まつだい)には中世の山城跡が多く残っている。
                 この山城は南北朝時代からの城郭でした。上杉謙信は関東行軍に備え軍道、狼煙(通信)を備えた城郭へ
                 大改造し東頚城丘陵の稜線の揃う山々の地形をうまく利用した堅固な支城群をつくりました。
                 このページでは当時の軍用道、(松之山街道)を記録に残っているもの、伝承によるものを紹介します。

                     松代の山城群

            赤線は古道松之山街道、上杉軍道ともいう。今も耕地になっている所を除いた山林内に多く残っている。
             菅刈集落から犬伏、孟地、薬師峠まで文化庁の古道百選に選定されています。


                                  主郭、虎口、櫓台、兜清水U郭二重堀切、竪堀、切通し、

                犬伏城の郭群

                   現在の犬伏集落諏訪の原堀切諏訪の原館泥田堀集落内堀切切岸謙信軍道帯郭大手口居館虎口

                       上図は犬伏城の曲輪群と謙信軍道を散策しイメージしてみました。(渋海川の流路は中世時代の創造です)
               この山城は南北朝時代、足利尊氏は延元二年(1335)松山保の地頭に一族の仁木弥太郎義有を補任し、配下の原田喜太郎が
              (1341)年犬伏城を築城しました。喜太郎はここを拠点に越後新田軍と戦いました。
              現山頂の山城跡が後に謙信公の春日山支城群、狼煙通信と軍道警備、関東行軍の基地として整備され、諏訪の原館はその
              後も配置城将により維持され館回りも多くの曲輪群で構成されています。犬伏城は異なる時代の城郭が一体化した所です。
              諏訪の原の南西下方に小字名、馬場塚があり馬術鍛錬もした事でしょう。小字、牛首の西側河川敷は嘉永2年(1849)に
              川瀬替えにより細くなった尾根をシヨートカットし(古川)新田開発がおこなわれています。 
              宮の原も現在は細尾根部分が川となっていますが記録がなく紹介出来ません、別記載にて伊良久保の地すべりの仮説を立て
              考察を試みました。上記渋海川のイメージ流路はリンク先を見て確認して頂ければ幸いです。
                                  

                     下図は犬伏城と館周辺の平面図です。

                  犬伏城の郭群位置図

                         犬伏城の館周辺図
               集落周辺も、空堀、泥田堀、竪堀、切岸が多く築かれ、外堀は渋海川。地形をうまく利用した堅固な構えです
                犬伏集落面と諏訪の原面は河岸段丘地です、諏訪の原の標高は212.5m、現在の川面からの高さは約70m断崖絶壁です。
               諏訪の原に諏訪大明神を祀った神社が昭和30年代まであり樹齢1000年級の大杉が3本あった。境内で毎年小学生の子供相撲が
               行われ、私は賞品の弓・矢・を獲得した思い出がある。この神社は渋海神社と合祀し跡地に石仏が数体残っている。

           犬伏城は建武年間(1334〜37)風間信濃守信昭の勢力下で南朝方だった。1337年4月21日足利尊氏は仁木弥太郎義有を松山保の地頭に補任。
          以後足利尊氏の武将原田喜太郎、上杉憲顕の武将丸山弾正、上杉房能の武将清水采女正、上杉定実の武将松山将監、上杉謙信の武将大熊備前守
          朝秀、針生藤兵衛久吉、上杉景勝の武将(毛利秀広、吉益伯耆守、荻田与三左衛門尉、長尾筑後守、小森沢政秀)、上田衆諸将が入城。 犬伏城は
          御館の乱の時大きな戦闘があり、景勝方の勝利に大きなかかわりを持った。上杉景勝会津移封のち堀秀治の支配以後、山城廃止令で廃城となる。

           現在はどの山城も木々が繁茂し城跡らしき形は残ってはいるが、当時の山城は,おそらく坊主山で見晴らしを良くし
          丸太で組み上げた見張台、まわりを丸太の柵を巡らした簡単な構えであってたであろう。   参考資料松代町史、松代町郷土史(沿革扁)

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