松苧大権現別当養泰寺(林蔵寺)
              寺社、寺僧調査の試み

                                                                 
                        はじめに
                松苧神社(権現様)と言えば古来から松之山郷66ヶ村及び近郷(旧高柳町の一部、旧川西町の一部、旧十日町の
               一部を含む)村々の惣社と言われ毎年5月8日に七つ参りが取り行われて来ました。
               この地域のほとんどの男子は数え年7歳になると必ずお参りしており、心の奥深くこの松苧山七つ参りが生き続け
               ている。
                       (松之山郷とは江戸時代中頃から文献に出てきている、旧松代町を松之山郷北組、旧松之山町を松之山郷南組と称し
                 旧松代町と旧松之山町を統一し総称した呼び名であった。)


                何時の頃からか5月8日「旧暦では(4月8日、しんがつようか)と言った」の朝早くに親戚の屈強な、しかも
               両親の揃っている若い衆(親族内で不幸があった年は取り止め)数人の背に負われ犬伏集落から日陰坂のブナの森
               を登り一山越え祓い川と言う谷川に出るここで禊し(みそぎ=身を清める)お山に登る。
               若い衆の背にはご馳走のお酒とお煮しめの重箱があり山頂の社殿では宮司の祝詞(のりと)太鼓の音は朝早くから
               山谷に響き渡る。お参りが済んだ数組は社殿前後に所狭しと小宴を繰り広げ、知人、隣席にお裾分けをしお返しに
               祝儀が坊やに、 主賓の坊やは出店でおもちゃの刀と鉄砲(紙火薬を鳴らす)を買って貰いうれしく、楽しいひと
               時を過し家路へと帰る。家では親類縁者が首を長くして帰りを待ちかね坊やを上座に飲めや歌えの大宴会を繰り広
               げるのである。まさに、この七つ参りはこの地方では結婚式に匹敵する大振舞いでお祝いをする。
               松苧権現の起源
                この松苧神社は歴史も古く
由緒神号書上帳松苧大権現略縁起 によれば景行天皇40年(110)日本武尊東夷
               征討の帰途建立とあり、また天智4年大職冠藤原鎌足公祈願所となり大同2年(807)坂上田村麻呂祈願所、中古
               に至り鎮守府将軍源義家公祈願所、天文慶長年中長尾為景、大熊備前守朝秀、針生藤兵衛久吉、上杉謙信、上杉景勝
               堀秀治、松平忠輝、松平光長、等の祈願所であった。
               祭紳は奴奈川姫命であり青苧(カラムシ)を用いた古来から織物の神とされ松苧大権現略縁起によれば、御神国家
               鎮護衆生化益の為あとを当山に垂れたまいし事仰ぐべし尊ぶべしありがたや利生を末世に残したまわん為御手自ら
               松を植えたまいその上万民渡生の営みに青苧を広く植えさせ給う・・・なかんずく青苧を吾が国に広めさせたまい
               し故二千年前より今に至りて当国の土産と名付け高きも卑しきも我が家の作業となして露命を繋ぎ渡世の営み士農
               工商誰か神澤の恩恵に浴せざらんや是則ち大慈大蕜愛愍擁護の霊感なり流れに住み氏子の末暫も豈可敢緩哉不可凝
               矣と記している。他に天照皇大紳、素盞鳴尊、天津彦根命、大国主命、吉備武彦命、平彦別命、四海彦命、四海姫命
               (奴奈川姫命)が奉られている。

               「現在の社殿は大同2年坂上田村麻呂の蝦夷征討凱旋帰途、飛騨の匠に建立させたと言われる由緒ある神社で社は
               修験道の遺構を残す造りで類例の少ない建物とされ昭和55年の改修、解体調査で向背正面柱との仕口頭貫に明応
               6年(1497)に建てられた旨の墨書きがあり新潟県内最古の木造建築であることが明らかになった。」

                                     
松代町教育委員会松代町の文化財から
    
            松苧神社の建て替え修復はどのように行われていたのだろうか?
               長い年月の間に何回か立替が行われています。上杉家時代から江戸幕藩体制になり越後中條松平光長時代までは領主
               支配が安定していたから松苧大権現の修復は大きな力添えがあり「往古より春日山盛んの頃まで社領200石の朱印地
               があったがその後大久保岩見守御朱印書き換えをするため江戸表に持参したが、間もなく石見守改易となりまた諸国
               が統一されず戦乱がつずく一方で松苧権現の別当である林蔵寺も廃壊して無住など重なり、朱印は召し上げられて
               しまった。」と前記の由緒神号書き上げ帳と松苧大権現略縁記に記されている。
               幕府直轄地となって暫く貞享元子年迄は公儀から修復木材人夫費用は下され、大工作料は地元負担で魚沼八ヶ組
               松之山両組、刈羽郡の一部、大島村、と林蔵寺が修理費を頼み取り立てに回っていた様子が
               
松之山組犬伏村(いぬぶしむら)指出明細に記され、その後段々公儀(支配者)からの賜り金は少なくされて
               来た様です。

                
萱葺き(かやふき)屋根修理は奥の院、中院、林蔵寺、一同に行い、萱を集めるに中々集まらずかなり苦労して
               います。しかも2月中に始めて雪が消え農作業が始まる前に修了するよう準備したと林蔵寺記録帳は書き残している。
               そして修理費の取立ての様子や祭禮の事も記している。

   
             松苧神社の歴史文化財については松代町史、町郷土史、町文化財、等多く報告されていますがこの松苧神社に
                        別当養泰寺(林蔵寺)があり松苧神社と中院の観音堂を守り維持して来た事は以外に知らされていない天文年中
               (1550年代)大熊備前守朝秀は犬伏城主となった時、養泰寺が衰退し廃屋となっていたので再建復興し林蔵寺
               と名を改め、前の犬伏城主だった松山将監を六日町の宝珠院から迎えて別当とした。
               この時から
別当林蔵寺が松苧大権現と中院観音堂の維持管理を松野山郷六拾余ヶ村氏子の中心となり時には無住
               になり、維持管理が行き届かず火災に遭遇したりし困難もしばしばあったが真言宗修験道行場として修行僧が住み
               付き別当寺院として隆盛して来た。権大僧都法印○○という高僧も住み着き安定した時代も数代見られる。


                林蔵寺と松山姓
               数々の苦難を乗り越え林蔵寺の住僧が松山姓を名乗り始めた時期は明治初年からです。 明治元年の
                        神仏分離令で松苧神社の神主となった僧良快は松山左京と名乗った。明治初年から昭和50年代まで神主職の松山氏
               が住まいとしていた
林蔵寺社務所かなり大きな建物だった。8月17、18日の祭りではこの社務所が中心に成りここ
               から今の裸祭りは出発し、居村通りを権現御輿を担ぎ練歩いた。時が立ち祭りの形態は変わってきたが犬伏集落の
               出身者で当年70才代以上の人達はあの林蔵寺社務所、茅葺の大きな建物は脳裏に焼きついている。
 
                古来から昭和50年代迄松山姓を名乗る者たちが毎年権現さまの七つ参りが近くなると松苧神社に登り社(やしろ)
               の羽目板、雪囲いを取り払い、内陣の掃除宮司の荷物運び祭りの準備と。
観音堂の祭禮(8月17日18日)など
               林蔵寺の数多い手伝いをしていた。

                
松山姓は林蔵寺(犬伏)屋号お宮と言う本家があり他は分家となっていたからであるが、因みに松山姓を名乗る
               者は本家を含めて9戸(昭和40年代後半迄)で現在集落に残る者は5戸、今は本家は移住し本家分家の関係は消滅
               いずれも過疎化のなみに揉まれ分散してしまったが松山姓は上記神仏分離令で記している様に林蔵寺別当僧良快は
               名を松山左京と改め明治新政府の神祇事務局に神祇職の任命申請をだし許可を得ている。
               松山氏は往古に松山二郎と言う地方豪族、松山将監と言う犬伏城主、何れもこの犬伏地域及び松苧権現とふかい結
               び付きがあり、僧良快は故事に習い松山姓を名乗った。 

               ① 林蔵寺は長い歴史の中で無住となった時代も度々あった。当時松山姓を名乗った一族がどの様に本家分家を形成
                 し寺を維持し守って来たのか。
               ② 犬伏村は総氏子ですから個々の生活を抱えながら祭禮などの作業分担はして来ました。
                 前出の延享2年犬伏村指出明細帳は松苧権現と林蔵寺は広大な社地と田地を保有し、しかも年貢は除かれていた
                 寺僧や人手は数人いたと思われるので僧及び寺名子百姓の調査。
                 当家の祖先は古い年代の位牌戒名に僧籍の故人権大僧都法印清了と言う大変位の高い僧が いたり尼僧(比丘尼)
                 も多く、しかも代々の祖先が順序繋がらないなど疑問の多い家系で僧籍を通し他家との関連を調べる。
               ③
林蔵寺文書によれば大権現の祭禮は代々林蔵寺が取り仕切り現在の祭禮8月17,18日は明治以前は9月9.19.
                 29日と行われ数ヶ月前から準備をしていました。特に19日は新穀の赤飯と酒を仕度し、酒は一石も仕込み
                 氏子中に振舞う仕来たりが代々続いていたという。近世の祭禮資料を通し氏子と林蔵寺の関係と寺地、社殿など
                 の調査をする。
  

                以上の点を踏まえ林蔵寺と松山家及び、松山姓を名乗る一族について調査を試みた。また真言密教、山岳信仰のか
               かわりから苧島集落の屋号法印様も調査対象にした。

                調査は古文書の新たな発見の見込みは皆無の今、松山姓を名乗る家の代々の位牌戒名、特に僧籍のある故人に目星
               を付け旧林蔵寺周辺の土地、家、屋敷、など聞き取り調査を行った。
               調査のまとめについては松代町史、及び松代町教育委員会編纂の松代町郷土史、町文化財、東頚城郡史等現存報告
               資料を熟読し調査の参考にし対比検証をする事とした。

                まとめ
                平成16年12月始、松山姓を名乗る皆さんに文書にて調査協力の依頼をして3月末、ようやく調査をまとめる
               所まで来た。協力頂いた皆様に感謝とお礼を申しあげたい。誠に有難うございました。もとより数百年も昔の事を
               調べる事は新しい資料、古文書でも出てこない限り明確に出来ないけれども血族的繋がりの無い松山姓と林蔵寺と
               の関係、この疑問は調べる内に段々解けてきた。

                ◆ 当地では、一般住民が苗字を使い始めたのは明治4年以後で、明治新政府は1872年、以前の寺受け制度
               (人別改帳)を廃止し、戸籍法(壬申戸籍とも言う)を制定し平民(百姓、商人)も苗字を付ける事がゆるされた。
               この地方でも苗字を付ける事となると、村人は戸惑い、講仲間とか、入会仲間など、血縁はないが過去の恩や力
               の或る頼れる者を本家として本家分家を多く形成していった。本来、本家分家は家長が次三男、娘婿などを分家
               に出す事であるがこの地方では山間で農地の拡大も出来ない貧しい暮らしから、分家は容易く出来るものでは
               なかった。 私らの祖先も同じ戸惑いの中、林蔵寺(本家)と同じ松山姓を名乗った。
    
                ◆ では何時頃から林蔵寺の手伝い(遣い走り)をしていたか。林蔵寺の資料では松山将監以後、無住時代が度々
               あり、しかも焼失し記録は無いので明らかになりませんが。村取極め五人組掟等を見ますと宝暦年代以後大凶作の
               たびに困窮した小耕作地の百姓に潰れ百姓が出る、村は年貢を村高で割附状を作り持分割で各百姓の年貢を極めて
               いたから、年貢を払えない百姓が出ては村の負担になり困る。
                だから分家は一石以上(普通五石)の耕作反別を保持できる者でなければ分家として出してはならない取り決め
               をしていました。
                林蔵寺では、最初遣い走りから始まり名子百姓になり少しの土地を分けて貰い2戸の名子分家が明治になって
               出来ています。(名子百姓は本家に従属する百姓です)この林蔵寺の下働きを通し松山姓を名乗る事に繋がって来
               たのでした。
                ◆ 先に集落総氏子と書きましたがこの氏子と林蔵寺は先の差出明細帳で正月と祭りでは新穀の赤飯と御神酒を
               振舞い大変気を使っている様が伺える。また林蔵寺の田んぼに水を引く「せぎ」が落ち下の地主に迷惑がかかる
                これ等の保障もしっかり取り決め土止そだ木、杭木材など寺領から切り使用させ、人夫も寺から出し、村中で
               揉め事を作らない様大変気をつかっています。林蔵寺各住僧にとっては氏子、特に松之山郷の大肝煎、松代村の
               肝煎、地元の庄屋、村役人の力添えが無ければ林蔵寺の維持は難しかったのです。領主支配がしっかりしていた時
               代は維持も容易でした。高田藩が幕府直轄(天領)地に替わってからの維持は段々厳しく成るばかりで、氏子衆に
               頼るしか方法が無かったのでした。

                ◆ 僧籍の故人位牌戒名調査をする中で権大僧都法印○○と言う大変位の高い僧が松山姓の家に2名いました。
               この僧は松苧大権現別当養泰寺を建立した泰山と同じ高野聖(ひじり)の真言密教の修行僧でした。
               全国を回行修行している僧が松苧権現の霊山を人伝いに聞きつけ修行に籠っていたのです。 また林蔵寺記録は
               この修行僧から牛王宝印(ごおうほういん)祈祷札、丸薬の丹(キワダの皮と薬草を捏ね合わせた胃薬)を仕入れ
               正月の祈祷時に御守りと上記を氏子衆に授与していました。
                             (牛王宝印とは竹の先に差して田畑に立てて虫除きに使う御守り札)

                ◎ 寺僧は松山姓各家々に3~4名が居り
(寺僧調査表) 古い時代からの繋がりを意味している様に思えるのだが
               何か解らないが調査を進める毎に出来すぎの感じがして来る。それもそのはずでお寺でもない一、小農民の家に
               僧籍のある位牌が続々と出てくる。しかも松山姓を名乗る家と林蔵寺周辺に住む家に集中している。

                ○ 松代町史の松苧大権現と別当林蔵寺の古史に、こんな一文がある。松苧大権現は修験道の行場となり女人禁制
               の霊山として中院が建立され林蔵寺が明治の始めまでこれを守って来た。 
               この林蔵寺は神仏分離令以後どうなったか。明治2年6月本寺宝珠院から元林蔵寺にあてた返書の写し書き。

               「此の度復飾仰せ付けられ僧官並びに御法流書附たしかにお預かりしましたので急いでご返事します。」
                 越後国頚城郡犬伏村林蔵寺本寺魚沼郡余川村宝珠院         頚城郡犬伏村元林蔵寺松山左京殿

                是に対しての返事を送っている。
               「此の度御一新につきよんどころなく還俗仰せ付けられました。是に依って林蔵寺本尊、並びに先住位牌の義は
               同村善平(犬伏村庄屋山本善平家)方に預け右善平方にて小堂建立して安置する。
               修復の事は拙者方で行いその料として田地50束刈附け置き永代松山左京方で修復する旨確定していますので左様
               おぼしめし下さい。」          松山左京印    善平印 (現区長家先祖)   
               (50束刈とは犬伏では14ハ1束でおおよそ1反歩、当時は50刈、100刈等と、反別を束数で表わしていた)

               と廃寺後の始末を本寺宝珠院に申し送っている。
                ところが是はまっかな偽り文となってしまい、実行されていない様なのです。
               松山氏は幕末の動乱期から明治初頭、地主制度の確立と共に全国的に土地所有権争いが起きた際に松苧神社の社地
               を一時私有する事に成功し、他にも土地を取得し明治、大正、昭和初期まで大地主になっていった。
                その後地主の解体土地開放と衰退の方向へ動いて行く。この過程で上記先住位牌の儀は実行できなかった様です。
               松苧神社の山林140町歩は犬伏、菅刈、苧島、中子、各集落に払い下げとなり各集落の共有地へと変って行った。
               寺屋敷地
(寺領地) も縮小し周りは他家の住宅が立って庭園、池など埋め立てられてしまいました。
   

                ◆ 旧林蔵寺の近くに現在屋号□□と言う家がある、ここのご祖先は犬伏集落でも古く元禄年代で林蔵寺と深い
               関係があり僧、尼僧も数名確認できました。元文5年のご先祖さんに松代長命寺の第10世大和尚、再中興が居られ
               ました。
                宮原と言う地名に石祠の社(やしろ)が人知れず林の中にある。これは元林蔵寺の土地で社を守る事も条件
               に土地を譲り受けたところが、この社を引き継いだ後、悪い事ばかりが続き守って行けないと社は返したと昔
               から言い伝いがあると現当主の話。

                ◆ 松苧大権現の山裾の集落で苧島(おのしま)と言う地名がある、
権現略縁記にある青苧の産地で大権現発祥の
               高松の山裾である。ここに屋号法印□と言う家があり、ここのご先祖さんが代々修験者であり法印○○と言う
               人物でも居られないか、なにか権現とのかかわりが期待できると思い調査させて頂いた。
                一時期、繋がりもあった様で、現当主の孫爺さんの話として明治時代に林蔵寺と行き来があったと聞いていた
               そうである。拝見した所祭殿に使う遺品は八海山系の修行者の様に見受けられ権現の僧らしき故人はいなかった。

                ◎ 此の調査は享保年代以後の松苧大権現の僧暦が一部明らかになった。
                各歴代の寺僧は長くて30年、短くて15.6年の在住でした。
               権大僧都法印清了、権大僧都法印快蜜と云う高僧も確認でき松苧大権現の霊山を全国に知らし召し自らも修行
               に励みこの地で他界した者であり貴重な存在であると思う。
               他に資料には法印清快、法印惣吽、法印代○○、等の記述も見えるが現時点では明らかに出来なかった。
               また尼僧(比丘尼)の多かった事は養泰寺(林蔵寺)は松苧大権現(別当真言寺院であり)真言蜜教の布教で
                高野山から散らばる比丘尼達と修験者(高野聖)との情報交換の立ち寄り場であり仲間の憩う所で病つき倒れ、
               仲間に看取られながら、この寺で終焉を迎えた者でした。
               高野聖と比丘尼は真言蜜教を全国に布教する役割を持ち3000人とも4000人とも言われ大きな力を発揮していた
               と言う。 この比丘尼も4人確認出来た事も貴重であった。

                ◎ 最後に冒頭の松苧神社七つ参りであるが何時の頃から始まったものか資料として見出す事は出来なかったが
               遠い昔しからの行事である事は確かなようである。            

                           以上調査は継続中であるが報告にかえさせていただきます。  平成17年1月

                                    
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